第13章(1)〜カイト、侵入
その有刺鉄線を上端に渡したフェンスは高さ3.4m、軍、警察が標準とする侵入防止柵だった。フェンスは敷地の外周をぐるりと一周、およそ二万五千メートルに及び、罪は無いが誤報の元となる野生動物と不埒な興味を持つかも知れない人間から施設を保護していた。なお、一般に信じられているのとは違い高圧電流などは流されていない。警報が鳴って駆けつけて見れば黒焦げの蛇や猿がぶる下がっていた、など手間と金が掛かる割りに効果が薄いからだった。しかし、信じる人間には信じさせておくに限る、との理由からダミーの電線が忍び返しとなっている有刺鉄線上端に沿って張り渡してある。
フェンス自体は細く硬い特殊ステンレス鋼で、不規則な細かい網目状となっており、また、国の施設という固いイメージからすれば意外な事に、支柱にルーズに留められて、波を打っている。これは実際にフェンスによじ登ろうとして見れば分かるが細かい網目は指掛かりがなく、またワイヤーカッターなどの刃を網目に通す事も出来ず、更にルーズに留められている事で登ろうとする人間の体勢は安定せず、荷重が掛かることにより金属が撓んで鳴る甲高い音が辺りに響き渡るのだ。ただし、風の強い日にはそのガシャガシャという音が煩く、周辺警備の者を悩ませていた。しかし、これも侵入自体を職業とする特殊な人間達には障害とは呼べない代物であり、その事はフェンスの設置者も良く承知している。
侵入者が本当に恐れるべきものは、そのフェンスの内側に様々な形で用意されていた。フェンスの支柱や内側の立ち木に紛れて設置された監視カメラは当たり前の用心だが、フェンスの直下、内側に敷かれた感圧マットは5kg以上の物体が乗れば警報が鳴り響き、そのフェンスから10m離れた場所には隠蔽された小型のトーチカがおよそ100m毎に点在し、もちろん通常時はロック状態にされてはいるが、非常時にはモーションセンサーや赤外線センサーと連動する自動発射機関銃が睨みを利かせている。更に、パターン化されず不規則に巡回する保安部員や、夜間、無人地帯に放たれる巡回警備の訓練を充分に施された軍用犬の群れ・・・ここではある意味過剰なほどの警備が行われている。
そんな施設のフェンス前に伸びる四車線国道を隔てた雑木林の中に4つの人影が現れたのは午後11時50分。国道はこの時間帯も通る車は疎ら、特に外出制限時間10分前と来れば通行は全く途絶えた。
彼らの格好は上下繋ぎの黒い特務服。同じく黒い目出し帽を被り、表情は伺えない。国道と施設では煌々と夜間照明が点り、彼らが潜む叢からもフェンスの中、視界の開けた無人地帯がよく見える。やがて4つ人影の内、先頭に潜んだ最も大きな影が後ろに控える3つの影を振り返り、右手を微かに動かし指を三本立てて示すと、3つの影が思い思いに頷く。影はその格好のまま動かない。そして再び右手を上げると指を二本。更に間が開いて指は一本となる。後ろの3つの影は、前の影が指を三本立て、直後にその指を握り下に向って力強く引くと、それぞれ数mづつ間隔を取って離れ、思い思いの格好で『準備』をする。そして前の影が横に伸ばした握り拳を小さく挙げ、続いてそのまま下げると、4つの影は全く動かなくなり闇に馴染んでその一部と化した。
中央監視センターで、ブザーが鳴り響き赤色回転灯が光る。
「セクター2−6で発砲音!」
「トーチカからではありません!小銃の発砲音を確認」
「巡回警備第7班の担当域ですが、7班からの応答がありません!」
「待機中の 即応班を向かわせろ!制限区域警護隊本部へ通報、グリック内で発砲、直ちに周辺封鎖を願う、とな!」
「通報します!」
「巡回警備で一番近い班は?」
「7班に近いのは現在11班」
「11班もセクター2−6へ向わせろ!」
「了解!」
「即応班DからG班が出動しました!即応班より地区2、及び1、3における武器使用無制限のリクエストです」
「ノー!まずは現状確認しろ、7班はどうした?」
「まだ分かりません、現在対象セクターのHDR―ハードディスクレコード確認中」
「急げ!何秒経った?38秒?遅い!遅いぞ、待てん、全域B警報だ、責任は俺が取る!」
「了解・・・0006、全域B警報発令します!」
「司令、制限区域警護隊本部が情報確認、直ぐに出動するとのことです」
「セクター2−6及び2−4で銃撃音が複数聞こえます、巡回警備7班の識別信号が全て消えました!」
