─〔 伍 〕─『Scared Eyes.<怯える眼>』#I
俺はしばらく景色全体を眺めるように、ソイツを見ていた。向こうも見下すように俺を見ている。視線をはずせない。手の震えもとれない。
「くそ!! 手の震えが止まらねぇ……ッ」
俺は小声で何かを紛らわすように言った。それでも俺は、自分の視線をその人影からそらす事ができなかった。
そのまま見ていると、その影は突然、建設中でむき出しの鉄筋から飛ぶように降り、消えた。そのビルまではそう遠くない。俺は消えた影を追い、ビルに全速力で向かった。
だけど、俺がついたころには誰もいなかった。暗い路地が月明りに照らされていく。それにつれて俺の不安も増していった。
不意に後ろから音がした。振り返るとそこには、俺が見たヤツがいた。黒の短髪、光のない眼。服にところどころ、血で赤に染まっている。
「この前ヤクザをボッコボコにしたのは、てめェか?」
俺は睨みながら聞いた。
「降りかかる火の粉は払いのけるまでだ」
軽い沈黙の後、ヤツは呟くように言った。
俺はコイツが犯人だと確信し、ちょうど近くに置いてあった鉄のパイプを二つとった。その様子を見て、ヤツも構える。手には何も持っていない。
素手か……。コイツ、素手で人間をあんなんにするのかよ。
「やるのか?」
ヤツは俺に聞いてきた。
「仕方ねぇさ。俺の仕事は、悪いヤツを捕まえるって仕事だからなッ!」
俺はそう言い終わった瞬間に、地面を強く蹴った。アイツの間合いに入り込み、右手の鉄パイプを下へ振る。空気を切る音の後に、地面を叩き割った感触が手に伝わってきた。
アイツは俺の鉄パイプを避けて跳んでいた。そして、その勢いで鉄筋の柱を蹴り、俺に向かい跳び蹴りをかましてくる。
俺はその攻撃を左手のパイプで防いだ。重い。蹴りの一撃が思ってたより相当重かった。
ヤツはそのままパイプを踏み台にして、後ろに宙返りをしながら跳ねさがる。さがった途端に、今度はアイツから仕掛けてきた。
俺との間合いをつめ、左からの回し蹴り、右ストレートを出してくる。俺はパイプで突き出してきた右手を振り払った。一瞬だけ、ヤツの眼と視線が合う。その瞬間、俺は動けなくなった。いや、動いちゃいけないと思ったんだ。
アイツの眼が……。
そんな甘さが命取りになった。甘さがスキを生み、そのスキに付け込まれた。
アイツの左拳が見えた時にはもう遅かった。腹に猛烈な痛みを感じた。
「う……ッ」
俺の体が崩れ落ちていく。その動きを利用され、さらに顔に膝蹴りをくらわされた。俺は後ろに大きく吹っ飛んだ。レンガの壁に激突し、背中にも激痛を感じた。
俺は体勢を立て直すため、立とうとした。だけど、目の前にはすでにヤツがいて、肘が振り下げられる。今度はさっきの攻撃とはケタ違いに鋭くて痛かった。俺は歯を食いしばり、呻き声を出すのを制した。
「終わりだ」
ヤツの声がそう言った。見上げると、俺が放したパイプを持っていた。そして、それを振りかぶり勢いよく下ろした。
俺は人間の本能というヤツで目をつむった。けど、まもなくして俺に当たるより手前で、何かに当たる音がした。恐る恐るまぶたを上げて見た。
鉄のパイプを肩に受け立っている男。本当に真っ赤なその髪が風で揺れる。
「紅……壬?」
俺がそういうと、目の前の男が振り向いた。そして、ニヒルに笑ながら、
「ったくよォ。夜に運動したら、腹ァ減っちまうじゃねぇか」
と、言った。
「何だ、お前」
突然現れた紅壬をアイツは疑わしげにうかがった。紅壬の薄茶色の瞳だけが俺から離れ、ヤツの方を向く。
「そうだなァ……詳しく言やァ、このガキの先輩かなァ?」
「……こいつの仲間か」
「んまぁなぁ。でも今の俺にとっちゃァそんな事関係ねぇし、テメェにとっても関係ねぇこった」
そう言って、紅壬は顔も向けた。その顔を見て、ヤツは目を細めた。
「何でだ」
「何でってテメェよ……今から殺り合うってのに、そんな説明一々しなきゃなんねェのか?」
紅壬の狂心に火がついたんだろう。犯人が自分ともっとも近い戦闘方法をとるヤツだし。
そんな狂人のようににやつく紅壬にヤツは飛び掛かった。左からの攻撃を軽く避けた紅壬は、後ろで控えていた左手を勢いよく上に振る。ヤツはその手を上手く利用し、自分の手をのせて紅壬の背後にまわった。そして回し蹴りをくりだす。
それに対し紅壬は少し驚いていたようだが、回して来た足を右腕でガードし、支持足を払った。思わぬ攻撃にヤツは体勢を崩した。紅壬は力を入れてないヤツの右腕を掴んで、投げ飛ばす。
着地ギリギリのところで手をつき、アイツは背中からの激突を免れた。
「やるじゃねェか」
そう笑う紅壬にヤツは眉間にシワを寄せた。そして、後ろにさがって闇に消えていく。
「あ! ちょッ逃げる気かよ?! オイッ」
紅壬が慌てて闇の方に行った時は、もうアイツはいなかった。
「んだよ〜。たァっく……おい、大丈夫かァ? 尭良」
俺は犯人の二の次っすか? とか思いながら、立とうとした。足が微妙にふらつく。
不意に紅壬が俺の脇腹を触ってきた。触られたところから、猛烈な痛みが体全体に走る。俺はその痛みに絶えれず、片膝をついてしまった。そんな俺の様子を見ながら、紅壬は溜め息をついた。
「はぁ……。相当やられたな、お前。骨にヒビが入ってるかも知れねぇぞ」
「うっせぇよ」
「あ? それが助けに来てやった人への態度かァ?! 全然テメェに呼び掛けても答えねぇから、心配して来てやったのによォ。イヤホン取ってたのか?」
「……だって紅壬とルイナがすっげぇうるさかったから」
「……」
俺の言葉に引きつる笑顔を浮かべた紅壬。
「あ。あのあとどうなった? 赤サルボボ」
「テメェもゴリラ症候群に感染したのかァ?」
「へ。症候群を英語で言えたらカッケェのに……これだから頭の回らないヤツはねぇ」
「ならお前言えんのか?」
「シンドローム」
「……俺が抱えて帰らなくても大丈夫そうだな。一人で……ってオイッ! 何そそくさと俺の背中に乗ってんだよ!」
「ふぎィ?」
「小動物の真似してごまかすんじゃねぇッ!」
「さぁ行け! どぉどぉどぉッ」
「ち……チクショォッ」
夜に響く紅壬の声。俺は自分の話から上手く逸らすことができ、少しほっとした。