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第2章(後)〜夢に消えるアイ

 

人物紹介;その1


後藤アツシ…孤独な生活を送る。大学時代、バイト先でアイと出会う。

島田アイ…アツシとバイト先で出会うが、やがて・・・

店 長…二人のバイト先の喫茶店店長。イイ人みたいだ。


 注意!


 この章には抑えた描写ですが性描写があります。15歳以下の方の閲覧は出来るだけ避けて下さい。

 それから3日経った夜だった。すっかり元の体調に戻った彼は、そろそろ暇を持て余していた。BGM代わりに点けっ放しにしているテレビをぼんやり眺めていると、ドアを控えめにノックする者がいる。インターフォンが付いているのに御丁寧な事だ、と思いつつドアチェーン分だけ開けた。

 彼女が立っていた。満月の夜で、寒々とした月光がコートに膝下までのプリーツスカート、ブーツ姿の彼女を縁取っている。しばらく二人とも無言で見つめ合う。その時、彼女が何を考えていたのかは分からない。彼の方は猛烈な勢いで考えを巡らせていた。だが、結局は自分でも何を考えていたのか思い出せないほど動揺していただけだった。 

 何分位見つめ合っていたかは彼にも思い出せなかった。やがて、彼女の方から切り出した。

「こんな夜分にごめんなさい。よろしかったら一緒に来て欲しい所があるの」

「・・・どこへ?」

「今は聞かないで貰えると助かるわ。ただ、一泊すると思うからその用意をして」

「・・・分かった。着替えて来るよ。入って待っていて」

 彼女は玄関に一歩入っても立ったままだった。彼は急いで着替え、下着や洗面用具をタオルに包んでショルダーバッグへ突っ込むと、ひとつ深呼吸をしてから彼女に向かった。

「いいよ。どういう風に行くの?」

「車を待たせているわ」

 そう言うなり、部屋を出て行く。今まで見たことも無いほど大人びて凛とした彼女だった。彼はあわてて鍵を掛け、後を追った。

 アパートから早足で行く彼女を追うと、地元では街道と呼ばれる国道の方へ向かった。夜も交通量の多い街道に黒いハイヤーが待っていた。彼女が先に乗ると、彼も無言で隣に座る。

「行って下さい」

 彼女が運転手に声を掛けると、運転手は制帽の庇に手を掛けて会釈し、後席との間に仕切られたガラスの扉を閉め、車を街道へと出した。タクシーなど滅多な事では使わない彼は珍しげに車内を見渡した。糊の利いた真っ白なカバーを掛けた座席に、車窓脇に留められているレースのカーテン、快適な温度に温められた空気。このハイヤーにはメーターが付いていない。リムジンとまでは行かないが、会社の重役などが使う送迎車だ、と彼は思った。

 彼がちらっと彼女を見ると、彼女は座席に背筋を伸ばして浅く腰掛け、両手は組み合わせて握り締めていた。それは言葉を受け付けない雰囲気であり、何か後戻り出来ない道に踏み込もうとする人が示す態度の様にも思えた。彼は彼女と話すのは諦め、座席に深く座り直すと、車窓に流れる街道の夜景を見つめる事にした。

 ハイヤーはもう2時間程走っていた。月は中天に掛かり、外灯も要らないほど白々とした光を投げ掛けていた。道は山道に入って、深夜のこの時間では対向車も絶えた。高速道路のインターチェンジを降りた地点で、今どの辺を走っているのか彼にも分かったが避暑地として、また温泉の多い高級な別荘地として有名な地区へと入ると、少し意外な感じがして改めて彼女を見た。

 彼女は車に乗った頃から全く変わらない体勢で、真っ直ぐ前を見つめたままだった。目的地が近い事は確かだ、と思ったので今しばらくの辛抱だと考え、彼も車窓を眺める事に専念した。

