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第3章〜拉致

 彼はお決まりの車窓観察を続け、ひと時も視線を泳がせない。車窓は地下鉄から西へ、郊外へ向かう私鉄へのそれへと変わっていた。2年前、社会人となってからの彼の行動パターンは生活の全てが決り切っていて、たとえば通勤電車でのポジションは必ず中間車両の進行方向側ドア、手摺に凭れて外を見たまま車内には目を向けない。

 このようになったのは以前、車内で彼女と年格好が同じ女性の後姿や横顔に幾度も彼女の姿がダブり、見間違えることが続いたからだ。さっと希望が掠めては立ち去って行く、そんな事が連続すると彼は全ての人間の姿を追うのを止めた。諦め切れない自分との戦いに疲れ切ってしまったのだ。

 とは言うものの、彼女は彼にとって、短い間とはいえ希望の全てだったのだ。故に理想化されて彼の一部となり、彼はその素晴らしい想い出に寄り掛かって生きて来た、と言っても差し支えがなかった。それは感性の鋭い人間や、思春期の微妙な時期に最愛の人を亡くした者によく表れる現象、と言ってもよかった。


 間もなく彼の降りる駅となる。彼は6年前と全く同じアパート、同じ部屋に今も住み続けていた。自分から動いてしまうと、もう二度と彼女と会えない、そんな気がしていたからだ。黙って、何の前兆もなく消えた彼女に、しかも全てが不可解な謎のままで放って置いて行かれた、裏切られた、そんな激情も感じてはいたのだが、結局は優しく温かな彼女の想い出が勝っていて、彼は彼女を恨むことが出来ないのだ。


 電車は2年前に新装された駅に滑り込む。ホームへ降り立つと、彼は暫くその場から動かない。 橋上駅舎へと登る階段が、帰宅者の波で覆われるからだ。ホームに人が疎らになってから、やっと彼は動き出す。そのまま駅を出ると、彼はゆっくりと商店街とは反対の方向へ歩いて行く。それは、彼のアパートからも反対の方向だ。


 街の光景は、この6年で多少変わって来ていた。駅前の古い住宅が潰され、マンションとなり、虫食い状態で放置されていた空き地は、コインパーキングとなり、またコンビニになっていた。

 それでも変わらないのは、商店街を見下ろす位置にある坂の上の古い屋敷が続く一角と、それに続く寺院と墓地だった。まるでそこだけ置き忘れたかのように、何十年も前から一切が変わっていない地区だ。

 この静かな地区の小路は彼のお気に入りで、アパートからは随分と寄り道となるのだが、わざわざ遠回りしながら帰り道にゆっくりと探索するのが日課になっていた。蒸し暑かった一日も暮れ始め、ピンク色だった空も深い紫へと化粧を変えて行く。 

 そんな中、額の汗をフェイスタオルで拭いながら彼は屋敷街を抜けて行った。何処となくあの洋館に雰囲気が似ている屋敷があり、彼はその家の前まで来ると歩みを止め、蔦の絡まるベランダを、その奥にある左右対称のフランス窓を見上げるのだった。


 やがて閑静な屋敷街でも一番大きな屋敷と、反対側の寺院とに挟まれた細い路地に入って行く。緩やかな下り坂になっているそこは、降り切ると駅へと戻る通りに面しており、彼の散策コースの終点だった。何時でも感情を露にせず、何一つ考えず歩いて来た彼は、その時も何かを考えていた訳ではない。 

 ところがその黄昏時、この場所に踏み込んだ途端、何か不思議な感覚が彼の意識に忍び込んで来た。突如心拍数が上がって行く感じで、湿気にじっとりと重い空気が俄かに息苦しくなって行く。身体の変調か、と身構えたが、特に何所かが痛む訳でもない。

 と、何かの危機に際してアドレナリンが急速に放出されて行く時に起こる、腰の辺りが重くなりトクットクッと鈍い痺れが広がって行くあの感覚が訪れる。どうしてなのか、その意味が彼には分からず坂の半ば辺りで立ち止まる。

