第18章(前)〜もう、迷わない
海からの風は力強く遥かな大洋の彼方から、人の手に因って汚されることなく清涼なまま彼の顔を打ち、少し長くなった髪を靡かせる。月は西に煌々と輝き、蒼白い光は砂浜を幻想の世界に変え、彼の姿もその風景の中に塗り込める。遠く眺めれば水平線に微かな染みが数ヶ所、昼間は気付かなかった島嶼だった。
彼は部屋着の上に、スイートのクロゼットのハンガーに架かっていた合わせの麻のジャケットを羽織り、砂浜に直に座って海を眺めていた。昨日の午後の散策で辿り着いた東屋のある丘から松林を下ること更に30分、唐突に視界が開け長い遠浅の海岸線に出た。
何処かで間違いなく、警備の者たちが監視を行なっており、彼ら客人が踏み込んではならない地域に近付けば警告が行なわれると言うが、エンジェルたちとの散策の時と同じく、その姿を見掛けることは無かった。
だが、彼はそんなことには全く注意を払っていなかった。意識はアイに、全ては彼と彼女の運命に思いは馳せられていた。
*
アイは彼の顔を身じろぎせず直視していた。
後、3、4年? 急激な幼稚化。まるでアルツハイマーのような最後の日々。彼は死を身近に感じ、それに魅力を感じたことすらあったが、それも今は過去の話。あの監禁の日々ですら、このように死が近くに居たことはない。なんと、こんな最期になろうとは・・・
彼の葛藤をアイは感情を押さえながら見ていた。待つしかないのは分かっている。掛ける言葉など何一つありはしない、彼の感情を和らげ運命を受け入れる勇気を与えるのは、時間の経過でしかない。その間、彼女は彼を只、見守る事しか出来ない。
そもそも彼女が彼を選び、おおよそ行動的とは言えない彼を導き、誘惑まがいのお膳立てまでして関係を持った。後継を獲るために利用し犠牲にした。プリンスとはリヴァイアサンの世継のための生け贄。カマキリや女王蜂の夫、種を与えた後は食われたり死んだりする昆虫と同じ、その哀れな男に贈る皮肉な称号なのだ。
彼は怒るだろうか?彼女の仕打ちを非難し悲しむだろうか?出ていけ、と怒鳴るだろうか?黙ったまま出ていってしまうだろうか?緊迫してその時を待つ彼女。
そんなアイに気付き、彼はふっと表情を緩めて、
「アイが気にすることはないよ。君は誰かを選ばなければならなかった。二千年近くも続けて来た事だもの、君の考えで変えられたとも思わない。君は今に続く行動をしただけでも十分勇気がある、と思うよ。だけど、ね・・・」
彼は言い淀む。その目に涙が光る。
「僕はこの歳になってもこうして泣いてばかりだ。君の三百年分の想いなんて支えられる器じゃないよ。弱い男だ。君には不釣り合いだ。だらしなくて、ごめんね」
アイは唇を切れる寸前まで噛み締めている。しかし、今気休めでしかない慰めの言葉を掛けたりしたら彼を失うのではないかと恐れ、黙っている。ただ彼の方に伸ばし空をさ迷う腕が、それは違う、と叫んでいた。
そして彼は言う。
「不釣り合いな僕は君の近くに、僕が死ぬまで居てもいいのかな?」
アイも涙を零した。そして、やっと、
「勿論よ」
といい、彼を抱擁する。あの別荘地の洋館での二人の逢瀬のように。
彼は彼女の胸で一仕切り泣いたのだった。そして最初の衝撃が去った後、彼は彼女から離れ、こう言った。
「少し一人きりになっても、いい?」
「うん。部屋を出ているわ」
すると、
「ああ、もう朝の方が近い時間だよ、ここで寝ていていい。ちょっと外を歩きたいんだ。管理の人間は、許してくれるかな?」
「私が掛け合うわ」
すると彼は、
「いや、自分でやってみるよ」
そして笑って見せる。
「だって僕は『王子様』だそうだから」
アイも合わせるかのようになんとか微笑み、
「じゃ、ここから見ている。OKだったらその窓の外へ来て」
そして彼は彼女をきつく抱きしめると、さっと身体を離しベッドルームを出ていったが、彼女はその後姿に向かって行かないで、と言いたいのをぐっと堪えていた。
数分後、ベランダの前、松林へと続く散策路に人影が現われ、月光に当たるよう前庭の樫が作る木陰から出ると上を見上げた。
「大丈夫だった?」
彼女が控えめに声を掛けると、
「うん、簡単だったよ」
小声で答えが返ってくる。そして彼は軽く手を上げ歩いて行った。アイはその影が松林の闇の中へ入り、溶け込んで判らなくなった後も何時までも見つめていた。
*
海は月夜を映し、深く藍に染まり、そこに打ち寄せる波を夜目にも白く飾っていた。
夜光虫でもいるのか、時折波は月光を反射しただけとは思えぬ程輝いて砕け、消えた。彼は何も考えずただぼんやりと海を眺めていたが、やがて避けては通れない、気持ちの整理を始めた。
―― あと3、4年の命。しかもリバースの後は障害者のような生活が待っている。僕は近付く死の恐怖に勝てるだろうか?アイとの生活でそれが癒されるのだろうか?