 やがてハイヤーは別荘地の林間へと入って行き、一軒の洋館風の建物の前に止まった。

 彼の心臓の鼓動が一つ二つ飛んだ。彼には直ぐに分かった。幼い頃のあの記憶が、鮮明に思い出された。あの洋館だ、と思った瞬間、では何故、という疑問も膨れ上がる。ハイヤーを降りると、彼は呆然とその洋館を見つめるまま体が硬直してしまったので、ハイヤーが走り去って行く音も彼女が彼の脇をすり抜けて玄関の鍵を開けているのも気付かなかった。

「どうぞ」

 声を掛けられ我に返ると、彼は吹き上がる疑問に堪えて無言のまま玄関ホールに入った。

 そこは天井が吹き抜けとなった十畳ほどの空間で、正面壁の吹き抜け中程には磨かれたオーク材の古風な手摺の付いた回廊が見えた。また、三方の壁それぞれには背の高い重そうな飾り彫りの付いたドアがあった。それぞれのドアの上の壁には、一枚の絵が掛かっていて、春を思わせる霞む菜の花畑、夏の日差しに輝くひまわりの群れ、秋の青空を背景としたコスモスと季節感を表す絵だった。当然、と思い振り返って玄関の上を見たが冬の絵は無く、その絵の位置にはまるで額縁のような窓があった。 

 彼女は玄関の錠を下ろし、正面ドアの前に立っていたが、ふつ、と笑みを浮かべ、

「それはね、この上の回廊からその窓を見ると、冬には雪を被った杉木立が見えるからよ。趣味がいいんだか悪いんだか・・・」

 彼は思わず笑った。実に病気になる前以来の彼女の笑みだったからだ。それに勇気を得て彼は一番聞きたい事を聞いた。

「僕はね、ここに来た事があると思うんだ。ずっと昔にね。アイは何を知っている?」

「それは後にしましょう。寒いでしょう、どうぞこちらへ」

 そう言われては返す言葉も無かった。彼女は正面のドアを開けるとその扉を支えて彼を待った。彼はそのままカバンを肩にかけると、彼女の横を抜けて次の部屋に入った。

 その部屋は絵に描いたような欧風の大広間だった。白い漆喰の壁、正面には左右に分かれる階段、その奥にちらちらと炎が見え隠れする錬鉄の格子付きの暖炉まで見える。ここも吹き抜けとなっており、天井には眩いばかりのバカラだろうか、巨大なシャンデリアが見える。階段から続く回廊までオークの手摺が鈍く光を反射し、明り取りの高窓からは青白い月光が差し込んでいる。それにしても驚いたのは、部屋の暖かさと見事に古風なランプとシャンデリアの光だった。これは誰かが居なければ出来る訳がない、彼女はつい先程玄関を開けたのだから。

「さ、こっちに座っていて。今、温まるものを持ってくるから」

 言うが早いか彼女は右手のドアから消えた。彼は今一度呆けたように部屋を見渡してから、彼女に勧められた古風なソファに腰掛けた。右手が階段側となるが、そこから温かい空気が流れてくる。 

 再び立ち上がりそちらへ行くと大きな暖炉がある。心地よく燃える薪木に更に近付いてよく見ると、薪木の奥にガスバーナーの青い炎が見え、百年は前にタイムスリップしたかのような不安を憶えていた彼は、そのモダンさに少々安心した。

「気に入った?」

 炎を見つめていると、いつの間にか彼女が帰って来ていて、ソファの前のコーヒーテーブルに銀のトレイに乗せた銀の小盆と2個のブランデーグラスを置いた。

「何だか信じられなくて」

 彼女に近付きながら、彼は素直に言った。

「ごめんなさい。混乱させたかな?」

「いや、混乱と言うより、戸惑ってるんだ。」

「まずは飲んで。温まるから。お酒は飲めるんでしょう?」

「好きではないけどね」

 彼がソファに座ると彼女も隣に腰掛けた。そしてブランデーグラスを取るとしばらく両手でグラスを暖め、彼に手渡した。自分もグラスを取ると、乾杯の仕草をして口を付けた。彼も一口啜る様に飲むと、熱い液体が喉を焼きながら落ちて行き、思わず咽そうになったがすんでに堪えた。 

