第6章(前)〜プリンスの招聘
孤独な青年、後藤篤志・ごとうあつしは、島田アイと名乗った謎の女性と恋に落ちる。かつてないほどの幸せな一時を過ごした彼だが、ある春の日、彼女は失踪、彼は捜し歩くが神隠しの様にして消えた彼女を見つける事は出来なかった。
6年後、無気力に生きる彼の下に黒服の男が現れ、彼をアイに会わせるから付いて来い、という。危険を感じた彼は逃げようと画策するが捕まってしまう。直後、黒いつなぎ服の者たちが現れ、乱闘騒ぎの中、彼は逃げるが結局、黒服の生き残りに拉致されてしまう。
そして彼が連れて来られたのは、声だけで運転出来る車が走り、エンジェルと呼ばれる『能力者』のいる未来の日本のような世界だった。
首相公邸の、ある電話が鳴ったのは午前4時。不寝番の男が2コールで取ると、無言で相手の話に聞き入る。電話は1分間だったがその間男が話したのは、「起こす必要がありますか?」と「了解。」だけだった。電話が切れると、男はファイルホルダーを繰っていたが、やがて一本の電話を掛ける。直ぐに繋がった。今度も男は言葉少なに用件をこなし、「公邸危機管理官です。『黒部と八木沢』の件。ボスに0645」と一方的に語ると電話を切った。
しかし、当直の危機管理官や電話の相手が遠慮して起こす事をしなかった当の相手は、その朝もう目覚めていた。首相は昨夜余り眠れなかった。この大役を射止めて半年余り、最初の高揚感も醒めてみると際限なく発生する諸問題に対処する内に、3時間程度の浅い睡眠しか取れない身体になってしまい、そろそろ薬の世話にならなくてはぐっすりと眠れないようになっていた。
良く分からない理由ながら、国民の圧倒的支持を得ていた前任者から引き継がれたこの役は政治家の夢の頂点であり、また歴史に刻まれる事となる主役である。首相は、最初こそ5年間は主役でいるつもりでいたが、今では頂点から滑り落ちぬようにしがみ付いている有様となっている。しかし野心家の彼は未だに、歴史に名を残す(いい方で)ことになりたい、と考えていた。
首相ともなれば、今まで知りもしなかった様々な国の極秘事項が明かされるものだ。彼が国政の中枢に迎えられた頃、一介の議員では知り様の無い極秘事項を明かされたものだが、初めてその様な場面に遭遇した時、ああ、これが権力と言うものか、とある種の感銘を受けたものだった。この政治と言うゲームでは、情報が全てであった。秘密を多く知る方が上層へと登って行くのであり、情報とそれに付随する秘密を人よりも多く握ることが、このゲームで勝者となる秘訣である。
だが、全てが小気味の良い秘密では有り得ない。むしろ知らなければ良かった、と思うような極秘事項も数多くあり、首相を昨夜不眠にしたのも、そうした極秘事項の一つであった。
午前5時50分。首相は公邸の主寝室のベッドから滑り降りた。まだ50代の首相は、夫人と同衾する。夫人も目を覚まし、ベッドの縁に腰掛けた首相の右手を軽く握ると、おはようございます、と声を掛け、先に洗面所へと入って行った。
首相は主寝室に付属する簡易キッチンでコーヒーを淹れると、この日最初のコーヒーを一気に飲み、夫人と入れ替わりにバスルームで冷たいシャワーを浴び、気を引き締めた。
この日2杯目のコーヒーを(今度はゆっくりと味わいながら)ダイニングキッチンで飲む頃には、今日一日に立ち向かう覚悟が付いていた。このタイミングを見計らって私設秘書がおはようございます、と入室し、主要新聞6紙と昨夜から今朝にかけて溜まった内閣情報集約センターからの情報梗概メモのA4用紙の束をテーブルに置いて、待った。
その書類の一番上に、ただ一文が記されたA4用紙があり、そこには『芝浦PA』とあった。たちまち首相は昨夜、初台でのオペラ鑑賞直前に耳元で囁かれた一言を思い出した。その時は『八潮PA』であり、結果は明朝お知らせします、と言われた。
