茶色いりんごたち
斎藤真理が死んだ。
僕を見舞いに来た友人が、他人事のようにそう言った。
「5日前だったんだって、葬式」
「…そう」
特にいい返しも思い浮かばなくて、生返事をした。
そもそも、斎藤真理の顔が思い出せずにいた。
何てったって、最期に会ったのは3年前の高校の卒業式だ。
仲のよかった奴ならともかく、ほとんど話したこともないただのクラスメイトの顔となると、思い出せないのも無理ない。
「火事だったって。見つかった時には、もう本人かどうか見分けもつかないくらいだったんだって」
「それは…かわいそうだったな」
「あっ!悪い、お前も手術のすぐ後なのに、こんな話…」
「いいよ。生きてるんだし」
安心させるように、笑顔を作ってみたが、友人はますます暗い顔になって、視線を落とした。
(別に気にしないのに)
気まずさから逃れたくて、今朝母が切ってくれたりんごを一つ爪楊枝で刺して、友人に差し出した。
「いる?」
「え?あ、ああ…ありがとう」
無理矢理繕った笑み。
受け取ったはいいものの、すぐには口に入れない。挙動不審な様子がおかしかった。
「…俺、もう行くな。
じゃあ、頑張れよ」
またぎこちない笑みを浮かべて、りんごを右手にもったまま、そそくさと病室を出て行った。
「ああおかしかった」
「あいつ、あのりんごどうするんだろうな」
「僕なら捨てる…あんな茶色くなったりんご」
「しかも、病室に置いてあったんだぞ」
「僕なら、捨てる」
「…」
「あいつも、斎藤の話みたいに、俺の話をするんだろうな」
「…他人事みたいに」
僕が口を閉ざすと、途端に世界は静まりかえった。
誰の声も聞こえない。無機質な時計の針の音が、僕に気を使って三三七拍子でも刻み出さないかと期待した。
けど、無駄みたいだ。
白い天井が見ている。
僕を見ている。
そして、嘲笑っている。
「お前は、おれを見上げることしか出来ない」
「かわいそうになぁ…かわいそうになぁ」
うるさい。うるさい。
誰がこんな体になりたくてなるものか。
足さえ、この足さえ動けば…
「何言ってるんだ。
お前の足は、もうないじゃないか」
ガチャン!
ハァ、ハァ…
食器の割れた音で我に返った。
誰が歩けないって。誰の足が役立たずの棒切れだって。
そんなにいうなら見ていろ。
「僕は、歩ける」
近くにあった椅子を手繰りよせ、体重をかける。
椅子は僕を鼻で笑うかのように、勢いよく倒れてしまった。
僕の体はベッドの外へ引きずり出された。
りんごの甘い香りが埃のにおいに混じって鼻腔に届いた。
それからは、もう無我夢中で前へ進んだ。
幸い、僕を遮る人も物も現れなかった。
しかし、階段は容赦なく僕の前に立ちはだかった。
1段上がる度、掌が擦り剥けていくのがわかる。
僕は果敢に戦った…そして勝った!
僕は勝ったんだ。
辿り着いた先は屋上だった。
風が僕の頬を軽く撫でる。
風は平等だ。誰の元にも差別なく訪れる。
「は…はは、は」
「…」
「う、うう、…っ」
溢れ出した涙は、りんごの味が少しした。
このまま、死ねたら。
バサバサ。
視界の端で、何か白い物がはためいた。
白いワンピースの少女がいた。今の今まで気づかなかった。
どうしてか、その背中と中途半端に長い黒髪には見覚えがあった。
「…何、してるんだ?」
「そっちこそ、何してるの?」
振り返った顔は、やっぱり見覚えがあった。
赤い唇がにこりと笑った。
「…散歩だよ」
「私だって、そうよ」
「だめじゃないか」
「どうして?」
「だって、早く成仏しないと、だめじゃないか、斎藤」
斎藤はむっとして、その後悲しそうな顔をした。
どうしてそんな顔をするのかわからなくて、思わず首を傾げた。
「死んでないの、私」
「…ああ、いきなりだったもんね、信じられないのも無理ないよ」
「違うの!本当に死んでないのよ」
「それなら、僕を抱えて病室まで運んでみてくれよ」
斎藤は、しめしめ、と笑って、僕をひょいと持ち上げると、僕があんなに痛い思いをして来た道のりを、飄々と駆け足で走ってみせた。
そして、ベッドの上に丁寧に僕を寝かせてくれた。
「…嘘だ」
「嘘じゃない。今あなたはそれを見たし、実感した」
「じゃあ、夢だ」
僕は右頬を抓ったり、引っ叩いたりした。
白いワンピースの少女は、相変わらずそこにいた。
「覚めない夢なんてないのよ」
「上手いこといったつもり?」
「あーあ、もったいない。こんなにして」
斎藤は、床に散らばった皿の破片を綺麗に片付けて、椅子を元通りにし、そこへ座った。
「僕は死んだのか」
「どうして?」
「だって斎藤が見えるってことは、」
「だから、死んでないって言ってるでしょう」
「じゃあなんだ、あいつが嘘をついたのか」
「それは…違う」
斎藤はしゅんと萎んだように俯いてしまった。
「多分…私の代わりに誰かが死んじゃったのよ」
「えっ?」
「あんなに激しく燃えて、黒焦げになって…原型も残ってないはず。私じゃない誰かが燃えてしまったって誰も気付かない」
「なら、早くそれを警察に」
「出来ないの!誰も私に気付いてくれないのよ!」
だから、それは君が死んでいるから。
そう言いかけて、口を噤んだ。
斎藤の目から、今にも涙が零れ落ちそうだったから。
斎藤が僕をからかって、嘘をついているようには、どうしても見えなかった。
でも、僕以外の誰にも姿が見えないんじゃ、彼女が生きていると証明することは出来ない。
僕の夢とか幻覚とかっていう可能性も捨てられない。
かといって、このままじゃ埒が明かないし、例え人に見られないからって、女の子に泣かれるのは正直キツイ。
「…わかった、わかったから。一応、信じるよ」
斎藤の瞳がぱっと輝いた。
「本当に?嬉しい」
ぎゅっと僕の手を握った彼女の手は、僕のよりずっと温かかった。
絡ませた指から伝わる熱が嘘だとも思えなくて、ああ僕はなんてリアルな夢を見ているんだ、と溜息を吐いた。