 彼女は銀の盆からカマンベールチーズとリンゴの小片を取ると彼にも勧めた。それは彼が食べた事がない濃厚で上品な味がした。

「・・・やっぱりお嬢様だったんだね」

「私?ううん、ここは私の物ではないわ」

「じゃ、誰の?」

「ある人のね。知り合いとでも思ってくれる?」

「じゃあ、その知り合いさんは金持ちなんだ」

「確かにお金持ちには違わないわね」

「ここには執事みたいな人はいるの?」

「執事?ははっ、考え過ぎよ」

「だって、アイがここへ入る前から明かりや暖炉の用意がしてあったじゃない」

「それは私たちが来るのを知らせたからね。ああ、気にしないで。もう居ないから」

「ふうん。随分と用意がいいんだね」

「ごめんなさい。ちゃんと謝らないといけないね」

 彼ははっとした。彼女の声が茶化すような皮肉な声から、突然真剣な声に変わったからだ。

「・・・ああしなければならなかったの・・・でも、私には出来なかったのよ・・・」

「・・・意味分からないよ」

 彼女は被りを振った。その顔が少し歪んでいる。今にも泣き出しそうな顔になっていた。

「ごめん。うまく説明出来ないし、それ以上言えないわ」

 彼女は何かを振り払うような仕草をした。

「アツシが色々なことが分からなくて、イライラするのはすごく分かっているの。だけど、だめなの。言えないの。ごめんなさい」

 彼女の頬から涙がこぼれた。あの時のように。彼は自分でも何をしているのか分からないまま、身を乗り出すと、彼女の頬から涙を拭った。彼女の堪えが消えた。正に号泣だった。

 彼は彼女の肩に手を伸ばすとゆっくりと引き寄せた。彼女は崩れるように彼に抱きついた。

 暫くそのまま彼女の泣くままにさせていた。その間、彼は精一杯優しく彼女の髪を撫でていた。実際の所、彼はこんな時に人に優しくする方法が分からない。ただはるかな昔、彼が泣くと彼の母がしてくれた様に、抱きしめて髪を撫でてやっていたのだ。

 やがて彼女はすすり泣きを繰り返した後、顔を起こした。彼はその目を見つめた。彼女は真っ直ぐに彼の目を見ていた。少なくとも二人の仲に嘘は無いのだ、と彼は思った。昔の事など、もうどうでもいい気がして来た。そして、彼女が何者でも構いはしない、と思った。

 正直その瞬間まで、彼は彼女に性欲を感じたことは無かった。否、感じてはいたのだろうが、そういう対象とは考えていなかった、のかもしれない。突然、目の前の扉が開き光が差し込んだかの様に、彼女が、全てを受け入れる用意が出来ている事に彼は気が付いた。

 次の瞬間、彼は荒々しく彼女の唇に自分の唇を押し付けていた。歯と歯がぶつかり、唇が相手の歯に当たって切れるほどに荒々しいものだったが、二人は構わずに相手の切れた唇の血の味を感じながら口の中を探り合った。興奮と初体験の戸惑いの中で、彼は次第に積極的に彼をリードする彼女に従って流されて行く。二人の体重で沈み込む柔らかく大きなソファの上で、ほとんどの衣類を着たまま愛し合った。彼はやっと彼女を愛している事に気が付いた。


 明け方に二人は大広間から2階の主寝室へと移った。天蓋はさすがに付いていなかったが、正に天蓋が似合う巨大なベッドの上で、二人は抱きしめ合って横たわっていた。 

 窓からは西に傾いた満月が煌々と輝いて見えていた。部屋の明かりは壁際の暖炉の熾き火以外全て落ちていたが、月の光は彼女の姿態を青白く浮かび上がらせていて、彼は素直に美しいと感じていた。彼は、彼女との会話の中で何度か明かした過去を、今度は何も飾らず正直に話していた。

