第5章〜リバースの世界
グレイのサマースーツは、草むらや山の斜面を滑り降りているうちに、すっかりくたびれ、ズボンは赤土と夏草の染みや枝などで切った鉤裂きだらけとなっている。黒革靴は無理な体勢で急斜面を駆け降りたせいか、爪先が剥がれかけ踵も緩んでしまった。走るには身動きし辛い上着も脱がず、靴もカンガルー皮の安物で履き慣れているとはいえ山を走るには不都合、これで野戦服のプロ相手に良く逃げ切ったものだ、と思う。
間もなく明け方、東の空が白み始め空気は澄んでいて寒いくらいだったので上着はありがたかった。持っていたカバンは最初に逃げた時、あの坂道に置いて来てしまった。なので携帯電話も無くミニマップもない。
彼は街中に居た。暗いうちに出来るだけ人の多いところへ出る、隠れていてもいつかは『敵』が発見する、ならば衆人環視の中へ出て行けば奴等も無茶は出来ないはず、更に人の間に隠れる、木を隠すなら森、と言うではないか?そんな思考から行動していたのだ。
― この格好をなんとかしなければ・・・
辺りが朝の空気に包まれ霧がうっすらと掛かる中、彼は自分の惨めな格好が人目を引く事が気になり始め、どこかで身繕いをしようと街を彷徨った。
この街は、山の縁からなだらかに下る坂を幾筋も刻みながら広がっているようだ。湿っぽい霧のせいで遠景が霞み、そのためかビルは見えない。元来マンションや高層建築は少ないのだろう、この有様は典型的な郊外の衛星都市に見える。戸建ての住宅にはBSやCS放送用だろう、パラボラアンテナが多く見える。そういえば、TVアンテナが家々の屋根に見当たらない。ここは山際なので受信状態が悪く、衛星放送を受信する家庭が多いのだろう、と彼は一人合点する。あと、電柱も無い。住宅もほとんどがデザイナー物件の様な斬新で新しいものが多い。この静かな佇まいといい、山の中に作られた新興高級住宅街のようだ。送電線や電話線、ブロードバンド、ガス管など全ては地下配線なのだろう。
― 今は何時?
人は未だに見かけない。もう、かなり明るくなって来ている。今日はまだ週半ばの木曜日。祝日でもないので、間もなく通勤の人々が歩き出すのではないだろうか?まだ人に会わないのは運がいい証拠だ。とにかく身繕いする場所を探さなくては・・・
その公園は、彼が山際から2kmは来た、と見当を付けた街の中心部にあった。桜の木だろうか、通りに面して枝振りの良い広葉樹が並木となり、更に腰高の生垣が目隠しとなっている。ここは都合がいい、と彼は思った。トイレを探すと、それらしい建物は彼の居る反対側の並木の前に見えていた。
トイレらしき建物に近付くと、彼は少々戸惑った。入り口に見える男・女の表示、あまり見かけないデザインだったが、青の男子、赤の女子ということは直ぐに分かる。不思議だったのはどちらもドア付だった事だ。しかも、彼が男子用のドアノブを引くとびくともしない。押してもだめだった。誰かが入っているのか、それにしては大き過ぎる構造、とても個室とは思えない。恐る恐るノックをする。暫く待つが返事は無い。
何度かドアノブをガチャガチャとやった後、彼はドアの脇にコイン投入口があることに気付く。表示は「¥50」とある。有料トイレか。彼は舌打ちをしながら、内ポケットからサイフを出し、小銭を探る。おつりは出るのだろうか、と思いつつ百円玉を入れる。チャリン、という音と共に返却される。仕方なく更に小銭を探ると五十円玉が見つかる。投入。チャリン。何度やっても駄目だった。
彼は諦め、水道の蛇口を探す。丁度公園の真ん中に水飲み場らしきものが見えた。ステンレス製なのかピカピカに光る長方形の物体の上に、ちょこんと水出し口が付いている。彼が前に立つと、突然水が出る。センサーか、金が掛かっているな、と思う。水を一口飲むと、彼はとても喉が渇いていたことに突然気が付いた。余りに異常な体験で、喉が渇いていたことすら意識出来ないで居る自分に唖然としながらも、彼は幾度も離れてはまた水を飲む事を繰り返した。
やっと、人心地付いた所で、彼はフェイスタオルに水を含ませ、スーツやズボンの汚れに出来るだけの事をした。そして、気が済むと、思い出したかのように、辺りをゆっくりと見回した。
