晩酌2 身欠きニシンと不思議貝と仏頂面 前編
「うひひ」
冷蔵庫の中身を見つめて、ひとり不気味な笑い声をあげる。
太陽はとっくの昔に顔を隠して、月の顔も見飽きた頃。勿論、妹は夢の中だ。
暗闇の台所の中、冷蔵庫の光だけが私を照らしている。
今の私は非常に悪い顔をしている自信がある。
――見つめる先には、干された茶色い魚。
そっと持ち上げて、くるくるパッケージを回して眺めた。
存在をすっかり忘れて入れっぱなしだったこいつが、ようやく日の目を浴びる日がやってきた。
こいつと相性抜群のアレもある。
冷蔵庫の上段。タッパーにはいった山菜をちらりと見た。
……山の主さんありがとう!
こいつとそれで出来上がる、最高の酒のつまみを想像して、今からよだれがしみてくる。
お酒は何にしようか。いや愚問だ。
これに合うのは日本酒。それもさっぱりと、飲みやすい類の。
「ああ、しあわせきぶーん」
軽やかなステップでコンロへ向かう。
今日の晩酌のお供は――身欠きニシンだ!
◇◆◇◆◇◆◇◆◇
身欠きニシン。
決してメジャーな食材とは言えないそれは、私の叔父の大好物。
元々は東北出身だった祖母の故郷で、よく食べられていた珍味だ。
所謂ニシンの干物で、場所によっては煮物にしたり、甘露煮にするところもあるらしい。
ところが祖母の故郷、東北では酒の肴として親しまれているものだ。
東北でよく食べられている身欠きニシンは、半生。
半生の身欠きニシンは、ぎゅっと詰まったニシンの風味に、口に含むとニシンの脂がじゅわりと染み出す独特の味。酒好きにはたまらない、最高の酒の肴。
毎年正月に帰ってくる叔父のために、毎年祖母は取り寄せをしていた。祖母が亡くなった後も、仏壇へ挨拶に来る叔父のために、身欠きニシンを取り寄せていた私は、来る正月に備えて冷凍庫の奥底に取り寄せたそれを仕舞い込んでいた。
叔父は大好物のそれを、晩酌時に食べるわけだが、絶対に分けてはくれなかった。手を出そうものなら、容赦ない攻撃が手の甲を襲ったものだ。
だから、叔父に供する前の段階で、ひとくちふたくちつまみ食いした経験しかないのだけれど、それはそれは美味しかった記憶がある。
それにしても東北人の乾物に対する執念というか、こだわりは恐ろしい。実はもう一つ、祖母ゆかりの乾物が食料庫で眠っているのだけど……それはまた今度にしよう。
とにかく、私の言いたいことは、今日は叔父の身欠きニシンを食べるということ。
だって、暫く元の世界へ帰る予定はないのだ。
いつもは冷凍庫で身を凍らせながら叔父を待つ身欠きニシンを見ては、いけない、だめだ! と諦めていた私だが、今回は仕方ない。
悪くなって食べられなくなるよりは、美味しくいただくべきだろう。
――だってもう解凍してしまったのだし。
――叔父は異世界に来られないのだし。
ああ、自分のものではないものに手をつける背徳感。
他人のおやつのプリンに、スプーンを差し込む瞬間のようなこの胸の高鳴りは、私を悪の道へ引きずり込もうとしている!
