領主兄弟とご馳走うなぎ 6
供物の調理が終わり、一通りの準備が整った。
――さあ、古の儀式の再現が始まる時がきた。
広場で焚かれていた篝火も、街中の僅かな灯りも全て落とされた。
辺り一面本当の意味での暗闇に包まれ、残されている灯りは湖沿いに置かれていたランプの灯りのみ。
神殿跡から見つかった儀式を記した書物によると、風の精霊シルフに感謝を捧げる儀式は、最低限の灯りの中で行うのが決まりなのだという。
今日は雲は出ているけれど、雲の合間から大きな月が顔を覗かせていた。だから灯りがなくとも互いの顔程度ならば見ることは出来た。
風の精霊シルフの性質は気まぐれで自由。そして、何よりも音を愛する。
精霊を喚び出すには、彼らの好むことを捧げる必要がある。
以前に妹が私に見せてくれた、水の精霊ウンディーネ。
ウンディーネは歌を愛する。だから、水辺で魔力を歌に乗せて捧げると現れる。
聖銀を造るためにドワーフのゴルディルさんが喚び出した、大地の精霊ノーム。
ノームはなによりも踊りを愛する。体全体を使って踊り、力強く大地を踏みしめれば姿を現す。
ならば、音を愛するシルフを呼び出すには、どうすればいいのか。
音が出るもの……つまりは楽器でもって、空を渡る風に乗せて曲を奏で、精霊に捧げればいい。
うなぎを捌いていた広場から出発し、湖沿いに置かれたランプを頼りに、儀式を行う場所を目指す。
レオナルトさん、ベルノルトさんを先頭にして、「供犠巫女」である私と妹。そして、シルフに捧げる供物――うなぎを輿に乗せて運ぶ、儀式用の白い衣裳を着た女性たち。楽器を手にした黒い衣裳を着た男性たち。その後を、領民たちがぞろぞろと続き、儀式を行う場所へとゆっくりと進んでいった。
進む際は誰も言葉を発してはいけないらしい。
音を愛するシルフは雑音を嫌う。誰もが口をつぐみ、静かに進む行列はどこか厳かな雰囲気だ。
――ちりん。
けれどもそんな行列が進む度に、辺りに鳴り響く音があった。
それは行列の参加者の両手首に付けられた鈴の音。鈴なりになった金色の小さな鈴を全員が付け、それが歩く度に揺れて、澄み切った美しい音を響かせていた。
『鈴の音は、シルフが好む音なのだよ』
レオナルトさんが、出発前にみんなに鈴を配りながらそう教えてくれた。
――ちりん、ちりん、ちりん。
暗闇の中、鈴の音だけが響き渡り、足元で仄かに光るランプの灯りだけを頼りに進む道のり。これは日本的な感覚なのかもしれないけれど――この光景は何処か死後の世界を思わせる。風で湖にはさざ波が起こっていて、水音が常に聞こえるせいかもしれない。波の音、鈴の涼やかでそれでいて澄み切った音が聞こえる度に、もしかしたら辿り着いた先には、死者が待ち構えているのではないかというような、不気味で恐ろしい印象を受けた。
やがて行列は、儀式を行う場所まで辿り着いた。
広場から15分ほど歩いた場所に、湖の中心に向かって伸びる長い桟橋があった。
その桟橋は、幅は人が四人並んで歩いても問題ないほどで、湖の中央に近くなるほどに、段々と湖の中へと沈んでいくような不思議な造りをしていた。
私は思わずごくりと唾を飲んだ。
今まで足元を照らしていたランプは桟橋には設置されておらず、漆黒の闇の中に桟橋が伸びていっているように見えたからだ。
……ひええ、本当にこの先に行くの!?
