8話 命の泉
「遅い……」
あまり大きくない泉の上へ、アイさんの呟きが消えていきます。
私もその言葉に同意したいのですが、あまり口にするとさらに遅くなりそうだと感じてしまって言えません。
“命の泉”にハヤテさんが落ち、シキさんが跳び込んでから、どう考えても十五分以上経っていました。
神力を扱える上、魔術が得意そうなシキさんが潜っていったので大丈夫だと思いはするのですが、既に人間が呼吸を止めていられる時間を超えているのではないでしょうか。
「アイさん、どうします?」
「ど、どうって何の事よ?ハヤテ達を置いて行くって選択は無しよ!」
もちろん、私だってそんな事したくありません。
ただ、できればシキさん達の現状を知りたいな~と思う程度です。
ですので二択、用意してみたのです!
「もちろん無しですよ。ですが、ここでずっと待っていでもどうしようもありません。片方が水に顔を浸けて水中を確認してみるのと、二人で水中に跳び込むの、どちらにしますか?」
「…何で顔を浸ける場合は一人で、跳び込む場合は二人なのか、意味が解らないんだけど」
アイさんが赤っぽい紫陽花色の目で、胡乱げにこちらを見つめてきました。
…そんなに意味が解らないでしょうか?
「二人とも上がって来ないという事は、シキさんが見せてくれた水面への術の他に、この泉には何か仕掛けがあると思うんです。そこで!もし水中に落ちた人を引っ張るような仕掛けがあった時の為に、水中を覗くだけなら覗かない人が覗く人をしっかり握って落ちないようにし、跳び込むならどちらも一人ぼっちにならないよう二人で!という事です!」
「…あー、うん。跳び込む方はともかく、顔を浸ける方はまともね。まずは水中を観察する方で」
個人的には跳び込む方がお勧めでしたが、アイさんには不評のようです。
速さを上げる補助神術を掛けて跳び込めば、それなりに動けると思ったのですが、残念です。
「それではアイさん、私の右手を握って貰って良いですか?」
「は?えっ?ちょっと!ここはどっちが顔浸けるか、話し合うとこじゃないの!?」
気を取り直して、と泉の縁に左手を置いた私を見て、何故かアイさんが慌てふためきました。
???
こういう危険かもしれない事は、提案した人が実行すべきだと思うのですが、地上世界では違うのでしょうか?
それに…。
「私達神族は、地上世界の人間よりも遠くが見渡せるので、私の方が適任かと思いまして」
「え?神族…!?」
何だか異様に驚かれている気がしますが、手を繋いでくれたので水中を覗きましょう!
本来、私達神族は人間と違って、水に顔を浸ける前に大きく息を吸う必要はありません。
ただ、鼻や口から世界に漂う神力を吸い、呼吸・生命維持をしている為、水中に神力が無ければ危険です。
通常の池や湖などは水に神力が含まれていますが、この泉は水面に術が掛けられている事から考えても油断できません。
すぅっ
パシャンッ
水に顔を浸けて、目を開いた私を待っていたのは、この泉が人工のものであるという事が判る光景でした。
下にいけばいくほど広がる幅。水を溜める為なのか、白く美しかったであろう石材の壁が広がります。
そうです。予想系です。
かつては美しかったであろう壁は、何かで少々濁っている水が石材の白さを曇らせ、また、所々にヒビが入っている事で、石なのに哀愁を漂わせていました。
そして致命的なのは水面からグレア村にあった平屋程度の高さ分下に、直径がシキさんより少々大きい程度の、大きな横穴が開いていたのです。
…石材の破損具合から考えて、この泉内の壁ができた後で開いたものだと思って良さそうです。
ただ、その横穴の向かい下方に見える通路の入り口らしきものは、破損個所が見えません。
通路の入り口らしきものは、入口がキッチリ長方形になっていて、入口周辺の壁には何やら模様が入っています。
何らかの理由で二人が泉から出てこないのであれば、きっと行き先はあの通路の入り口らしき方でしょう。
そして最後に……。
大丈夫そうです。水中に神力はしっかりと含まれていました。これで水中で呼吸もできるし神術も使えます!
