第11章(後)〜DANCING With DEVIL
「・・・ふざけるな」
(ふざけてなど、いないさ)
「悪魔だと?」
(プリンス。君が孤独な少年の頃、聖書や魔術に興味を示して天使や悪魔など非現実的な存在に慰めを見出した事があったそうだね。だから君は宗教や天使のことに詳しいようだが、その君から見て世俗そのものであるこの姿は興醒めかい?)
「・・・知るか」
(山羊の頭に醜い角、そして太い蹄が無いとしっくり来ないかい?)
「ああ、しっくりこないね!」
(仕方がないなぁ。じゃ、ご期待に沿うとしようかな)
男はそう言うと立ち上がる。すると忽ち全身にムクムクと剛毛が生え出し、サングラスが落ちて砕け散り、着衣は破れ、その身体は見る見る巨大化する。ほんの数秒後、男の姿は天井に達するかのような巨大で、恐ろしい角の生えた西洋の悪魔の姿に変身した。さすがに感覚の麻痺した彼も、これには度肝を抜かれ言葉も出なかった。
(最近、君の辺りには『天使』を語る輩が多いからな。たまには悪魔もいいもんだろう、え?プリンス)
野太い声で『悪魔』はケラケラと笑う。と、見る間に元の男の姿へと戻る。サングラスも破れた筈の着衣も元通りだった。声も無い彼に男は一転して平板な声で、
(人の認識力など大したことはない。形、色、感触、匂い、温感、全て上っ面しか見ていないものさ。五感を総動員すれば物の本質を理解する事も可能だろうが、ノーマルな者はそんな事を長く続けることは出来ない。だから認識なんぞは簡単に情報操作出来てしまう。本質を見誤ったからと言ってノーマルな君が気に病む必要は無い)
彼には瞬時に理解出来ない不思議な事を言うと、男は気分を変えたかのように笑い、
(さて、びっくりして落ち着いた所で友好的な会話を愉しもう、え?プリーンス)
再び椅子の背を前にして座ると、相変わらず小馬鹿にしたようにクスクス笑いながら、
(どうだい?ファウスト博士になった気分は)
「・・・最悪だ」
(だろうな。ま、安心していいが私は君を取って喰うつもりも契約を結ぶつもりも無いよ。それはそうとして、君はまだアイのことを信じているのかい?)
「どういう意味だ?」
<どういう、ってそのままの意味さ。この際、君がアイの事を愛している、とかは関係無いよ?人は対象を憎んでも、愛する事に影響を及ぼさない不思議な感情を持つ事があるらしいからね)
「信じている」
(本当に?)
「信じている」
(信じたい、の誤りでは?)
「信じてるって言ってるだろ!」
(分かった、分かった、ムキになる事はないさ。信じている、としよう)
「一体何を言いたいんだ、お前は」
(君は竹崎やガブリエル、いや、君らはジブリールと呼んでいるのだったね、彼らの言ったことを未だに信じようとしていない。それはアイのことも信じていない、と言うことではないのか?)
「アイは・・・違う」
(違いはしないさ)
「ちがう!」
すると男はけたたましく甲高い声で高笑いすると、
(今のアイを見てもいないくせに、良く判断が出来るな?)
「・・・ならば、会わせろ!」
(本当に会ってもいいのかな?)
「何?」
(アイは君の事を何とも思っていないかも知れない)
「そんなはずは」
(無い?そういい切れる君は、やっぱりお目出度いなぁ)
ケタケタ癇に障る『悪魔』の笑いは、彼を更に追い詰める。
「その笑いをやめろ・・・」
『悪魔』はそれに取り合わず、妙に醒めた声で、
(君は本当は竹崎やこの世界の事など、どうでもいいと思っている。ついでに言えば、あちらの世界の事も知った事か、と言うわけだ。愛は盲目、究極の自己中心主義だと言うが、私に言わせればそいつは只のご都合主義だね。君は現実がどうであれ自分の信じたい事だけを信じ、アイだけが君の理解者でアイだけが君のそばにいればいいと考えている。え? そうだよな?)
