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第1章〜冬の夜に

―1981.12.18 金曜日 17:09 某県某山地


粉雪が舞っていた。一面にうっすらと白化粧となった森の中、夕暮れ時、男は息も絶え絶えに走り続けていた。 

 森は太い老松が並び、その根は複雑に絡み合い覚束なくなった彼の足取りを度々乱した。滑る松葉と雪に転びそうになったのは幾度目か、しかし彼は転ぶわけにはいかなかった。大切な荷物を抱えていたからだ。

 迷彩色のアノラックに包まれて、肩から斜めに掛けられたベビーホルダーで抱えられた荷物、歳は一歳半位か、女の赤ん坊だった。普段でさえ暗い森、初冬の夕暮れ、恐ろしく寒く雪も舞う、ともなれば足元にも闇が漂い吸い込まれそうな深い闇が森の奥へ奥へと続いて行く。そんな人の気配の途絶えた森に彼らの姿へ目を遣る者も居ないと見られたが、もし、彼が立ち止まり間近にその手の内の赤ん坊を見る者が居るとしたら、微かに違和感を覚えるのかもしれない。それは赤ん坊の表情だった。

 女の赤ん坊は目覚めていた。目をぱっちりと見開き、闇でしかない森の奥をアノラックの隙間から無言で見つめている。しかし、その表情は理由も分からぬきょとんとしたものではなく、泣き飽いた後の自失したものでもない。異様と思えるのはその目だ。赤ん坊独特の黒目勝ちな瞳に浮かぶのは、正しく憂慮だった。また口元は一直線に引き結ばれ、半ば開き気味となるあの赤ん坊の口元とははっきりと違っていた。どう考えても意志の強い大人の女性の顔が赤ん坊の顔へ貼り付けられた様だった。

 彼はようやく立ち止まると肩で息を継ぎ、思い出したかの様に赤ん坊を抱きしめ再びよろよろと走り出す。その先、深い闇の中、アクセントの様に粉雪が複雑な渦を巻き、彼はその闇を目指して進んで行く。


「トラック3からトラックリーダーへ。対象A及びBコンタクト」

 男が口元に伸びた細いマイクに囁いた。カモフラージュネットの下から覗く目以外微動すらしない。

「トラックリーダーだ。3、対象の様子は?」

「リーダー。今、回線を繋ぎます」

  男は松葉に覆われた崖の上から非常にゆっくりとした動作で身を乗り出し、被ったヘルメットに付いているマイクロカメラを外すと、伏せた目の前に置いてあるミニサイズの三脚に取り付け、少しの間調整すると、

「3からリーダー、確認願います」

「・・・確認した、3。オールトラック、確認したか?応答せよ」

 3の男を除く8人全員からの「確認しました」が返ると、

「オールトラック、少し待て」

 コンソールの前に座った調整官はヘッドセットの片耳をずらし、振り返ると腕を組んでモニターを眺めている若いスーツ姿の男に声を掛けた。

「やりますか?」

「いや、もう少し先に行かせた方が良くはないかな?」

「・・・あの先はご説明した通り、」

「三方が崖に囲まれた閉塞地、だろう?」

「そうです。万が一、ということも」

「確かに厄介だね、落ちでもしたら。いや、素人が失礼したね」

「では、チャーリーで、よろしいですか?」

「で、『エントランス』の所在は分からなくなる、か」

 調整官は深呼吸した。煙草も吸えない環境でもう4時間が経つ。

「それは我々に対する侮辱でしょうか?」

 スーツの男は眉を吊り上げると、

「もちろん君達が優秀だ、ということは知っているよ」

「捕まえたら今度こそ吐かせます」

「・・・分かった、任せた。チャーリーを許可する。時間は・・・1732だ」

「了解。1732、状況チャーリーの認可を受けました。直ちに」

 調整官はヘッドセットを被り直すと、てきぱきと指示を出し始めた。

「トラックリーダーからオールトラックへ。状況チャーリーを許可する。繰り返す、状況チャーリーを許可する。1、対象の右翼へ回れ。2、安全距離を取り、対象を尾行せよ。3、現場を維持、待機せよ。4及び5、対象の左翼へ回れ。6及び7、現場位置に留まり、対象を視認したら―」