「僕はね、ずっと独りだったんだ」

「うん」

「物心付いたときから、独りで遊んでいる事が多かった」

「うん」

「でも寂しいと思った事はなかった」

「うん」

「小学生の時も、中学に入った時も、思い出になるほど楽しいと思った事はなかった」

「・・・そうなんだ」

「でも、母さんはそんな僕が世間とちゃんとやって行ける様にって、色々考えてくれていたみたいだ。水泳教室やサッカークラブって柄じゃなかったけれど、今思うと感謝しているよ」

「いいお母様だったのね」

「14の時に母さんが癌で突然死んで、それ以来何かが変わって行ったんだ」

「そう・・・」

「それ以前も人とうまく併せることが出来なかったのにね。ギリギリの所で踏み止まっていたんだよ」

「うん」

「でも、僕の一番の理解者だと思っていた母さんが居なくなって、もうどうでもよくなったんだね、きっと」

「・・・うん」

「父さんも再婚して、継母になった人は決して悪い人ではなかったんだけど、もう僕の居場所は無いって思い込んじゃって・・・」

「そう・・・」

「・・・今日この時まで、人の体温ってあったかいってこと、忘れていたよ」

 彼は突然、自分が涙を流している事に気が付いた。彼女はとっくに気が付いていて、先程彼が彼女にした様に彼の頭を優しく抱いて撫でていた。

「あれ・・・どうしてかな」

「いいのよ。泣きなさい、アツシにはそれが必要だから・・・」

 涙が俄かにこぼれて、彼を抱きしめる彼女の胸に流れていった。彼は声を上げて泣き出した。涙が止まらない。常に尖って緊張し、頑なに閉ざされていた彼の心の内から、何かが溢れ出たかのようだった。

 彼女は彼を抱き留めながら、暫くあやすかのように左右に揺すった後、彼を押し留める様にしてベッドに横たえ、馬乗りになった。彼女は彼を上から見下ろしたまま静かに動き始める。やがて彼女は微かに喘ぎながら彼の両肩を両手で押さえ付け、纏めていない長い髪が彼の胸から腹にかけて波を打った。彼女は一言も口を訊かず、その目は片時も彼の顔から外されなかった。彼女の性技の巧みさが彼に微かな嫉妬心を感じさせたが、それもほんの一瞬のことで、彼は快感に押されながら彼女を見つめ続け、その茶色の瞳に揺らぐ彼女の熱を感じ取った気がしていた。心に何の不安も悲しみもなくなっていた自分を感じた彼は、彼女に深く、深く感謝した。


 朝になり彼が目を覚ますと、彼女は既に起きていて膝を抱えてベッドのヘッドボードに凭れて窓の外を見ていた。部屋は適度に暖かく、窓の外は快晴の空と穏やかな一日を約束していて、ガウンを羽織った彼女も非常に落ち着いて見え、昨夜の出来事が嘘のようだった。彼は無言で起き上がり、ベッド脇のサイドボードに畳んであったガウンを取ると、身に着けて彼女の横に並んで座る。

「おはよう」

「おはよう」

 二人ともにっこりと笑った。こうして笑える事がとても幸せに思えた。

「ねえ、お腹空かない?」

「少し減った」

「じゃあ、待ってて。ささっと作っちゃうから」

 彼女は身を屈めると、彼の唇にさっと流れるようなキスをして部屋を出て行った。こんな関係になれたことが、彼を穏やかな気持ちにさせていた。こんなにリラックスしたのは生まれて初めてのような気がしていた。

 彼女の作ったスクランブルドエッグとトーストを食べ、屋敷の中を散策し、光に満ち溢れた林をベランダから眺めていると、こんな生活があったのかと、今までの生き方を少々後悔し始めた。 