「・・・違う」
(いいや、違わない)
「違うって」
(図星だって顔に書いてあるぞ。ハハハ。いいや、私に嘘はつけないさ)
「うるさい!」
(まあまあ、自分を責めちゃいけないよ。人間は弱いからな、愛は盲目てぇのは君だけの専売特許じゃない)
「うるさいって!!」
(納得出来ない、ってか。ならば君が置かれた現実と言う奴を、ガンコな君にも分かり易く見せてあげるとするかな)
「何を見せると言うんだ」
すると『悪魔』は彼の目の前から瞬時にして消えた。そして一瞬後彼の背後に現れ、
(さあ、これが現実だ、良く見るがいい)
囁く様に言い放った瞬間。
部屋は白い霧に包まれ、一寸先も見えない空間に変った。白い霧は四方八方から光に包まれ、右も左も分からない。下も霧に包まれていて光り輝いている。固い床の感触は消え、海の上に浮かぶ救命ボートの底のような不安定で揺れ動く床の感触、天井も霧と光に包まれて何も見えない。それに・・・ここは本当にあの部屋なのだろうか?
男も消えていた。そこには彼一人だった。とにかく歩き出す。ところが十歩行っても二十歩行っても壁が見えない。四つん這いとなって『床』を探ってみるが、激しく手を振って見ても霧は纏わり付いて底が見えない。 彼は諦めて寝転がろうとしたが、霧はしつこく覆い被さり、軽い閉所恐怖に襲われた彼は、慌てて立ち上がった。そこはもう、部屋ではなかった。
途方に暮れつつも、彼は方向を定めて歩き出す。夢に違いない、とは思うのだが、頬を撫でる霧はひんやりと冷たいし、覚束ない地面は彼の動きに逆らうかのように揺れ続けた。彼は口の中でカウントを始める。1・・・2・・・3・・・
30・・・31・・・このままの状態が続くとしたら、いつかは・・・
108・・・109・・・110・・・奴はこれが現実だ、と言った。何の現実なんだ?
356・・・357・・・358・・・やはり夢だ、こんな世界があるわけない。
692・・・693・・・694・・・止まるか?いや、1000までは・・・695・・・
1051・・・1052・・・1053・・・どうする・・・1054・・・
1998・・・1999・・・2000・・・
彼は立ち止まり、辺りを見渡す。何も無い。白い空間が一面に広がっている。霧は濃過ぎて濃淡も分からない。息苦しい。パニックが起き掛けているのが分かるが、どうしようもない。
「・・・おい」
彼は上に向かって声を掛ける。
「見ているんだろ?そこに居るよな?」
答えは無い。構わず、
「これが現実?何も無いこれが、か?もう見飽きるほど見たぞ!どうしたいんだ!」
声は霧に吸い込まれ、響く事も無い。
「おい!聞いているんだろ?居るのは分かってるんだよ、こっちは!」
かなり声を張り上げても、篭って響く事はないため逆に閉塞感が高まり、焦りが増す。
「おい!答えろ!」
彼はいつの間にか涙を流し、声は震え、孤独と無力感に支配され、微かな後悔すら忍び込んで来ていた。彼自身にはもう自己をコントロールすることなど出来なかった。
「おい・・・言うことを聞け・・・聞いてくれ・・・」
声のトーンが落ち、咽び泣きの嗚咽になって行く。彼に残されたのはもう、負けたくない、というプライドだけだった。負けないことで何が変るのか、それは問題ではなかった。あの『悪魔』に屈服する、それが嫌なだけだった。そこには既に竹崎の事、この世界の事、あちらの世界の事、そしてアイの事もなかった。彼の最後の矜持、それだけが残っていた。そしてそれすらも折れるのは時間の問題だった。
(プリンス・・・)
あの声がした。
「あ・・・ああ・・・」
涙に濡れた顔を上げ、彼は辺りを見回す。すると『悪魔』は直ぐ前に居た。ジーンズのバックポケットに両手を入れ、前屈みになりながらニヤニヤ笑っている。ふらふらと歩み寄る彼に対し『悪魔』は、
(なあ、プリンス。いくら孤独に慣れた君でも、本物の孤独てやつは恐ろしいものだろう?)