 片側は屋敷の高い塀が延々と続き、逆側は寺院の敷地で、簡単な網目状のフェンスが肩の高さで塀の長さ分続いている。緑色のフェンスの中は、夏草が鬱蒼と茂る空き地が、墓地の塀に遮られるまでおよそ20mの幅で続いて行く。

― 誰かが、いる

 彼の向かう先、50mほど離れた所に二人の人影があった。それだけなら何と言う事もないのだが、その二人も佇んで、何故か背中を見せていた。特に何の特徴もない、年の頃は20代の男二人だった。急速に暮れ掛けている中での黒いスーツ姿なので、姿形がはっきりとしない。寺の脇道に黒服が居てもおかしくは無い。しかしどうも嫌な感じがした。


 彼は踵を返す。再び屋敷街の方に歩き出すが、彼は静かに立ち止まった。そこにも二人いた。50mほど先、年恰好、姿形、全てが瓜二つ。あちらを向いている。汗が噴出す。完全に挟まれていた。

― とにかく、人の多い方だ

 彼は屋敷側の二人の方を選び、意識して歩調を変えず歩き出した。すると向こうから男が一人歩いて来た。一瞬、ほっとしたが、直ぐに緊張する羽目になる。男は佇む男二人に真っ直ぐに向かい、二人の男はその男が近付くとさっと道を空ける。二人の間を頓着なく男達の存在を全く意識せずに抜けて来る様子に、彼は思わず歩みを止めた。魅せられたように彼は近付く男を見つめた。蛇に睨まれたカエルのようになった、と言ってもよい。


「後藤篤志さんですね」

 男はブラックタイのフォーマルスーツ姿で、1m90cmはある身長、日に焼けた四角い顔、張り出した顎、逃げる事も思いつかない大きな手、とあくまで厳つい30代の男だったが、声だけは妙に温かみのある繊細な印象を与えるものだった。

「・・・ですが、何でしょう?」

「突然、びっくりさせてすみません。シマダアイさんを憶えていますよ、ね?」

 息が苦しい。彼はポーカーフェイスを心掛けようとしていたが、自分の名前はおろか彼女の名前まで出されて、一気に緊張した。

「お答えがないようですが、まあ、憶えている、としましょう。一緒に来て頂けますか?」

「何処へ行くんですか?あなたたちは警察か何かですか?」

 考えろ、と彼は思う。どうにか時間を稼いで・・・

「失礼は重々承知しております。とにかく来て頂ければ、訳は追々」

「突然現れて名も名乗らず、失踪した彼女を覚えているか、と聞いたかと思えば、訳も聞かずに一緒に来い、ですか?」

「それは、まあ、そうですな。では、ひとつだけ。一緒に来て頂けたら、彼女に会えますよ」

「・・・それが本当だと信じろ、と」

「なるほど、王子様は猜疑心に凝り固まってらっしゃる、か。まあ、無理もないな」

 男は笑った。彼は逆に鳥肌が立った。男の笑いは凍りつくような冷笑だった。

「後藤さんは、解っていますよね、もう抵抗しても無駄だと。あなたは頭が良いと聞いている。これ以上の時間稼ぎは止めませんか?ここには誰も来ませんよ」

 左手で後ろの二人と先の二人を示す。確かにどんな状況にも対処出来そうな男達だ。

「・・・・・・・・」

「時間切れですな。申し訳ないが、あなたの都合にばかり合せてもいられませんので」

 言うが早いか、男は流れるような滑らかな動きで彼の右手首を握ると、自分の方へ引き付け、彼を裏返すと右手を後ろ手に引き絞った。あっという間に、彼は囚われの身になっていた。

「あまり手荒な事はしたくない。落ち着いて下さい。騒がずに一緒に来て頂けますね?」

 大男が耳元で囁く。抵抗が無駄なのは分っていた、が、そのまま大人しく指示に従うのも危険な気がしたので彼は動けない。突然、腕をねじ上げられる。痛みに息が止まり、思わず声が漏れる。

