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第2章(前)〜アイという娘

 彼は今日も定時に会社を出た。この2年間、一日として残業はしていない。理由は単純だ。彼にとっての仕事は、生きている余禄の様なものだからだ。


 今は7月、梅雨明け間近の、蒸し暑い一日だった。地下鉄の改札へ向かう階段を下りる前、ちらりと見上げた空は不気味にピンク色に染まっていた。帰宅の流れのまま入ってきた電車に乗ると、反対側のドアにもたれ掛かり、ただ代わり映えのしない車内の光景と自分を映すだけのドアのガラスを見つめていた。

 何のために生きるのか、もはや何も見出せない彼だった。何の目的も無く、ただ流されるまま生き延びてきた彼だ。無論、生を受けた頭初から、その様に無気力に生きていたのではない。中学2年の頃から彼の人見知りと世間への無関心は顕著になっていったが、一時は生きることに喜びを感じ人に感謝する幸せな時期もあったのだ。それは6年前の事だった。


 彼は大学入学を期に東京へ出た。大学は自分の学力レベルから2ランクは下の経済学部、サークルは、ただ単に人数が多いだけと言うテニス系の最大なものを選び、ほとんど参加はしなかった。講義も単位が確保出来る程度の出席率。特に親しくなった者も無く、たまに人から問い掛けられると無表情に頷くか最少限度の会話で済ませた。だから友人と呼べる人間は一人も居ない。それが東京へ出た1年目の冬の彼の現実だった。

 実の父親、という存在だけになりつつあった父からの送金は、社交性の欠片も無かった彼には充分過ぎた。そのため、何もバイトで稼ぐ必要は無かったのだが、それでは本当にすることが無くなってしまう。 その冬、かれは喫茶店のバイトを始めていた。その喫茶店は女の子の制服がかわいいと評判のチェーン店。それなりに繁盛していたが、彼がそこを選んだ理由は女の子のことではなく、大学から大分離れた彼のアパートから一駅先に行った駅前にあったことと、女の子に較べ男性のバイト料が安く不人気で常に募集をしているような所だったので、彼の様な無愛想な男でも簡単に雇ってくれたからだ。

 そこでもバイト仲間とは交わることは無く、無言で皿洗いや野菜を刻んでいた。まかないを数人で頂く際も会話に参加することは無く、尋ねられても自分の事は一切話さなかったので、彼の存在は1ヶ月ほどで皆の意識から消えていた。そんな彼の生活が変化を見せたのは、クリスマス間近のある日の事だった。


「あの・・・店長さんはどこで会える?」

 突然、声を掛けられた。休憩時間、狭い休憩室では息が詰まるのでキッチンの外、通用口の向かいの壁にもたれてうたた寝をしていた所だった。

「ああ、このドア開けて、直ぐ右側のドア、その先向かい側のドアが店長室」

「ありがとう」

 ほんの数秒の出来事で、彼女はドアの中へ消えた。店長を尋ねてくる女の子はバイト志望の娘しかありえない。日に数人は尋ねて来るので、そんなに珍しい訳ではない。しかしこの時、彼は暫く彼女の閉めたドアから目が外せないでいた。何が気になったのか、彼には分からない。別に同じ世代の女の子と言うだけで、何か特別な雰囲気も、おかしな格好をしていた訳ではない。特別不細工でも、美人でも・・・そうだろうか?確かにきれいな顔立ちをしていたが、そんな娘はこの店には普通にいる。店長が面食いを発揮してバイトを選んでいるからだ。しかし、何かが腑に落ちず彼は壁にもたれたままドアを見つめて考え込んでいた。

 次に彼女を見たのは翌日、朝のことだった。店長から早番のバイト達に新入りの女の子2人が紹介され、その内の一人が彼女だった。肩まで流れる黒い髪、大きめな茶色の目、やはり少し大きめの口、形のよい鼻が、丸みの勝る顔に収まっていた。 

 ウェイトレス姿の彼女は若さに裏打ちされた以上の美しさで、大抵の男性客がちらり、と盗み見せずにはおれない艶やかさだった。が、これはこの店ではごく普通の光景。今回の新入りの片割れの女の子が、身長がやや高い点と濃いピンク色の制服に良く映える栗色の長い髪の毛の持ち主だったこともあり、黒髪の彼女だけが格別に目立つ、と言うことでもなかった。

