第19章(前)〜ディレッタントの憂鬱
「私室は出来るだけ簡素にしておこうと思う。私物は自宅に置いておき、必要なものを後から運べばいい」
首相は傍らの秘書に言い、秘書はそれを防備録にメモした。
「それからこれはカミさんの意見だが、俺は只でさえ金持ちと思われているのだから、書画は既存の物を使えということだ。まあ、そういうこと」
新首相は首相公邸に居た。組閣は難航したが、サプライズも含め何とか我を通せた。所信表明は、この2年間で2回目の衆院選に僅差で敗れたとはいえ、まだまだ力を残す野党側からのヤジの中、無事に済んだ。キャラ立ち封印するも最近では最も聞かせた所信表明、とは三大新聞の一角を占める新聞社の論説委員の意見である。
国会は連日の論戦で、首相も休む暇は無く、実際寝食を割いて動き回って来たが今日の午後、やっと公邸の下見をする時間が出来たのだ。
こうして暫くの間自分の家となる公邸の中を見ると、3度目の正直以上、総裁選挑戦?度目にしてやっと首相になれた感慨が湧いて来る。そんな事を思ってニヤニヤする時間すらなかったのだ。
前職が出て行って間もないリビングは、モデルルームのようにテーブルとソファが置かれ、食器棚にはティーセットが4客だけ、とって付けた様に飾られている。
家具類は元々、公邸がリニューアルされた際に購入されたもので、実際には時の首相により、自分の好みで、― 無論自腹で家具が揃えられていた。
「カミさんも質素を旨にしろと言う訳だからな。コイツも使うかな」
首相はソファの座り心地を確かめるように座る。そしてその後に立ったままの秘書に向って、突然、
「どんな事になっても俺は投げないからね。これからもっと大変になるぞ。今日までよく付いて来てくれたが、明日からはもっと辛くなるからな。頼むぜ」
後ろ向きに見上げる首相に、秘書は目礼した。すると首相は苦笑して、
「まあ、前々職のような辞め方をするとだな、アキバの若者や2ちゃんねらーに『坊やだからさ』なんて言われるから。最大支持者にまでバカにされたんじゃあ、俺も浮かばれん」
良くも悪くもディレッタント、おタクと呼ばれる新首相は、疲労気味の顔に笑みを浮かべていた。官邸はそれこそイヤになる程足を運び、内部は目を瞑っても歩けるほど熟知している首相も、公邸は何度か入っただけ、さすがの彼もリビングやベッドルームのあるプライベートゾーンには踏み込んだ事がない。
「さて、次は?」
暫く公邸の中には入れない。内装業者がリフォームをするからで、こちらの方は既に、業者が首相夫人と打ち合わせを始めている。
「暫くお待ちください」
秘書は急いでリビングを出て行くと、訝る首相の前に3人の男が入室してくる。
「ん?どうした、君たちは?」
「首相、我々は宮内庁、防衛省、警察庁の者です。突然の会見の段、お詫び致します。国家的大事をお伝えするために参りました。極秘事項ですので直にお耳に入れたいと考えました」
「随分だなぁ。何事かね?」
すると最初に話した男の隣、真ん中に居た一番若い男が前に出て、
「私は防衛省長官官房の者です。こちらは宮内省長官官房、そして警察庁長官秘書課からそれぞれ参りました。我々は省庁を超えて一種のプロジェクトチームを組んでおります。代表して私がお話致します」
「まあ、国家の大事とやらを立ち話でもあるまい。そっちに適当に座って」
彼らが空いている向かいのソファに腰掛けると、秘書がペットボトルのお茶を持って入室し、それぞれの前に紙コップと一緒に置くと、退室する。秘書がドアを閉める音がして数秒、深と静まった中、男は静かに話し始めた。
25分後、彼としては珍しく、頷くだけで一切口を挿まずに聞いていた首相は、男が、以上です、と切り上げると、天井を見上げて大きく溜息を付いた。
「・・・今の話、俺に信じろと」
「はい。信じて頂くしか。どうしても証拠をお望みであれば、証明してもよろしいのですが、今は色々とお忙しいでしょうから」
首相はフン、と鼻で笑うと、
「まだ俺は信用出来ないからだ、そう言えよ。これから俺に面倒を押し付ける積りなら、俺が直裁に物を言う奴が好きだ、と言うことを覚えておけ」
「承知致しました」
「よし、取りあえず信用しよう。それで?」
「ご連絡は主に私と宮内庁が担当致します。それとこれは申し上げにくいのですが、最初に確認しました通り、これから首相は監視の対象となります。我々個人も監視対象下にありますが、首相もこれから公安調査庁と警視庁公安が常に所在の確認と発言をチェックしておりますので、ご留意ください」
「やれやれ、途方もない話の蓋をする訳だ。俺は失言が多いそうだから」
「首相ご本人の性格その他を勘案している訳ではございません。過去全ての方が対象となっておられます」
「一つ二つ聞きたい」
「なんでしょう?」
「前々任者が辞めた原因に、コイツは何か影響しているのか?」
「私の私見でよろしければ、いいえ、とお答え致します」
「では、過去、そういうことがあったかい?」
「それも私見ですが、なかったと思います」
「もう一つ。カミさんにだけは話しても構わないだろうか?」
「いいえ、申し訳ございませんが、お話した通り、文字通り誰にも、一言もお話してはいけません。もし、それが守られませんと・・・」
防衛省の男はその先を言わず、ただ無表情で首相の顔を見た。首相はトレードマークの口を更に歪めたが、やがて、
「ごくろうさん、了解した」
3人は一斉に席を立ち、首相に一礼するとリビングを出て行った。
3人が去った後、秘書が入ると首相はまだソファに腰掛けていた。一体何を聞いたのだろうか、妙に悄然としている様に秘書には見えた。公邸訪問の時間は切れていた。スケジュール通り動くのなら、直ぐにでもここを出なければならない。そんな秘書の焦燥を汲み取ったか、首相は立ち上がり、
「さあ、行こう」
そして先に立つ秘書がドアを開けようとすると、ポツリと、
「俺もさんざ、とんでもない事を聞かされて来たが、世の中には政治よりおっかない話があるとは思わなかったよ。ああ、こういう事もいかん訳だな、忘れてくれ・・・それにしても・・・なんてこった」