「ぷはっ」
「ゼーレちゃん。どうだった?」
「はい。二人の行き先は通路の入り口らしき所だと思います」
「…ゼーレちゃん。説明は最初からお願い」
そうでした。
泉の中を見たのは私だけです。
「この泉は人工のものだったみたいなんです。泉の中には設計時からあったと思われる通路への入り口と、この泉完成後、何者かが勝手に開けた穴がありました。何者かが開けた穴の奥には魔物が住み付いていてもおかしくありません。不意に泉に落ちた場合、こちらの水面から出ずに安全を確保しようとするのであれば、何らかの施設への入り口と思われる通路の入り口らしき所へ向かうと思います」
「…ゼーレちゃん、悪いけどあたしはその何者かが開けた穴の方が怪しいと思うわ。だって元々この森には異変を探して調査に入ったのよ?ハヤテはテキトーで暴走ぎみな性格してるけど、責任はちゃんと果たす男なの。怪しいところがあったら絶対そっちに行くわ」
何という事でしょう。
結構酷い事を言っていた気がしますが、アイさんのハヤテさんへの信頼と評価は、非常に高いものでした!
あれでしょうか。愛憎表裏一体とかいう。…もしかしたら、このまま仲間として一緒に行動すると、恋愛小説のような展開が待ち受けていたりするかもしれません。
うふふ!楽しみです!アイさん、私応援しますよっ!
「そういえばアイさん、泳げますか?」
「………」
え、その沈黙は…。
まあ、かく言う私は、今日初めて泳ぎますけどね!
水中に神力も含まれていたので溺れる事は無いですし、羽を出したら進めそうですし。もし無理そうな場合は、壁を蹴って進めばきっと大丈夫です。
「………」
「………」
「…い、息継ぎができないだけよ!」
潜れるそうです。
穴に向かうにしろ、通路の入り口らしき所に向かうにしろ、潜る事ができれば大丈夫そうなので問題なさそうです。
「それでは、とりあえず穴の方に行ってみましょうか」
「え!?本気で潜るの!?」
え、だからそう言ってるじゃないですか。…あれ。でも待ってください。設計の段階からある入り口ならその先に人間が呼吸できる場所はありそうですが、ただの横穴はどうなのでしょうか。
もし、水生の魔物が開けた穴だった場合、進んだところで人間が息のできる場所は無いような…。
「あ、やっぱり待っててください。横穴の方、空気が溜まっている場所が無い可能性もあるので、一度行って見てきますね」
「ちょ、ちょっと!」
よいしょ、と縁に座って足を浸けたところで、アイさんに腕を掴まれました。
「ゼーレちゃん忘れたの!?シキさん、待ってるように言って潜ったきり戻って来ないのよ!?彼より弱いあたし達が行ったところで、何かあっても何もできないに決まってるわ!」
「アイさん?」
確かに、そうかもしれません。
ですが、人手が足りないだけという可能性もあります。
そろそろシキさんが潜ってから二十分程度が経過します。
……心配で追いかけたい私はおかしいのでしょうか。
「一度グレア村に戻るわよ。用水路を作っているくらいだし、この泉の構造についても何かわかるかもしれない。そうすればきっと、何か良い案が浮かぶはずよ」
「アイさん……」
私だって考えてないわけではありません。
こんなに長い間戻って来ないんです。もし、二人の向かった先に息ができる場所が無かった場合……きっともう生きていないのではないか、と。
けれど、無いと思いたくても、もし、そうだった場合………。
「アイさん、私は、二人をこのままにはできません。アイさんは私が泉を探索している間に、村でこの泉の事を調べて来てくれませんか?」
「ゼーレちゃん、でも…」
「大丈夫です。私達神族は人間と違って空気を吸わずとも死にません。なので水の中も長時間探索できます。溺れ死んだりなんかしません」
「………」
アイさんの赤っぽい紫陽花色の目が、大きく揺れました。
彼女を一人で村に返す事も心配ですが……私は一体どちらを優先すれば良いのでしょうか。
もし二人が生きていないなら、絶対にアイさんを優先します。
でも、二人はまだ生きている可能性だってあるんです。
それなら―――…!