 彼女が屈託なく彼の傍に居る事がすべてのような気がしていた。この二人の世界を守って行く事がとても大切に思えて来た。彼はたった一晩でかなりの事を学んだ。このまま全てがよい方向へ進むように思えて来た。

 それが恋愛に付き物の一時的な幻想に過ぎない、と彼に言っても、その時には絶対に信じなかっただろう。そして、未だ彼女の事は何も分かっていないというのに彼は、幼年期のあの記憶と共に彼女の謎にも封印を施してしまった。


 午後も遅い時間、夕暮れのひんやりとした空気を感じる頃、あのハイヤーが迎えに来た。彼はこんな素晴らしい時間を与えてくれた屋敷を振り返り、林の中へ消えて行くまで振り返って見つめていた。屋敷が見えなくなると、彼は前に向き直り隣の彼女の手を握った。彼女も軽く握り返し微笑んだ。満ち足りた想いの中で、彼はいつの間にかうたた寝をしていた。

 気が付くとハイヤーは都内を走っていて、もうじき彼のアパートの付近まで来ていた。

「よく眠れた?」

 隣の彼女が声を掛けた。

「ごめん、寝ちゃったよ」

「あんまり気持ちよさそうだったから、起こさなかったけれど」

「ごめん」

 まだ彼女が彼の手を軽く握っているのを見て、彼はほっとした。

「あそこの所有者にお礼を言って置いてくれない?」

「ああ、そう、ね」

「あ、お金掛かったでしょう、この車といい、あそこも借りたんでしょ?」

「いいの。気にしないで」

「でも悪いよ、いくら掛かったの?」

「だから、いいの。もうこの話題はやめて」

 強い拒絶だった。彼は慌てて引き下がった。

「ごめん。じゃあ、これは貸し、ってことで、いつか、ね」

「うん」

 なにやら先程までの幸せな空気が一気に褪めていた。彼女はなにやら考え込み、ハイヤーは確実に彼のアパートに近付いていた。

 街道に入り、彼のアパートに入る道まで来ると、ハイヤーは路肩に止まった。

「じゃあ、ありがとう。3日後にはバイト行くから、そこで」

「うん。病み上がりに無理させちゃって、ごめんね」

「そんな事ないって。ほんとに素晴らしい一日だったよ、大げさでなく」

「うん・・・さようなら」

「ああ、おやすみ」

 手を離すのに、少し躊躇した。ハイヤーは彼女を乗せてUターンし、彼女の家へ向かうのだろう、街道を都心へ走っていった。彼は見えなくなるまで見送った。後席の彼女は振り返らなかった。


 それからの日々、彼にとっては一番幸せな時となった。彼の世界の変化は大変なもので、バイトや大学までもが暖かく彼を包み込むかのように思えた。彼の笑顔やちょっとした気配りさえ示す態度が、周りを少しずつ変えていった。幾人かの友達と呼べるレベルの付き合いも始まった。そしてほぼ毎日、彼女と会い、バイト休みには郊外へ一緒に出掛けるようになっていた。

 そして一緒に食べ、話し、笑ったが、今までと違って一番素晴らしかったのは、お互いを気遣った優しいSEXだった。その時だけは、彼女は時折見せる強い壁のような拒絶を控え、彼も時として見せる人間味に薄い無感動な表情を引っ込めた。お互いがお互いを庇い合う、しかも傷口を舐めあうような関係ではなく、彼にとっては彼女との行為を通して穏やかで明るい未来が見えて来たかのようだった。

