─〔 伍 〕─『Scared Eyes.<怯える眼>』#IV
暗い路地を一つ、影が走っていた。その影は道に惑うことなく、迷いなく進んでいた。そして、月が見える場所まできた。
尭良はふと空を見上げた。あの時見た朧月ではなく、くっきりと映った満月が光り輝いている。月は彼の決意そのもののように輝き、その光で尭良の亜麻色の髪を照らしていた。
その月を見ながら、尭良は手を握りしめた。そこには金属の長い棒があった。ところどころに何か鋭利なものでつけられた傷が入っている。彼はその棒を見たあと、前を向いた。
もう少しで、この前争った場所につく。月明りの切れ目で尭良は突然走るのをやめた。
「……」
尭良は無言で金属棒の両端を持ち、そっと引いた。一つの棒は二つに分かれ、彼の両手に握られる。そして、尭良はそのままじっとして動かなくなった。
少し風の音が聞こえた。それと同じようにどこからか小刻みに地面を蹴る音が尭良の耳に届いてくる。尭良は一つの棒だけ逆手に持ちかえ、静かに構えた。わずかに月が雲に隠され、光がとぎれた。
その瞬間だった。光の切れ目から、黒い影が尭良を襲ってきた。尭良はそれをよけると、逆手に持った棒を突き出す。影はそれを腕で防いで、静かにつぶやいた。
「……また、やられに来たのか?」
月明りが戻り、相手の顔が照らされる。見ると、この前の少年だった。黒の瞳で尭良を睨みつけている。尭良は少し笑って言い放った。
「違ぇよ、バーカッ」
闇に対照的な明るい声が響き渡った。尭良の笑みに不快と不安を覚えたのか、少年は後ろに跳びさがる。
「……じゃあ何しにきたんだ」
少年の問いに、尭良は真顔に戻った。
「別に。ん〜……でも、しいて言うなら……」
そう言いながら、尭良は軽く構え直す。
「喧嘩しにきた、かな〜?」
意地悪く笑う尭良に、少年は戸惑った。これは真意なのか、それとももっと他の目的があるのか、相手が手の内を読ませない顔つきをしているからだろう。
少年は動かなかった。尭良も動かなかった。時間がただ流れていくだけだった。
突然、烏の鳴く音が聞こえ、尭良は空を見た。夜だというのに、大きな黒い動物が空を舞っている。尭良はそんな光景をぼうっと見ていた。
その時だった。
「喧嘩ってのは、相手にスキを見せる事かよ」
尭良の前で声がした。瞬間に鉄の棒を前にすっと出す。耳には鈍い音が聞こえ、手には何かがぶつかる感触があった。
尭良はゆっくりと前を向き直すと、少年の驚きの顔が目に映った。鉄の棒が突き出された拳を防いでいた。
「二度もくらうかよ。結構痛いんだからさ」
尭良はそう言って、意地悪そうに笑った。
「ちっ……」
少年は舌打ちすると、後ろに飛びさがった。そのまま闇の中に後退していく。それを見て、尭良は静かに叫んだ。
「逃げんのか? また逃げんのかよ」
尭良の言葉に少年は足を止めた。
「お前、怖いからって逃げてんじゃねぇよ」
「違う。怖くない。逃げてもない」
「違うくないな。お前はただ怖いから逃げてんだよ。俺に殴られるのがそんなに怖いのかよ?」
「違う」
「あぁ、これは違ったな。別に俺じゃなくても、自分を襲ってくる人間全てが怖いもんな」
「違う」
「じゃあ何だよ。降りかかる火の粉を払いのけてるってだけか?」
「……そうだ」
「そうだ……だぁ?」
尭良は顔をしかめた。いつもより数倍鋭い目つきで少年を見る。そんな見たこともない彼に少年はたじろいだ。
「他人の言ってることにイエスとノーしかつけられないから、そうやって人間への恐怖に怯えることしかできないんだよ」
「怯えてなんかない」
「お前の口が怯えてなくても、目が怯えてんだよ」
少年の眉間にシワがよる。
「何だよ? いっちょ前に悔しいのかよ」
「……うるさいッ!」
少年はそう言い、地面を強く蹴って尭良に向かってきた。
少年の右からの蹴りが尭良を襲ってくる。彼はそれを鉄の棒で受け止め、そのまま上にはらった。その力を利用して、少年は後ろに側転をする。さがる少年にむかって尭良は棒を投げた。
棒は回転しながら少年の方に奔る。当たる寸前、少年はその棒を足で蹴り返した。
「自分から武器を手放すヤツがい」
そこまで少年が言った時、もう一つ、手に残っていた棒を降り下ろしながら、尭良の影が頭上から勢いよく舞い降りた。少年は驚いたが軽く体を横にずらし、その攻撃をよけた。
あて損なった棒は轟音をたてながらレンガの壁をえぐっていく。茶色や灰色の塊が地面に落ち、砂埃を巻き上げた。
辺りは一瞬にして、にごった灰白の世界になった。少年はそれを見渡した。敵はどこにいるか分からない、見えない、聞こえない。彼にそんな不安が取り巻いた。