この公園には遊具が無い。ただ、ぽっかりと空間だけがある。都市型の公園では見慣れたブランコ、滑り台、ジャングルジムや鉄棒、それどころか砂場すらない。そういえば、生垣の切れ目が入り口なのだろうが、看板すら見当たらなかった。
ここが何処によって造られたか知らないが、余程予算に限度があったのだろうか?それにしては有料トイレといいこの水飲み場といい、金が掛かっている。殺風景で奇妙な公園だ。
― さて、どうする。
何処に行けばよいのか。警察に駆け込むか。役所に行くか。最初に通り掛った人間に助けを求めるか。それともその辺の民家のドアホンを鳴らすか。どれもが危険な気がする。
あのような軍事組織が行政の指導なくして成り立つわけが無い。いくら極秘で特殊な組織だとしても、結局はかなり『上』まで繋がっている、と考える方が無難だ。とすれば、逆に『エンジェル』が非合法組織、テロリストのようなものに違いない。その非合法な方が、どう見ても彼の『味方』に思える。あのラミエルは不気味な『軍隊』から彼を無事に脱出させたのだ。しかしいくら呼びかけても、もうラミエルは答えない。何故か理由は分からないが、向こうは向こうで大変なのだろう。
たなびく霧の向こうにうっすらとベンチが見えている。これだけ広いのに、座るところは、あのベンチだけのようだ。とにかく落ち着いて考えようと、彼はベンチへ向かった。
そのベンチは、立ち木の下に3人ほど腰掛けることが出来る錬鉄の肘掛と木で出来た小さなものだった。腰を下ろすと、長時間無理を強いた身体が悲鳴を上げているのが良く分かる。彼は両足を摩り、首を回して緊張を解した。霧のせいか、音がしない。もう、いい時間のはずなのに車の音もしない。公園には時計も無かった。
― とにかく、いつまでもここに居るわけにはいかない、奴らが探している筈。
そして立ち上がろうとしたその時、彼は硬直した。密度を増し、ついに視界が10m程にまでなった霧の向こう、公園の中央に人影があった。彼は迷う。逃げるか、隠れるか。すると人影がこちらに歩き始めた。まるで彼が気付くまで待っていたかのように。彼は身動きが取れないでいた。
この公園には周りの立ち木やトイレ以外、隠れる所がない。何も無い空間に一人、早朝、他に人も居ない。目立つ。動いても動かなくても目立ち過ぎる。逃げる事も立ち向かう事も出来ない彼は、策の無いまま、霧の中からゆっくりと近付く人影を見つめた。
その人物は何かを前に抱えていた。近付くに連れてその姿が、五十歳を幾らか過ぎた中年女性として現れる。俯き、ゆっくりとした足取り、抱えたものを微かに揺らしている。その手に抱えたものは、キルティングの着包みからちいさな手が覗く赤ん坊だった。淡い青のキルティングから、男の子だろう、1歳半位か、と思えるほど近付いた。
しかし、女はこちらを見ようとはせず、ゆっくりと歩きながら赤ん坊をあやしている様子だ。その顔は、はっとするほど悲観に暮れた表情だった。余りに悲しげな様子に、彼は警戒を解いた。五十過ぎに見えるので、自分の子にしてはかなりな高齢出産になる。だから、若いおばあさん、なのだろう。しかし、何がそんなに悲しいのか。赤ん坊は艶々した赤い頬に握られた血色の良い拳、良く寝ている様子で、どう見ても健康そうだ。女は彼の前まで来ると、初めてこちらを窺うようにする。座りたいのか、と気付いた彼は、
「どうぞ」
と声を掛けた。女は無言で頷き、ベンチの端に腰を下ろした。
― 行かなくては。
そう思うのだが、慌てて去る素振りが不審を招くのを恐れて暫くじっとしている事にする。さりげない様子を装いながらも、彼は何かしなくては、という気持ちで揺れていた。
朝、公園のベンチで若い男性サラリーマンがしそうな行動は?煙草を吸う、朝食代わりに缶コーヒーやパンを食べる、新聞やコミック・週刊誌を読む、どれも無理だ。腕組みして寝る、多分これしかない。そこで彼は大げさに欠伸をして見せて、ベンチの背凭れに凭れて見せる。
その時、見るとは無しに女の様子を伺うと、なんと女は泣いていた。
微かに肩が震えている。鼻を啜る音が規則的に起きる。静かに赤ん坊を見つめる目からは涙が毀れる。すると赤ん坊が身動ぎし、被っていたフードが肩へとずれた。彼は不思議なものを見た。
蒼い髪。赤ん坊は、自然では有り得ないような深い青色の髪の毛をしていたのだ。
