戻らなかった、欠片。
私のお仕えするお嬢様は、この国一番の美しさを持つ心優しいお方だ。
月の光を集めたような銀色の緩やかなウェーブの掛かった髪に、陽の光を受けた湖面のように透き通った水色の瞳は、女神に例えられる程で、そんなお嬢様にお仕え出来るのは、私にとって最高の誉れだった。
……それが、どうしてこうなってしまったのだろう。
お嬢様は、この国で宰相をされている公爵家の一人娘として生まれた。そこでお嬢様の乳母をしていたのが、今は亡き私の母だ。私とお嬢様は乳兄弟であり幼馴染みでもあったので、小さい頃は公爵家の広大な庭園を二人で駆け回っていた。
しかし、お嬢様が成長するに従って私たちの間には身分差と言うものが出来て、二人で遊ぶ事はなくなった。
その頃に、お嬢様はこの国の王太子殿下とご婚約された。
婚約をされたと同時に、厳しいお妃教育が始まった。辛くて苦しいのに、決してお嬢様は弱音を吐く事はなかった。
そんなお嬢様をお助けしたくて、私は王城の騎士となった。
殿下は政略的な婚約だった為、お嬢様を愛する事はなかった。一方、お嬢様は出会った瞬間に殿下に恋をされたらしい。……政略結婚は身分の高い者の間では当たり前、何れお二人の間にも愛が生まれるだろうと、その頃皆思っていたのだが。
歯車が狂い出したのは、そう……あの男爵家の令嬢が、殿下とお会いした時からだ。
男爵令嬢は、ふわふわの蜂蜜色の髪に、晴れ渡った空のような蒼色の瞳をした美しい少女だった。
控え目なお嬢様とは違い、明るく行動力もある令嬢は、社交界の貴族の間で話題となった。
そんな令嬢に興味を持った殿下が、令嬢に近付き恋に落ちたのだ。
婚約者であるお嬢様を差し置いて、殿下は毎日のように令嬢を呼び寄せ、逢瀬を重ねられた。
その間、お嬢様はあの美しい湖面のような瞳から涙を流さない日など無かった。愛する人に裏切られ、身を引き裂かれるような痛みを味わっているだろうに、お嬢様は殿下を責めることはなさらず、それ所かご自分が身を引く事を考えてらした。
しかし、それだけでは済まない事になった。
男爵令嬢は、事もあろうか殿下だけではなく、婚約者のいる上位貴族の令息たちとも親しくし始めたのだ。
未婚の貴族の娘が婚約者のいる複数の異性と親しくするなど、常識的に考えてあり得ない事だ。
令息たちの婚約者は、皆相手側より身分が低い為強く意見することが出来ず、お嬢様を頼って来られた。
性格的に人に強く意見することが苦手なお嬢様だが、ご友人である婚約者たちのお願いを聞くことにした。
まずは男爵令嬢に、婚約者のいる異性と必要以上に親しくするのを止めた方がいいと、その行為が相手だけでなく自分の評価も下げてしまいますよ、と至極当たり前の事をやんわりと注意した。
しかし、どう歪曲したのか、お嬢様が殿下を取られた事を嫉妬して意地悪を言うと、令嬢は泣き出した。
泣いている令嬢を見た殿下や令息たちは、お嬢様を酷く詰った。愛する殿下から酷い言葉を浴びせられ傷付いているだろうに、お嬢様は気丈に殿下たちにも意見した。婚約者がいながら他の異性と必要以上に親しくするのは、貴族の品位を落とすと。
お嬢様が慣れない意見をしたのに、殿下たちの心には響かなかった。それ所か、最悪の行動を起こしたのだ。
上位貴族の令息たちは、自分たちの婚約を一方的に破棄したのだ。どうせ政略で相手を愛していないからだと。
婚約を破棄された令嬢たちは、怒りの矛先を何故かお嬢様に向けて来たのだ。自分たちが押し付けて来たのに、余計な事をした、貴女の所為よ、一生恨むわ……と。
そして彼女らは、社交界で徹底的にお嬢様を孤立させた。
事実無根のお嬢様の品位を落とす下劣な噂を流し、公の場で罵り嘲笑した。
遂にその噂とともに、お嬢様が男爵令嬢に卑劣な行いをしていると言うありもしない事を咎められ、殿下から婚約破棄を言い渡された。
