第11章(前)〜ミカエル
午前2時。ゲートの警備が交代して一時間。24時間無休で動く組織では当たり前だが、ゲートに立つ警備員も昼夜が逆転する日が月に三分の一ほどある。元々人間は日が昇ることで活動を始め、日が沈むことで活動を停止する昼行性の動物。夜はどうしても行動力が鈍るため、警備活動の様な職種は夜間、特に神経を使う。
このゲートの警備員達も、暗いという意識が及ぼす不安、畏怖がパニック行動を引き起こしやすい事や、人間が夜、他の獣から身を護るために刷り込まれた原始本能が引き起こす無意識の緊張感が物事を過剰気味に認識させる事など、実務と座学を通して学習している。
だからその時、いつもの特殊産廃収集トラックが定時に搬出入ゲートに着いた時3日に一度ほどの周期で現れるいつもの運転手ではなく、以前に一度だけ助手席に座って入構した男が運転席にいたことについて若い警備の男は大いに不安を感じた。しかし、最近まで警備のイロハを学び、やっと独り立ちしたばかりの男は内心の不安を過剰反応だ、としてかみ殺し対応する事になった。
「おつかれさまです、ヤマノ産廃です。夜間の収集に来ました」
「入構証」
トラックのフロントに目立つように掲げられた本日の作業許可証―午前2時から朝8時までの廃棄物収集と一部施設の清掃、とある―を見た後でも、警備は緊張を緩めない。
「はい。あ、今日はウチのタナカが熱出してしまいまして私が代わりに来てます。助手のイチダはいつもお邪魔してますが」
「うるさい。質問したら答えるだけでいい」
へいへい、と言う感じで運転手は黙る。警備の男は二枚のIDカードを何度もひっくり返しながら眺め、顔写真と二人の作業員の顔を見比べた後警備詰所へ歩いて行き、カウンターから中に居た主任にカードを渡し二言三言会話を交わす。主任は受け取ったカードをカードリーダーに通して中身が本物である事を確認した後、ヤマノ産廃の夜間連絡へ電話を掛けた。確かに運転手が急病で代わりの男が運転する事になったこと、二人は確かに社の所属であること、二点を確認すると主任は、そういうことは何故事前に連絡しないのか、と吼え、恐縮した相手が、何せ急な事でしたのでどうも、と言うと唸るような返事をして電話を切る。IDカードが現在位置を示すことをパネルで確認した後、カードを新米に投げるように返すと、通せ、とだけ言ってカウンターの窓を閉めた。
「ほら」
新米警備員はIDカードを運転手に返すと、運転手と助手がそのカードを首から見えるように下げたのを確認してから、ゲート正面の監視カメラに向かい手を上げて、警備詰所が遮断機を上げるよう合図する。遮断機が上がると、運転手は帽子の鍔に軽く手を掛け会釈しながらトラックをマニュアル操作にしてアクセルを踏んだ。新米警備員はそれでも何か嫌な感じを抱いていたが、それを夜と不慣れに押し付けて、退屈な立ち番に戻っていった。
*
国道に必ず設置されている中央分離帯最内側のレーン、『国家優先レーン』。表向きは緊急時の行政対応用とされてはいるが、一般認識としては軍や警察、消防関係の優先レーンとされ、特に渋滞時には空けておくものとされている。何故なら、緊急対応発生時にこのレーンを塞いだ者は、罰金刑のない懲役5年以下の刑罰を科せられるからだ。そのため、どんなに渋滞しても、ここを使う人間は軍、警察、公務員がほとんどで、民間人はよほど大胆な人間で無い限り入り込む事はない。逆に空いている時にわざわざこのレーンを走る事は軍か警察に睨まれるとされ、このレーンを何の懸念も無く走れることは一種のステータスシンボルと化しているのが現実だった。
