白薔薇と春の午後
港街である神戸市はかつては天然ゴム輸入の拠点であり、日本の近代ゴム産業発祥の地とされている。そのため、神戸市にはゴム産業が栄え、現在でも大手ゴムメーカーの本社や拠点が数多く存在している。そして、少し頭の方が残念な箱入りのお嬢様の多い聖メタリカ女学院にもゴム関連製品メーカーの令嬢が在籍している。優雅に日傘をさして校門をくぐるのは共菱文具株式会社の子会社の共菱ねりけし株式会社の令嬢である共菱錬愛であった。
ウェーブのかかった長い髪にねりけしの様な優雅でしなやかなシルエット、正に絵に描いた様なねりけし会社のお嬢様であった。彼女もねりけし会社の令嬢である自分に誇りと自信を持っているようで、ねりけしを長く伸ばして縄の様に編んだネックレスを細い首に引っ掛けている。
朝一番、そんな彼女は一年一組の教室の扉を開けて元気に
「ごきげんよう、ノーマルセレブの皆さん」
と挨拶すれば
「共菱文具株式会社の子会社の共菱ねりけし株式会社の令嬢の共菱錬愛様だわ」
「錬愛様おはよー」
「お嬢様じゃねーか」
と教室が沸き立つ程の人望である。
もちろん授業態度は誰よりも勤勉で熱心に取り組んでいる。そんな彼女にも苦手科目の一つや二つはあるもので、特に理科や算数は苦手だ。
「ぬあああああああああああ」
っと午後の教室の静けさは一人の叫びで崩壊した。崩壊の中心にいたのは錬愛だ。ついさっきまで睨めっこしていた教科書を取り落したかと思えば、今にも泣きだしそうな顔をして席から立ち上がったのだ。
「落ち着くのじゃ共菱殿、ほれ深呼吸、好気呼吸、嫌気呼吸、落ち着け着け」
と先生は落ち着きなく言ったのだが
「駄目ですわ、私やっぱり連立方程式なんて出来ませんわぁぁ」
と錬愛はヒステリー気味に答えるとそのまま窓を突き破って二階から羽ばたいた。入学以来五枚目の窓破壊であるが彼女の家は金持ちなので大した問題ではない。将来は共菱ねりけし株式会社を背負うことになる自分が連立法廷式を解けないことの方がよっぽど問題だと思えるほどに勉学にも熱を上げているのだ。
さて、そんな激情を秘めた錬愛ではあるが、実に心優しい一面も持っている。
それはある暖かな春の午後のことであった。錬愛は日差しの当たる廊下を意味もなく歩いていた。そんな彼女が歩みを止めたのは目の前で泣いている一人の少女を見かけたからだ。
「あら、貴女どうして泣いていらっしゃるのかしら」
錬愛は単純な疑問を少女に投げかけると
「うわーん、自分の教室が解らなくなっちゃったよぉ」
「まぁ、それは大変ですわ。一体どこの教室なの」
「三年の二組…………うわーん」
と一向に泣き止まない少女を見かねた錬愛は懐からある物を取り出した。どこにでもある普通のねりけしである。
「さぁご覧になってこのねりけしのここをこうやってああやって35度ひねって」
と錬愛がねりけしをいじり回せば、その無機質な姿はたちまち花の形へと変わっていった。
「ほら、白薔薇ですわ」
とそれを少女の手に活けると少女の泣き顔はたちまち晴れていった。
「うわぁ~すごーいすごーい」
「それ、差し上げますわ。それではごきげんよう」
と錬愛は優雅にその場を立ち去った。いいことをした後は熱い紅茶でも飲みたい気分だ。
少し頭の方が残念な箱入りのお嬢様の多い学校のためにカフェテリアで民主主義や議会政治について語るお嬢様は居なかったが最近話題のスイーツ屋台や今週のジャンプについて語るお嬢様はそれなりにいた。
錬愛もそんなお嬢様達ときつねうどんを食べながら今週のジャンプの話をしていた時である。カフェテリアにいた人々の視線が一瞬にして入口に向けられる。そして、少し出遅れて錬愛も振り返る。入口にはさっきの迷子の三年生とシルバーブロンドのお嬢様であった。錬愛はそのお嬢様の姿を一目見てそれが校内で一番人気の三神廻留お嬢様だとすぐに解った。シルバーブロンドだけではなく、全身から発せられる得体のしれないオーラのようなもの感じたのだ。錬愛の廻留に対する第一印象は伝説のスーパーお嬢様なのではないかと思ったほどだ。