若者が粋がって染めるのなら分かる。栗色程度なら赤ん坊でもやってしまう親も居るかも知れない。何かの流行だろうか?全くファッションやメイクに興味の無い彼は、知らない所でこんな流行があるのかも知れない、と思った。
それにしてもこの赤ん坊の髪は、どうだ。深い淵の水の色のような神秘的なくすんだ青。女は震える手でその蒼い髪の毛を撫でる。そして手を止め、蒼の柔らかそうな一房を指に絡めては解く、そんなことをしていた。彼は思わず見とれていた。その蒼い髪のせいでもあり、女の、赤ん坊への接し方のせいでもあった。その時は何故なのか彼には分からなかったが、その髪の毛の撫で方が、まるで膝枕をさせている恋人の髪の毛を弄くる、そんな仕草に見えたのだ。
「何か」
彼は我に返った。女は彼が見つめている事に軽い苛立ちを覚えたのか、彼を睨んだ。
「すみません、立ち入ってしまって、その、どうされたのか、と思って・・・」
しどろもどろになりながらも、何とか取り繕おうと彼は話した。
「ああ、ごめんなさい、この人のことを考えてしまって・・・」
この人?一瞬誰の事か、と思ったが、ここには他に赤ん坊しか居ないのだ。それにしても、この人、と言う言い方。
「あの、お孫さんですか?」
すると女は異様とも思える反応をした。
「なに?」
その一声には嫌悪と怒りが見事に込められていた。その信じられない反応に、彼は更に墓穴を掘った。
「あ、すみません、お子さんでしたか」
「子供のわけが無いでしょう!この髪が見えない?」
女は吐き捨てるように言い、彼はその剣幕に驚いたまま、ごくりと唾を飲み込んだ。女は立ち上がり、赤ん坊を大事そうに抱えると、
「こんな所に時までもいると、通報するわよ。早くどこかへ行きなさいよ、あなた、そのナリは逃げて来たんでしょう?『ディー・エフ』から」
そして歩き出したがふと立ち止まり、ゆっくりと振り返った。
「あなた、ディー・エフ、って分かっている?」
「え、・・・」
「じゃあ、この人の髪の意味は?」
「・・・・・・」
女は彼の驚愕したまま、訳の分からない反応が貼りついたままの彼の顔を暫く睨んでいたが、やがてその表情が疑問を抱える者のそれへと変化した。
「この人はリバーサーよ。ゲンサイとも呼ぶわ」
しかし、彼は女が何を言っているのかは全く分からない。その『リバーサー』やら『ゲンサイ』という単語を声も無く呟いてみるだけだった。
― 何だ・・・リバーサーって。
そして女は遂に不審な表情となる。
「あなた、一体、誰?何処から来たの?」
その瞬間、彼の緊張が途切れた。一気に疲れが襲い、投げ遣りな気持ちが膨らんで行く。朝の公園、人は他に見かけない、中年の女性と赤ん坊だけ。逃げようと思えば逃げられる可能性は、ある。しかし、彼はもう充分に、異様な状況下に置かれ続け、飽いてしまっていた。もう、どうでもいい、疲れ果ててしまった。ゆっくりとベンチから立ち上がると、身構える女と正対した。
「僕は、後藤、といいます。そして、多分、ここの人間ではありません」
女が表情を変えないので、慌てて続けた。
「あ、信じて貰えないだろうけれど、突然襲われて、拉致されて、その、黒尽くめの男達にですね、そして、目隠しされてこの上の山まで連れて来られた。ここがどこかは分かりませんけど、東京からそんなに離れてませんよね?いや、その、リバーサー?とかディー・エフ、とかは全く分からないけど。ここは日本、でいいんですよね?何と言う街、ですか?僕は何か間違った事をしてしまったのでしょうか?どうすれば、」
「ちょっと待って!」
女は彼を押し留めると、
「少し落ち着いた方がいい。そこに座りなさい」
彼は大人しく女の言いなりとなり、ベンチに腰を下ろした。疲労で頭がぼうっとなっていた。緊張が切れてしまったので、様々な身体の痛みが戻って来ていた。女はそんな彼の様子を見つめていたが、やがて赤ん坊をそっとベンチの端に置くと、信じられないような事を言った。
「ゴトウさん?と言ったわね。あなたの方も信じられないかも知れないけれど、私はあなたがどんな目に遭ってきたのか、分かるような気がするわ。少しの間、私を信用してくれる?ちょっと待っていて」
そして女は赤ん坊に近付くと、なにか囁いた。男の赤ん坊は目を覚まし、ゆっくりと顔を横に向け、彼の方を見た。彼はその顔に、更に驚く事になる。