 スーツの男は寄りかかっていた精密機器のラックフレームから体を離すと、近くのデスクに乗っていた電話を指差し、傍らの警備の男に聞いた。

「スクランブラー付いているよね、これは?」

「ええ、ついています。外線は0発信です」

「ありがとう」

 そして、ある番号へ掛けた。

「・・・私です。発見しました。チャーリーを許可しました。・・・勿論です・・・それは彼ら次第ですが・・・了解しました」

 ゆっくりと受話器を置く。男は忙しく指示を出し応答を確認する調整官を一瞥すると、先程声を掛けた薄暗い部屋の入り口に立つ警備の者に近付き、

「後は現場の仕事だね。背広組は邪魔しないように出ているよ。対象を確保したら知らせてくれ。食堂でコーヒーでも飲んでいる」

「分かりました」


 彼の苦行は続く。抱えたアノラックを胸に引き寄せ、松の間を抜けて行く。上がり切った息が荒く、彼の被るフードから白いものが立ち上がった。長い間軽い上りになっていた斜面がようやく緩やかな下りに掛かった辺りで彼は立ち止まり、松の老木に体を預けた。迷彩服のフードを左手で跳ね除け、暫くは大きく息を継ぐことだけしか出来ない。

 暫くそのままでいると息がようやく落ち着く。彼は空を仰いだ。粉雪は相変わらず舞っている。顔に浴びる雪が見る間に溶けて行く。彼は抱えたアノラックを整え、赤ん坊を包み直す。そして、再び駆け出そうとしたその時だった。

 カチッ・カチッ・カチッ・カチッ・・・

 彼が背負うバックパックの右側、5センチ四方の黒いボックスが微鳴していた。彼は立ち止まり、素早く松の根元へとしゃがみこむ。左右を見渡すが視界は既に5メートルもない。絶望が顔に表れた。 

 彼は肩からベビーホルダーを抜き取り赤ん坊を松の根元、根が二股に分岐した部分にそっと置いた。ホルスターから銃を抜くと、慣れた手つきで弾倉を確認、安全装置は掛けたまま右手に握りこむ。そしてアノラックから覗く赤ん坊の顔を見ると、

「ユカ、ごめん。ここまでだった」

 そしてアノラックを顔に被せた。その時、赤ん坊が泣き出した。だが、それは赤ん坊の甲高い泣き声ではなく、正しく嗚咽だった。

「・・・先に行くよ。また会えるものなら、あっちで待っているからね」

 何かを振り切るように、身軽になった彼は、森の奥に向かって突進した。


 羽毛の様な雪が降っていた。松の密生した森にも雪が積もり出していた。全身黒の特務服に身を包んだ一団が、緩い円を描いて内側を向いていた。一見すると短機関銃のおもちゃのようなコンパクトな銃を負い革で下げて、2人がその足元に横たわる迷彩服姿の男を調べていた。

 数人の男はまだ暗視装置をつけたまま、円の外側を監視している。やがてその中の一人、胸と背中に小さく赤十字の縫い取りが見える男が立ち上がり、ヘルメットから覗くマイクに囁いた。

「トラック9からトラックリーダーへ。対象Bの死亡を確認。繰り返す、Bの死亡を確認。初見では致命傷は下顎部から頭頂へかけての銃創と思われる。トラックの阻止によると思われる銃創は全て両大腿部、右肩、右腕などに認められる。現段階では、対象Bの死因は本人の銃による自殺と思われる。以上」 

 するとその隣に立った男が続けて話し出した。

「1からリーダー。対象Aは捜索中。対象Bがトラックに気付いたと思われる地点に4、5が接近中。間もなく対象Aを発見出来るものと確信する。状況評価、対象を『エントランス』の手前で阻止したものと評価する」

