─〔 肆 〕─『I met.<俺は出会った>』#II
──午後8時半。
全くといっていいほど光と人気のない鉄筋ビルの工事現場。俺はそこで一人で歩いている。
結局、局長の囮使用の陽動作戦は即刻却下され、みんながぷらぷらと、強打魔がよく出没していた現場を別れて歩き、発見次第犯人確保を行うという作戦になった。要は、いきあたりばったりでやるってことだ。
俺の耳には例の小型イヤホンがつけてあり、指には指輪形状マイクをはめている。
「にしても、蚊がうぜェなァ」
耳の奥から紅壬のイラつき気味の声が聞こえてきた。
「肉ばっか食べてるからだよ」
今度は玖月さんの知識的な言葉がとんだ。その言葉にルイナが反応し、質問をする。
「え、何で? 何でお肉食べたら蚊が寄ってくるの?」
「それは鉄分と脂が増えて、血が美味しくなるからじゃないかな」
「なら、ジャコおろしでもいいじゃねェかよ」
「白ジャコさん達はカルシウムが豊富なんだよ」
「へぇ……。玖月、あったまイイ!」
「ん? でもアジとかはどうなるんだ? ありゃァ肉じゃねェけど、脂たっぷりだろ?」
「誰も肉オンリーなんて言ってないよ」
「うわー。紅壬、あったま悪ィの丸出し」
「うっせェよッ! ペチャ子が! そんなことに関心してねぇで、胸がおっきくなる食いもんでも聞いとけ!」
「あ? うっとしィわッ! あんた、そんなに人の事心配してたら将来はげるぞ! 赤サルボボッ」
紅壬とルイナの言い合いが激化したせいで、だんだん耳の奥が痛くなってきた。
俺はイヤホンをはずし、ジーパンのポケットにしまった。途端に今まで聞こえなかった静かな音が、耳に届いてきた。蚊が飛ぶ音や遠くにあるらしいパチンコ屋、そして風が通り過ぎていく音が、新鮮な空気と共に俺の耳に入る。
俺は気分が良くなり、夜空を仰いだ。見ると、紺色の地にところどころ黄色く光る小さい粒がある。左の方に目を移すと、朧月がでかい丸を作っていた。
あの日もあんな朧月だったけな。俺の目には、血に染まった月しか映っていなかったけどよ……。
俺はそのまま月から逃げるように、空を見渡した。すると、ある建設中の鉄骨むき出しの低いビルが目に入った。屋上部分に不自然に建っている黒い棒が……。
いや、人だ。誰かあそこにいる。
俺はそのまま、ビルを見つめた。黒いものが微かにこっちを向く。何だか、空が明るくなり、徐々にソイツの全貌が見えてきた。
黒の髪、前をあけている黒い服、俺と同じぐらいの身長。そして……──
────闇だけを映す漆黒の瞳。
何かの合図のように、俺の手がかすかに震えた。