その顔は険しいもので、目は彼を射抜くように見ている。すると赤ん坊が喋った。
「せんせいに・・・しらせたほうがいいね、アキコ」
「分かったわ。これって、あれだと思って?」
「まちがいない、とおもう。さ、せんせいに」
「うん」
彼は、女と赤ん坊の会話を信じられない思いで聞いていた。赤ん坊は言葉こそたどたどしいが、思慮深い男の姿がダブるほど、その言葉に赤ん坊らしさはない。
女はそんな彼にはお構いなく、ウエストポーチから携帯電話を取り出し、その携帯に何か呟くと耳に当てた。ああ、警察にでも掛けたのか、その『せんせい』のところか。しかし、彼は全く逃げることを放棄したせいか焦ることも無く、落ち着きを取り戻し始めていた。女は一分ほど何かを話していたが、やがて携帯電話を切ると彼に向かってこう言った。
「付いていらっしゃい。あなたに必要な人に会わせて上げるわ」
*
女は赤ん坊と共に、公園の直ぐ脇の道路に止めてあったライトバンに乗り込むと、無言で後ろを指した。彼は自動で開いたスライドドアから乗り込み、座席に浅く腰を掛ける。車はそんなにおかしなところは無い。ごく普通の運転席に女が乗ると、助手席にあるチャイルドシートに赤ん坊を座らせる。
女は、カーナビと思われたダッシュボードの機械に何か呟く。するとエンジンが掛かり、なんと勝手に車が動き出す。ウインカーもハンドルも自動で、女はただ前を見ているだけだ。
― 日本にも今、この位の技術はある筈だが、普及している訳ではない。するとやはり、ここは別世界?
10年は先の日本を見ているかの様だった。霧が晴れ始めた街は、いきなり活気に溢れ始めた。通勤客が道路を歩き車が行き交う。まるで先程までが夢の様だ。その姿は彼が普段見慣れている街とほとんど変わるところは無い。だが、細かい点が微妙に異なっている。人々の姿、街の雰囲気、行き交う車。公園も違っていた。ここは未来の日本なのか?
混乱した彼を尻目に、ライトバンは何もせずとも信号では止まり、前方の車が徐行すれば徐行した。
そして二十分は走った、と思われた時。有刺鉄線に囲まれたかなり大きな敷地に、4、5階建てで長方形の長辺が150mはあるだろうか、同じ様な白い建物が幾棟も続く工場か研究所の様な場所が現れた。
暫く右手に建物を見て進むと、トラス構造のアーチを掛けた大きな入り口が見えてくる。アーチには 『GUARD Of REVERSE,CENTRAL』 とある。ライトバンは正面入り口の遮断機前に停まると、警備員が詰所からクリップボードを持って近寄って来る。
「タケサキ教授と9時の約束です。ミツハシといいます」
女が歯切れ良く言い、いつの間にか取り出したプラスティックのカードを差し出すと、警備員はカードとクリップボードに目を走らせ、そのボードに付いているカードリーダーにカードを通す。その結果に満足した警備員はカードを女に返すと共に3枚、ボールチェーンの付いたIDカードを渡した。
「ミツハシアキコさん。教授はセクター5、F棟3階の301号で9時にお会いします。この先直ぐ左折してください。500mほど進みますと訪問者用駐車場がありますので、5のブロックの空いている所に停めてお待ち下さい。F棟へは案内が付きます。場内はマニュアルで願いますよ」
「分かりました、ありがとう」
女は愛想良く手を振ると警備員が遮断機を上げ、女は『カーナビ』に何事か囁き今度はハンドルを握りブレーキを外して自分で運転した。
駐車場にライトバンを停め女は赤ん坊を抱えて降りる。無言で彼を促すと彼も車を降りる。かなり広い駐車場で、1000台は軽く駐車出来るだろう。しかし午前の早い時間のせいだろうか、ほとんど車が停まっていない。彼が物珍しげに見廻していると、
「これを首から下げて」
女から例のIDカードを渡された。『VISITOR』と銀の地に赤で大きくステンシルされている。
「構内に居る時は、決して外しては駄目よ、たとえシャワーを浴びたとしても」
女が大真面目に言ったので、シャワーは浴びる事が出来るのだろうか、と思った。身体は、あれだけ運動したのだ、そろそろ臭いが気になっている。それにどこかで着る物を調達しなくてはならない。
それはそうと女は赤ん坊の首にもIDカードを下げたので、その硬い規則のイメージが彼を少々不安にさせた。ここは国の施設か何かではないのだろうか?