 4月になって大学の二年目も本格的に始まり、彼はバイトと大学、そして彼女と充実した日々を送った。そしてそんな彼の幸せな日々が終わる時がやって来た。


 その日は朝から雨が降った。バイトの早番の日で、彼女も早番だった。いつもの時間にバイト先の駅に着くと、珍しく彼女が居なかった。ぎりぎりまで待ったが、彼女は現れなかった。幾度かこういうことがあって、彼女が休んだり先に行ったりしていたので、仕方なしに店へ向かう。しかし、彼女は店にも来ていなかった。休むなり、遅れるなりの連絡も店には入っていなかった。彼も彼女も滅多に使う事はない携帯で彼女を呼んだが、電源が入っていないとコメントが流れるだけだった。

 まんじりともせずにバイトをこなし、急いで店を出たのは雨も上がった夕方5時を廻った所だった。もっと早くバイトを引けたかったが、生憎人が足りなかったので、ほとんど定時まで働いていた。相変わらず携帯は繋がらない。彼はほとんど走りっ放しで彼女のマンションへ向かった。


 彼が彼女のマンションへ来たのは、これが初めてだった。彼女が最初に彼が訪ねてくることを断っていたので、彼は忠実にそれを守っていたのだ。そこは、私鉄の急行停車駅から徒歩5分という好立地にある11階建てのまだ新しいマンションだった。全館オートロック式だったので、まずは彼女の部屋のインターフォンを玄関ホールで鳴らしたが、応答はなかった。次に、彼は管理人室へ向かい、身分を明かし事情を話して、彼女の部屋まで案内して貰おうとした。が、部屋番号を確認した管理人は意外な事を言った。

「その部屋はこの一ヶ月ほど空室になってるよ」

「そんなはずは無いと思うんですが?」

「いや、確かだよ」

「じゃあ、一ヶ月前まで住んでいた人は何処へ引っ越したのですか?」

「それは言えないね、たとえ知っていても」

「この人ですか?」

 彼は携帯電話に貼ってあったプリクラで撮った彼女とのツーショットを見せた。

「・・・そうだね」

「彼女の引越し先を調べるにはどうしたらいいですか?」

「親族の方だったら、それが証明出来るなら教えても差し支えないけれど、貴方はそうではないから・・・」

「彼女は天涯孤独なんです。急に勤め先に来なくなって、犯罪に巻き込まれたかも知れませんし・・・」

「では、警察に言って貰えたら、出来るだけの事はするよ」

 彼は店長に電話をして事情を話した。店長は、少し待つように言い、電話を切った。十分ほどして彼の携帯が鳴る。店長は、五分ほどで警官が来るから、と言い、がんばれ、と付け加えた。

 管理人が中で待つように言ってくれたので管理人室に入り、パイプ椅子に腰掛ける。いらいらしながら待つ事十五分、警官が自転車でやって来た。警官は彼から彼女の特徴などを尋ねると、管理人に、引越し先は分かるか、と尋ねた。管理人はほっとした表情でクリアファイルをめくり、ある住所を告げた。新住所の電話も彼女の携帯だったので、とにかく行って見るしかなかった。警官はもし、彼女が引っ越し先にも居なかった場合、直ぐに最寄りの警察に知らせるように彼に言うと帰って行った。


 彼女の引越し先は、その駅から急行で二十分ほど、郊外の衛星都市にあった。電車に乗っている以外ほとんどを走り通した彼は、その駅前の交番で場所を確かめ、商店街を抜けた先にあると言うその住所へ向かった。

 そこは戸建ての続く閑静な住宅街で、マンションの類は見当たらない。番地を確かめながら早足で目的地まで辿り着いた。思わず立ち止まる。その住所は広大な更地になっていた。彼は、気を取り直すとその先の一軒家のドアホンを鳴らした。