そのレーンを赤いツーシーターのスポーツカーが時速180kmで駆け抜ける。サイレンや回転灯の類は無く緊急車両ではない。しかしナンバープレートは『い』から始まっている。あ行は中央省庁所属。特に『あ、い』は軍・警察・消防・公安などを示す。誰もが避けるとされるナンバーである。そのナンバーを派手な一般車両、しかも左ハンドルが付ける。外車は様々な理由で所有制限がされている。そのため所有するだけで特権階級と知れるのだ。午前5時45分、平行して走る車はまれだが、わざわざ優先レーンを走る。たとえ優先レーンを走ろうと緊急車両で無い限り制限時速は守らねばならない筈なのに・・・。 渋滞時でも最低間に一台は挟みたいと思わせる車である。
男は20代半ば。クールカットにサングラスを掛け、白Tシャツの上に褐色の麻ジャケット、スリムジーンズにスニーカーと言う格好で、スポーツカーをマニュアルで運転していた。車にオート機能はもちろん付いていたが、男がそれを使う事はない。こうした傾向は、運転自体を仕事とする人間や、メカニカルを愛する人間達に共通のものだが男の理由は違っていた。彼にとって愛車をマニュアル運転により時速100マイルオーバーで飛ばすことは、気晴らし以外の何物でもないのだ。頭を空にして何も考えず車を飛ばす。これはこの男にとって、普通の人間が考える以上に贅沢なことなのだ。
ほとんど直線の5kmが終わり、緩やかに左右にカーブを切る区間になっても彼はアクセルを踏み続ける。目は前方を向いたまま、ステアリングは必要最低限しか切らない。朝日が後方からシートを暖め始めると、それはあっという間に熱に変わって行く。窓を閉め切って空調を利かしていても、その暑さは感じられた。珍しく暑い日になりそうだった。
この世界は50年以上前の『核の冬』以来、何かが狂ってしまったようで、東京の7月の平均気温は19度。過ごし易い春の陽気と言えた。その代り冬は長く、今年の1月の最低気温はマイナス17度を記録した。しかし、近年地球温暖化の影響も見られ、30年ほど前に記録した東京の最低気温マイナス31度と言うような厳しい冬はなくなっている。東京で桜が5月末に咲き、梅雨がほとんど15日くらいしか続かないこの世界では、夏に暑さを感じる日は貴重と言えた。
やがて前方に『この先制限地帯』の太文字が飛び込んでくる。文字看板が少ないこの世界、嫌が上でも目立つ巨大な警告看板で『恒久検問所まで3km』の文字。両側に見えていた街並みも、針葉樹を中心とした林に変わる。国道と交わる道もなくなり、検問まで1kmを切ると両側の林も途切れる。道の両側にフェンスが始まり、丈の短い夏草に覆われた何も無いなだらかな丘陵が続く中、前方にゲートが見えて来た。朝6時とはいえ、ゲート前には1台の車も見えない。早朝に制限区域内へ入る人間は、よほどの理由がある者だけだ。
男は内側車線のまま緊急車両用ゲートへ近付く。さすがに速度は落としたが、まだ60kmは出したままゲートに向う。正にゲートの幅広い遮断機にぶつかると思えた瞬間、遮断機は跳ね上がり赤い車体が流れるように通過して行った。警備の武装警察官達はそちらを見ようともしなかった。
首都圏第4制限居住区。通称多摩制限地帯。1951年7月16日から19日までのたった4日間で、この世界は永遠に変わってしまったが、制限地帯もその結果生まれたものと言える。
この第3次世界大戦初日。都心に3発の弾道弾を受けた東京は、第2次世界大戦での徹底した破壊の爪跡がまだまだ残る上に更に大きな傷を受けることとなった。核の冬を迎えた時代、フォールアウト地区とされた都心部の復興は後回しとされ、比較的被害の少なかった東京、埼玉、神奈川、千葉の郊外地区7箇所を優先復興地区に指定した政府は、政府中枢と今や貴重な存在となった生き残りの官吏を護るため、これらの地区に集中移転させ、地元住民を更に郊外へ強制移住させた。
地方でも弾道弾の洗礼を受けた仙台、横須賀、名古屋、大阪、呉、長崎など10の都市で同じモデルの復興が行われ、それは現在にまで至る特別居住区となる。制限地帯とは特権の、そして秘密と軍事優先の象徴と言えた。特にこの多摩制限地帯はリバーサーと軍の研究機関、リバーサーの居住区などが集中し、今やリバース地区と言われるまでになり厳重に外部から遮断されている。