そして・・・
そしてアイを恨むことなく愛し続ける事が出来るだろうか?エンジェルたちが行なおうとしている、束縛を逃れたいと願うリバーサーたちのあちらの世界からの解放。その行動を精神的に支援する。こんな状況でそんなことが自分には出来るのだろうか?アイと行動を共にし、生きて行くと決めた以上、彼の取るべき道は一本しかない。それは分かっているのだが・・・
一際強い海風が彼に吹きつけ、砂粒が顔を打つ。目を閉じてやり過ごし、風が緩んだのを待って目を開く。月を仰ぎ見るともう西へと傾き、背後の松林の方へ消えようとしていた。
やがて彼は気付く。その松林からこちらへ歩いてくる人影がある。吹く風に長い髪が靡き、夜着の上に羽織った薄いピンクのカーディガンがはためく。脚に纏わり付く夜着の長い裾が彼女の後へと棚引き、その長い脚を強調する。見紛うことなくアイ、だった。
近付くアイを彼は目で追い、やがて彼の横へと来ると、無言の彼女に彼も無言で横を示し、座るよう促す。彼の横に座った彼女も真っ直ぐ海を見て、暫くは2人、暁に向う海のうねりを見ていた。
「お邪魔だったかしら?」
「・・・ううん」
「寒くない?」
「アイは?」
「大丈夫」
「そう。僕も寒くない」
再びの沈黙の後、彼女は語り出す。
「私は・・・とても長く生きて来たから、正直に言って好きになった人も何人か居るし、愛し合った人も居る」
以前ならその言葉に嫉妬を感じた筈の彼だったが、その時は平静に聞いていられた。
「物心が付いた時、私は女たちの中に居た。大奥、と呼ばれた所だった。彼女たちには序列があり、また派閥があって何かを競い合っていることが幼心に判ったけれど、もう忘れてしまったわ。憶えているのは、何時も傍にいて何かと世話をしてくれた数人の女と、時折私の部屋に訪れて頭を撫でてくれる男性のこと。その男性が将軍と呼ばれる権力者だと知ったのは、もっと歳が行ってからだったと思う。ともかく、そこで私は幸せだった、と思っている」
彼女はひと息付くと、ちらっと夜空を見上げ続ける。
「でもね、最初のリバースの直後、私は永遠に老いる事がない異様な生き物だ、という事実を実感させられる出来事があったの。多分目覚めてからそんなに経っていない頃、奥女中の一人が、突然懐刀を取り出して私に切り付けたのね。私は腕を掻き切られたけれど、そんなにひどい傷でも無く、ちょっとショックを受けただけだったみたい。そう、今ではその時の状況とか何故切り付けられたか、とか、その女の名前とかは全く覚えていないし、夢の中の出来事みたいで他人事のように思えてならないのよ。でも、女が取り押さえられて引っ立てられて行く時、こう言ったのはよく覚えているから、実際にあったはずなのよね。女はこう言ったわ、『ばけもの、お前は人間じゃない』・・・きっとショックだったろうな、傷の痛み以上に」
アイはハァ、と吐息を付くと話題を変える。
「そうね、リバースの瞬間は、自分でも何と言えばいいのか、分からない。リバースはね、突然気を失うから、ある一瞬からリバース後の目醒めまで時間が一気に飛ぶ感じがするわ。私は4度経験したけれど昏睡している最中は夢など見なかったわ。あの竹崎兄が、リバース研究の日本における第一人者なのは認めなくてはならないけれど、アイツが言うには、リバースや私たち特有のリヴァイブ時の昏睡は睡眠ではなく再生のための準備だそうよ。目が覚めると、暫くの間は朦朧として夢を見ているみたい。ちょうどアツシが向こうから帰って来た時のあの感じに近い、と思う。その時の昏睡の長さや、個人差で色々あるでしょうけれど」