その後、公式にはテロ防止作戦が実施されたとして、夫人との非公式なオペラ鑑賞は中止され、首相は深夜までコメントや会見、緊急会議などに追われたのだ。もしもこの用紙に書かれたのが『加平PA』や『平和島PA』だったとしたら、今頃、首相は更に大変な騒ぎに巻き込まれていたに違いない。しかし、全て問題なし、を意味する『大黒PA』でもなく、口頭にて報告あり、を意味する『芝浦PA』だった事に首相は当惑した。この半年で初めての事態、否、前任者もたった2回しか経験した事の無い事態なのである。首相が無言で私設秘書を見上げると、秘書は、
「6時45分に、『ニイガタ』と『イワテ』が来ます」
『ニイガタ』とは宮内庁の『イワテ』とは防衛省のコードである。その『ニイガタ』と『イワテ』は二人連れ立って公邸を訪れた。一人は偶然にも新潟出身、宮内庁の長官官房秘書課調査企画室第参係長、もう一人は防衛省の長官官房秘書課別室長だった。宮内庁と防衛省という組み合わせも異様なら、彼らの所属する係なり別室なりが公的には存在しない、というのも不気味であった。
宮内庁はダークスーツに銀縁眼鏡の50代の男、防衛省はまだ30代半ば、オーダーメイドのスーツに身を包んだ男は、防衛省のキャリア組でも一番の切れ者、と噂される男である。二人は首相秘書官の控え室に案内された。無論、こんな時間にはまだ私設秘書以外登庁していない。また、昨日の事件もあり、首相付の官僚は隣の官邸へ直行するはずである。
「お二人とも、ご苦労様です。それでどのようなお話かな?」
首相も時間を無駄にしない男だが、この二人もそうであった。
「前置きは省かせて頂きます。首相、この部屋はクリーンですか?」
防衛省の男が言うと、首相はやや早口に答えた。
「盗聴器などないよ。つい2日前、公邸内は『掃除』された。無論何も出てこなかったがね。こちらもボイスレコーダーなど仕込んでいないから安心して。さ、遠慮なく話しなさい」
「失礼しました。昨夜18時30分頃、世田谷区でのテロ騒ぎは、公的には被疑者の死亡、と言うことで解決させました。朝刊はご覧頂けたかと思いますが、まずはマスコミの統制も今の所、有効に働いています。官民共に被害者なし、駅の爆破に失敗し潜伏していたイスラム狂信者のテロリスト2名は、テロ対策特殊部隊により殲滅、とおおよそこのストーリーで完結しています。そこで本題ですが、部隊は宮内庁から警報を受けて現場に急行しましたが、通報は通常のものよりかなり遅れて出されましたので、部隊の展開は、騒ぎの後となってしまいました。現場で所轄署の警官数名と部隊が接触しましたが、トラブルは報告されておりません。緊急時の対処規定に従ってテロ防止法適用にして頂いたお陰です。直後に警官は現場を速やかに離れております。さて、今回のこの騒動は、本来極秘裏に敢行される筈であったRGの作戦行動が、何者かによって妨害されたために発生した、とこちらでは見ております。また、双方に犠牲者が出たものと推測されております。RGは直後に本作戦の対象と共に脱出、これは例によって地下水道ルートです。このルートにおけるRGの行動は、国交省の情報管理部がトレースしておりますが、およそ1時間後、練馬区北部にて消失、帰還したものと評価されました。撤退時における民間人との接触は全く痕跡がありません。今回の騒ぎでRGの件が暴かれる事は、なんとか食い止める事が出来たようです。一方RGの敵対勢力の方ですが、こちらは何処から現れたのか、また脱出ルートも特定出来ませんでした。現在、情報集約に努めております」
続けて宮内庁が報告したが、こちらは短かった。
「宮内庁としましては、今回のRG直報の遅れは先方の通報が直近であったためであり、不可避であった、と考えております。また、彼らの通報が僅か2分前になされた、という特異な事態から、本邦の過去におけるデータおよび諸外国でのケースとの相似性から言っても、今回の彼らの行動はプリンスの招聘行動であった、と推測しております」
すると首相が口を挟んだ。
「なんだね、そのプリンスの招聘とは?それは聞いた事がないな」
宮内庁は首相の顔を臆せずに見つめると、
「首相。それ以上お知りになりたい場合は、例の手続きを踏んで頂かなくてはなりません」
「そうか・・・分かった。今、そこまでは必要ないだろう。そういうものだ、と理解しておくよ」
「ありがとうございます。最初にご説明しました様に、それをお求めになった首相は過去3名しかおりませんので」