制限地区内に入ると点在する住居や学校風の建物、工場などが目立ち始めるが、そのどれもが洗練され、付近の緑の多い環境と相俟って近未来の様相と言えた。赤いスポーツカーはほぼ直線で伸びる4車線道を、相変わらずのトップスピードで抜けて行った。
やがて、3mほどの高さで忍び返しを付けた有刺鉄線に囲まれた白い建物群が現れる。長さ150mほど、5階建てが基本のビルが幾棟も延々と続く。男は、他に車は見当たらない広い国道を内側車線から外側車線へ斜めに車線変更し更にアクセルを踏み込んだ。
そして特徴のあるトラス構造のアーチが見えた所で、目一杯ステアリングを切りながら思い切りブレーキを踏み込み、ブレーキングドリフト状態でゲートの遮断機にノーズをぴたりと向けて停まった。ゲートの両側に立ち番をしていた2名の警備員が慌てて飛び退る。詰所から主任がクリップボードを持って近寄って来る。
「おはようございます。IDを頂きます」
ドアガラスを半分だけ開けた男は無言でIDカードを差し出し、主任はクリップボードについているカードリーダーでカードを読み取り、すぐさま男にIDを返す。
「ありがとうございます、少佐」
主任は監視カメラに向って手を上げ、遮断機が上がると2歩下がり敬礼する。男はそんな主任を無視して再びアクセルを踏むと、構内制限を無視した速さで駐車場へと向う。主任はそれを無表情で見送ると、ゲート脇で肩を竦めた部下を睨みつけ、大股で詰所へ歩み寄ると入口のドアを叩き付けるようにして閉めた。
男は、半分ほど埋まっているセクター6駐車場の上級管理者専用エリアで2台分のスペースに跨って愛車を止めた。すると車に歩み寄る者がいる。
「おはようございます、ミカエル」
この男はいつから待っているのだろう?とミカエルは思う。彼は窓を開くと、その黒服姿のタムラに、
「フリートラント?」
ミカエルは挨拶も前置きも無く、ナポレオンが勝利した戦場の名前を語尾を上げた質問系で発音する。同時に右手の人差し指をタムラの顔に向け、その僅か一言と一動作で大いに不満のあることをタムラに伝えた。
タムラは無表情のまま首を横に振ると、
「私には分かりかねます。さ、教授がお待ちですので」
先に発って歩きかける。
「なるほどね。有無を言わせず、ってわけね。結構なことで」
ミカエルは神経質そうな甲高い声で自嘲気味に笑うと、
「案内は要らないよ、ここで済ますから」
彼は窓に片腕を預けた格好のまま、タムラを見続ける。しかし、彼はタムラを見ていた訳ではなかった。そのままおよそ3分。タムラも何が起きているのか心得ていたので、じっと立ち尽くしたまま動かない。やがて、
「いいよ、終わった」
ミカエルは車を降りるとスタスタと歩き出す。そしてタムラの前に立つと、
「あんたは気に入らないかもしれないけどさ、アドリブでやらせて貰う事にするよ。台本通りってぇのは、かったるいし趣味じゃないのでね。センセイの許可は取ったよ」
タムラは無表情のまま、
「私は何も知りません。誤解ですよ、ミカエル」
ミカエルは、ふつ、と笑うと、
「まあいい。さて、いつでも始めていいってさ」
「では、こちらへ」
タムラはそのまま歩き出す。ミカエルは、既に暑い日を予告する朝日を振り返るとジャケットを脱いで指に引っ掛け、肩に背負うと大股でタムラを追い越して行った。
*
異変が起きたのは、彼がこちらへ来て22日目と見当を付けた朝だった。
起床時、最初の頃は部屋がノックされ、タムラ達が起こしに来る前に目覚めていたが、最近は肩を揺すられ起こされるようになっていた。その日、黒服の一人に無言で起された彼は、余りの疲労感に頭がボーっとして、暫くは額に手を翳したまま起き上がれなかった。つい先ほど目を閉じたばかりの筈なのに、もう朝になったのか。
すると、こちらに来て初めてのことが起った。起した黒服が彼の胸倉を掴むとぐいっと引き上げ、彼がそのまま立ち上がざるを得ないまで引き上げたのだ。就寝着として宛がわれていた手術着に良く似た白い寝巻がビリビリと破けた。黒服はそれでも手を離さず、彼を睨みつけると、着替えの置いてあるベッド脇のドレッサーチェアの方へ押し出した。