彼女の表情は長い髪の毛に隠れよく見えない。
「私はいつも、目が醒めて、自分が何者でどこにいるのか思い出した時、死にたくなった。リヴァイブの時は本当の赤ちゃんになるからそんなこと、その時には思わないからいいけれど・・・ああ、そうでもない、かな?10歳くらいから段々過去の記憶が戻ってくるから。じわじわ来るのよ、あの逃げられない悲愴感。いっそのこと、リヴァイブしたら振り出しに戻って、何もかも最初から始まればいい、時間も一緒に戻ればいいのに、って幾度思ったことか」
再び吐息。深く吸い込む息の音が彼女の感情を伝える。
「私は、歳を取らない永遠の命を保障された仙人の様。そう、自分が老いないから、周りの人がどんどん居なくなるの。そう、好きだった人もね。これも良くは思い出せないけれど、多分、好きだった人が年老いて死んで、またもや1人老いることなく生きて行かなくてはならない、と思って、私は死のうと考えたんだと思うわ。でも、自分で手首を切ったり首を吊ったりしたけれど、何故か死ねないの。手首は切っても傷口が血も出ないまま瞬時に塞がってしまうし、首に縄を付けて台から飛び降りても、縄の方が切れてしまう。高い所から飛び降りたり、疾走する馬に跳ねられたり、そんな事もしたような気がする。怪我はしたみたいだけど、死にはしなかった。リヴァイアサンは自ら生を断つ事は出来ない、という言い伝えがあって、それが本当だと認めざるを得なくなった時、もうどうでもよくなったのよ。これがリヴァイアサンの宿命なのね」
アイは話を止め、風に煽られ顔にまとわり付く髪をゴムを取出しポニーテールにまとめる。そうしてから話を続ける。
「明治になって江戸城が皇居になっても、大奥がなくなり将軍が去り、物事が西洋風になっただけ。そう、私だけ、変わらないのよ。でも、明治帝はお優しかったわ。元勲たちは嫌いだった。何かと私を利用しようとして、台湾や半島へ兵を送れないか、とか色々やれ、と言っていた。実際やったのは数人の男を向こうから招いたり、こちらからも行かせたり、そんなことだけだった。ああ、そうだったわ、一人とてもいい人が居たわね、軍人さんだったけれどとても礼儀正しくて、それでも私を特別扱いせず、普通の華族の子女同様に扱ってくれた。一緒に御苑で乗馬もしたし、外国にも行っていたみたいで、西洋の都会の話もしてくれたわ。暫く後に、あの人とても偉くなって日露の戦で大活躍したけれど、戦争が終わった直後、病気で死んじゃったのよね。まあ、そんなことはどうでもいいわ。その先、大正、昭和の時代は嫌なことばかりだったし」
暫し沈黙し、月を見上げていた彼女は寂しげに笑って、
「最後のリバースを迎え目覚めた時、限りある、という意味が身に染みて感じられ、私はやっと『ばけもの』から人になれた気がしたのよ。後継者を得るため、あちらへ渡る事が許されたのは、リバースから10年過ぎた時だった。相手は特に決まっていないと言ってあったから、物見遊山気分であちこち行かせて貰ったわ。でも、実は、事前にあいつらが用意していたプリンス候補者のリスト『竹崎リスト』からあなたをピックアップしていたから、おざなりに数人、他の候補を見た後、あなたのバイト先に行ったの。後はあなたも知る通り」
言葉を切り長い回想を打ち切って、彼女は現在に戻る。
「ごめんなさい、私、怖かったから」
彼は黙って海を見ている。
「あなたまで失うのは怖かったから」
「・・・うん」