 彼はその日、洗い物がふと途切れた手隙に、シンク前の受け取り口から彼女が店内を行き来するのを何とはなしに見ていた。彼女はバイト初日だというのに、もう流れるように店内を歩いていて、時折見せる微笑が目に付いた。彼にはまだ、自分が何に引っかかっているのか分からなかった。その不可思議さが珍しく彼を苛立たせた。

 2日後、彼の休憩と彼女の休憩が一緒になった。この店での女の子の制服が短いスカートにニーソックス、大きなフリルの付いた半袖ブラウス、しかも全てがピンクのグラデーションという目立つ格好だったので、更衣室の他に女子専用の休憩室があった。 

 大抵のバイトの娘は休憩時間中、その部屋の中で携帯相手に過ごすか、他愛の無い噂話などの交換に費やしていた。それなので、彼女が通用口のドアからひょっこり出て来た時―彼はいつもの様に向かいの中華料理店の薄汚れた裏壁に寄りかかっていたのだが、思わず身動ぎした。

 彼女の方は、彼がドアの向かいに居ても別段驚いた様子も無かった。ハーフコートを制服の上から羽織り、口元に笑みを浮かべると、

「どうも。この間もここに居たね」

 お愛想とは思えない、親しみが篭った言い方だったので情に薄い彼も表情が緩み、

「うん。休憩はいつもここ」

「どうして?」

 声は耳に優しいアルトだった。

「別に。理由なんて考えたこと無かったな」

 彼女はクスクス笑った。肩から掛けたハーフコートを直すと、

「面白いね、キミは」

 その時、彼はまたあの感じを覚えたのだ。それは人によってはデジャヴと呼ぶものかもしれない。こんな感じで過去、彼女と会っている、と。

「そうかな、面白いヤツといわれたことは無いな」

 考え込んでいたせいか返事が投げやりで少しきつい、と彼は思ったので、

「ま、こんな風に僕は無愛想なんでね」

 と付け加える。すると彼女は、さっ、と笑みを消し、こう言った。

「そうねぇ。キミはきっとね、無愛想じゃあなくて、感情を晒すのが怖いのよ」

 彼はあっけに取られて彼女を見つめたままで居た。

「・・・ごめんね、私もこんな風に変わっているから」

 そして急にケラケラと転がるように笑った。

「キミ、名前は?」

「ゴトウアツシ。君は?」

「・・・アイ、よ」

「何アイ?」

「シマダアイ」

 それからお互いを探るような会話となって行ったが、彼に分かったことは、彼女が「北」の方の出身ということ、両親は他界し兄弟姉妹もいないこと、この店のある街から急行で二駅戻ったところに一人暮らしをしていること、だった。

「アイさんは、学生だよね」

「いいえ」

「じゃ、普段は何しているの?」

「ん?バイトしてるじゃない」

「あ、そうじゃなくて、ほら、歌ってる、とか踊ってるとか芝居してるとかさ・・・」

「ああ、そういう意味ね。特にしてないわよ。本、読んでいるかな」

 変わった娘だ。フリーターにしては立ち振る舞いが清楚で、かなり良いところのお嬢様のように見える。何処となく感じる世間ずれしたところが、ますますお高く思えるが、それが嫌味となっていない。別に似ていた訳ではないが、彼はローマの休日のヘップバーンを何とはなしに思い浮かべていた。

「アツシ君は普段、何しているの?」

 まじまじと大きな目に見つめられ、彼は、ハッと我に返った。

「え?学校行ってるよ」

「何勉強しているの?」

「一応、経済と言う事になってるけどね」

「イチオウ?」

「そう、一応」

 二人はクスクス笑った。彼にはそれがちょっとうれしかった。

 そういうことだったので、その後、会話に夢中となった彼には、休憩時間は何時になくあっという間に終わった感じがして物足りなさが残った。そこで、彼にしては全く似つかない事をしていた。

