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第9章(前)〜エスピオナージュ


 彼の名前は、林偉文リン・ウェイ・ウェンという。年の頃は40歳前後、身体は中肉中背で温和なイメージのある彼は太い黒フレームの眼鏡を掛けていた。テレビのキー局の巨大なビルの先、消防署に隣り合った坂の途中にある大使館の文化処参事官助手として2年前から日本政府に承認されている。

しかし、リンという名も文化処所属という身分も全てが偽りだった。勿論、日本の公安当局もその位は感付いていて、彼は定期的に監視の対象となったが一度も怪しい素振りを見せた事は無く、文化交流の担当者という任務を卒なくこなす能吏という以外、何者でもなく見えた。それでも彼は間違いなく本国から裏の任務を帯び日本に駐在していたのだが、その任務は日本の公安当局が信じていたものとは異なり、かなり奇妙な任務だった。

 その日も彼は奇妙な任務の一環である『待機』を強いられていた。大使館の地下2階、食料品や貴重品などの保管倉庫が並ぶ一角にある何の変哲もない倉庫のひとつに、パイプ椅子と会議用折り畳みテーブルを持ち込んでもう3時間近く待っていた。プラスチックのコップに入ったコーヒーはとっくに冷めていて、只の酸っぱくどろどろした液体となってしまい、飲めたものではなくなっている。その日も外は暑い日だったが、この地下2階は効き過ぎるほど冷房が効いており、スーツ姿であっても時折歩き回らないと肌寒く感じる位だった。

 リンにはこの大使館の中に実際の上司が居ない。彼は陸軍の特殊部隊出身だったが、たとえ大使であろうと武官処の駐在武官であろうとも、カバーストーリーである文化交流に関するもの以外、彼には直接命令出来なかった。命令は本国政府の奥底から、彼の持つノートPCにダイレクトに衛星経由でバースト送信されて来る。これも毎回、自衛軍が電波を傍受していたが解読には至っていない。また、バースト送信は命令のある、なしに係らず毎日定時に四回づつ送られて来るので、どれが本物の命令か外からは分からない筈であった。 

 今回も本国から6時間の猶予を持って送られて来た命令に従い、この部屋を開け、華僑が営む食料品卸業者の搬入車に忍んで来た二人の人物を地下への搬入路から迎え入れ、この倉庫へと案内した。今、その二人はここにいない。彼はその二人が『帰って』来るのを待っているのだ。

 リンの任務の半分以上は待機で、その理由は、表面上は彼を無視している武官や大使が詮索して彼等にはアクセス権のない極秘事項に触れないよう防諜につくす事にある。彼はそれに皮肉なものを感じていた。それはこの任務が、これまで彼が歩んで来た道と正反対の性格であったからで、人民開放軍武力偵察処の上校(大佐相当)の階級を持つ彼は、敵国に侵入し情報収集や撹乱工作を任務として来たからだった。

― 来た。

 リンは世界各国に様々な立場で滞在し、口外する事は死を意味する極秘事項や信じられないような現象も数多く見て来ていたが、これは想像すら出来ないものだった。

 カーゴに載せた段ボール箱がきちんと並ぶ倉庫の奥の壁、そこには何も置かれていなかったが、その壁全体が薄い霧のようなものに包まれ出した。霧はあっという間に濃くなり、微かに発光する。すると霧と見えたものは上から下へと流れる滝のように見え始め、次第に透明度を増すと『水』の流れは渦を巻くように回転し、自然界には較べるもののない七色に変化する膜のようになる。それは子供の時にやったシャボン玉の淡く虹色に変化する薄い膜に近く、リンは表情には表さないものの素直に美しいと思った。

 その虹の膜の向こう、壁のあるはずの向こうから光が差している。その鍵穴のような光の中に、二つの影が見える。その影は次第に大きくなり、こちらに近付いている事が分かる。影はすぐに人の形となり、次の瞬間、膜を抜けて二人の人物が出て来た。

「お帰りなさい、センセイ」

 リンが日本語で声を掛けると、膜から出て来た初老の男が、

「すみませんな、リンさん。いつも待たせてばかりで」

「いえ、これ私、シゴトですから気にしないでください。問題ないですか?」

「はい、問題ありません」

 先生と呼ばれた男は、一緒に膜を抜けてきた十台半ばほどに見える少年に頷くと、二人でリンの傍らに寄り、壁の膜を振り返る。リンも黙って膜を見つめる。

 不思議な膜は淡く輝き、虹の七色をなぞるかのように変化を続けていたが、一分もすると最初のように虹色の膜はぼやけて『水』となり、渦を巻きながらもやがて滝となり、そしてさらに輪郭がぼやけて霧となる。霧はゆっくりと渦巻いていたが、更にピントがぼけて行くように掴み所のない白い気体となり、瞬きする間に消えてしまった。後にはただ、倉庫の壁があるばかりである。