「いや、賞味期限がきれそうだから食べるだけなんですよね?」
ジェイドさんが台所の電気をぱちん! とつけて、冷静に私に突っ込んだ。
「ジェイドさん、ノリが悪いです」
「そんなノリについていける方が特殊ですよ」
――妹なら乗ってくれるんだけどな。
ちょっと残念に思いながら、私はバリッと身欠きニシンのパッケージを開けた。
因みにジェイドさんは、私の料理を手伝ううちに、賞味期限というものを覚えたらしい。……うちの護衛騎士は優秀である。
今日のジェイドさんは私服姿だ。
彼は勤務外でありながら、私の晩酌に付き合ってくれるという。
警備という点だと、後でダージルさんが来るから問題ないのだけれど、心配だ、の一点張りでどうしても参加するときかない。……うちの護衛騎士は勤勉である。
ゆったりとしたシャツに、スラックス、いつものエプロンを着けた彼の姿はなんだか新鮮だ。イケメンはなんでも似合う。
そんなジェイドさんとふたりで、取り敢えず材料の下ごしらえを始めた。
鼻歌交じりで、まな板に身欠きニシンをそっと乗せる。
つやつやとした黒にみえて、角度によっては銀色に鈍く光る皮。少し透けた濃い茶色の身。
うっすらと目を細めてそれを見つめて――つ、指を滑らせて骨を探る。
骨の方向を見極めて、骨を断ち切るように逆から斜めに切っていった。
こうすることで、食べるときに骨の食感が気にならない。臭み取りのためにお酒を振りかけて置いておけば、身欠きニシンの下ごしらえは完了だ。
――さあ、後二品は欲しい。
私一人なら身欠きニシンだけでいいけれど、他の二人を考えると何か作るべきだろう。……決して、身欠きニシンをたくさん食べられないように、なんて邪な考えはない。ないったらない。
日本酒の味を思い出しながら、冷蔵庫の中を漁る。
一つは決まっていたけれど、もう一つはどうするか……。
ごそごそ探っていた冷凍庫の奥に、とあるものを見つけた。
――鶏皮。
市場で肉屋さんに行った時に安く買ったものだ。
こちらでは皮だけをどうこうすることはあまりないようで、とても安かった。
鶏皮で焼き鳥? 鶏皮で肉じゃがもいい。だけど時間はかけたくない。
――シンプルにパリパリ揚げにしよう。
塩胡椒したパリパリの鶏皮は、酒の肴に最高だ。
そう心に決めて、レンジで鳥皮を解凍した。
解凍できたら、鶏皮を大きなものは一口大に切っておく。水分が残っていれば、キッチンペーパーで拭き取っておく。
もうひとつ、砂抜きをしておいた二枚貝と巻貝を取り出す。
つやつや大きくて、まだらな黄土色の二枚貝はあさり。
あさりは旬を迎えているだけあって大粒だ。
これを今日は酒蒸しにする。
あさりは、きっと極上の出汁を味あわせてくれるはずだ。
巻貝はこちら異世界の食材。
ダージルさんのリクエストだ。
名を「乳貝」といって、ちいさな巻貝だ。逆三角形の親指の先ほどの大きさのそれは、日本の磯辺にいる「シッタカ」によく似ている。
あらかじめ今日晩酌をしようと思っていた私は、ジェイドさんからダージルさんに予定を知らせていたのだけれど、ダージルさんからせっかく晩酌をするのなら、好物を作って欲しいと言われたのだ。材料は持ち込むから、ということだったので私は了承したのだけれど。
今朝方、網にたっぷりとはいった乳貝を持って来たダージルさんは、ニヤリと笑って「こいつ、獰猛だから気をつけろよー」と言われた。……獰猛?
全くの謎食材だけれど、調理の仕方はダージルさんから聞いてある。
私は、ちゃぷん、と水音をさせている大きな乳白色の瓶を取り出した。
これもダージルさんがもってきてくれたものだ。
所謂どぶろくのようなもので、近くの漁村でよく飲まれるものらしい。くん、と匂いを嗅ぐと酒粕のような匂いがする。その名も乳酒。
……もしかして乳が好きなんですか? ダージルさん……。好物っていってましたもんね、ダージルさん!
とても本人には言えない失礼なことを考えながら、ボウルに入れた乳貝に、乳白色の乳酒を注いだ。
途端、乳貝の中から一斉にたくさんの触手が現れた!
じゅるっ、じゅるるるるっ!