「トラックリーダーからトラック1及び9へ。確認した。1、状況を記録次第、現場をクリアとせよ。対象Bの搬出を許可する。対象Aを確保次第、直ちに状況エコーとせよ。繰り返す、対象Aの確保次第、直ちに状況エコーとせよ。以上だ」

「1、了解。以上」

「ああ、リーダーより1」

「はい、リーダー」

「1、分かっているだろうが、帰って来ても直ぐには眠れんぞ」

「・・・了解、リーダー。以上」

 調整官は交信を終えても暫く身動きしなかった。

「まあ、そう気にやむことは無いよ、阻止はしたんだからね」

 スーツの男は調整官の肩に右手を置いた。調整官は無表情に振り返ると、

「大口を叩いた割には・・・申し訳ありませんでした」

「いや、分かっていたんだよ、ボクにはね。生け捕りなんて無理なんだ。彼らは意志の人たちだからね」

「・・・詳細なご報告はチームが帰還してから24時間以内に致します」

「いいよ、彼らも丸2日のハンティングなんだ。ゆっくり休んで36時間後、と言うことで」

「すみません、お言葉に甘えさせて頂きます」

 といっても反省点満載なので聴取と報告でとても眠れないだろう、とは付け加えなかった。

「対象Aは確保してくれるよね?」

「チームを信頼しております」

「期待するよ」

 しかし、その声は期待のかけらも無いものだった。


 トラック4、5と呼ばれる男二人が、暗視装置を赤外線感知モードにした途端、前方30mほどの松の根元に微かな反応があった。二人は右と左に分かれ、慣れた接敵パターンで速やかに音も立てずに接近する。 

 やがて4の援護の下、暗視装置を外した5が間合いをつめて松の根元に走りこむ。直ぐに雪化粧したアノラックを発見、銃を向ける。マイクに何事か囁くと4が素早く離れ、周囲に警戒を巡らせた。それを確認した5は、銃口の先の照星でアノラックの端をゆっくりと捲る。

 5は暫く覗き込んだ姿勢のままだった。やがてゆっくりと首を振るとマイクに囁く。

「トラック5よりトラックリーダー及び1へ。対象Aを発見、但し対象は死亡したものと思われる。繰り返す、対象は死亡したものと―」 

 アノラックから覗く赤ん坊の目は開いていた。そして口元から一筋の血が流れて、首下に血溜りを作っていた。その目に羽毛のような雪片が落ち、まるで涙のように目から溢れ流れ出て行った。

 調整官は最後の通信を終えると、ヘッドセットを毟り取ってコンソールに投げ出した。

「申し訳ありません、完全に我々の、」

「だから、もういいって。報告はチーム帰還36時間後、だったね?」

「はい。直ちに検証を開始します」

「ご苦労様、頼むね」

 調整官の敬礼に会釈で返すと、スーツの男は部屋を出た。廊下を歩きながら携帯電話を取り出し、どこかを呼び出そうとしたが、ここでは通じない事を思い出した。そして、急ぎ足でその建物を出ると、待ちかねたように携帯電話を掛ける。

「・・・・はい、・・・・はい、直ちに」

 彼は部屋の中では決して見せなかった厳しい表情をしていた。連絡を取り終えた彼の前に黒いセダンが静かに横付けする。自分で後部ドアを開けた彼はシートに軽く腰を掛け、ドアを閉めると問わず顔の運転手に応える。

「グリックだ。急いで」

 車は物言わぬ運転手に操られ、構内を抜け、ゲートをノーチェックで出た。スーツの男は有刺鉄線付きの高い塀に囲まれた施設の敷地から出ると大きく息を吐き、改めてシートに深々と体を沈め目を閉じた。

「分かって居たんだよ、奴らが死ぬって事は」

 つぶやく男を乗せて車は夜の国道を疾走する。


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