黒服達が彼を手荒に扱うのは全く初めての事だったので、思わず目を見開いて黒服の方を見たが、黒服は着替えを指差し睨むばかりだった。置いてあった着替えも彼を驚かすに充分だった。今まではポロシャツやボタンダウンのシャツに軽めのスラックスなど、彼に合わせたかのようなコーディネートが多かったが、今朝は黒白の横縞模様のボーダーシャツとダブダブしたウエストが彼には大き過ぎるベルトの代わりに紐で縛る綿のズボンで、まるで水兵か囚人の様な格好。お陰で眠気は吹き飛び、彼は状況の変化に順応しようと出来るだけ早く着替える。
その朝、彼の部屋に入って来たのはこの男だけ、しかもこの男は始めて見る顔のように思えた。ように思えた、とは彼に自信が無いからで、7日目頃から始まった『護衛』の顔触れの目まぐるしい変化で、最初こそ顔を覚えて密かにあだ名まで付けていた彼だが、それが30人以上になると彼は諦めてしまっていた。
今までの『お客待遇』から『囚人待遇』になったのだろうか?この変化はこの男だけのものか、それとも・・・彼自身は素早く思考を巡らせたつもりだったが、事実は違った。実は彼も気付いているように、最近は一つ以上の物事を考えると妙にイライラし、しかも吐き気すら覚えるようになってた。これが精神崩壊の前触れと信じた彼は、出来るだけ物事を自から進んで考える事をしなくなっていたので、彼にとってこの様な状況の変化に対応する事は困難な作業になっているのだ。
着替えが終わり、洗顔のためシャワールームに入ろうとした彼を黒服は襟首を掴んで引き止めるといった露骨な手段で止め、そのまま外へと押し出すように廊下へ連れ出す。そこにも彼を驚かす光景があった。いつもの黒服の残り3人の他にまだ人間がいたのだ。
それは、彼には軍服に見える濃紺の制服上下をきちんと着た3人の人物で、内二人は短機関銃のような銃を肩に下げ指揮官と思しき残り一人もホルスターから銃把が覗いていた。黒服は武装した事は無かったので、この物々しさに彼の緊張は一気に高まる。すると竹崎の言っていた軍の話が思い起こされ、軍が痺れを切らし、彼をよこせということでやって来たのか、彼は引き渡されるのか、これはこの後に続く『ひどいこと』の前兆ではないか、などと思いが乱れに乱れた。
黒服が彼を囲む。頭巾状の目隠しは乱暴に付けられ、心なしか早足で先に進む。軍服の3人はどうしているか分からないが、いつもより多い足音が彼らも付いて来ている事を伺わせる。昨日までは運動のため『体育館』へ向かうはずだが今日は違った。エレベーターへ直行し、全員が中へ入る。3人多い分中は一杯となり目隠しをされている分圧迫感が増す。
「ビーツー、クローズ」
彼は更に緊張する。いつもなら2階クローズ、だ。その上、エレベーターは明らかに『昇って』いる。彼はずっと彼の部屋や体育館は『ビーエフ』、地下一階であり、『あの部屋』が2階にあるものと思っていた。
エレベーターがいつもと同じ12カウントで着く。押し出されて廊下を24、5歩。いつもと全く変わらない歩数で頭巾を取り去られる。全くいつもと同じドア、部屋。黒服と軍人達は無表情で彼を見ている。一人がドアを開けると、彼はいきなり突き飛ばされ、部屋に押し込まれた途端、ドアが閉じられる。 部屋は真っ暗だった。今入ったばかりのドアから光が差している。覗き窓が開けられ、軍人の一人、あの指揮官が覗いている。彼と目線が会うと、いきなり覗き窓が閉じられた。光を絶たれ後は真の闇だった。
― 落ち着け・・・落ち着け・・・考えるな・・・