「あのさ、また、話出来るかな?」

 髪を鏡で確かめる彼女に思わず声を掛けていた。彼は彼女が答えるまでの時間が、まるまる1分はあったように思えたが、実は一瞬の事だった。

「うん、いいよ」

 にっ、と笑んだ彼女の顔を見つめる彼は、自分の顔に血が昇るのを感じた。

「じゃ、またね」

 さっ、とドアの向こうに消えた彼女の後姿が、彼の脳裏にしっかりと残っていた。


 その後、二人は顔を合わす度に声を掛け合うようになり、再び休憩が同じ時間になった時には、短い時間を惜しむように早口で話す彼があった。彼女が別れ際、またね、と右手をひらひらっとさせる仕草を見て、彼には、何の脈絡も無く胸の鼓動が高まるのが不思議だった。 

 彼は、彼女に一目惚れしていた訳だが、人との付き合いをほぼ拒絶してきた彼には、それが恋愛感情だということに思いが及ばなかったのだ。


 一週間後、彼はバイトのシフトを彼女のそれと合うように変えた。街は年末の喧騒とクリスマス一色となって行き、店も掻き入れ時となり、彼も彼女もほぼ毎日バイトに励んでいたので、顔を合わす機会はいくらでもあった。

毎朝の様に彼は彼女と始業時間まで裏口の狭い路地で話し、休憩や食事が一緒なら、やはり汚れた壁に寄り掛かり、サンドイッチをパクつきながら立ち話をし、帰りが合えば5分ほど立ち話をした。その内に、朝は駅前で会うようになり、帰りも出来る限り一緒に帰り、駅までの短い道すがら、ゆっくりと別々のホームへ別れるまで言葉少なに並んで歩く様になっていた。

二人はもう、お互いの話題は語り尽くしたかのようだった。しかし、圧倒的に彼の過去や現在の話が多く、彼が時折彼女の過去を尋ねると、彼女は天涯孤独ということ以外言を左右しながらはぐらかしてしまうのだった。自然と話題は彼女の生活や過去を避ける様になって行き、彼女の趣味に合わせて本の話が中心になった。

 この頃には、彼はあの、彼女を以前知っていたのかもしれない、という気持ちを追求するのを止めていた。一度、ひょっとしたら何処かで会ったことがある?と彼女に聞いたが彼女は、分からない、と一言言っただけで、彼もその答えで満足しようと考えた。だが、あのもどかしい感覚は、彼の心の奥底に沈んだだけで消える事は無かった。


 年末から年明けにかけても、二人の生活は変わらなかった。二人とも帰る田舎を持たない。また、親しい友人も居ないため、何処かへ出かけるという事もなく、年中無休の店でほぼ毎日働いていた。

 バイト仲間はこの季節のこと、去って行く者あり、休み明けで戻ってくる者ありと、店では顔ぶれが目まぐるしく変化していたが、二人の行動は全く普段と変わらなかった。 

二人のことはバイト仲間も気付き始め、最初は正面切って囃し立てる者こそ居なかったが、二人の「変わり者」が付き合っている、という話題をある者は皮肉っぽくある者はさもおかし気に噂しあった。

やがてバイトの中でも古株の男が、彼に卑猥なジョークを投げかけたが彼は取り合わず、彼女の方も、お局様から嫌味半分のからかいを受けたが黙って微笑むだけだった。が、店内では別にデれデれする訳ではない彼らのこと、店長を含めた残りのバイト仲間達は不器用な恋がゆっくりと育って行く様を微笑ましい想いで見守っていた。

 二人が出会って1ヶ月が過ぎたが、非番の時にデートをする、というところにすら行かなかった。と言うより、彼がこれ以上親密になる、ということに思いが至らなかっただけだ。

 彼にとっては全てが新鮮な感覚だった。忘れてしまおうと、しかもそれに成功していた中学生までの記憶が、なぜか最近ぽっかりと浮かぶようになる。幼友だち、若かりし父、一人っ子だった彼を可愛がった祖母、そして母。そんなものが度々夢の中に現れるようになった。どうしてそんな昔のことが思い出されるようになったのか、彼にとってはどう考えても解けない謎のようなものだったが、それは、彼女と一緒に話し、食べ、歩き、笑うことで連鎖のごとく表れた現象だった。なにより自分が最近よく笑う、と言うことに彼は自分で驚いていた。