男が一人彼らに近付いてきた。彼が思わず一歩引いたのは、その男がブラックタイで黒服だったためだ。しかし男はそんな彼に構わず、にこやかに、
「ミツハシさん、お久しぶりですね、お元気でしたか?」
「タムラさん、こんにちは。おかげさまで」
すると赤ん坊も話し出した。
「すみません、おてまをかけて。アキコがはなしたとおもいますが、かれがそうです」
「分かりました。ご存知でしょうけれど、規則ですので説明致します。構内は禁煙、ビジターは制限区域には立ち入れません。制限区域は赤い線で仕切り線が廊下、壁、ドアなどに示されています。訪問目的が終了しましたら、速やかに担当である私にお伝えください。訪問目的が6時間経っても終了しない場合、再度登録が必要となりますので、この場合も申し出てください。まあミツハシさんの場合はこの位にしておきますよ」
男は愛想よく微笑むと、こちらへ、と先に発った。
駐車場沿いに構内を歩くと、ここは正しく研究所のような雰囲気が漂っている。機械音はしないので何かを造っているのでは無いだろうが、かつて彼が見学した事があるバイオ工学や食品工学の研究所も、正しくこんな様子だった。構内道路にはゴミ一つ落ちていない。
これだけ大きな施設だが、今は人が少ない時間なのか、それとも就業中のせいか人通りは少ない。途中で白衣を着た2名の男とすれ違っただけだ。建物沿いにはきちんと手入れの成された芝や花壇が続き、白く同じ構造の建物が続く殺風景な風景に人間らしさを与えている。
男は他の建物と寸分違わないある建物に彼らを案内する。それにしても、この『世界』では説明する、ということが極端に欠如している様に思える。この建物にもなんの表示も無い。あの公園といい、街や道路、記号の様な標識は見かけるものの文字で記された案内表示や住居表示、看板は極端に少ない。
彼等は『F棟』と思われる建物をエレベーターで3階へ昇る。エレベーターも、階数ボタンがあるべき場所には『△・▽・O・C』の4つのボタンと、緊急用なのか赤い大きな『S』ボタンしかない。
ここでも男が小声で『3階、クローズ』と言うと、扉が閉まり昇りだした。複数階に停まりたい場合はどうするのだろう、ああそうか、クローズと言わない限り閉まらないのか、と彼は場違いな事に思いを巡らせていた。
3階も1階の廊下とほとんど変わりは無く、黒や緑、黄色の矢印が壁に呪文のように描かれている。男はエレベーターを出ると左手に向かい、建物を一番端まで歩いた。すると、ここだけは他の代わり映えのしないスチールドアと違い、他のドアには付いている認証装置と思われるボックスも見当たらない、木目が綺麗な木製のドアがあった。男はちらっと腕時計を見ると一呼吸置いて、ゆっくり2回、ドアをノックする。
「どうぞ」
はっきりとした男の声が中からすると、黒服の男はドアを開け、女を促した。女は彼の方をちらっ、と振り返ると部屋の中に入った。
部屋は縦長の会議室と思われた。ドアは長辺に付いていて反対側には窓が並んでいるが、今はクリーム色の遮光カーテンが引かれている。蛍光灯が何列も並び、彼には眩しいくらいに思える。テーブルは折り畳みの簡易な物が何列か並び、軽そうなパイプ椅子がテーブルに3脚見当で並んでいる。ドアから遠い短辺に教壇の様な物があり、その横に場違いなマホガニーと思われる、重そうで古風な机と背凭れの真っ直ぐな椅子がある。その横に、にこやかに笑顔の初老の男が立っていた。
黒服の男は静かにドアを閉めると、部屋の一番奥にあるテーブルに行き、その前の椅子を横に引き出して座る。初老の男は満面の笑みを湛えたまま、彼らの方に急いで来ると、腰に両手を当てるという芝居がかった仕草で、まじまじと彼を見つめた。
「ほう、これはこれは」
そして、何かの感に堪えない、といった表情に変わると、彼の周りを一周して見せた。
「先生、突然のお電話で失礼しました。多分、あの事か、と思ったもので」
すると初老の男は、しまった、という顔になり、