「もう一度言います。一緒に来てくれますよね」

「分かった、行くから」

「そう、大変結構です。では、こちらへ」

 男はそう言うと彼の後ろに回ったまま、軽く彼を坂下の方に押した。

 その時、だった。


 シュッ、という鋭い風切音と同時に、何か鈍い、ドスッ、という音がした。腕を押さえていた男の手がビクッと震え、緩んだ。

 彼が振り返るのと、パンッ、という音と共に男の頭が吹き飛ぶのが同時だった。真紅の鮮血が飛沫を上げて飛び散り、彼を掠めて坂道に血溜りを作る。

 完全にショック状態に陥って血溜りを見つめる彼の方に、道の両側から男たちが駆け寄って来た。その間、僅かに3秒、彼は男が倒れて行くのをスローモーションと無音の世界で眺めていた。

 その時、彼は突き飛ばされた。空き地側のフェンスに背中から思い切り叩き付けられ、尻餅を付く。その彼の目の前に、目出し帽に黒い繋ぎ服姿の大男がいた。一体、どこから現れたのか。彼は思わず掌を男に向けて防御の姿勢を取った。

「おい!死にたいのか?」

 男は彼の襟首を掴んで立たせながら、そう言った。彼は何か返そうとしたが、男は遮り、

「この空き地の向こうへ全力で突っ走れ、振り向くんじゃねーぞ!」

「え?」

「いいから、走れ!」

 道の両側では乱闘が始まっていた。黒服の男達と、黒い繋ぎの男達。

「いけぇ!」

 目出し帽の男の必死さと、その目に、彼は決心した。フェンスを乗り越え、転がるように草むらを走る。後ろから明らかに格闘の音、肉と肉とがぶつかり合う音、ドスッ、という鈍い音、パシッ、という乾いた音が続いた。

 それと共に彼の方へ近付いて来るガサガサと草むらをかき分ける音も聞こえ出した。彼は身を屈めながら夢中で夏草を分け、空き地の突き当たり、墓地の土塀に飛びつき、それを乗り越えようとした。土塀に付いた小屋根に指を掛け、身を引き上げ向こう側へ飛び降りようとしたその時、腰のベルトを掴まれ、ぐぃっと後ろに引っ張られた。 

 両手が宙を泳ぎ、視野が急に空へ向き、続いて後頭部を強かに打つ。鋭い痛みと共に彼の意識は一気に萎えて行った。


 15分後 ―警察が到着した。パトカー二台に警官六人が路地の両側を封鎖、恐る恐る見守る近所の者や、野次馬を制しながら、その内の二人が緊張も露に路地を進んだ時だった。

 突然サーチライトが上空に走り、巨大なヘリが家並みの向こうから二機、浮き上がるように姿を現した。同時に耳を聾するローター音と、狙い定めたサーチライトの真円が空から降ってくる。そのすさまじい音と突風に空き地の夏草がなぎ倒され、警官達は制帽を飛ばされぬよう、手で押さえながら慌てて顎紐を掛けた。

― くそっ、こいつら何者だ?

― これじゃ現場の保全なんて出来ないじゃないか!

 思い思いに悪態を付くと、若い方の警官が、無意識の内に腰のホルスターへ右手を掛ける。

 ヘリにはマーキングその他は全く無く、真っ黒な塗装だった。うち一機が空き地上空十mでホバリングすると、スライド式のドアが開き、暫くするとゆっくりと地表1mほどスレスレまで降下する。

 再び夏草を激しくなびかせながらホバリングすると、ドアから黒装束にフェイスガード、ヘルメット姿の者達が次々と飛び降りる。その滑らかな動きと散開し周辺部に向けた警戒線の張り方に、少々ミリタリーおたくの若い警官が、

「くそっ、こりゃ、テロボウだ」

「なに?」

「あいつ等はサットやシットじゃない、身内じゃないですよ、自衛軍の『テロ特』です」

 ヘリは交代にもう一機が降りると、同じように黒装束を吐き出し、最後に何か大きな梱包を2個振り落とすと、さっと上空に上がって行く。そして先に上がっていたヘリと2機、50m程の高度で互いを追いかけるようなトラック状の旋廻を始めた。