カフェテリアの誰もが二人を見ている。もはや廻留の周囲は一つの舞台になってしまったかの様だ。
「誰か三年三組の教室を知らないかしら、この子を連れて行ってあげたいの」
と問えば多くの女学生達が名乗り上げてちょっとした騒ぎになった。この機会に便乗して廻留に近づこうとする者ばかりではあるが。
廻留は唐突に現れ、大勢の女学生を引き連れて嵐のように去って行った。残された錬愛は時間差で衝撃を受けた。廻留のなんと隙の無く慈愛に満ちた気遣いであろうか。あれこそ正に自分が目指していた理想の淑女の姿ではないかと思ったのである。錬愛はただ闇雲に淑女を目指している訳ではない。将来は共菱ねりけし株式会社を背負う人間であるという自覚が、彼女の言動をより人の上に立つ者らしくしている訳だ。
「そう、こんな所できつねうどん食べてる場合じゃありませんわぁ」
何かを思い立った錬愛は、残りのきつねうどんを一気に向かいに座っていた女学生の口に詰め込むと、そのままどこかへ去って行った。
錬愛が立っていたのは生徒会室の前であった。廻留がよく生徒会に出入りしているという話はこの学院の誰もが知っていることだろう。錬愛は第一に生徒会に入り、廻留と直に接することで立派な淑女への道が開けると考えたのだ。そして、第二に学院の運営と会社の代表というものがどこか重なって見えたのかもしれない。
「ごきげんよう」
錬愛は少しの興奮と期待と緊張を胸に生徒会室の扉を開いた。中ではバーベキューパーティーの真っ最中であった。もちろん火災警報器は破壊されている。
「おお、遅かったな廻留…………って誰だお前!?」
驚きの顔で錬愛を迎えたのは長い黒髪を後ろで束ねた凛々しい雰囲気の少女であった。錬愛はこの人物に見覚えがある。生徒会長の板屋直刃だ。壁に立て掛けられた木刀のようなものを見て思い出したのだ。
「私は新しく入会希望の共菱錬愛ですわ」
それから錬愛は聞かれてもいないのに十分くらい父の会社の話をして、生徒会の人々は肉とごはんを食べていた。それから大して人の話を聞いていなかった生徒会長の直刃は
「まぁいいんじゃなか、うちはいつも人手不足だからな」
と言うので錬愛の生徒会入りはあっさりと決定した。
それから錬愛に直刃、そして書記の橘さんや役員の一条さんから十条さん達が順番に挨拶を交わした。そして、錬愛は最も肝心なことを思い出した。
「あの、三神廻留様はいらっしゃらないのですか」
「そういえば遅いな、どこまで肉を買いに行ったんだあいつは」
と直刃は不機嫌そうに言った。
「あら、私の噂でもしていたのかしら」
不穏な煙を漂わせ、例の彼女は現れた。弱った猪を担いだ三神廻留であった。街と山が隣り合った神戸市では猪がよく出没する。
「流石にそれは私でも捌けないぞ、返して来い」
と直刃に言われると
「それもそうね」
と言って廻留はすんなりと山に帰って行った。
それから廻留が山から帰って来て、錬愛と一通りの挨拶を済ませるとすっかり日も沈み、夕方になっていたのでその日は解散した。 錬愛は正にこの瞬間を待っていたのだ。廻留を尾行して私生活を暴き出し、伝説のスーパーお嬢様になるヒントを見つけようというたくらみだ。
廻留と直刃の向かった先は学校の駐輪場の隣の馬屋である。廻留は黒々とした雲母のような青毛の馬に、直刃は真っ白な新雪のような芦毛の馬にそれぞれ乗って行ってしまった。錬愛は思い出した。二人はそれぞれ乗馬テニス部のキャプテンと剣道部のキャプテンなのだから馬くらい乗っていて当然である。錬愛は優雅に三国志の話をしながら馬で神戸の坂を下る二人を隠れつつ追った。街中であったためか、二人はそれほどスピードも出さずゆったりと走っていたために、錬愛もなんとか尾行が出来たのだ。