答はなかった。そのまま男の前に跪いた。『悪魔』はそんな彼を眺めながら、
(なあ。これが真実だよ、プリンス。君は今まで孤独な人生を送って来た、と考えていた。そこにアイが現れ、君は人が人に干渉し戯れる世間とか言うものの価値を認め始めた。ところがアイは消え、君はアイ以外の世界を拒絶し、アイとの生活の記憶を拠り所にして生きて来た。また孤独に戻っただけだ、と自分を慰めつつ、な。でも、そんなものは孤独ではない。たとえ君が拒絶し、他人が干渉し戯れる事はなくとも、そんな世界に住んでいた君は真の意味での孤独ではなかった)
『悪魔』はもう笑ってはいない。しゃがみこむと無表情で彼の顔を横から眺め、続ける。
(こちらの世界へ来て、君は真実を竹崎から聞いた。君はそれを信じる事が出来なかった。まだアイや、アイを祀り上げようとしたエンジェルの連中を信じようとしていた。だが、君は感じていたはずだ、真の孤独が始まっていた事をね。それは今、君が体験したように先も後も見えず何もないたった独りの空間と全く同じなのさ)
『悪魔』は身動きすらしなくなった彼の肩を軽く叩く。
(いい加減現実を直視しなくては駄目だよ?プリンス。アイは君のことなど愛していない。アイはただ、後継者を求めたこの世界の仕来りに従っただけ、本能に従っただけだ。君は仕来りに従ってこの世界に連れて来られた、それは竹崎の言った通り君をあちらの世界に置いたままでは二つの世界の秘密を護る妨げになるからだ。竹崎はそんな君を哀れに思い、アイのことで一つ嘘を付いた。君はアイとは暮らせないだろう。何故なら、アイは裏切り者のリヴァイアサンだからだ。彼女はあのエンジェルどもと行動を共にしている。あのエンジェルに誑かされ、あちらの世界へ渡った。今、この世界には居ないし必要でもない。今やこの国のリヴァイアサンは君とアイの子供、レイだ。そして、リヴァイアサンは一国に同時に二人と存在してはならない。分かるよな、この意味が)
しかし彼はもう、『悪魔』の言葉に反論することは出来なくなっていた。ただ、その言葉の示す絶望が体の隅々まで染み渡って行くかのように、受け入れられて行くだけになっていた。
(君も薄々感付いている。アイは近い将来抹殺される。あのエンジェル共々、アイは死んだも同然さ)
決定的な言葉を聞いても、彼は反応しなかった。彼を見つめていた『悪魔』は更に近寄ると、
(君には二つの道が残されている。一つ目は、ここに残って我々と共に君の娘、レイと共に生きるのか。そしてもう一つの選択肢は・・・)
『悪魔』は一旦言葉を切る。そして彼の顎を掴んでぐいっと顔を近付ける。
(あの裏切りどもの下へ行きアイと共に死ぬか、だ。まあ、アイが君を迎え入れるかどうかはわからないが、その前にあの竹崎が君を自由にはさせないだろう・・・でも、いいんだぜ、オレは止めないぜ、なんだったら・・・連れて行ってあげてもいい)
『悪魔』はじっと彼の目を見つめていたが、彼の反応はなかった。目からは止め処もなく涙が流れ、身体は小刻みに震え、彼の世界は完全に崩壊していた。
『悪魔』は顎を掴んだ左手を離す。彼は崩れる様にがっくりとうなだれ、底の見えない地面に両膝を付いた。だらりと下がった両腕が力なく持ち上がり、頭を抱える。『悪魔』は静かに立ち上がると、
(俺は行くぜ。君は、どうする?ここに居て惨めなまま死ぬかい?この静かで誰も居ない、誰も来ない場所で・・・)
彼が顔を上げると、既に『悪魔』は後姿で歩き出していた。霧の中へ姿を消そうとしている。
「・・・待って・・・待ってくれ!」
しかし、『悪魔』の姿は霧の中へ消えて行く。
「待って!お願い、置いて行かないで!悪かった、僕が悪かったから、何でも聞くから、言う事を信じるから!」
「よろしい、ミッションAを終了、ミッションBへ移行する」
高揚した竹崎の声に応えて、
「1057。ミッションA終了、引き続きミッションB開始」
管理官のオカダの声が静かに部屋の中に流れる。オペレーターの一人がヘッドセットマイクに囁くと、先程からプリンスの姿を多角的に映し出していたマルチスクリーンが切り替わり、半分がプリンスの姿、半分が日差しが眩しい別の部屋の中、丁度椅子から立ち上がって部屋を出ようとしているミカエルの姿が映し出された。
「さて、ラファエル、君の出番だよ。注射で構わない」
「はい」