彼の反応と行動は傍から見ればもどかしい、の一言だったが、彼女の方は終始落ち着き払い、彼に合わせるわけではないが、冷めているわけでもない様子だった。つまりは、何かのきっかけ、ほんの一押しが必要だったのだ。


 そのきっかけが2月に入った頃、ふいに訪れた。


 その日も彼は朝からバイトだった。寒い朝だったが、目が覚めると彼はいつもの体調でない事に気付いた。体は重く、節々が痛むのだ。こういう時は熱の出る前兆、ということが彼には分かっていた。しばらく、ぼんやりとこのまま眠ってしまおうか、と考えを弄んだ。が、結局はだるい身体に無理強いして起き上がり、朝の習慣を一つ一つこなして行くと、最後に風邪薬を水道水で飲み込み、いつもの時間に彼はアパートを出た。

 時間通りにバイト先の駅に着く。当然の様に改札口に彼女が居た。いつもの様におはよう、と声を掛け合い、並んで店へ向かって歩き出した。彼は空を見上げ、何か雪が降りそうだね、と話した。が、彼の記憶はそこまでだった。


 次に気付いた時、彼はベッドに横たわっていた。白い天井と白く四角いカバーの付いた蛍光灯を見ている自分、何もかもが靄に包まれたようで、妙に視野が狭い事、吐く息が熱く喉が痛む事、そんな断片が次々と意識されたが、それだけでまた彼は意識を失っていった。


 その次に彼が目覚めた時傍らに気配がして、目だけ動かしてそちらを見ると彼女が居た。

 彼女は窓辺に腰掛け、外を見ている様だった。明るく暖かそうな日差しが、彼女の長い黒髪を艶やかに見せていた。その時、彼は正に自分の部屋に居ることに気が付いた。ひどく何かが違う気がしたが、まだ意識は混濁して、その違いが何であるのか、さっぱり分からないでいた。やがて彼は考えるのを止め、彼女に声を掛けようとした。

 その時、彼女は左側の横顔を彼に見せていたが、日差しに眩しい白い頬に一筋涙がこぼれたのを彼は見逃さなかった。彼は言うべき言葉を失う。ただ、身動ぎもせず彼女の顔を見つめるばかりだった。やがて彼女は右手で頬に付いた涙を拭い、吐息をつく。何か、呟いた。耳鳴りがしてよく聞き取れなかったが、最後は、

「・・・・・・ひどい、こんなの」

と言った様に思えた。

 刹那、またもや意識は薄れ時間の感覚は失せる。今、見ているのが夢なのか現実なのかはっきりとしない。場所も自分の部屋なのか、あのベッドのある部屋なのか、分からなくなった。彼女を長い間見つめていた気がしていたが、何時の間にか、窓辺の日差しは消え失せ、窓にはきちんとカーテンが引かれていた。彼女は何処にも居なかった。その時やっと、先程の違和感の理由が分かった。彼女は肩から毛布を掛けていて、その隙間から白い肌が覗いていた。すらりとした素足が寒々と白かった。それが何を意味していたのか・・・そして彼は深い眠りに落ちて行く。


 彼が次に目覚めると、朝になっていた。確かチェストの奥に突っ込んだままにしてあった、継母から贈られた一度も袖を通した事のないパジャマを着ていた。体は重く、何か靄の中に居るように視界はぼやけていたが、熱は無いようだった。ゆっくりと上半身を起こす。壁に掛かった時計は8時過ぎだった。テレビを点けると、バイトに出かけて記憶が無くなった日から3日が過ぎている事に気付いて、一気に目の前の靄が晴れた。知らない間に枕元に下着や三日前に着ていた服やジーンズがきちんと畳まれて置いてあった。とりあえずその服に着替える。

 一歩一歩確かめるようにしてアパートを出た。絶えず身体が揺れていて、目が廻りそうになるのをじっと堪えながら、駅へと向かう。自分が何をしようとしているのか、一体何に突き動かされているのか、ほとんど意識は無かった。視界は晴れていたが、頭の中はまだぼんやりとしていて、物事を深く考える事が出来なかった。いつの間にかバイト先の駅で降りていて、彼は何時の間に電車に乗ったのかまったく記憶が無かった。