「言わなければ、あなたのリバースまでは私はあなたと楽しく過ごせる、でもその後は?リバースして、あなたがそこで自分の行く末に気付いた後は?」
「・・・うん」
「そうすることは、最後まであなたを利用したことになるわ。それにね、アツシ」
「うん」
「私が耐えられなかったの。あなたの運命を知っていて、それを隠してあなたと暮らす事なんて、とても耐えられそうになかったのよ。でも、それも・・・」
彼女は言葉に詰まる。再びむせびそうになるが、なんとか堪え、
「それも私のエゴになるわ。あなたの意志に関係なく、私はあなたの運命を曝してしまった。あなたが聞きたくはなかったかも知れないのに。でも正直どうすればいいのか分からなかったのよ。どちらを選んでも茨の道。だから」
思わず咳き込んだ彼女は、腕を伸ばしかけた彼を仕草で押し留める。ここで言い切らなければ二度と言えない、そんな気がしていたからだ。
「だから私は自分に正直な道を選んだの。私の人生はそれこそ嫌なことの繰り返しだった。常に監視されていたし、あらゆるものを与えられたけど、それは自分の存在に耐えることへの細やかなご褒美に過ぎなかった。そんな人生に厭きた私が最後にやった最大の我儘、それがあの世界を飛び出し誰はばかりなくアツシと暮らすことだった。だからあなたにリバースのことを知らせたのは、私の一番ひどいエゴと言うことになるわ」
アイはうつむき遂に涙を流す。涙は彼女の目から離れ砂に落ち、その薄い黄土に黒い跡を残すと消えて行く。その涙の軌跡が、月光に一瞬輝いて光る糸になり消える様を彼は惚けたように見ていた。
涙は只の塩辛い水だ。
そこに打ち寄せる波もそうだ。
海は只の塩辛い水溜り、
月は単なる岩の集合体、この大地もそう。
単なる植物の松、
水蒸気の塊の雲、
そして単なる長生きな動物の雌、
それを見ているくだらない肉の塊の自分、なのに・・・
その『単なるもの』たちがどうしてこうも美しいのだろう?
自分はあれほど独りを好んだのに。
『白い地獄』では悪魔の姿すら求め、
この松林で知り合ったばかりのエンジェルたちと歩き、
楽しく過ごした。
そもそも、どうしてアイの温かさを求めたのだろう?
それは自分が単なる人間だから、ではないのか?
あらゆるものに意味を為し、
生きることを最大限意味のある時間に、最期に笑って去る事が出来る、
そんな人生を送りたい。
これは、そう言う細やかで個人的な問題ではないのか。
ならば、時間の長短に何の意味がある?
アイの300年と彼の30年。
時間の単位としてはケタが違うが、まだ内容の濃度で並ぶ可能性はないのか?
彼のこれまでの人生が今日この時のため、その準備にあったとすれば、まだ可能性はあるのだ。自分の生きた証、それはアイを愛し、その運命を受け入れ、残りの人生を笑って過ごす、たったそれだけのことでも、彼だけに為し得る立派な人生ではないのか。
そんなことを思い、前向きに踏み出す覚悟を決めようとした瞬間、最後の敵、彼自身の知性が皮肉たっぷりに非難した。
―― そんな心境はほんの一瞬、この感傷的な時が過ぎ去り、まもなく昇る朝日と共に夜が去れば消えてしまう感情の綾、意味などはない。お前はそんなものを信じるつもりなのか?
いつもの彼ならその『心の声』に従ったかも知れない。しかし今夜は違った。
―― 信じる?そうさ、残り少ない人生に賭けて、僕はアイを信じ自分を信じる。なぜなら僕は愚かな男だから。
ちっぽけで愚かな後藤篤志がプリンスになり、幸せの絶頂に死んで行く。
これはそういう物語なのだから。
もう迷わない。