少年が辺りを警戒しているとき、尭良はその砂埃の世界の外にいた。頭を掻きながら、
「しくった……相手見えなくしてどうすんだっつーのよ、俺」
と、悩んでいる。もう一言、誰に言うでもなく彼はぽつりと言葉をこぼした。
「風がふいてくれりゃあなぁ」
彼がそうつぶやいた瞬間、生暖かい突風が吹いた。
「えぇ?! 何? これって俺の言霊のせい!? 俺すごッ」
驚く彼を尻目に、風はみるみるうちに砂埃を消し去っていく。それに従い尭良の目が鋭くなっていった。そして、中から影が現れた。あの少年だ。
鋭くなった尭良の目は彼の姿をはっきりと映していた。
尭良の瞳にうつった少年は背を向け、何かを探すように辺りを見回していた。その様子を見て尭良は言った。
「おーい、こっちだぞ」
その声を聞いて少年は振り返った。わざわざ尭良が自分のいる位置を知らせた事が不快だったのか、眉間にしわができていた。
「そんなに怒んなよ。親切じゃん、俺」
「……何なんだ、お前。捕まえるとか言っておいて……おちょくってんのか? それとも、ただ遊んでるだけか?」
「んなこたぁないって。ちゃんと、仕事にかけてる物もあるし」
「……命とか言うなよ」
「言わねぇよ。そんな大切な物、安くかけられるかっつーの」
「じゃあ何なんだ」
尭良は手の棒にいったん視線を落とした。傷だらけの棒、それを握る手。その手に力を入れる。そして前を向き直し、言った。
「自由……だ」
「は? 自由? 警察の犬に自由なんかあるわけがない」
「おいおい、ただ単に首輪はめられてる犬なんかじゃねぇよ。俺たちは……──」
「──獣だよ」
確かにそう呟く尭良に少年は驚いた。目の前にいる人間は自らを獣という。理性を求め続ける彼らが、自分は獣だという言葉を決して出さないと思っていた。そのルールのようなものの例外が目の前にいる人間である事に少年は驚いていた。
「まぁそれは置いといて……」
尭良は一歩踏み出した。そのまま少年にむかって歩みを進めていく。少年は彼の方へ体を向け直した。
「思ったんだけど、お前、何歳?」
「……」
「……」
「……十五だ」
「年のわりに渋いよな、お前」
「……お前は?」
「俺? 俺も同じく十五よ」
「……年の割にガキだな、ガキ」
「う、うるせぇよっ! 一回言われただけでも十分へこむわ!」
思わぬ反撃に尭良はだだをこねる子供みたいに怒ってしまった。本当に子供みたいに。少年はそんな尭良を見て少し鼻で笑った。
「と、とにかく」
余計にガキと思われて焦ったのか、尭良は本題に戻そうと大声を発した。それとともに、右手の棒を前に出す。
「同い年だからって容赦しない。さっさと逮捕させていただくぜ」
意地悪っぽく笑いながら宣言する彼に少年もまた、その笑みを浮かべながら言った。
「…………やれるもんならやってみろ」
少年の心が音を立てて変わっていくのを、彼自身、まだ気づいていない。
尭良が少年と奮闘しているその頃、呼び出しを受けたイヴンは正装をし、警察機構ビルの特別公安課課長室の扉の前にいた。彼は扉の前に突っ立ったまま、中に入る気配を見せない。
そんなイヴンの顔は渋くゆがんでいた。
(何かやったのか、あいつら。俺が総監から直々に呼び出しを受ける時は、いつも局内の問題のことばかりだからな。ロクなことが無い)
彼の思考にうずまく黒くて暗いものがどんどん膨らんでいく。
(まさか、紅壬のやつがとうとう痴漢行動に……いや。あいつはもうすでに痴漢をしていると思える行動を多々しているし……)
しかも仲間を疑い始めている。
(いや……玖月か? 間違えて毒薬を気化させ、周辺住民に被害を……。それともルイナ? 部屋でわけの分からん音を出しまくり、騒音騒動で周辺住民に訴えられ……。ダークホースで尭良もありか?! 屋台のラーメンを三十人分たいらげ、金を払いきれず周辺住民に追いかけ回されて……)
絶対とは言えないけどそれは無いだろ、最後のは。と、つっこめそうな妄想がイヴンの頭にあふれ出してきた。
(うおぁああああっ! 俺には決め難し! 一体どれなんだぁあああッ)
勝手な妄想に頭を抱えながら心内で彼が叫んだ時、扉の中から静かな声がした。
「そこにいるのは分かっているのですよ、イヴン・シルレイン。早くお入りなさい」
それはとても幼く優しい、だが美しい女の声だった。その声を聞いた瞬間、イヴンは敬礼の姿勢をとり、
「申し訳ございません。心の準備を少し……派出局局長イヴン・シルレイン、入ります」
と、いつも以上に大きな声を張った。そして、彼がドアノブに手をかようとした時、扉が勝手に開いた。イヴンが少し視線を下に向けると、そこにはまだ五、六歳ぐらいの女の子が内側のドアノブに手をかけた姿勢で、彼の方にほほ笑みをよこしている。イヴンはそれを見た瞬間に敬礼の姿勢をまたとった。