 駅の階段を踏みしめるように一歩一歩ゆっくりと登り、そして降りた。改札を抜ける頃には大分気分がすっきりとして来たように思えた彼は、少し心臓の鼓動が高まるのを感じていた。通い慣れた商店街はそこにある。自然と足取りが早まり、最後は小走りとなる。 

 毛布だけを纏った彼女の涙を思い出していた。あの、夢とも現実ともはっきりとしない時、妙なリアリティを与えていた彼女の涙に絶対に彼女だけは本物だ、という確信に、彼はうろたえ始めていたのだ。

 バイトへ通う毎日なら、そのまま中華料理店の脇の小路地へと入って行くのだが、今日はそのまま直進し、店の正面へと出る。軽くスモークの掛かった大きな窓辺から店内がぼんやりと見えている。目が必死に彼女の姿を探す。彼は、次第に息苦しくさえ感じる胸の鼓動に負けまいとした。彼女の姿は見えない。ウェイトレスの一人が彼に気付き、ちょっと驚いた、といった表情を浮かべて見せる。もう一人の女の子が、右手を下げたまま腰の辺りで掌を泳がせてウインクした。しかし彼はそれらに気付かず、店の正面から脇へと、中華料理店の小路地へと走り出した。

 彼女が居た。例のごとくハーフコートを制服の上から羽織り、壁に寄り掛かっている。驚いた事に煙草を燻らせていた。彼はゆっくりと彼女の前へ行き、立ち止まった。彼女は煙草をもう一口吸うと、そのまま顔だけを彼に向けた。彼女は彼を見ても表情を変えなかった。全く無表情のままだった。

「煙草吸うんだね」

 何か焦燥感に苛まれ出しても、口を突いて出た言葉は陳腐の極みだった。彼にとっても、こんな事を言うためにここに来た訳ではない。なのに、まるで彼女を攻めるかのような厳しい口調になってしまった。彼は彼で、自分の言葉に含む棘に動揺していた。

「吸うよ。幻滅した?」

「いや、見たこと無かったから・・・」

 彼は激しく被りを振ったが、彼女の失笑を買っただけに終わった。

「普段はうまく吸わないでおけるんだけどね。『若い頃』に身につけた悪い習慣よね。いつも、こんなに惨めな気持ちになると吸ってしまうのね」

 彼は、こんなに惨めな気持ち、と言う言葉に更に衝撃を受けていたので、その前の妙な言葉に気が付かなかった。

「ごめん、僕のせいかな?」

「キミの?そうではない、と言っておくわ」

「分からないんだ、熱で倒れたのは分かるんだけど、その後が」

「分からないでいいよ。というか、分かるはずがないよ」

「何かアイに迷惑掛けたか、と思ってさ」

「別になんでもないよ。と言うかね、気にしないでいいよ、キミは」

「病院かどこかに運んでくれた?その後、部屋に運んでくれたんでしょ?途切れ途切れに記憶はあるんだけど、さっぱり分からないんだ。一体何だったの?」

「インフルエンザだって。それで病院行って一晩入院しただけ。キミを病院や部屋に運んだりお金立て替えたりしたのは店長だから、彼にお礼言ったらどう?」

「僕の部屋に居たよね?看病してくれたの?」

「さあね。ねえ、キミは病み上がりなんだから、早く帰って休んだら?」

 彼をキミと呼ぶのは機嫌が悪い証拠だ。あくまでも今日は突き放す彼女だった。彼は黙り込んでしまった。一体何があったのか、彼女に何をしてしまったのか、記憶が無いのでもどかしさに拍車が掛かった。

 しばらく彼女が煙草を吹かすのを見ていたが、やがて、

「・・・店長に会って来る、随分迷惑掛けたみたいだから」

 返事は無かった。彼は軽い眩暈を再び感じながら店長に会いに行った。

 店長に侘びを言い、一週間ほどバイトを休む事にして店を後にした。通用口から出ると、もう彼女は居なかった。まだ病み上がりの彼は、重い身体に言い聞かせるように、ゆっくりと駅に向かった。


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