第16章(3)〜厄介者の旅立ち
― ここは・・・どこだ?・・・
彼はベッドから跳ね起きる。随分と長い間夢 現つの状態だったような気がするが、彼にはよく思い出せなかった。部屋には誰もいない。だが、先程まで確かに女が一人傍らで彼を見守っていた気がする。女ということだけで顔や体格などは一切憶えていなかったが、すぐそこに立っていた、それははっきりと憶えている。一人残された彼はしかし、不安も焦りも感じなかった。それがどんな理由、心境からなのか、彼自身にもわからない。なぜか自分の心が自分のものとは思えない彼である。まるで知らない他人の心が宿ったかのような・・・
彼が感じていたのは、強いて言えば好奇心と期待感だった。何かが始まるのを待っている、それが楽しい事のような気がする。負ではなく正の心理が先に立っていること、それこそが全く今までの彼らしくない。
すると、彼の落ち着きを待っていたかのようにノックがあった。それは窓とは反対側、部屋唯一のドアからで、彼はまだ事情が飲みこめずにいたので返事はしなかった。少しの間の後ドアが静かに開き、入って来たのは濃紺のどう見ても軍服に見える制服を着込んだ青年。顔に覚えはなかったが、彼は即座にどこかで会ったような気がし始めた。彼が完全に身を起こし青年の方を見ると、青年はゆっくりとベッドへ近付き足元から向かい合う。
「どうぞ楽にしていて下さい。ご無事でなによりでした」
その声。青年は二十歳前後に見えたが、声は見掛けよりも若く、と言うか幼く聞こえた。その声は絶対に聞いたことがある、と彼は思った。それ以上に、先程からずっと気になっていた事と関係がある声ではないのか?
ふとした弾みに白い顔が頭に浮かぶ。少年、というより少女に近い顔。蝋のように青白い。更に白に近い灰の髪。その顔が笑んで、ほとんど白に近い瞳が彼を射抜くように見つめている。と、その口が一文字ずつ区切って形作る。プ・リ・ン・ス、と――
― ジブリール!
彼は、突然、一切を思い出す。監禁の日々を。
しかし、それは妙に現実味に乏しい、忌まわしいとはいえ、既に彼には脅威とならない朧気な幻だった。だが、あちらの世界での出来事は間違いなく彼の記憶であり、意識が冴えた今では、そのおぞましい記憶を夢として片付けるには無理があった。 その『夢』を現実と捉える事が、実は精神に非情な打撃を与え、ひとつ間違えば精神崩壊を招いていたかも知れない、などということには彼は気付かなかった。無論、今彼がそうした事態に陥らなかったのは、3人の能力者のお陰だと言うことになど、思い至るはずもなかった。今はその事よりも目の前の青年の声から、なぜジブを思い出したのかの方が、彼には疑問だった。確かに声が似ていなくはないが・・・
「どうしました?まだお疲れのようですね、眠っても構いませんよ?」
青年は優しく話しかける。顔は初めて見る顔だ。しかし、声は確かに聞いた事が・・・この、声?
「ラミエル!」
名前が唐突に浮かんだ。そして、あの山の斜面、特殊部隊から逃れた時のことが鮮やかに蘇った。エンジェルのラミエル。聞きたい事が色々あった、が、最初に口を付いて出たのは、拉致されて以来、もっとも知りたい事だった。
「今は、いつ?あれからどの位が経ったの?」
するとラミィは、
「そうですね、どれくらい経った、と思いますか?ひと月位、と考えていますよね?」
確かに一ヶ月位、今は8月の上旬と考えていたので彼は素直に頷く。
「実は、貴方が拉致されてから今日で18日目です」
「たったそれだけ?」
「そうです、それだけしか経っていない。貴方は、あちらで時間工作を仕掛けられた。時計を取り上げられ、一時間を30分位に縮められ、昼と夜が逆転していたりした。昼の光を自然そっくりに再現した照明装置や、食事の時間を不規則にしたり、実際は3時間しか寝ていないのに8時間眠ったように思わせたり・・・と、色々と仕掛けられた訳です」
「そうだったのか・・・なんとなくおかしいとは思っていたけれど、何も考えられなくなって・・・」
ラミィは大きく頷くと、
「それが当たり前なんです。よほど意志が強い人間でも10日も持たない。貴方は16日がんばった。悔やむ必要はありませんよ」
そう言うなり、ラミィはベッドの横へと回り込む。
「遅くなりました、改めまして、私はラミエル、と申します。本名は別にありますが、私たちは本名を名乗る事はありませんし、元々、本名も記号と同じ、単なる識別のために付けられたようなものでしたから・・・ですから、普段もこの名前でお呼びください」