「…ゼーレちゃん、こんな時だけど、二つお願いがあるの」
「私が潜らないというのは無しですよ?」
私の言葉に、アイさんは頷きます。
「一つ。この村まで続く用水路の周りだけでも明るくして。二つ。……絶対、戻って来てね。夕方になる前に、あたしここに戻って待ってるから」
「うふふ。良い知らせ、待っててくださいね!」
最悪というものは、実際に目にした時に口にすれば良いんです。
いえ、希望の無い言葉を口にしたら動けなくなりそうなので、ただの強がりです。
それでもにっこり笑うと、アイさんも僅かな笑顔を返してくれました。
夕方まで用水路周辺を明るくしようと思えば、それなりに神力を込めなければなりません。
しかも広範囲の為中級神術。詠唱をしておいた方が無難です。
「闇を払う温かな光よ、忍び寄る夜を裂き照らさん『明光』!」
用水路に沿った光の筋を確認し、アイさんと頷き合った私は、既に水へ浸けていた足から、そっと泉へ入りました。
アイさんもこれから、村へ走って戻ることでしょう。
とぷん
全身で泉に入ってみると、そこは顔を浸けて見た時よりも少しだけ幻想的な世界でした。
私の神術からの光がぼんやりと水中を照らし、水中に漂う何かの欠片を虹色にキラキラと輝かせます。
その中に数枚ほど薄桃色の花びらも混じり、まるで水中に春の陽光を表現したかのようです。
少々水が濁っている事が悔やまれますが、見とれている場合ではないので、私はとりあえず前に進もうと手足を動かしてみました。
………。少ししか動きません。
まずいです。歩くよりもゆっくりな速度です。
『与賜光速』
……歩く程度の速さにはなりましたが、これでは日が暮れてしまいます。
もしかして、頼りの翼でも進めないとかは…。
……大丈夫でした。
補助神術が掛っている状態で、私の全力飛行より少し早い程度の動きができます。
それでは表面辺りだけではなく、下に潜ってみましょう!
ゴオオォ…ン……
低く響く音。
危険を感じた私は、進む角度を下から上へ急調整しました。
その直後。
ドドドッ
水流が立てたと思われる鈍い音と共に、先程まで私がいた場所へ、大きなハ虫類の様な頭が突っ込んで来たのです。
しかもその胴は……あの横穴の中にまだ残っているようです。
まずいです。足元に見える魔物の頭の大きさからして、どう見積もっても私など一飲みにできる大きさです。一瞬どうしようかと迷っている間に、魔物がこっちを振り仰いできました!
緑の血を水中に振りまく潰れた左目と、真っ赤に染まった右目で私に狙いを定めています!
とっさに水中から出ようとした私は、通常なら問題の無い判断だったのです。
が。
どんっ
「っい!?」
痛いと思う暇はありません。蛇のような頭を持つ魔物が、口を開いてこちらに突進してきます。
私は水面を思い切り蹴って突進の軌道から逃れました。
シキさん達が戻って来れないわけです。
一度水中に入り込んだら、水から出られないような術が掛っているのです。
ここから出ようと思うなら、賭けに出なければならない魔物のいる穴ではなく、あの通路への入り口と思われる部分に行っているでしょう。
ドオォン
水面にぶつかった魔物がまた私を視界に入れました。
足場が周囲の壁と水面しかない水中なので剣はあまりあてにできません。
次々と襲って来る蛇頭をどうにか避けつつ観察し、魔物の左首辺りの鱗が禿げて血を滲ませている事が確認できましたが、私の剣が有効かどうかは怪しいのです。
何故なら。
ドオォン
今度は壁にぶつかりましたが、魔物は全く痛くなさそうなのです。
こうなったら神術しかありませんが、じっくり集中する時間が無いのも事実です。
もう、魔物が目で獲物を見ている事に賭けるしかありませんでした。
「えいっ!」
カッ
魔物が突進して来るのを避けながら、潰れていない右目に向かって無詠唱でできるギリギリの最大出力の光を一気に浴びせます。
…もちろん、目晦ましの光です。
先程の突進の方向的には壁があったので、目晦ましの効果が無かったとしても、壁にぶつかって私を視界に捉えるまでは時間があるはずです。
私は真っ直ぐ、通路の入り口と思われる所を目指しました。
ドオォン
ぶつかった音がします。
真っ直ぐ進みながらも後ろを振り返れば……。
神術を使う前よりも多少遅い時間差がありましたが、キッチリ視線が合いました。
ほとんど効いていません!
ゴオォッ
ですが、間一髪、魔物の蛇頭は私のすぐ横を通り抜けて行きました。
入り口の凹みに、先に入る事ができたのです。
この凹みは魔物の頭より細い為、壁ごと破壊されない限り安全でしょう。
私は翼を再度消し、光の射さない奥へ足を向けました。
願わくば、二人の無事な姿がある事を祈って。
2019/4/27 誤字修正