――うへえ。
思わず顔が引き攣る。
その触手は他と競争するように、乳酒の中で暴れまわり、乳酒を恐ろしい勢いで吸収していく。
排水管に飲まれるような勢いで消えていく乳酒が無くならないように、私はどんどんと乳酒を足していった。
暫くすると、乳貝は酔っ払ってしまったのか、くてん、と触手の力をなくして動きを止めた。
白い乳酒の中にふよりふよりと漂う触手は、酔っ払いのごとく、思い出したように鈍く動きながら少しずつ貝の中に収まり、薄い貝の蓋をぱたんと閉じた。
ダージルさんによるとこの貝はとても酒好き。
こうしてお酒で酔っ払わせてから、網で焼くと絶品らしい。人呼んで、「酔っ払い貝」。そのまんまである。
さて、これで下準備は完了。
ジェイドさんに炭の準備をお願いして、早速料理に取り掛かった。
まずは酒蒸し。
にんにくをたっぷりみじん切りに。青ねぎも刻んでおく。
フライパンにあさりとにんにくを入れて、たっぷりと日本酒を注ぐ。ここでお酒はけちってはいけない。
蓋をして暫くすると、ぱかりとあさりが口を開けた。すると、あさりの旨味が酒に溶け出して、スープを白く濁らせている。あさりの口が全て開いたら、ネギを散らして、スープを味見。
塩味が足りないようなら少し足すのだけれど――。
「ああ、駄目。もう一気に飲み干したい」
「茜、冷静になって」
酒蒸しのスープは魔性の味。味見じゃあ物足りなくなるほどの貝の旨味が私を襲う。
「いやいやいや、ジェイドさんも飲んでみれば解りますよ」
そういって、私は止めに入ったジェイドさんの口の中にも、無理やりスープの入ったスプーンを捻りこんだ。
ジェイドさんは、むぐ、と呻きながらも、ごくりとスープを飲み込むと「ああ、これは……」と、顔を片手で覆った。
――味見は調理者の特権である。
ニヤリと不敵な笑みを浮かべたわたしは、あさりをひとつ取り出し、にんにくとスープをたっぷり貝殻で掬ってジェイドさんに渡した。そして、自分の分も同じように確保して……スープを零さないように口へ運んだ。
前歯であさりのぷりぷりの身を削り取り、にんにくと一緒に咀嚼すれば……ああ。
とろりとした貝の身。にんにくの刺激的な風味。
一緒に含んだ旨味たっぷりの酒のスープ。
「あー……」
誰か私に酒を……!
酒を持てい!
私の中の似非殿様が暴れだす。
隣を見ればジェイドさんも目を瞑り、恍惚とした表情で味わっている。
――これにて、共犯関係成立。
それから暫く、味見という名のつまみ食いが、秘密裏に行われたのは言うまでもない。
さて、そろそろダージルさんもやって来る頃。残りの作業を急ぐべきだ。
むぐむぐと口の中のあさりの身を飲み込みながら、鶏皮を熱したフライパンに放り込んだ。
そのまま火で熱していると、鶏皮自身から脂がじわじわ、たっぷりしみてくる。
気付けば、あっという間に鶏皮自身から染み出してきた脂でフライパンがひたひたになった。その脂で、鶏皮をしゅわしゅわキツネ色に揚げていく。
カリカリに揚がった鶏皮は、脂を出し切ってきゅっと縮まり、鶏油のなかでゆらゆら揺れて私を誘っていた。
鶏皮をキッチンペーパーの上に取り出して、軽く塩胡椒をふる。
そして、自然な動きでひとつぱくり。
ジェイドさんがまだつまむのかと、少し呆れ顔だけれど気にしない。
ぱりっ、しゃく、しゃく……
限界まで水分が抜けた鶏皮は、なんとも楽しい歯ざわり。鶏皮の香ばしさに、塩胡椒が効いて、すぐにでもしゅわしゅわの金色の液が欲しくなる味だ。
もうひとつ手に取れば、じとっとこちらを見つめるジェイドさんと目が合った。
私は、ちらりと手元の鶏皮をみて、そのままジェイドさんの口先に差し出した。
すると、ジェイドさんは、ぱちぱちと何度か瞬きをして、口元をむずむずさせた後、なんだかとても嬉しそうにぱくりと鶏皮に食いついた。
鶏皮がよほど好きらしい。ジェイドさんは、先ほどとはうって変わってにこにこ顔だ。
私は鶏皮を三つの皿に分けて、ひとつは塩胡椒、もうひとつにはカレー粉、もうひとつにはガーリックパウダーを振りかけて混ぜておいた。
こうすれば、香辛料のいい香りで、脂っこい鶏皮も食べやすくなるだろう。
そうしていると、台所の窓をこんこん、と誰かが叩く音がした。
ふと視線をあげると、真っ暗な窓の外で、ほんのり台所の明かりで浮かび上がるダージルさんと目が合った。
私はジェイドさんにお願いして、ダージルさんを玄関まで迎えに行ってもらうことにした。
その隙に私は例のアレをささっと仕上げて、冷蔵庫へしまう。
そして何食わぬ顔で、居間へ食器を運んだのだった。
異世界食材挑戦回。