「いやあ、すまんすまん、これは失礼したね、こちらにお掛けなさい」
そして、例のマホガニーの机の前へ彼らを案内すると、
「タムラ君、悪いが何か飲み物を。みなさん、コーヒーでよろしいですな、ああ、サトシ君はだめだな、オレンジジュースでよろしいか?そう?アキコさん、ずっとサトシ君を抱っこしていたのでは大変だ、これをお使いなさい、ではタムラ君頼むよ」
タムラが壁際に掛かっている内線電話に何か話し出す。アキコは、初老の男が部屋の隅にあった折り畳み式のベビーカーを持ってくると、それをテーブルの横に置きサトシを座らせる。初老の男はマホガニーの机の前に立ち、座った彼を改めてしげしげと眺めていた。
初老の男はこげ茶色のツイードのジャケットに金縁眼鏡、ジャケットとは少しちぐはぐなグレイのズボン、艶々と血色の良い顔と手、白いものが混じった強いカール癖のある黒い髪、そんな形にはそぐわないかのような身長180cm程のがっしりした体格と印象的な男だった。
「後藤君。君は、今、この状況が見えていない、そういうことだね?」
初老の男は、タムラが元の位置に戻って腰を降ろすと、突然彼に声を掛けた。彼は、何とも答えようが無く、只、男を軽く睨むようにしていた。
「まあ、答えなど求めてはおらんよ。楽にしたまえ。君はこれから嫌と言う位、私と付き合わねばならんのだからね。自己紹介と行こうか、私はタケサキ、という。植物の竹、に、山に奇妙の奇。本職は大学教授ということになっとるが、最近は教鞭を取る事は少なくなったな。ここで、ある研究をしている。まあ研究と言っても、学究の徒としてはいささか方向が定まっていない、とのご批判を受けるクチでね、ある人物など、私のことをマッドサイエンティストと呼びおった。まあ、気にしてはおらんよ。なにせ事実に近いものだからね」
竹崎はケラケラと笑うと、その笑みを絶やさない顔をサトシの方に向ける。
「君は、そこにいるサトシ君を、どう見るかね?君が今、徹底的に情報不足で混乱の極みにあることは、私も充分理解している上で、あえて、この点だけを先に君に教えて見たいのはだね、この我々の生きている世界を説明するのにそのサトシ君が一番ふさわしいからだよ。いいかい?彼が普通の赤ちゃんでないことは、君にも、もう分かっている頃だ。彼はきちんと世間の常識を持った立派な大人だということも薄々感じていることだろう、え?そういうことだ、彼は立派な大人だよ。サトシ君、君は今年で幾つかね?」
するとサトシは答える。
「りばーすしてから、さんじゅうにねんになりました。ですから、ろくじゅうにになります」
「六十二。ふむ、私より三歳年下なだけだ。どう思うかね、後藤君」
彼は、衝撃で呼吸が荒くなった。目の前の赤ん坊が六十年以上も生きている。表面が変わらず中身だけが成長する、そんな病気なのか?
「・・・よく、分からないのですが」
彼は掠れた声でそう答えるのが精一杯だった。竹崎は声を上げて笑うと、
「後藤君。この現象のことを我々は『リバース』と呼んでおる。英語表記ではアール・イー・ブイ・イー・アール・エス・イー。つまりは、巻き戻し、とか、再生とかだな。この日本でも現代ではリバースと呼ぶのが一般的になっておる。昔はゲンサイ、つまり幻のとし、歳だな、と呼んでいた。今も中年以上の人間はそう呼ぶことが多いがね。リバースした人間の事を『リバーサー』と呼ぶが、これは和製英語、と言うやつだな。英語では正式にはリプロダクションメン、いや、今ではリプロダクションピープル、という。アメリカのスラングで、ブルーヘアー、と言うが、これは日本でも一時流行した言い方だな。まあ、そんなことはどうでもいい。要はリバースとは、ある日突然、昏睡状態で倒れた者が次に目覚めた時、以前の髪の色には関わらず髪の毛が青く変色し、そして年を経るごとに若返って行く、という現象だ。洋の東西を問わず、この現象は起きる。日本では約九千人に一人の割合でこの現象が起きている。世界的に見ても、地域差はあるが、この位の割合でリバースが起きる。しかし、昔はこんなに高い確率で起きた現象ではなかった。特異現象で、リバースが起きたら大変な騒ぎになったそうだ。近年、増え続けているのだよ」