「そのことはいい。で、結論はどうなの?」
「まだ先方から何も言って来ていませんので、なんとも。ただ、RGを襲った連中も、遺留品などから、こちらの者ではないことが確認出来ましたので、あちらと断交状態など、最悪の事態になるとは思えません。あちらから何か通信がありましたら、随時ご報告致します。なお、RGの敵対勢力につきましても、調査が完了しましたら直接ご報告致します」
防衛省の男はそう言うと、視線を首相の肩に置いて、黙った。首相は暫く黙考していたが、やがて、
「では、これで?」
「ええ、昨夜の件でお知らせすべき事は以上となります」
「ご苦労様でした。その後、動きがあったら教えてください」
首相はそう言うと、さっと立ち上がり、書斎へと通じるドアを開けて、素早く消えた。
結局、現場の近隣に居住する民間人男性一名が行方不明になっている件も、地下通路の数ある諸室の一つに、今回の『小競り合い』で発生した敵味方双方の身元不明の遺体7体が冷凍保管されている件も、首相に報告されなかった。
残された二人は入れ替わりに入って来た私設秘書の案内で部屋を出、玄関に通じる廊下を逆の方向に向かう。二人を伴って足早に進んだ秘書は、公邸の奥、キッチンの隣にあるリネン室を開けると二人を部屋に入れ、
「では、ここで」
といい、ドアを閉めた。
この部屋は僅か6畳ほどの大きさで、ロッカーが両側の壁に置かれた物置だった。その奥、『PS』とパイプスペースを意味する記号が書かれている小振りなドア、その脇に隠蔽されて掌紋認証装置がある。宮内庁がその読取センサーに掌を翳して開錠すると、ドアの外、小さなエレベーターホールがあった。このドアも、リネン室のドアと同じくオートロックで、公邸側からしか開けられない。エレベーターの客は、このドアに付いているインターフォンを通じて、公邸側からドアを開けてもらうのだ。二人は終始無言で、来た時に乗った6人乗りの小型エレベーターに乗り、公邸の地下へと、高級官僚しか存在を知らない、地下のネットワークへと消えて行った。
二人が首相公邸に居た時間は僅かに9分。彼らがここに居た事を知る者は、首相を含め数人に過ぎず、無論、公邸の外で、首相の今日の第一声を捉えようと待ち構えているマスコミ各社にも全く知られることは無かった。
*
その部屋は、およそ4m四方、10畳に足りない程の部屋だった。天井は高く、3mほど。窓は高窓が一面のみにあり、そこから明るい日差しが部屋の上三分の一程を照らしている。
高窓のある壁の反対側にドアがあり、その鉄扉には覗き窓が付いている。ドアを入って右手の壁には畳二畳分程もある大きな鏡があり、その反対側の壁面には作り付けの収容ロッカーが壁面一面にある。天井には蛍光灯が2本一組で8組、部屋の大きさに較べて明る過ぎるであろう量だが今は全て消えている。そして部屋の真ん中に1m四方程のスチール製のテーブル、そして重く頑丈なスチール製の椅子が5脚。
彼はドアに椅子を向けてテーブルに頬杖を付いていた。時計は無い。彼は『こちらの世界』に来てから一度も正確な時間を知る事はなかった。但し、あの何か入れられていたであろうコーヒーで眠ってしまった時間が半日位だと想定すれば、こちらに来てから3日が経ち、今は昼過ぎ、午後も早い時間、と彼は考えていた。
彼が寝起きする部屋は、ここではない。エレベーターで3階下、地階にあると思われる窓の無い8畳程のワンルームだった。そこはごく普通のビジネスホテルのシングルにそっくりな部屋で、トイレ付きのシャワールームが付属している、が時計は無かった。湯沸かしポットもベットサイドテーブルに置いてあり、インスタントコーヒーが用意されていたが、彼はまた何か変なものを飲まされては適わない、と飲まなかった。彼は、この二日間と同じく、朝、割と遅い時間に起こさた。用意された白い開襟シャツと軽いグレイのスラックスに着替えると、朝食を宛がわれた。最初はコーヒーの件があったので、口にする事を拒否したが、黒服の一人、例のタムラが「何も入れていません、私が毒味しますから」と神妙な顔で懇願し実際に食べて見せたので、彼はタムラが毒味したものだけを毎食、申し訳程度の量食べる事にしていた。