「ご、ご足労申し訳ございませんッ」
「まぁ。そんなに緊張しなくてもよいのに」
少女はイヴンの行動にころころと笑いながら言った。
「さぁ、早くお入りなさい。あんまりあなたが入ってこないので、どうしたのかと心配してしまいました」
彼女はそう言うと奥へは入っていく。イヴンもつられるように、部屋の中へと入った。中は明かりがつけられていなく、月明りのみが足元を照らしていた。そこを頭の上で髪をちょこんと結んだ可愛らしい少女が歩いていく。彼女は中央にあるデスクの方に向かい、椅子に腰掛けた。
それを見届けると、イヴンは口を開いた。
「あの……今回はいかような用件で呼び出しを……」
「あ、今回は特別捜査と今月の予算の事です。だから、そんなに縮こまらなくてもよいのですよ」
「は……はぁ」
イヴンは顔を赤らめた。別にばれて恥ずかしかったわけではない。少女の笑顔が彼にとってあまりにも可愛いものだったからだ。
「さっそく本件に入りたいのですが……どうかしたのですか? イヴン、鼻を押さえて。具合でも悪いのですか?」
「いえ、何でもございません」
そう、ただかわいいものを見たら鼻血が出そうになっただけですから。
「そうですか、ならよいのですが。……まず特別捜査の件の事を先にお伝えします。今度の火曜日から一週間、温泉旅館で張り込んでもらいます」
「旅館?」
「はい。ですが、慰安目的ではありません。その旅館には一か月前から不審な事件が起こるようになり……そこの裏山では、撲殺死体が二体、発見されたそうです」
「はぁ」
「そこで一刻も早く犯人を逮捕するため、あなたたちを派遣したいと考えています。これは命令です。嫌であれば、今ここでしか取下げが認められないので」
「いえ。我々に任させてください。温泉ならやる気を出すヤカラが一人、いるので」
いい方のやる気じゃなくて、犯罪気味のやる気だけど。
「わかりました。あと、予算の件なのですがもう少し押さえることはできま……どうかしましたか? また鼻を押さえて……。体の調子がおかしければ、無理して出てこなくても良かったのですよ」
「いえ、本当に大丈夫です」
そう大丈夫。あなたのかわいい困った顔を見て、この男の萌え心が更に熱くなっただけですから。
不審な行動を取り続けているイヴンに首をかしげながらも、少女──特別公安課課長は話を続けた。
「毎月、局長級会議に予算の向上を提出されてるみたいですが、もう少し出費を押さえられませんか?」
「すみません。大飯食らいが今でも足りないと言っているので。あれでもギリギリの数字なのですが」
「食費の事は構いません。私が言いたいのは……この派出局修理費なのです」
彼女はどこから出したのか、おもむろに机に置いた先月の決算記録用紙を指差した。
「……」
イヴンは絶句した。尭良が作り出す膨大な食費より、かなり多い。
「確かあなたのところのレボリューターは……」
「沢森尭良と井紅壬と薊玖月です」
「……その中で壊す人と言えば誰ですか?」
「紅壬とルイナです」
「え。副局長の彼女はレボリューターではないじゃないですか」
「ないですが、つるんで壊してます」
今度は少女が絶句した。紅壬の方がルイナにちょっかいをかけて怒らせているとは思うのだが、彼女をそこまで怒らせる言葉とは一体……。
少女が考えにふけっていたとき、低いうなるような音が部屋に響いた。
「も、申し訳ございませんッ!」
「仲間からの連絡でしょう。構いませんよ。それより早く出た方が良いと」
「し、しかし」
「私は構いませんから。出てあげてください」
「では、お言葉に甘えて」
イヴンはそう言うと、スーツの胸ポケットから携帯を取り出した。携帯は画面から光を発しながら、低くうなり声のようなバイブレーションをしている。その携帯を開けると、画面にはよく知っている人間の名前が表示されていた。
「メールか……」
彼は誰に言うでもなく呟き、そのメールを開けた。イヴンの目が文章を追うように動いていく。そして読み終わると、彼の表情は少し笑みをたたえていた。
「どうかなされたのですか?」
「いえ、少し用事ができまして」
そう言って彼は課長に一礼をし、出口の方に体を向け歩き出した。そして、扉にたどり着くと少女の方を向き、苦笑しながら、
「あ、あと予算の件なのですが、どうあがいても減らなさそうです。むしろ増える方向にいくと考えられます」
と、言った。そして彼は扉の向こうに消えていった。
そんな彼を見送ったあと、彼女は決算用紙を見た。
「これ以上ですか?」
そう言った彼女の顔をイヴンが見ていたら、完璧に鼻血を吹いていたことだろう。