「さ、お車が待っていますので」

 最初に我に返ったリンが二人を急かす。

 三人はリンを先頭に倉庫を出ると地下二階の廊下を突き当りまで歩く。常時作動している監視カメラは、この時に限って故障しているはずだ。これは別に指令を受けている大使館の保安主任が責任を持って行っている。 

 非常階段で一階分上り地階のドアを開くと、そこは地下駐車場だった。待っていたのは小型バスで、年齢も様々な男女20人程が乗っている。

 リンは二人にバスを示し、

「今日はあれでお帰りください。運転手に指示してあります、運転手に従ってください。では私、ここで」

 先生は愛想良くお辞儀をし、

「ではリンさん、またお会いしましょう。再会」

「またお会いしましょう、タケザキ先生。再会」



 サングラスを掛けた男はフロントガラスのサンバイザーを調節し、まともに顔に当る日差しを遮った。空調を利かしてはいるが外気温は35度を越えている。車内も直射日光に晒されたシートは触れないくらいに熱い。FMのパーソナリティが関東甲信越から南東北まで梅雨が明けました、と話している。ちらっと腕時計を見ると2時を廻ったところ、あと15分程の辛抱のはずだった。30秒置きに顔を動かさないまま、バックミラーやサイドミラーも使い四方を確認する。

 その時、彼がここのパーキングエリアに駐車すると同時に10m程後方に駐車していた黒い車がゆっくりと動き出し、彼のワゴン車の脇を抜けて次第にスピードを上げて去って行く。駐車して30分が経つ。交代は5分ほど前に10mほど先に停まった濃紺のセダンだ。

― ミエミエ、だな。

 防諜や諜報の講義を受けているその筋の新米でも気付く程の稚屈なやり方。連中は最近スタンスを変えた。明らかに俺達は見ているよ、というサイン。きっとサリーが尾行中の新米の公安をからかったからだ、と曹長は言っていた。

 あの後、ルシェが桜田門まで出掛け警察庁の警備局や警視庁の公安部、公安調査庁などにアクセスした。サリーの後始末だ。お陰で公安警察の連中は、サリーが何かマジックじみたやり方で尾行した青年に後遺症や薬剤が残留しない即効性の向精神剤か何かを飲ませた、と思い込んでいる。

 『エンジェル』を監視しているのは公安総務課配下で、これは公安が彼らを左翼、右翼、宗教、外国の何れとも特定出来ていない事を示しているように思える、と隊長は言っていた。連中も苛立っている。間違いなく警察の『RG』関連部署が公安を操作・牽制しているのだろうし、サリーの一件を公安にも分かり易いストーリーにしない限り、なんやかんやと理由を付けて逮捕しようとするだろう、ということで隊長が決めルシェが工作した。曹長が言うには、その流れで公安は距離を置きながらもあからさまに監視を行い、こちらが身動き出来ないようにしようとしている、と言うのだ。おかげでこちらもそれ相応の対応を強いられている。

― 面倒だな。外からウチからというのも・・・

 彼は少々疲れていた。監視して来るのはこの世界の連中だけではない。ルシェやレリが四六時中『意識』していて、あちらではマティが張っている、とはいえ、グリックがこちらに来ていない、とは言い切れない。それに見ているのは敵ばかりではない。

 彼らは、能力者がアクセスすれば『気配』を感じるよう訓練されている。特にマティのような『レシーバー』と呼ばれる特務担当は、能力者ではないが、能力者と同じように思考会話を操れるよう手術を受けている。そのレシーバーには及ばないものの、彼も能力者がアクセスした時に気配を感じ取れる位には訓練されていた。こちらには真の能力者はいないという。時折感じる気配は味方のものに違いなく、身内とはいえ脳の中を覗かれるのは排便中を覗かれるのと変わらないほどの恥辱を感じる。

― 悪気はないんだろうが・・・

 そう、時折感じるのは主にサリーの気配だ。 

 気配とは『におい』の事だ。能力者のアクセスは五感でも特に嗅覚を刺激するようで、これには体臭の様に様々な個性がある。そこに誰も人間がいないのに、微かにシャンプーのようなフレグランスのような匂いが流れたら、それは誰かがアクセスしている。ルシェクラスともなるとほとんど匂わずにアクセス出来るので、逆に彼はいつも見られているような気がして疑心暗鬼となってしまう。

 プライベートが無いのは軍隊生活で慣れっこだったが、頭の中で悪態も付けないのは正直堪えた。そこで、このような機会を見つけては彼は様々な妄想やだらだらと頭が思いつくまま思考を垂れ流しする贅沢に耽った。この車にはダッシュボードに仕込まれた『バルーンメーカー』がある。別に彼だけがそうするのではない。曹長や隊長すら車に篭る事があり、曹長はこれを皮肉を込めて『心のオナニー』と呼んでいた。

 彼は煙草に火を付けると、天井に向けて煙を吹き上げる。煙草もこの世界では禁煙場所が多く、しかもライトだのスリムだの軽いものが多くて困る。漂う紫煙をぼんやり見つめながら、思考が流れるまま、彼は自分の半生を思う。 