そして、たどり着いたのは元町高架通商店街、通称モトコーである。狭くて薄暗い高架下には少し寂れて怪しい感じの店が続いている。さすがに馬で入るには狭かったのか、二人は馬を駅前に停めて商店街に入って行った。
しばらく歩いて二人が立ち止ったのは靴やゲームのカセット、古雑誌などが無造作に山積みになった看板には「パソコン」の文字がと書かれた店であった。どうもそこのヒゲ面の店員は顔見知りだったようで二人を見ると
「おお、お嬢さんじゃねぇか、今日はいいのが入ってるぜ」
と言って店の奥から毛皮のようなものを引っ張り出した。
「なかなか良さそうなの毛皮に見えるけど」
「さすがお嬢さん、いい目をしてらっしゃる。これはぶりの毛皮でしてね。北の海の香りがするでしょう」
「いいわね、言い値で買うわ」
「へへへ、200コーヴァンでどうですかい」
「安いわね」
と言って廻留は鞄から貨幣の入った麻袋を取り出した。それを店員が秤に乗せるのだ。
「支払いはカードでいいかしら」
「これはウルトラレアなカードじゃねぇか、いいのかい」
「こんなカード私は三十六枚持っているわ」
いまひとつ良く解らない経済活動を済ませて満足した二人はふたたび馬に乗って東へ駆ける。
生田川沿いの桜はすっかり花も落ちて、まぶしいばかりの緑を見せていた。さすがの社長令嬢も、大通から広い川沿いの遊歩道に入ってスピードを上げた馬の相手にするのは骨が折れるのか、ずいぶん馬から引き離されていた。それでも錬愛は息を切らせて懸命に走った。もう錬愛には馬しか見えていなかった。だがそれがよくなかった。錬愛は人とぶつかってしまったのだ。それもただの人ではない。よりもにもよってそれが湊川五人衆の一人、平狂盛であった。
「なんだいお嬢さん、公道はちゃんと前後左右を確認して安全な速度で歩かないといけねぇぜ。それとも新手のナンパかい」
と言って強引に錬愛の細い手を掴んだ。
「すみませんわ。ちょっと手をお離しになって」
と錬愛が割と本気で嫌そうな顔をして言ったのだが
「おおぉ、お前兄者にぶつかって来た。だからお前兄者の物」
と一緒にいた平悪盛も兄の狂盛の肩を持った。
まさに絶体絶命かと思われたその時である。蹄の音ともに颯爽と現れたのは廻留と直刃である。そして、廻留は無言でそのまま馬ごと平狂盛に体当りで突き飛ばしてしまったのだ。あまりに大胆な一撃にその場にいた誰もが固まってしまった。
「いてぇぇぇ」
ただ一人、平狂盛を除いては。
「やりやがったな、この平狂盛に。っていつかのお嬢様じゃねぇか。これはいい、俺は結構お前を気に入ってるんだぜ。今の無礼は忘れてやるから俺とスーパーファミコンでもやりにいかねぇか」
と馬で轢かれた割には機嫌が良さそうに廻留を誘ったのだが
「ごめんなさい、私は貴方のことは森林破壊の次くらいに好きじゃないの」
ときっぱり断った。またしても一同は廻留の大胆さに唖然として固まってしまった。今度は狂盛も固まっている。日ごろからやりたい放題の彼だからこそ、正面から拒絶されたことにショックを受けたのかもしれない。するとその隙を狙ったのか、廻留はかなり強い腕の力で錬愛を馬の背に引っ張り揚げると颯爽と駆けだしてしまった。それを見て直刃も
「なんか、あの……すまん」
と一言謝って廻留の後を追った。
六甲山の山肌と街のビルディングと生田川が反射する夕日の朱に包まれて、錬愛は廻留の背に捕まっていた。やり方はどうあれ、自分は憧れのお嬢様に助けられたのだ。優しさだけではなく、時には強さも兼ね備えるまさに理想の淑女ではないかと改めて実感した。そして、自分の目指すべき姿であると。
「ねぇ、錬愛さんだったかしら、家はどちらなの」
「芦屋ですわ」
芦屋といえば高級住宅地である。なぜか馬の頭は芦屋と反対の三ノ宮に向かい、大通りに面した神戸市役所の前でおろされた。それから廻留は
「誰か彼女を芦屋に連れて行ってくれないかしら」
と群衆の中で呼びかけたのだ。いろいろあったが錬愛は普通に電車で家に帰った。