そしてラミィは深々と頭を下げる。そのまま数秒、頭を下げたまま何も言わなかった。
「ら、ラミエル?」
プリンスに声を掛けられると、頭を起したラミィは、プリンスが驚いた事に涙を浮かべていた。
「ごめんなさい、プリンス。僕がもっとしっかりとしていたらこんなに辛い思いをさせなかったのに・・・。力が足らず、申し訳ありません」
「あ、いや、そう謝られても・・・」
「・・・ご不快ですか?」
「いや、その、実は、まだ事情がよくは呑み込めていないんだよ、ラミエル。ここは『こちら』で、僕が元いた世界なんだよね?」
「はい、そうです」
「君たちがあちらから連れて来てくれた」
「はい」
「簡単ではなかったはずだ、向こうは警戒厳重だった」
「はい」
「その、エンジェルが助けてくれたんだね?」
「その通りです。我々だけでなく、協力して頂いた方も多くいらっしゃいます」
「助けてくれた人たちは、その・・・全員無事かな?」
「はい、全員無事です」
「・・・よかった・・・ありがとう」
「いいえ・・・どうも・・・」
プリンスは大きく息を吐くと、
「あちらで竹崎という男に色々聞かされたが、そのどこまでが本当で、どこからが嘘か、僕には全く分からない。追い追い、もっと詳しく事情を教えて貰いたいのだけれど・・・謝るのはその後にして貰いたいな、ラミエル。僕が謝られるに越した事をしていたのなら、その謝罪は喜んで受けるつもり。だからそれまで悪いけれど頭は上げておいてくれないか?」
ラミィはプリンスの言葉を、しばし噛み締める様に黙り込んだ。そして、
「ありがとうございます・・・」
再び深々と頭を下げた。
「それで、今、アイは?」
「すぐ近くで待機してらっしゃいます。最初に私がお伺いしたのは貴方が混乱しないため。アイ様は貴方を巻き込んでしまった事を済まないと思っておいでです。貴方のアイ様に対するお気持ちが解らない今は、いきなりお会いして貴方を不快にさせたくはない、と」
「そうか・・・」
プリンスとラミエル。2人は長い沈黙の後、話し始めていた。
「正直に申し上げれば、貴方のアイ様に対するお気持ちは、私のような者が調べればすぐに解ります、知っておられますよね?私たち能力者の事を」
プリンスは最初にジブが彼を探った時の事を思う。
「うん、知っているよ」
「ですから本当ならアイ様は、私に命じるだけで良かったはずです。貴方のお気持ちを探れ、と。しかしアイ様はそれを命じませんでした。その理由をこう仰いました。理由を告げず貴方を利用し理由を告げず貴方のもとを去った、この上またここで貴方の心を探れば更に貴方に対する不実を重ねる、と。私はこれ以上貴方に対し嘘やごまかしを続けたくない、と」
プリンスは黙って聞いていて、ラミィが話を切って反応を待っても、じっと考え込んでいた。やがて、
「ラミエル君」
「はい」
「僕はどうしたらいいと思う? 」
するとラミィは微笑むと、
「それは貴方が良く分かってらっしゃるかと」
「いや、そういうことじゃないんだ」
プリンスはベッドから両足を外に振り出し、そこに揃えてあったスリッパに足を入れ、ゆっくりと立ち上がる。少しよろめくが、再びベッドに座るようなことにはならず、歩き出す。窓まで行くがカーテンにはちょと触れただけで開けなかった。ラミィの方を振り返ると、
「責めるわけではないから、正直に答えて欲しい」
真っすぐにラミィを見てプリンスは一旦口を閉じた。当然何の話しをしているのかはラミィには『見えて』いた。とぼけても無駄と言うことだ。 それでラミィは、
「ええ、お考えの通りです。貴方がお目覚めになる前から覗かせて頂いてます」
するとプリンスは静かに笑うと、
「君は真面目なんだな、ラミィ」
さすがのラミィもこれには赤面し、
「いえ、石頭なだけです」
プリンスは、気だるそうに笑いながら窓の横、パンダが戯れる大きなポスターが貼ってある壁に腕を組んで持たれ掛かった。そして、
「では話が早いね。質問を繰り返すよ? これから僕はどうすればいい?」
「私に決めろ、と?」
「いや、そこまでは言わないよ。君は、アイから命じられても ―― そういう上下関係があるよね?彼女の言い付けに背いてまで僕の心を覗いた。それは君がアイに反発したからでも、好奇心に負けたからでもないよね?アイを崇拝している、そんなとこなんじゃないのかな?」
プリンスは鋭い、と誰かが言わなかったか?恐れ入ったな、とラミィは思う。