一旦話を切ると、伺うように竹崎は彼を見た。他の三人は黙っている。彼は思った事を口に出してみた。
「その、リバースは病気ではないのですね?」
「そうだ、病気ではないね。生物学的現象だが、他の動物はおろか何故か類人猿でもヒトでしか確認されていない。遺伝子構造的に見てもチンパンジー辺りに起きてもおかしくは無いのだが、まあ、その辺の解明が私の仕事の範囲、ということだね」
「では、その、カレは、どうなるのですか?」
本人を前にして聞くべきではない、とは思ったが、思わず聞いていた。
「ふむ。どうなる、とは、このままいくと、ということと解釈して答えるなら、人間の最後と言うものは表層の老若に関係なく訪れるものだ、としておくよ。具体的には、本人を前にそれを語るのは憚れるが」
「いやせんせい、はなしてやってください。かれには、しっておいてもらいたい」
サトシが口を挟む。アキコがその小さな手を握り締めている。そしてサトシは彼の方に目をやると、なんと微笑んだのだった。
「ふむ、他ならぬ本人が言うのだから、話そう。つまりは、老衰と同じ事が起きる。リバーサーと言うものは、年齢が逆行する以外は普通の人間と身体の構成などは全く同じだ。病気で死ぬ事もある。逆に癌などに罹患すれば細胞が若年に向かって活性化される分進行が早く、人工臓器へ移植しても他の臓器に転移したりで、生存率は通常の人間よりかなり低い。天寿という言葉があるが、通常の人間にとって老衰というものは、心臓の寿命で心不全となったり、食物摂取の際に肺に異物を入れてしまい肺炎を起こしてしまう、と言った現象の総称、と考えてもよいと思うが、リバースの場合は、幼稚化が進み脳組織が未熟、というのもおかしな話だが、未発達状態に陥り、意識が混濁、通常は昏睡に陥る。やがては細胞が急速に減少して身体維持活動が困難となり、心肺が停止する。私は何人ものリバーサーの自然死に立ち会ったが、こちらの方が本物の『老衰』と思えるのだがね。それは、人間の尊厳や生命というものを改めて考えさせるものだ。無礼を承知で言うならば、それはとても美しい。考えてもみたまえ。人が老いさらばえ、骨と皮になって朽ち果てるのではなく、幼子に戻って正に母の子宮に還って行くのだよ。リバーサーの自然死とは、そういうものだ」
暫くは、誰もが押し黙っていた。沈黙を破ったのはノックの音で、タムラが立ち上がってドアを開けると、ワゴンに乗せて飲み物が運ばれて来たところだった。
「やあ、ジブ、待ち切れなかったかね?」
竹崎が優しく語り掛けた人物は、ワゴンを押していた女の後ろに張り付くように付いていた。その一度見たら忘れない様相に、彼も目を見張った。
「そうなんですよ、付いて行くだけだから、と聞かなくて」
女が笑いながら、その人物をワゴンの横に押し出す。彼女?ははにかんだように、ワゴンの後ろに隠れるように身を屈めた。
「大丈夫だ、怒りはしないよジブ。こっちにおいで、ほら、アキコさんやサトシ君も来ている。憶えているだろう、私の講義を熱心に聴いてくれた」
「・・・うん、憶えているよ、皆、優しくしてくれたもの」
その声は甲高く、それでいて力もあり、丁度変声期を迎える直前の男の子の声そのものだった。ワゴンを運んだ女は一礼して部屋を出る。タムラがワゴンを押して教壇に近付くと、その横をものすごい勢いで彼女?は駆け抜け、竹崎の後ろに隠れるようにした。
「紹介するよ、後藤君。彼女は普通ジブ、と呼ばれている。本名は、まあ、秘密だがね。ジブというのは愛称だ。ジブリールから来ている。分かるかね?イスラム教の天使。本当はキリスト教風にガブリエルという通り名が付いている。そう呼ぶ人間は少ないがね」
ガブリエル!大天使!