「・・・即応班に通達、能力者侵入の可能性有り、特に敵味方の識別に注意しろと伝えろ」
警報のサイレンが鳴り響く中央監視センターで突発事態に対応していた主任オペレーターが、思わず当直司令の方を振り返る。
「サイキッカー、ですか?」
すると司令は突然低い声で、
「特別ミッションが進行中の、発砲騒ぎなど無縁のグリックでこの有様だぞ。あいつらじゃなかったら、誰だというんだ?」
「まさかエンジェル、ですか?」
作戦遂行中の負傷が原因で軍から武装警察に転属した経歴を持つ当直司令は、混乱する各セクターのモニターを睨みながら表情はひたすら暗い。
「俺は見てるんだよ、たった一人で中隊を全滅させる奴らをな。さあ、ぐずぐずするな!」
事態はすぐさま混沌として来た。
当初、巡回中のパトロール各班は監視センターからのコントロールで冷静に動いていたが、何故か次第に統制が取れなくなり、応答が無くなっていった。発砲騒ぎから5分過ぎた頃には、最初の発砲地点以外でも複数の発砲が認められ、即応班が最初の現場に到着した直後、その即応班からの連絡とリンクされた映像通信も途絶えてしまった。一体何が起きているのか全体像が見えなくなり、10分後には施設全体に緊急度Aの非常事態警報が発令され、警備や軍以外移動禁止、職員はその場で各部屋に閉じ篭った。保安部は懸命に統制を回復させようとしたが、真偽が定かでない発砲情報や正体不明の『敵』の目撃情報、果てはその敵と交戦中増援を、と言った要請までが敷地内の至る所から寄せられる始末。この時点で、『敵』は特別ミッションの対象・すなわちプリンスの誘拐・拉致行動を起こす、との最悪の予測がなされ、現在敵は能力者を使った攻撃を行っている、と断定『9.29』に対抗指令が出された。しかし、『9.29』に出来る事は限られていた。
*
(・・・居た、これじゃないかな?・・・近いよ、えーっと、1キロほど北東・・・倉庫の向かい側の林・・・これ、本物だよね?)
(・・・ええ、こちらも確認・・・ウリエル、ウリエル、ウリエル。中央監視センター。どうぞ?)
(メインコントロール、レシーバーのマエダだ、どうぞ)
(構内への侵入者本体と思われる集団を確認。セクター2−8、K24棟、南側の植林地帯を東へ移動中。どうぞ)
(了解した、2−8、K24の南側、東へ移動中。これを対象集団Aとする。引き続き捜索をリクエストする)
(了解、捜索を続行する)
セクター6、ルームAのある隔離実験棟から500メートルほど離れた場所にある地上3階の白い建物。その2階中程にある窓の無い一辺が10mほどの真四角な部屋。壁は白く、廊下側に一つだけあるドアも白い。ドアの直ぐ横に事務机と回転椅子が2脚。部屋中央に折り畳みのテーブルと向かい合わせに回転椅子が2脚づつ。
能力者作戦室。様々な実験施設が林立するグリックでも機密度が最高の施設の一つで、サイキッカーの能力開発のための実験施設や演習施設、そして作戦室がその内容。特にこの作戦室は、一見殺風景ながらサイキッカーの能力を最高度に引き出すための様々な工夫と環境が整えられている。因みにミカエルがプリンスに『フリートラント』を施した時に使った部屋はここではなく、単なる休憩室だった。
今、その作戦室中央の椅子に腰掛けるのはアウリとジブ。煌々と点った蛍光灯の真っ白な光の下、二人は目を瞑り黙り込んでいる。否、黙り込んでいるのは表面上で、二人の内面では凄まじい勢いで思考が乱れ飛んでいた。
(あ、でも、アウリ、これ、クラッターかも?空っぽだよね、覗いても何も見えない・・・)
(・・・気配が薄い・・・思念が読めない・・・だけどとっても意図的・・・ううん、欺瞞とは違う。あれはもっと弱くて脈が無いけれど、これは『温かい』わ。ちゃんとした『人間』よ)
(うん・・・でも見つけるの時間掛かっちゃったね、なに?一体幾人いるの?『操り人形』。本物探そうとすると雑音がすごくて・・・)
(いいえ、これは人形以上のものよ。『ゾンビ』だわ、自我が見えなくなってるもの。少なくとも百人は『壊され』てる)
(どうするの?このままじゃ・・・)
(とりあえず無視するしかない。犠牲もあるけれど、今は集団Aを追うのが先)
(・・・あのね、感じない?とっても嫌な感じ)
(言いたいことは解る。来ているよ、何人も)
(じゃあ、これは、あれ?タコ?)