私の表情に不安が現れていたのだろうか、その時、私の手を妹が握ってきた。
驚いて隣を見ると、妹はいやに楽しそうだった。どうみても、この儀式を楽しんでいる。
妹のこの度胸が座っているところは、一体誰に似たのだろうか……。
桟橋の手前で履物を脱ぎ、裸足になった私たちは桟橋の上を歩いていった。因みに、領民たちは桟橋のたもとで待つことになった。流石に全員で桟橋に乗るわけにもいかない。彼らに見送られながらゆっくりと暗闇を進んでいく。
次第に湖のなかに沈んでいく桟橋のせいで、徐々に足元が冷たい湖の水に晒され、足先から体温が一気に奪われていった。ぞくぞくと冷気が体を駆け上り、途端に体が震える。
先頭を行くレオナルトさんやベルノルトさんは、冷たい水なんて全く意に介せずに、ざぶざぶと水を掻き分けて進んでいった。私だけが寒いからと言って帰るわけにもいかず、必死に寒さに堪えながら先導しているふたりの後に続いた。
やがて桟橋の先端までやってくると、そこは暗い湖が一面に広がっているだけだった。
月明かりが眩しいおかげで、きらきらと僅かに湖面が光っている。日中にあれほどいた水鳥たちは鳴りを潜め、辺りを支配しているのは静寂だった。
幸い、先端に到着した時点で湖には膝下まで浸かる程度で済んだ。
それでも暗闇の中で膝下まで水に浸かっているなんて、恐怖心を煽るのに充分な状況だ。桟橋は水に浸かり、よく見えないせいで、まるで自分たちが何もない湖の上に立っているような不思議な感覚がする。
思わず握った妹の手を強く握りしめると、妹は私の恐怖心に気がついたのか、まるで励ますように手を握り返してくれた。
みんなが到着したのを確認したレオナルトさんは、小さな燭台を取り出してそこに蝋燭を差して火を灯した。
すると、供物を乗せた輿を持ってきていた女性のうちのひとりが、私と妹にうなぎを切って小分けにしたものを渡した。小分けといっても、それでも分厚い辞書くらいの大きさはある。私は繋いだ手を外して、笹のような大きな葉っぱに乗せられたうなぎを受け取った。
妹は白焼き、私は蒲焼きだ。白焼きには、調味料を入れた小瓶を添えてあった。
心の支えだった妹の手の温もりが消え、若干の不安を感じながらも、供物を落としてはいけないとしっかりと葉っぱを握りしめた。
そして女性たちに促されて、レオナルトさんとベルノルトさんの斜め後ろに立った。
――これで、準備は完了だ。
やがてレオナルトさんは、ゆらりと手にした燭台を左右に揺らし、どこか聞こえ覚えのある節の祝詞を上げはじめた。
「我ら、風の精霊の加護を乞うものなり」
左右に揺れる蝋燭の灯りが、白い軌跡を暗闇に残す。
この祝詞……そうだ、これは大地の精霊の神殿で、ドワーフのゴルディルさんが言っていた祝詞によく似ている。けれど、その後に続いた文言は全く違うものだった。
「風はきまぐれ、風は自由。空を渡る風の精霊よ。この一年の恵みに感謝を」
「人は強欲、人は愚か。空を渡る風の精霊よ。我らにさらなる恵みを。我らに救いを」
レオナルトさんにつづいてベルノルトさんが祝詞を上げはじめた。
祝詞の内容は、如何に風の精霊が偉大で素晴らしく、愚かな人間はその恩恵がないと生きていけない、といった内容だった。
ふたりはゆっくりとした足取りで、互いの立ち位置をくるくると入れ替えながら円を描くように桟橋を歩き回り、湖を照らすように燭台を動かした。この場にある灯りは燭台の蝋燭の灯りだけだ。闇に沈み、太陽の光が差し込まない湖を、いくら蝋燭の頼りない細い灯りで照らしても、ちっとも湖の中まで光が届くことはない。
――ざ、ざざ……。
けれど、レオナルトさんたちが蝋燭の灯りで湖を照らすたびに、湖面が不自然に揺れたような気がした。不気味に思って、暗い湖面を見つめる。けれど、特に何かがいるようには思えなかった。
――今日の茜は、気持ち悪いから近寄らないようにしよう……。
唐突にユエの言葉を思い出す。その瞬間、何かが軽く頬に触れた。思わずぞっとして辺りをうかがってみるも、特に何か居るわけではなく――気のせいかと、ほっと胸をなでおろしているうちに、儀式は新たなる局面を迎えていた。
領主兄弟の祝詞が続く中、やがて、黒い装束を着た男たちが楽器を奏ではじめた。
その楽器とは、不思議な形をした横笛だった。ところどころが膨れていて、なめらかな曲線を描いている。その笛の先端にも、鈴かつけられていて、男たちが体を動かすたびに、チリチリと可愛らしい音がした。
木製の横笛は、男たちが息を吹き込むと、やたらと甲高い音を立てた。
レオナルトさんたちの後に続き、男たちが不思議な節をつけて奏で始めたその笛の音は、どこかで聞いたことのある音だった。
――ぴゅるりら、ぴゅるるるるるる……。
高く高く、どこまでも澄みきった笛の音。
その音は昨日、朝日の中で聞いたシルフの鳴き声にそっくりだった。
きっとこの音であれば、シルフが聞きつけて姿を現すに違いない。私はその笛の音を聞いた瞬間に確信した。
「我らは風の精霊の加護を乞うものなり」
「風は偉大、風は恵み。空を渡る風の精霊よ」
「どうか、供犠巫女の手にある供物を受け取り給え」
「どうか、我ら愚かで救いがたい人間の祈りを、そして感謝を受け取り給え」
「どうか、どうか。風の精霊よ……」
レオナルトさんとベルノルトさんは、繰り返し繰り返し風の精霊にそう呼びかけた。
そして、何度目かの祝詞が発せられたとき――。
突然、息が出来ないほどの風が吹き荒れ、蝋燭の灯りが掻き消えた。
――ぴゅるるるるるるる!!!!