パニックが直ぐそこまで来ているのは彼にも分かる。考えてはいけない、考えれば考えるほど、狂気が近付く、それが分かった。昨日までは同じ風景と同じ時間の中で、彼はなんとか精神の均衡を保っていた。それが脆くも崩れた。だが、ここは昨日までの部屋に違いない。しかし、朝ではない。いや、窓が閉じられているのか?闇に目が慣れるのをじっと待つ。が、真の闇は深く、一向に物が見えない。じれて彼は慎重に4歩、ドアから離れる。手を伸ばすと、それがあった。硬いスチールの冷たい感触。あのテーブル。やっとほっとする。やはりあの部屋だった。が、そう言い切れるだろうか?彼はテーブルに沿って手を滑らせ移動し、テーブルの角を見つけると、そこに手を滑らせながらゆっくりと座り込みテーブルの脚に背を預けて項垂れた。
時間との戦いが始まっていた。昨日までは何も変わらない環境が忍耐力をゆっくりと蝕んでいたが、今日は全くの逆。環境の激変が、彼を素早く確実に追い込んで行く。平静を保とうとすればするほど、彼の精神は平静さを失う。それが奴らの目的だと分かっていながら、底無し沼へ嵌り込んだかのように動揺は抑えられない。
― 眠ってしまおう・・・
幸いにも疲労感は我慢出来ない位ある。最近は何故か目を閉じたかと思えば直ぐ朝。彼は疲労感に身を任せて眠ろうと努力した。
その時、彼は気付いた。ビーツー!ここは地下なのか?では、昨日までのあの外光は何だったのか? 彼は、あの光で時間を予測し、夕暮れの訪れで一日の経過をカウントしていた。2階が『地下』2階だとしたら、彼の部屋や体育館のある『ビーエフ』は地下4階?いや、それはまだしも、あの光。あの光までが嘘だとしたら今は一体、何時、いや何日なのか?こちらに連れて来られて一体何日が経ったのか、ひょっとするともう何ヶ月も過ぎたのではないのか?いや、あの光は太陽光そのものだった、あれが嘘だとしたら、一体・・・え?ここは地下?
そしてパニックが訪れた。
彼は獣の咆哮を聞いた。思わず飛び上がるほどの大きな鳴き声。彼は両手で両耳を塞いだが獣の咆哮はいつまでも聞こえる。それはオーともアーともつかない、悲鳴だった。悲鳴は彼が息苦しくなり息を吸い込もうとした時、ヒィーという息が詰まる音と共に途切れ、彼はむせて咳き込む。そして彼は、獣の咆哮が彼自身の声だった事に気付くのだった。
それから彼の苦行が始まった。声を上げまいとしても自然と声が漏れ、考えようとすれば、様々な思いの洪水が、新たな考えを押し流す。じっとしている事も出来ず、立ち上がって憑かれたように歩く。が、真の闇の中、壁にぶつかり、尻餅をつき、スチールのテーブルに激しくぶつかって打ち身をつくる。だが、痛みは全く感じていなかった。何度目かに壁に沿って置かれたロッカーにぶつかった後、彼は手探りでロッカーの把手を掴むと思い切り引っ張り、鍵が掛かっているのも構わず、激しく揺さぶり、やがて蝶番が捻じ曲がって扉が変形するまでそれを続ける。その間、彼は喉が潰れるほど叫び続けていた。
時間の感覚は完全に無くなっていた。リアルな時間も、経過時間も、全てが消え失せ、彼は体力が続くまで動き続ける機械となった。そして、その機械のバッテリー=体力が尽き掛けた時、声が聞こえて来た。
(プ・・・リンス)
最初は囁く声。彼は激しい動悸と息切れの中、床に伸びていたが、それを自分の声と捉えて無視する。
(プ・・・リーンス・・・・・・プリン・・・ス)
声は纏わり付くかのように様々な方向から彼に届く。しかし、彼が自分に向けて呼びかける声と認識出来るようになるまで、かなりの時間を要した。
(プ・リ・ン・ス)
彼が初めてその声に反応する。顔を上げゆっくりと見回す。しかし闇は何も変わらない。人の気配も無い。
(プリンス)
そして彼は、男を見つけた。あの鏡、壁面にある大きな鏡、その向こうに椅子が置かれ、そこにひとり男が座っている。鏡はやはりハーフミラーだったのか、こちらが闇の中で鏡の向こう、あちらの『部屋』にごく微かな明かりが点り、それによって男の姿が辛うじて見て取れる。
(・・・プリンス)