「お隣のことを知りたい?」

「そうです」

 出て来た中年の女性に隣の土地は何時から更地か、と聞いた。

「もう六年位かな、前は立派なお屋敷だったけれど、火事になって。持ち主が死んだから」

「そうですか・・・あの、この人を知りませんか?」

 彼は携帯を差し出し、彼女を見せた。

「・・・似ている、わね・・・」

「え?誰にですか?」

「隣に住んでいた娘さんよ。死んだ方のお孫さんだった」

「そうなんですか?」

「でも、そんな訳無いわよね。これ最近なんでしょ?」

「ええ、一ヶ月ほど前のプリクラです」

「じゃあ違うわ」

「でも、似ているんですよね?」

「そう、でも違うわよ」

「何故そう言い切れるんですか?」

 彼の口調が詰問調になってきたのに少々むっとした女性は、早口で言った。

「だってね、その子も十五年ほど前に死んでるからよ」

 彼は言葉を失った。じゃあ、と玄関のドアを閉めようとした女性に、彼は更に聞いた。

「名前は、お隣の名前は何て言うんです?」

「島田さん。女の子は十八の時、外国留学中に交通事故で死んだんですって。名前は愛ちゃん、よ」

 バタン、と目の前でドアが閉じる。夕闇の中、彼は呆然と立ち尽くすだけだった。


 その日から、彼は彼女を探し続けた。警察にも店長と一緒に捜索願を出したが数日経つと、彼女の住民票はおろか戸籍も存在しない事が分かったので取り下げざるを得なかった。

 自分一人では限界があるので、探偵社を訪ね雇った。が、探れば探るほど、彼女が存在していたという事実を危うくする証拠ばかりが出てくるのであった。

 たとえば、マンションを借りていた人間は彼女ではなく、何故かその人間も蒸発してしまった、マンションの保証人も消えた、例の焼け死んだと言う老夫婦の孫娘の線も留学先のアメリカでの死亡診断書が出て来てアウト、バイト先に提出してあった履歴もデタラメ、しかも住んでいたはずのマンションの住人が誰一人彼女を見たことがないと言う。唯一、あの管理人が彼女と対面した事がある人物だったが、必要最低限の事しか聞いておらず、それも事実に反する事ばかりだった。

 彼は、あの洋館に行けば何か分かる、もしかしたら彼女に会えるかも、と考え、憶えている風景や道程を頼りに現地へと向かった。しかし、驚いた事に洋館のあった場所が更地になっていた。売り地の看板があったので、そこに書かれた不動産業者を訪ねると、もう更地になって一ヶ月以上だという。ということは、彼らが立ち去って直ぐにあの洋館は解体され土地がならされた、と言うことになる。

 仕方無しに、役所へ登記簿を確認しに行くと、あの土地の持ち主はある地方銀行になっていていわゆる不良債権だということだった。不思議なことに、建っていた屋敷は十年以上誰も使用した事はないとのことで、ついこの前に解体したのも一年以上前から計画されていた、とのことだった。ちなみに以前の持ち主に島田という人物は居なかった。

 それでは、と、彼は記憶を頼りに彼らを屋敷まで往復させたあのハイヤーを探した。ところが車体に金文字で控えめに書かれていた会社名は実在しなかった。そういえばハイヤーやタクシーには乗務員の名前や会社名、連絡先等を示すカードかなにかが必要ではなかったか?しかし彼はあの時、そういう類のものを見た記憶がなかった。運転手も制帽を目深に被っていて、体付きも中肉中背、顔も全く覚えていないほど平凡だった。

 これらの事実は、なにかとてつもない冗談の様であり、ここまで手の込んだ失踪と言うのも信じられない事だった。ただ腑に落ちないのは、何故マンションの引越し先をあの住所としたかと言う事だ。彼女が、あの事故で死んだ少女に成り済ました、というのは確実だったが、何故ここまで後を追えるような真似をしたのだろうか?そして喉に刺さった魚の骨の様に意識されるのは、あの屋敷が彼の記憶にある洋館と瓜二つだったということだ。

 だが、もうここで行き止まり、だった。彼は裏切られ失望し、次第に元の殻の中へと戻って行った。日が経つにつれ無口になり、笑う事もなくなり、人と群れる事も絶えた。そして時間だけが虚しく過ぎていった。


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