同時に耳に飛び込んできたのは、男たちが鳴らす笛の音ではなくて、それよりも尚、高く透き通った鳥の声。
暗闇の中から突然白いものが現れて、私のすぐ傍を通り過ぎていった。
それはもちろん、先日朝日のなかで見た、まるで真っ白なハチドリのような姿のシルフだった。
シルフたちは灯りの無くなった暗闇の中で見ると、僅かに青白く発光していて、数体が上空を飛び回っていた。
「……おお……!!!」
儀式に参加していた人々の間から、歓声が上がる。
領主兄弟も成功を喜んで、表情を綻ばせ、固く握手をしていた。
彼らが羽ばたく度に、白い燐光を纏った羽が辺りに飛び散る。
昨日の朝見たようなシルフの美しい姿が見れるのかと思ったのだけれど、今回はどこか様子が違った。
――何!? この数は……!!!
始め空を飛び交っていたのは数体だけだったのに、その数はあっという間に膨れ上がっていった。シルフたちは凄まじい羽ばたきの音をさせながら、上空へと舞い上がり、バラバラに飛んでいたものが一箇所に寄り集まって群れを成した。それは、白い巨大な生き物のよう。まるで海の中の小魚が、天敵が現れた時に目くらましのために巨大魚を装うように、寄り集まったシルフたちも一羽の巨大な鳥の姿に見えた。
……そう、それはまるで、風の神殿で見た石像の女性が掲げていた、大きく美しい鳥のような姿。
寄り集まり巨大な塊となったシルフたちは、次の瞬間――狙いを定めたかのように私たちに向かって、落ちてきた。
「……っ!!!」
真っ白な塊が落ちてくる。足元は水に浸かっていて動きづらく、更には狭い桟橋の上だったので、逃げることも叶わなかった。
数瞬の後、大量のシルフたちが頭上から降り注ぎ、視界が真っ白に染まって、堪えきれずに目を瞑った。
「……?」
――ひゅん、ひゅん、ひゅん、ひゅん……。
暫く待ってみても、予想外に何ともない。
落ちてきたシルフたちが体全体に当たる衝撃が襲ってくるかと思ったのだけれど、痛みも何も感じなかった。
それに先程から変な音が聞こえる。不思議に思った私は、恐る恐る目を開けた。
……その時、私の目の前に広がっていたのは。
羽を忙しく羽ばたかせ、空中に浮遊しているシルフたちが……数え切れないほどいるシルフたちがびっしりとひしめき合い、私が持ったうなぎの蒲焼きを凝視している光景だった。
ひゅんひゅん、という音は、シルフが羽を羽ばたく音だったのだ。
『ごはん!』『ごはん!』『ごはん!』『ごはん!』『ごはん!』『ごはん!』
『ごはん!』『ごはん!』『ごはん!』『ごはん!』『ごはん!』『ごはん!』
頭の中に不思議な声が響き、同じフレーズがまるでこだまのように繰り返し繰り返し駆け巡る。
ごはん、ごはん、ごはん、ごはん……その言葉が、脳内をぐちゃぐちゃに掻き混ぜ、蹂躙する。耳の奥が痛い。伝わってくる言葉の数が多すぎて――。
「……ひっ」
堪らず私が小さく悲鳴を上げると、まるでそれが合図だと言わんばかりに、シルフたちはより一層羽ばたきを激しくすると、一斉に私の手元にあるうなぎの蒲焼きに襲い掛かってきた!!
「う、わ、ぎゃ、え? やっ……!? やめっ……わあああああああ!!!」
――バシャァァァァァァン!!!
私は押し寄せてくるシルフたちに堪えきれず、思わず尻もちを着いて、蒲焼きを宙に放り出した挙句に、全身水浸しになってしまった。
……お高い巫女服がああああああああ!!!!
脳内の混乱が最高潮に達していた私は、何故かその時巫女服を汚してしまった心配をしていた。
そして、私が放り出した蒲焼きは、見事に宙を舞って、狙いすましたかのように妹の手元に落ちた。
――次の瞬間、蒲焼きを狙っていたシルフたちは、一斉に妹の手元に襲いかかった。
「え、私!? う、うっそおおおおおおお!!!」
暗闇に沈んだ湖で、白く発光したシルフに群がられた『英雄聖女』の悲鳴は、領民たちがいる湖の畔まで届いたという。