(そう、間違いなく『凧』だわ)
(やっぱり・・・じゃ、攻撃出来ないね)
(うん、『凧』自体に思念攻撃は通用しないわ。でも、凧を操る『操縦者』を見つけ出せば、そちらは攻撃出来る。2人だけで対抗しなくてはならないから、今はパイロットを攻撃するのが先。ゾンビを作ってる『人形使い』は後でやるわ)
(そっかぁ・・・来てるんだ、みんな。じゃ、兄さんも?)
(だめ、気を逸らせない。ジブ、3−2に移動した『凧』をトレースして。こっちはパイロットを探してみる)
(うん・・・分かったよ)
ジブが気乗りしない様子で移動する『敵』を追跡しようとした、正にその時だった。
(おーい、きっちり仕事してるかい?お二人さん)
(ミカエル!)
(どこに行ってたの?先生が探してたよ?)
(どうでもいいですけど、手伝って貰えません?)
二人の問い掛けにミカエルは苦笑のイメージを添えて、
(悪いね、気晴らしに深夜のドライブとしゃれ込んでたトコさ。今、そっちに向ってるから、後ちょっとだけ踏ん張ってくれ。ああ俺の分、取っといてくれよウリエル)
(ふざけてる場合じゃありません。プリンスを護らないと。今、こっちは手一杯なんで)
(分かってるって。奴らは構内に出現したんだろ?)
(そうだよ、今、プリンスの居る棟に向ってる)
と、ジブ。
(アイの奴がゲートを開いたんだな、グリックの構内に。それにしても、妙だと思わんかい?いくらあいつ等が狂ってたとしても、この方法ではプリンスに指一本触れられないのは分かってるはずだろ?地下4階の警戒厳重な隔離実験棟、警備は100名以上。これじゃあ、たった4、5名が正面からのこのこプリンスを下さいって入って行けるもんじゃないよなぁ、え?)
(やはり外の凧は囮と考えます?)
(ああ、きっと来るさ、内にね)
(・・・楽しそうですね、ミカエル)
皮肉たっぷりにアウリが送ると、ミカエルは、
(ああそうとも。楽しいさ、待ってたんだからね、今夜を)
(何?何のこと?)
(ああ、ガブリエル。待ってたんだよ、俺はね。君が苦手にしていた、あの『おねーさん』のことをね)
(おねーさん?え、ルシェのこと?)
(正解。それはそうとしっかり見張ってろよ、二人とも。外の連中は囮だが、飛びきり優秀な『凧』だからな。手を抜いちゃいけないぜ?さてと、じゃあなお二人さん、もう少し頑張っていてくれたまえ。そうだな、あと10分ほどで参加させてもらうよ)
ハンドルに両手を肘まで乗せ時速150kmで愛車を疾駆させながら、ミカエルはコンタクトを解く。すぐさま思考を読まれぬよう、意味の無い雑念を自分の周りに二重、三重と纏わり着かせながら、ミカエルは薄ら笑いを浮かべる。
― まあ、君等と並んでは戦いはしないがね
彼は車を走らせながら、グリックとその周囲に想いを巡らせる。ざっと感じ取っただけでも、多くの人間が発する緊迫した思念と底知れぬ恐怖心が感じられる。特にグリックの内側は滅茶苦茶だった。まるで雑音だらけで全く聞き取れないラジオの様、ためしに一人の保安部の男にアクセスすると、これはもう、混乱した人間の見本の様な有様で、支離滅裂な思考が複雑に入り乱れ系統だった思念を組み立てる事など無理な事だった。
― さすがだねぇ、混乱醸成ってかい?しかも随分といっぱい仕込んだよなぁ・・・けど、結構時間が無いトコで精一杯、って感じもあるなコイツは・・・ふーん、プンプン匂うぜ、あんたの匂いがね・・・なるほどね・・・
次に彼は、グリックを見下ろす小高い丘に登る小道に向かい、国道から浅い角度で離れるその小道の入口に、スピードを落とさず車を突っ込ませる。道は舗装されてはいるものの、九十九折に急角度で登っている。その道を100kmオーバーで登り切り、丘の頂に聳える通信関連の電波塔とそれを護る有刺鉄線の前で停車する。彼は急いで車を降りるとその無人施設の前、木々が払われ視界が開けている場所からグリックを見下した。
― さぁて。どこにいる、お姉さんよ