第5話 ビードロ
佐助と私はしばらく、光の里に滞在することにした。私たちは町を歩き、いろんなお店に入った。
不思議な場所だった。新しいもの、古いものが混在していて、懐かしさやめずらしさが入り混じっていた。
「レトロな店だね。入ってみない?なんだか、あの店に惹かれるんだ」
町のはずれにある喫茶店を、佐助は指差した。私も歩き回って疲れていたので、そこに入ることにした。
その店は煉瓦でできていた。くもりガラスのドアの横には、小さな店の看板が出ていて、『ビードロ』と書かれてあった。
ビードロ…。不思議。なんだか聞き覚えのある名前だ。
カラン…。
ドアには鈴が下がっていて、開けると店内にその音が響いた。その音もやけに、懐かしい。
お店の中に入ると、店の奥にパイプを口にくわえ、顎鬚をはやしたおじいさんが座っていた。おじいさんは、新聞を広げたまま私たちを見た。
そのおじいさんのほかには、誰もその店にはいなかった。
「いらっしゃい…」
そのおじいさんはゆっくりと椅子から立ち上がり、そう言った。
ああ、この店のマスターなんだ、あのおじいさん。
店内は薄暗く、ジャズが流れていた。それもレコードだ。その音も懐かしい。
佐助と店の中へと入って行った。煉瓦の壁にはいくつかの写真が飾られていて、どれも、昭和を思い出させる、セピア色の写真だった。
「コーヒーを下さい」
佐助はそう言って席に着いた。
「私も」
私もマスターにそう言って、立ったまま壁にかかっている写真を眺めていた。
「コーヒーと言っても、いろいろと種類はあるよ。何がいいかな?」
マスターはゆっくりと、口から煙を吐くとそう私たちに聞いてきた。
「何があるんですか?」
私が聞くと、
「なんでもある」
とマスターは言った。
さっきのレストランもそうだったな。でも、肉料理はあそこにはなかった。
「じゃあ、僕はキリマンジェロをください」
佐助がそう言った。
ああ、コーヒー豆の種類か…。私はアメリカンとか、ブレンドとか、そのへんのことしかわからないな。
「え~と、私は…。あ、そうだ。カフェオレを下さい」
そう言うとマスターは顎鬚をなでながら、
「カフェオレ?もったいない。いろんな種類の豆がある。コーヒーの味を堪能できるようなものにしたらどうだね?」
と私に聞いてきた。
「でも、私、あまりコーヒーのこと詳しくなくって。だいいち、私が生きていた時に好きだったのは、キャラメルラテだし…」
そう私が答えると、マスターは、はっはっはと声をあげて笑った。
「キャラメルラテも注文したら出てくるだろう。だが君は確か、モカが好きだったよ」
「え?カフェモカ?あの、チョコレート味の」
「いやいや、豆の名前だ」
「…私が?」
「どうする?何を注文するかい?」
このマスター、私のことを知っているの?
「じゃ、じゃあ、モカを…」
「キリマンジェロとモカだね。はっはっは。結局二人とも、いつものコーヒーを頼むことになったんだね」
マスターはそう言うと、カウンターの中に入り、コーヒー豆を挽きだした。
「マスター、僕たちはここに来るのは初めてですよ」
佐助も不思議がって、そう聞いた。
「それとも、前に会ったことがありますか?」
「佐助!」
私はその時、壁の写真を見て思わず佐助を大きな声で呼んでしまった。
「え?」
「これ、見て!」
佐助は立ち上がって私の横に来た。
「この写真。数人で写ってるけど、後の列にいるの私と佐助じゃない?」
「本当だ。僕たちだ。服装や髪形は違っているけど、僕たちだ…」
佐助としばらく顔を見合わせ、また二人で写真を見た。
周りに一緒にいる人の顔は、まったく覚えがない。
「マスター、この写真っていつのですか?」
「いつのだったかなあ」
マスターはまた、顎鬚をなでた。
「古そうですけど、そんなに前からこのお店はあるんですか?」
「ははは。ここには時というものがないからね。いったい何年前からこの店があるのかも、覚えていないよ」
その感覚が私たちにはわからない。
「なんで、私たちがここに写っているんですか?」
今度は私が聞いてみた。
するとマスターは、私たちを懐かしそうに見てから、
「この店が好きだったからだよ。だから、私が君たちを撮ったんだ」
と感慨深そうな表情でそう言った。
「…僕たちは、ここにきたんですね?以前にも」
「もしかして、前に死んだ時にここに寄ったのかしら?」
マスターは何も言わず、意味ありげに微笑んで、挽いたコーヒー豆のにおいを嗅いでいる。
「私たち、一緒にここにいたっていうことですか?」
「いいや、違う」
「え?」
「確かにこの店だが、私が生きていた頃の写真だよ」
「マスターが生きていたって、どういうことですか?」
「私も昔は、人間社会に生きていたってことさ」
私と佐助はまた顔を見合わせ、それから椅子に腰かけた。それからまた店内を、ぐるっと見回した。
「マスター、死ぬ前にもこのお店をしていたんですか?」
佐助が聞いた。
「そうだ。昭和のいい時代だった。君たちはこの店の常連だった」
「じゃあ、前世で会っていたんだ!」
佐助は身を乗り出して、マスターに聞いた。
「僕たちは何をその時にしていましたか?僕は病気でしたか?」
「いいや。健康そのものだった」
「…じゃあ、私は?」
「楓さんも、元気な娘さんだったよ」
「楓?その時の名前も楓?」
私は思わず席を立ち、カウンターの前に行ってマスターに聞いた。
「楓さんと、佐助君だ」
「一緒なんだ、名前…」
「転生しても君たちは、ちゃんと出合ってわかるように、同じ名前にしているようだね」
「そんなことができるんですか?」
佐助も席を立ち、マスターのほうに来てそう聞いた。
「…君たちはそれでも、結ばれなかった」
「え?」
マスターはゆっくりとパイプをふかしてから、また話し出した。
「佐助君は大きな夢があった。世界に行き、バイオリニストになるという夢が…。そしてウィーンのオーケストラに入って、夢を叶えたんだよ」
「じゃ、じゃあ、私は?」
マスターは優しい目で私を見て、ふうって煙を吐き、
「楓さんは日本に残った。病弱なお母さんの面倒を、一人で見ていたんだ」
と静かにそう言った。
「…僕は、楓を置いてウィーンに行ったんですか?」
佐助は目をふせて、マスターに聞いた。
「いいや。必ず迎えに来ると誓って行ったよ。だが、迎えに来た時にはもう、楓さんは結婚もして子供もいたんだ」
ズキ……。何かが私の胸に刺さった気がした。
私が、佐助を…、裏切ったの?