「君はアイを守りたい。そのままの意味でボディガードとしても、そして彼女の気持ちも。君たちが何人いるかは僕は知らないけれど、君たちエンジェルはアイをとても大切に守っているんだと思う。だから君に聞きたい。アイの気持ちを知っていて、僕の気持ちも知った。その君は、君らを含めてどうしたら一番いいと考えるのだろうか?」
プリンスは真剣な表情でラミィを見る。ラミィは息が詰まりそうなほどの『熱』を感じた。ラミィはベッド脇からプリンスの前へ行く。『熱』はプリンスが朧に見えるほど、まるで外の滑走路を立ち上る陽炎のように『見え』た。この人はとても真剣なんだ、とラミィは思った。
「貴方が一番いいと、そうありたい、と考えている事をやって頂きたい、と考えます。行動することに対して貴方は恐れを抱いている。でも、恐れる必要はありません。それこそがアイ様が望んでいたこと、そうであればよい、と、この6年間夢見ていた事なのですから・・・」
プリンスはラミィから視線を逸らし、天井を見上げた。それは涙を零さないようにしたのだ、とラミィには分かっていた。そして暫くしてプリンスは頭を下げる。
「とてもいいアドバイスをありがとう、ラミエル」
*
今夜も熱帯夜となっていた。夜半を過ぎても気温は30度。焼かれた舗装は冷え切らずに熱気を立ち上らせている。深夜の軍用飛行場。通常は深夜の離発着は緊急時以外、近隣住民のために規制されている。
しかし今夜半、どちらかといえば明け方に近い時間に、一機の小型輸送機が緊急離陸するだろう。表向きは基地で発生した急患の緊急搬送、となり、夜が明けてから正式に軍連絡事務所から近隣市町へ通告される事となる。
滑走路には既にその輸送機が駐機している。輸送機と言うよりはVIP用の大型ビジネスジェットと呼ぶ方が当っていそうな外観。それもそのはずで、これは軍の高官や政府の要人を輸送するためのVIP輸送機であり、元々は正真正銘高級ビジネスジェットとして造られた代物だった。飛行中はキャビンアテンダントまで付くが、妙齢の女性ではなく軍の輸送軍団所属の下士官、それもほとんどが男性だった。
給油も終え、いつでも出発出来るように待機する輸送機の周りには、物々しい空軍の警備兵がライフルを構えて囲んでいる。滑走路は煌々と光り輝き、管制塔や監視塔からは何十もの双眼鏡が輸送機とその周辺に向けられ、この広大な基地自体も今夜は、目立たぬようにしながら警備が通常の2倍に強化されていた。
警戒厳重な理由は、国家機密を送り出すという任務を控えての用心だった。出発の時間が迫り、滑走路周辺が緊張に包まれる。熱気がいっかな去らない滑走路脇の芝の上には幾人もの狙撃手が腹這いになって銃を構え、空からの襲撃に備え携帯対空ミサイルを傍らに空を監視する者もいる。上空にはヘリが2機滞空し、監視を強めていた。
深夜半、整備場方面から遂に車列がやって来る。4輪駆動の軍用車HUMVEEが5台、その後ろから大型乗用車が2台、猛スピードで輸送機の元へ来ると流れるように次々と並列に駐車、ドアからばらばらと迷彩服姿の兵士が飛び出し、続いて階級章のない軍服姿の男女が数名降り立つ。
続けて後ろのHUMVEEから松葉杖を付いたこれも軍服を羽織った男が2名、更にストレッチャーが降ろされその上に載せられた若い男を輸送機の後部ハッチへと迷彩服の兵2名が押して行く。
その後方、大型乗用車2台からは略綬が鮮やかな中将と副官、そして例の大中小の男女が降りる。更に一人、20代の男性が降り大中小と並んで中将に対した。
「それでは、ここで失礼します、皆さん」
中将が笑顔で4人に対すると、少年准将が代表して、
「色々とご迷惑をお掛けしまして、申し訳ございませんでした。感謝とお礼を重ねて申し上げます。ありがとうございました」
少年准将は深々と頭を下げる。その後ろでは、早くも制服姿の男女の最後の一人が搭乗するところだった。それを目で追っていた中将が、
「さあ、どうぞお急ぎ下さい。出来る限り早く、あなた方をあちらへお送りする様に命令されておりますからな」
「それではこれで。さようなら」
今度は握手も捧げ筒もなく、敬礼とお辞儀が交わされ、4人は輸送機に向う。その最後に准将が乗り込み、ドアが閉ざされると早くもVIP輸送機は滑走路を滑り出し、ものの1分ほどで離陸、急角度に上空へ昇って行った。滑走路からは見えないが、遥か上空1万メートルにはステルス新鋭戦闘機が2機待機しており、護衛として一緒に西へ向うはずだった。
中将は速やかに任を離れ解散する兵士たちを眺めた後、厄介者が去って行った空をもう一度仰ぎ、今は微かな点となってしまった識別の赤い点滅灯を見つめながら、最後に大きな溜息を付いた。