 物心付いた時には彼はもう一人だった。職業軍人だった父親は彼が一歳の頃、派遣先の南米で共産ゲリラと戦って戦死、母親は後を追うように二歳の頃病死した。軍はそんな彼を、同じような境遇に置かれた孤児たちを養育する施設に収容し、国に殉じた彼の両親―立枯れるようにして逝った母親も十分そう言われる資格がある、と父親の上官は断じた―の息子に報いた。

 施設で育った彼は一匹狼の傾向が強く少々問題児ですらあったが、18歳で選抜徴兵により『ディー・エフ(DRAFT FORCE)』と呼ばれる新兵訓練部隊に入り、共同生活の中で初めて仲間を意識し教官にも恵まれ、軍は彼の全てになった。やがて陸軍の特殊部隊に配属された彼は成績優秀で、20歳でエリート部隊の一つに配属される。 

 それが『GRC』又は単に『ガード』と呼ばれる部隊だった。そこで隊長や曹長と出会い、それ以来彼の人生は彼らと共にある。後悔した事は、無い。それは誓って言えた。あのアイの存在を知った時から今に至るまで・・・

 コンコン

 窓を叩く者が居る。大きなアルミ製の網を籠状に編んだオブジェを抱えた女が、にっこり笑っている。彼は微かに吐息を付くと煙草を灰皿に押し潰し、ドアを開けて外に出る。

「姉さん、それ、随分大きいねぇ」

「前から欲しかったの、こういうのが」

「次はプレゼント買いに?」

「そう。まずはデパート、その後で近所のスーパー寄って。あいつらが今夜はバーベキューがいい、っていうから、野菜を一杯買わなくちゃ」

「人参も買う?」

「玉ねぎもね」

「いくつ買うの?」

「そうねえ、人参2個に玉ねぎ4個、あとピーマンもたくさん、ね」

「足りるかなぁ」

「足りるでしょ、きっと。さあ、行かないと」

「はいはい」

― 危険はなし。移動監視は前方に2人、後方に4人。更に多数が拠点監視・・・

 女はスライドドアを空けて籠を後部座席に無造作に置くと、そのまま後ろに乗り込む。彼はドアを閉めると運転席に乗り込み、しっかりとシートベルトを閉めてから車を出した。女は前を見たまま口を開けずに小声で言う。

「時間通り。変更はなし」

「了解」

 尾行がしっかりと付いてくるのを確認しながら、彼は制限時速通りのスピードで模範運転を続けた。

 老舗のデパートに近付くと、いつも混んでいる立体駐車場の列には並ばずに50mほど先にある公営地下駐車場のランプを降りて行く。彼らのワゴン車はスピードを上げて地下1階、地下2階と降りて行き、最下層の地下3階へのランプを降りる時、女がドアのロックを外す。

「スタンバイ」

「アイ」

 ランプが右回りのらせん状に回り始め、その最初のカーブを曲がり、ちょうどランプの非常口の横を過ぎたところで彼はスピードを瞬時に徐行程度まで下げ、女はスライドドアを引き開ける。

 監視カメラと次のカメラとの死角に入ったその5m程の中間、壁に張り付くように二つの人影がある。女は最初に年上の方、初老の白髪の男に手を貸し素早く車内に引き込むと、併走していた少年に手を伸ばし、次の瞬間には車内へ入れると同時にドアを閉める。直後、車はスピードを上げ、何事も無かったかのようにランプを下って駐車場に入った。監視カメラには二人の人物の乗る白いワゴン車が駐車場へ入る所が映し出されただけだ。

 駐車場に駐車すると女は直ぐにドアを開け、じゃあ行ってくるね、と出口に向かった。彼はまた車に残り監視に備える。30秒後、車が2台続けてランプを降り彼の車の4台先と5台手前に駐車する。しかし人間は降りて来ない。

「どうだい?見張っているかな?」

 後部座席の床に寝転がったまま、初老の男がささやき声で尋ねる。

「2台。他にもいますよ、教授」

「熱心だな、彼らも。今日は大陸の電気産業の人たちと一緒に帰って来たよ。運転手によると我々のために一時間バスの中で待っていたそうだ。相変わらずすごいね、あの国は。好奇心の塊に囲まれて実験動物のような経験か、と実はワクワクしていたのだが、全く無視されたよ。運転手も口数の少ない男でね、この手前で一時停止した時にさっさと放り出されたよ」

「それは大変でしたね、分かりましたから、少々黙っていて下さい。申し訳ありませんが」

 ククッという押し殺した笑いは、最後部で寝転がっている少年のものだ。彼らはその後大人しく黙って20分を過ごす。

 女が戻って来たのはその20分後、今度はデパートの手提げ袋を提げスライドドアから乗り込む。

「状況変わらず。行くわよ、ザッキ」

「はい、ラグ」

 ワゴン車はゆっくりと駐車場を抜け、ランプを登った。ランプを登り始めてから2台の車も後を追う。ワゴン車は何度か入れ替わる2台から4台の車を引き連れて、西へ向かった。



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