竹崎は今日も教授然とした態度でオペレーションルームのデスクに付いていたが、その満面の笑みから彼が満足し得意の絶頂である事が伺える。ラファエルは僅かに嫉妬の様な感覚を憶えたが、それをおべっかに置き換える。
「教授、お見事です。但し、ミカエルは少々やり過ぎだったようですが」
「演技過剰、かい?でも結果は出したよ」
竹崎は苦笑しながらモニターのプリンスの姿を見つめる。そこはあの真っ暗な部屋の中、プリンスはたった一人で壁に掛かる2畳分の大きな鏡に向かって頻りに何かを請願している。
「では、そろそろあちらへ行ってプリンスを眠らせますが、宜しいですか?」
「ああ、いいよ。ゆっくり休ませたまえ。最低20時間は眠らせるように。そして自然と目が覚めるようにして貰いたい」
ラファエルは頷くと、
「目覚めた時、目の前に教授が居るのですね。完璧な『フリートラント』の完成、という訳だ」
「そう。それでプリンスは我々の仲間となる・・・リバースまでは、ね」
ミカエルが部屋を出ると、廊下にはアウリとジブが待っていた。
「おやまあ、お揃いで」
ミカエルが笑いかけると、アウリは、
「先生がオペレーションルームにって」
ニコリともせずに言う。
「まあ、来い、って言うなら行くけどさ。本音を言わせて貰うなら、給料分の仕事はしたんで今日はもうお役御免と願いたんだけどね」
「・・・・・」
ミカエルは無言のアウリに向けて肩を竦めると、隣の人物に目を向ける。
「ガブリエル、もういいのかい?」
「うん、昨日から起きてる。ラファエルが少し歩いた方がいいからって」
「それは結構。だが、無理はしないことだ」
「ありがとう」
「にしても、だなぁ」
「なあに?」
「いや、腕を上げたな、ウリエルはまだしも、ガブリエル、お前さんの気配もうまく紛れてたよ。うん、正直外に居るのは分からなかったぞ」
ジブは顔を赤らめて、
「ううん・・・ちょっと前に来たばかりだし、それにミカエルはプリンスの相手してたから・・・」
「いいやガブリエル。どんな事してたって、常に警戒すべきなんだよ、特に・・・」
ミカエルは目を瞑ると、大げさに辺りの匂いをクンクン嗅いで、
「今日は『犬』の臭いもするしな」
「えっ?」
「やっぱり?」
と、これはアウリ。
「あいつらだと、思って?」
「ああ、そうだな。ただ、一匹だけだ。そしてとっくに消えてやがる」
「そうね。潜入斥候?」
「だろうな。この感じは『レシーバー』だ。しかも気配をこんなにも希薄にするってことは、相当デキる奴だな。ということは、我が親愛なるムラカミ軍曹殿だろうね」
「・・・ムラカミ・・・」
ジブが呟くと、
「そっか、実戦ではガブリエルのお守り役、だったよな奴は。だったらこいつは感じることが出来るだろ?」
「・・・うん・・・言われるまでは気付かなかったけど・・・」
「ドンマイ。あと3年も訓練すれば1キロ離れてたって気付くようになるって。奴さん、今はマルティエルの名をカタってるんだよな?殺した仲間の名前を盗むってぇのも、結構な趣味を持ってるよな、あいつらは」
「盗むんじゃないんだって。先生が言うには、受け継いで遺志を継いでるつもりになってるんだって。死んだマティはあいつらと一緒に行きたかった筈ないんだけどね、そういうところにあいつらのアブないとこが見え隠れしてるんだってさ。この前、リバーサーのセミナーで話してたよ、先生」
「そういうことだ、あいつらは狂ってる。ま、そんな事はどうでもいい、さっ、先生からお褒めの言葉を頂戴するとするか。一緒に来いよ、二人とも。きっと先生が昼飯奢ってくれるぜ」
*
グリックで乳半色のポリエチレン袋に詰められた得体の知れぬ廃棄物を満載した産廃収集車は、グリックから20キロメートルほど離れた制限区域の産廃処理施設に廃棄物を搬入し、塵の山を横目に見ながら寂しい公道を走っていた。
処理施設を出た辺りから、運転手はトラックをオートモードにしてハンドルから手を離し、膝に乗せたノートパソコンに何やらコマンドを打ち込んでいる。繋いだヘッドフォンを無意識に弄りながら、真剣な表情で何かを聞いていた。
そのまま約10分ほど、トラックは公道が林間を縫い、人家も数キロメートル以内には無い地区に入ると、運転手はヘッドフォンを外し、傍らの助手にアイコンタクトで合図する。助手は前方を見たまま微かに頷くと、片手をダッシュボードの下に差し入れ、何かを探るようにしたが、やがて、