そのショックでお嬢様は、その場で倒れられたのだ。
私が長期の辺境への勤務が終わり、お嬢様の住まう王都に帰還したのは、その全てが終わった後だった。
お嬢様と再会したのは、生まれた時から住んでいる公爵家の邸ではなく、小さな家の薄暗い部屋だった。
泣きながらお嬢様の受けた理不尽な行為を話す侍女を、私は呆然と見るしかなかった。
公爵家の品位を落とした事で、謹慎と言う形で切り捨てられたお嬢様は、三日三晩目を覚まさなかった。
そして目覚めたお嬢様は、何処か壊れてしまったのだ。
まず、男爵令嬢の事から婚約破棄までの記憶が、スッパリと抜け落ちていたのだ。
目を覚ましたら、辺境にいるはずの私がいて驚いたわ、と朗らかに笑うのだ。
そして、殿下に会いに行くと言って、渋る私たちを連れ出す。
その道中、お嬢様を罵倒していた令嬢たちに会い、全てを忘れたお嬢様は朗らかに挨拶をした。
当然、彼女たちはお嬢様を酷く詰り、罵倒した。そのショックでまたお嬢様は気を失った。
そして、目を覚ましたら、その令嬢たちの事を全て忘れていた。
お嬢様はそうして少しずつ忘れていった。
親しくしていた友人、お世話になった恩師、敬愛していた両親……。
そんな中、殿下が男爵令嬢を新たな婚約者として発表したのだ。
―――そして、お嬢様は愛した人をも忘れてしまった。
「不思議ね……何も覚えていないのに、貴方の事だけは鮮明に覚えているの。小さな頃、大きな庭を二人で駆け回った事とか、あの時の風の匂いでさえ鮮明に思い出せる……」
小さな窓から見える景色を見ながら、穏やかな微笑みを浮かべられるお嬢様。粗末なドレスに身を包み、公爵令嬢とは思えない質素な部屋にいるのに、お嬢様の美しさは変わらなかった。
「……それこそ私とは生まれた時から一緒ですから、忘れたくても忘れられないのでしょう」
「ふふっ……あら、私は……誰だったかしら……」
遂に自分の事さえも忘れてしまったお嬢様。
何も悪い事はしてないのに、謂れのない罰を一人だけ受けて……
「お嬢様、どうか私と此処から離れてくれないでしょうか?……例え貴女が私を忘れても、私は一生貴女の側でお守りします」
お嬢様が殿下とご婚約されてから、触れる事の無かった白い手をそっと握る。
一度は、お嬢様の幸せを願い諦めた恋。
お嬢様が私だけを忘れずにいて下さった事に、意味があるのだとすれば、私は―――
あれから、数年経った。
お嬢様と私は、最後までお嬢様の側にいた侍女と共に、侍女の知人を頼り遥か遠方の国に移住した。
侍女はその後その知人と結婚して、今は私たちと離れて暮らしている。
お嬢様は、得意の刺繍や貴族のマナーを商家の娘に教え、私は王城の騎士として再就職した。
貴族の暮らししかした事のないお嬢様は、初めは市井の暮らしに戸惑っていたが、直ぐに慣れてからは積極的にご近所付き合いをするまでになった。あの控え目だったお嬢様とは別人のような明るさになった。
お嬢様を切り捨て私が捨てた祖国は、今混乱の真っ只中にあるらしい。
どうやら、王太子や王太子妃が国税を使い込み、貴族たちがそれを隠蔽しようとした事が民衆にばれて、クーデターが起きたらしい。
「あら……それは大変ね。でもそんな遠くの国だとピンとこないわ」
おっとりと微笑むお嬢様は、遂に祖国の事も忘れてしまった。
お嬢様が失くした記憶は、結局戻らなかった。
でも、それ以上に沢山の思い出がこの国で出来た。
それでいい。あの記憶は無くてもいいものだったのだ。
「それよりあなた、いつまで自分の妻を『お嬢様』と呼ぶつもりなの?」
「……すみません。言い慣れないもので。暫く待って下さい『私の奥さん』」
「ふふっ、いつか名前で呼んでね?約束よ」
―――終―――
一応、ハッピーエンドのつもりです。