それが済むと4名の黒服に囲まれて、同じ階、窓の全く無い体育館のような空間に連れて行かれ、一時間ほど監視されながらも歩き回ったり、軽い運動が出来るように放っておかれた。そこには卓球台もバスケットゴールとボールも置いてあったが、彼の趣味ではないのでやらなかった。彼は先程、大胆にもそのボールを後ろ向きの黒服の一人に向けて蹴ったが、黒服はくるりと振り向くと簡単に左手で受け止め、ニヤニヤ笑いながら首を横に振っていた。
体育館の後は、この4m四方の部屋に連れて行かれた。ここに来る時は「申し訳ありませんがセキュリティのため」と丁寧に目隠しをされ、両側から二人の黒服に挟まれて連れて来られた。エレベーターでは「2階、クローズ」と黒服が言い、帰る時は「ビーエフ、クローズ」と言うので、ここが2階で、自分が『軟禁』されている所が地階と解るのだ。
この二日間は、ここに入れられると、特に何があるわけでなく、時間だけが過ぎて行き、高窓の差し込む日の光が変化して行くのを眺めるだけだった。これはあの竹崎が、彼を孤独にして色々と考えさせるために、そして彼らに従順になるように仕組んだもの、とは彼にも良く分かっていた。が、結局の所、彼はこの与えられた何もない時間、様々な事を考えていた。特に、最初にこの部屋で、あの竹崎が言った事を何度も考えて見る羽目になった。
*
あの日、気が付くとこの部屋にいて、今は片付けられているが簡易ベッドの上に毛布一枚を掛けられて横たわっていた。天井には高窓から差し込む夕暮れの淡いオレンジ色の光で複雑な模様が描かれ、ふと気付くと、あのジブが直ぐ隣に寄せた硬く重い椅子にちょこんと座っていて、彼には目覚めた直後のすっきりしない感覚の中、夕暮れの薄暗い部屋の中では本当にフランス人形の様に見えた。
ジブは彼が半身を起こすとにっこりと笑い、黙ったまま椅子から飛び降りると部屋のドアに駆け寄り、暫くにこにこと彼を眺めていたが突然、ドアをさっと開けると、そこにあの竹崎とドアノブに手を掛ける寸前のタムラが居た。
「だからそういう悪戯は心臓に良くないから止めなさい、と何度も言ってるはずだよ?ジブ」
言葉とは裏腹に竹崎はジブの頭を優しく2回撫でると、部屋の中に向かって、
「ライト、オン」
すると蛍光灯が点灯し、彼は眩しさに思わず手を翳した。ジブはクスクス笑いながらテーブルの上に飛び乗ると膝を抱えて座り込み、竹崎はそのテーブルの前、椅子を引き出すと座った。タムラが部屋に入ってドアを閉め、腕を組んで壁に寄り掛かると、竹崎は耳を澄ませなければ聞き取れないほど声を落として話し出した。
「良く眠れたかね、プリンス」
彼が黙っていると、
「貴方には休息が必要だったのでね。悪く思わないでくれたまえ。後ほどもう少しましな部屋に案内するので、暫く私と歓談としゃれ込んで貰うよ。さて、リバースのこと、このジブのことはもう話した。憶えているかね?ハハ、無論忘れはしないはずだが。一方的にこちら主導で話をしてもつまらんだろう?そこで貴方の部屋が用意出来るまでの間、貴方の知りたい事を中心に話そうか、と思っているのだよ。どうかね?」
尚も彼が黙っていると、さきほどから目を瞑っていたジブが、
「何を考えてるんだ、このオヤジは、目的は何だ?・・・えー、と、・・・おい、この子は何を言い出すんだ」
彼は思わずジブを睨んだ。ジブが言った言葉は、正に彼が思っていた、そのもの、だったからだ。
「あのねプリンス。ボクは人の心が読めるんだ。特にその人が目の前に居たり、その人のことがとても良く解っていたりすると、ボクからは何も隠せない。憶えておいてね」
竹崎がケラケラ笑うと、
「さあて、こちらはもう切り札を切ってしまったよ、プリンス。もし、ジブの能力を伏せていたら、こちらの質問によって貴方から幾つも情報を引き出せたし、コントロールも出来たはずだ。しかし、こちらにはその気は無い。ジブは、ついさっき私に、プリンスの心を読んで見るか?とテレパシーで聞いて来た。そこで私は、読んで見せてプリンスに聞かせなさい、と答えた。これが公平というものではないかな? どうかね?」