男は笑っているようだ。腕を組み足を組んでいる。ジーンズに白のTシャツとスニーカー、身長は180位だろうか、長身でスタイルの良い男だ。クールカットにサングラス、笑顔を浮かべた姿は、モデルか俳優のよう。その男がゆっくりと立ち上がる。彼は男を目だけで追い、身体は動かさなかったが、
(プリンス)
向こうからもこちらが見えているのだろう、真っ直ぐに彼を目指し歩いて来る。しかし、間に鏡があり、こちらには来れない筈。と、ぼんやりと彼が考えた瞬間、驚愕すべき事が起こった。
男は笑みを浮かべたまま、真っ直ぐに歩き通し、鏡まで来ても歩みを止めない。そのまま何の躊躇も無く男は鏡に衝突する。と、一瞬にして鏡が液体と化し水面の様に漣を立てた。その水面を立て掛けたかのような鏡を抜けて、男はこちらの部屋に入って来た。
彼は思わず尻を床につけたまま後擦さる。恐怖を感じての事ではない。非現実的な光景も、混乱の極みにある彼にはもう何かを感じさせるものではなくなっていたが、本能的な危険を感じ思わずそういう行動を取ったのだ。
男は彼に近付いて行き、三歩ほど離れた所で止まる。いつの間にか、部屋はロウソクの様な淡い光に照らし出されていた。光源は見えない。まるで部屋全体が発光物質かのようにぼんやり浮かび上がっている。その部屋は正しくいつもの部屋であったが、先ほど男が出て来た壁面の鏡はいつの間にやら消えていた。そこには壁があるだけだ。男はしげしげと彼を見下していたが、やがてテーブルに腰を降ろす。
(プリンス)
男の笑みは絶えず、その声は甲高く、プリンス、という単語を忌まわしい何かの様に発音する。
(プ、リーンス)
「・・・なんだ」
彼はイラつき始め、何とか立ち上がると、テーブルに手を付いて男に正対する。
(プ、リーンス)
「だからなんだと言っている!」
男は薄笑いを浮かべたまま答えない。そのまま一分は経過しただろうか、痺れを切らした彼は、
「答えろ!一体これは、どういうことだ!」
(・・・・・残念だ、プリンス)
「は?」
(残念だよ、プリンス)
「ざんねん、だ?」
(残念だよ、プリンス)
「何なんだよ、あんたは!」
(遂に君は彼らのことを信じなかった)
「かれら?」
(竹崎たちを信じなかった)
「信じるわけが無いだろ!」
(信じてもらえなければ、君はもう終わりだ)
「・・・竹崎を呼べ!話はあいつとする」
すると男はケラケラと笑い始める。さも小馬鹿にした相手を見下した笑いであり、全てを知っている人間が知らない人間を哀れむ笑いでもある。それは今の精神状態では彼には押さえ切れない引き金の様なもので、直後の行動はそれを裏付けた。
彼は突然、男に殴り掛かった。生まれてこの方、殴り合いの喧嘩など一度も経験した事のない彼が、である。殴り掛かられた男の方は、全く避けようともしなかったが、それは不意を突かれたからではなかった。彼の拳は空を切った。そのままよろけた彼の前から男は消えていた。彼は男を捜す。薄暗い部屋の中に男はいない。と、
(ムリムリ。君に私は殴れないよ)
男は彼の背後から、耳元に口を寄せて囁く。彼は振り向き様肘鉄を喰らわせようとしたが、それも虚しく空を切る。男の乾いた笑い声が、まるで荒野の彼方から届くかのように響いた。彼は身体を怒りで震わせながら両手の拳を白くなるまで握り締め、部屋の中を彷徨う。男はそんな彼の背後に現れては、彼が振り向くと消え、そして再び現れる、そんな鬼ごっこを繰り返した。
やがて彼が疲れ果て、肩で息をしながら壁に凭れかかると、男は彼の正面に現れ、両手を腰に当てて彼の憔悴した顔を覗き込むような仕草をする。彼は汗だくで目も空ろだというのに男は汗ひとつかいていない。男はそんな彼の姿に満足したかのように大きく頷くと、テーブルの椅子を引き出して背凭れを前に、跨るように座る。そして背凭れに両腕を乗せて更に顎を乗せると、笑みを浮かべた表情のまま、じっと彼を眺めていた。
「・・・おまえは・・・だれだ?」
すると男は背筋が凍るようなささやき声で笑いながら答えた。
(私は、そうだな・・・メフィストフェレス、とでもしておこう)