「はい、『バルーン』にしましたよ、軍曹」
「よし、銃をくれ」
助手は再びダッシュボードの下を探り、やがて手を引き出すと、その手には非常にコンパクトで短い銃身に対して大きな銃把が目立つ拳銃が握られていた。『軍曹』と呼ばれた運転手はその銃を受け取ると、
「ほう、俺の好みを良く憶えていたな」
「こいつは試作品しかないんでね、こんな使い辛い『坊や』を実戦評価でトリプルAとしたのは軍曹だけだって有名な話ですからね」
「いいのかい?お前のコレクションなんだろ、こいつ」
「ガワだけのがもう一丁ありますから、それは差し上げますよ。あ、そいつは俺が分解し掃除して油くれてます。ジャムなんて絶対に起きないと保障しますよ」
「ありがたい、じゃあ借りとくよ、その内に返すから」
「いいんですよ。こちらにはしばらく来れないんでしょう?今回は目立ちましたからね、また顔を変えなきゃならないし」
運転手はバックミラーに目をやり、未だにそこに自分とは思えない他人の顔を見出すと、
「まあね。元々の顔なんて思い出せない位だからどうでもいいけどな。それはお前も一緒だろうが?」
「まあ、そうですね。次に会う時はまた別人同士ですね」
運転手は席の真後ろに置いてあったデイバッグを引っ張り出し、その中に銃を入れながら、
「そうでもないかもな。どうも顔を変えるよりも早く、近々こちらに来なくちゃならない様な予感がするんだよ、俺には」
トラックが更に10分ほど走った後、運転手はノートパソコンをパチン、と閉じると大事そうにデイバッグの中へ詰め込む。更に運転席の下に隠していたジャンプスーツの様な黒い繋ぎ服を取り出し、狭い空間で苦労しながらもなんとか服の上から身に着けた。そして流れ去る路肩を注視し始める。
その間、助手は抜かりなく周りを警戒していたが、グリックを出て以来彼らのトラック以外、前後に走行する車両は見えず対向車も見かけていなかった。運転手は緊張した面持ちで道端を見続ける。と、突然運転手はドアのロックを外すとデイバッグをひょいと背負い、助手の方へ左手を伸ばしてその肘に触れると、
「それじゃあな。こいつの始末はいいな?」
「任せて下さい」
「ヤマノ産廃の方は?」
「軍曹が降りたら5分後に、データベースが改ざんされ夜間担当が縛り上げられた状態で発見された、という報告が警察に通報されます」
「了解。お前も気を付けてな。暫くじっとしてるんだぞ」
「軍曹もお気を付けて。ご幸運を」
運転手は時速50キロで走り続けるトラックのドアを開け放し、走行中のドア開放を警告するブザー音の鳴る中、道路へと飛び降りた。すかさず助手は運転席へ横滑りして座り、ドアを閉じると一つ深呼吸をして、何事もなかったかの様に前方を眺めトラックを走らせ続けた。
激しい衝撃が男を襲ったが、この様な荒業を幾度もこなしている彼は、身体を胎児の様に丸めて頭を保護しながら道路を転がった。男は身体の回転が止まってから、腕と脚に感じる打ち身の痛みを何とか無視すると、身体を伸ばし道路に大の字となった。その状態で擦り傷と多少の打ち身以外、骨折や捻挫の無いことを確認する。
走行中の車から飛び降りるという無茶をかすり傷程度で済ませたのも、万遍なくケブラー繊維と低反発ウレタンが埋め込まれた黒い繋ぎの特務服のお陰だった。男は、路肩へ向って素早く転がって行くと、今の光景を誰にも見られなかった事を確かめる。
政府関係機関や軍事施設から離れ、人家も無いこの辺りには監視用の常設カメラもなく、交通も疎らで、いわば制限地区内でも死角となっていることは事前に知らされてはいた。しかし、トラックをこんな辺鄙な所に少しでも止めれば目立つ事この上ないし、万が一低軌道を不規則に周回するステルス偵察衛星にキャッチされようものなら、制限地区の特殊警護部隊がものの数分で駆けつけるのは間違いないので、手荒な手段で降りるしかなかった。グリック相手に油断は禁物、何れにせよ、4分後には緊急事態警報が警察関係に届く。時間との勝負は既に始まっている。
男はデイバッグの中身を調べると、これも緩衝材で護られていたノートパソコンを取り出し、電源を入れて起動する事を確認、素早く切ると再び丁寧に入れ直す。そして先程の拳銃を取り出すとそのまま背中のベルトに挿み込み、匍匐のまま道端に連なる雑木林の中へと消えて行った。