「ではエンジェルですか?」
するとジブが急にゲラゲラと笑い出した。それこそ涙が出るほど笑い転げている。
「これこれ、はしたないよ、ジブ。まあ天使の名を持つ者としては、これ以上似つかわしい者は居ないと私は思っているが、本人はそうは思わんらしい」
ジブは不思議な様相をしている。身長は120cmほど、髪の毛は微かにグレイ懸かった白色、肌の色も透き通るような白だ。目の色もほとんど白に近い灰色、そう、アルビノ、というものだろう。それでいて、子供には違いないが、何故か先程から感じる力強さが見え隠れする。そう、天使の名を持つ者がここに居る。
「さあ、皆さん、冷めないうちに」
竹崎がタムラの配ったカップソーサーに載せたコーヒーカップに口を付けて満足げに一口飲むと、皆にも勧めた。サトシも哺乳瓶に入れられたオレンジジュースを抱えて飲むのを見た彼は、コーヒーを一口、二口と飲んだ。
「どうだね、後藤君。ここにエンジェルが一人居る。君はエンジェル、と言った。と言うことは、もう接触はしていた訳だ。ラミエルかね?そうだろうな、まずはそういうことだ」
竹崎は何か一人で合点すると続ける。
「ジブは君が来るのを待っていたのだよ。楽しみにしていたのだ」
「僕が来るのを楽しみに?」
「そうだ、エンジェルだけではない、皆、君が来るのを待っておったのだよ。かく言う私もその一人だがね。君はプリンスと呼ばれている。もしかすると、それも君は知っているのかな?」
「・・・ああ、最初は冗談か皮肉で言われているかと思っていました」
「ジョークに聞こえるのももっともだ。君の世界での王子様とは、比喩か本当に高貴なお人と言うことになるからね」
「何なんですか?何故プリンスなどと」
「それはかなり長い話となるな。言っただろう?私とは長い付き合いになるとね。時間はあるよ、ゆっくりと話し合おう。それはそうと・・・」
と、竹崎はカップソーサーをゆっくりとテーブルに載せると、マホガニーの机にある椅子に行き、初めて座ると机に両肘を突いて彼を見下ろした。
「君は、神の存在を感じる事があるかね?後藤君」
「・・・かみ、ですか?あまりはないですね、興味はありますが・・・」
「私は常に感じるね。スピリティアルな面と言うことではなく、この世界に満ち溢れているのだよ、神の印がね。分かるかね?」
「・・・何のことだか・・・僕は、今、何処に居るのかも分からないし・・・で、ここは何処なんですか?どうして僕は・・・こんなことに・・・」
しかし、竹崎は彼の顔を注視するだけで答えない。ただ笑顔で自分の話を続けた。
「ジブを見てみたまえ。アルビノで、実は両性具有だ。自身は男性が勝っているから彼だ、と主張しているが、私には高貴な王女に見える時があるがね。よく見てみたまえ。美、と言うものがゆっくりと滲み出るかのように表れて来るはずだ。ジブはエンジェルだ。通常、人には有り得ない能力を有している。神は公平だ。ジブに能力を与えたもうた。異形の者達にも、通常の生き方以外のものを与えたのだよ。彼らの通常の生き方とは何か分かるかね?後藤君!」
彼は、はっとした。竹崎の声が妙に平板に聞こえ疲れが我慢出来ない程に膨らみ、いつの間にかうたた寝寸前になっていた。
「あ、すみません、ぼうっとして・・・エンジェルの通常の生き方、とか、ですか?」
しかし、竹崎は微笑むだけで、彼の間違いも正さず答えも求めなかった。
「彼ら異形の者達の通常の生き方とは、屈辱と絶望なのだよ。目を背け、係わり合いになることを拒絶する世間との隔絶、そして厄介者として影へと追われる毎日の事だ。分かるかね?それが『能力』のお陰で、胸を張ることが出来るのだ。更にサトシ君の様な存在だ。リバースは神が創りたもうた最高傑作だ。プリンスたる君の存在もそうだ。そして君をプリンスたる存在にした『リヴァイアサン』こそ神が示した大いなる奇蹟と」
「教授」
タムラが竹崎の長広舌を止めた。竹崎が口を噤み彼を見る。彼はテーブルに突っ伏し、眠っていた。
「・・・なんだ、これから面白いところなのにな」
竹崎が苦笑いをすると、ジブがクスクス笑いながら、
「あれ?時間はたっぷりあるんでしょ?プリンスとお遊びする時間は」
「そうだな、たっぷりあるよ、ジブ」
そしてサトシとアキコを見ると、
「二人ともありがとう。手遅れにならないうちにプリンスを回収出来た。君達の協力が無かったら、犠牲が増えていた事だろう、いや、本当にありがとう」
「いいえ、お役に立てて光栄です、先生」
竹崎は椅子から立ち上がるとアキコと握手し、サトシの小さな手に触れた。
「では、これで失礼します、先生」
「また遊びに来てくれたまえ、今度はもっと楽しい話をしよう」
「ええ、先生」
アキコは立ち上がり、サトシを横抱きにすると去りかけたが、ふと立ち止まると、コーヒーに仕込まれた催眠剤の影響でぐっすりと眠る彼に向かって、
「プリンス、ごめんなさい、でも貴方のためですよ。お幸せに」
小声で囁くように言うと、タムラに続いて足早に部屋を出て行った。