 ヘリに気を取られていた二人の警官に、黒装束の一人が近付き、声を掛ける。

「どうも、ご苦労様です。ここでのチーフはどなたですか?」

 フェイスガードを無造作に取った男に、警官の年上の方が答える。

「私だな」

「それはお疲れ様です。本件は、テロ防止法適用、となりました。あなたに伝言です」

 と、一息入れた後、

「ケース・フラッシュ」

「・・・何ですか、この茶番は」

 黒装束の男は、何か含み笑いをすると、ぐいっと彼の顔の近くまで顔を寄せて、

 「合同訓練でやったでしょう?統一マニュアルにも記載されていますよ。まあ、いいから、『ケース・フラッシュ』、この言葉を貴方の上司に伝えてください。そうすれば貴方にもはっきりと分かりますから」

 警官は暫く、既に色々と作業らしきものを勝手に始めている黒集団を睨んでいたが、

「室田、署に聞け、ケースフラッシュ、とかだ」

 年上よりは事情に明るそうな若い警官は、何か嬉々として坂上に止めてあるパトカーへ走った。年上の警官はちらっ、とそれを見送ると黒装束に向く。

「名乗る気もないのか?それとも、そいつも許されてないか?」

「まあ、許されてない、といって差し支えない。こいつを」

 と取ったフェイスガードを被りなおすと、

「外したのさえ、規則違反だからな。君たちに対する友好の証、とでも考えてくれ」

 警官は肩を竦めた。お役所的な縄張り意識からすれば、彼らはすっかり黒集団に管轄を侵害されている訳だが、それに目くじら立てるほど熱血でもお堅い訳でもない。

「お互いプロの宮仕えって訳か」

「そういうことだ。では」

 黒装束はくだけた敬礼をすると、踵を返した。

 警官が見守る中、黒集団は目的がはっきりと分かっている者達が見せる無駄のない動きで周辺に散って行き、そこかしこに散らばる血痕や何かの破片などを調べ始めていた。

 また、ヘリから降ろした梱包を解いて、中から様々な装備を出しては並べる者たちもいる。警官はその中に、ごく普通の立て看板四枚を見つけた。折しも二人の黒装束が二枚ずつ抱えて、路地のそれぞれの末端へと運んで行く。脇を抜けて行く一人が抱えた立て看を見た彼は、その文面に眉をしかめた。

『この一帯はテロリズム対策および防止に関する特別措置法により封鎖されました。権利の侵害が有る方、ならびに質問の有る方は以下の連絡先に・・・』


 パトカーから室田と呼ばれた若い警官が帰って来た。

「何もせずに直ぐに帰れ、だそうです」

「誰が出た?」

「ミエちゃんに、上に伝えろ、と言ったら、直ぐに署長が出て・・・」

「ふうん、そりゃ、オオゴトだな」

「テロボウですから」

「・・・まあ、いい。帰るぞ、下にも言って来い」

「もう言いました。無線聞いてたそうで」

「そうか。じゃ、いくぞ」

 言葉は落ち着いていたが、警官は不満だらけだった。とくと見たわけではなく、暗がりで判別し難いが、これはテロなんかじゃない、と感じていた。

 大体、テロリストがこんな所で何をすると言うのだ?テロリストと言うのは見栄っ張りに雑踏好きと相場が決まっている、こんな辺鄙な所でコトを起こしても、警戒が厳重になるだけで、リスクを掛けた割の効果は薄い筈だ。どちらかと言えば、こいつは暴力団同士の抗争に似た雰囲気が漂う。だが、ウエの連中が言うからには理由があるのだ。それがどんなにクソッタレな理由であろうと。

 巨大な組織の一員である警官は、正義感だけで行動している訳ではない。そう自分を慰めて、ペイブロウだ、などとヘリを感心しながら見上げている室田の肩をどやしつけて、パトカーに向かう。それでも彼は竜頭蛇尾の失望感と、ひょっとすると無辜の誰かが助けを求めているのかも知れない、という軽い焦燥感を拭い去る事は出来なかった。


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