「その相手は病気のお母さんの面倒までみると言って、楓さんに結婚を申し込んだ。入院代から手術代まで出すと言ってね。楓さんは迷いに迷っていた。私のところにも相談に来たよ。だが、私は何も言ってあげられなかった。決めるのは楓さん本人だしね」
マスターはまた、ゆっくりとパイプをふかしてから話を続けた。
「楓さんはそのあと決意した。どんどん衰弱していくお母さんを、楓さんは見捨てられず、結婚した…」
ボロボロ…。
私は胸が苦しくなり、こみあげていた涙があふれ出た。
「君たちよりも私のほうが、年老いていた。だから、当然のごとく先にここに来た。そして君たちのように、私の店を愛してくれた人が光の里に来て、この店を懐かしがって寄ってくれたら嬉しいと思い、この店を開いたんだ」
「…じゃあ、マスターは転生しなかったんですか?」
佐助が驚いて聞いた。
「はっはっは。ここに居ついているよ。転生するつもりはもうない。だから、天使にここにいることを願い出たんだ」
「天使に?天使がここにいるんですか?」
私は涙をふいて、マスターに聞いた。
「人間の姿をして、ここに紛れ込んでもいる。だが、ちゃんと天使に会いたかったら、この先の停留所、天使の里に行けば会える」
ポト、ポト、ポト…。
コーヒーが落ちる音とともに、いい香りが店中に広がっていく。
「まあ、座りなさい」
マスターに促され、カウンター席に私たちは座った。
「この店に先に来たのは…、佐助君だった」
コーヒーをカップに入れながら、マスターは話した。
「…え?昭和のですか?」
「いいや、光の里の、この店だ」
「じゃあ、僕のほうが先に死んだんですね」
さっきから、佐助は表情が暗かった。
「自分の夢を叶えられた君は、意気揚々として日本に帰った。楓さんを迎えに行くために。だけど、楓さんはすでに結婚もしていて、子供もいた」
「僕は相当、ショックを受けたんですね」
「君たちはここに来て、そう、あの一番奥の席で話をしていた」
マスターが店の奥のテーブルを指差した。私と佐助はその席を、振り返って見つめた。
「君はあきらめなかった。離婚して自分についてきてくれと、楓さんに言っていたよ」
「…」
佐助が、暗い顔のままマスターを見た。
「だが、楓さんは家族を置いて一人で行くわけにはいかないと言って、先にこの店を出て行った…」
「僕は、一人この店に残された。そして、声を殺して、ずっと泣いていた」
「…思い出したのかい?佐助君」
「はい。マスターは、その時この曲を流してくれた。そしてずっと、隣の席で、新聞を読んでいましたよね」
「…どんな言葉をかけていいかも、わからなかったからね」
「僕はウィーンに帰った。それから結婚もした。だけど結婚生活はうまくいかず、酒におぼれだした。バイオリンの腕も落ち、オーケストラも首になった。離婚をして…、肝臓をやられて死んだんだ」
佐助は苦しそうに話した。
ブワ…。突然、その場が明るくなった。店内に別の曲が流れていて、他にも数人のお客さんがいた。
私は佐助と一番奥の席に座っている。目の前の佐助が必死で、
「僕についてきてくれ」
と懇願の目で私に言っている。
「…」
行く。喉まで出かかった。佐助が迎えに来てくれたことも嬉しくて、胸がドキドキしていた。
だけど、脳裏に入院している母や、まだ幼い子供の顔が浮かんだ。
今、佐助の手を取ったら、私は佐助と一生を共にすることができるんだ。でも、幸せになれるの?母や子供を置いて、佐助と幸せに暮らすことなんてできるの?
私は一生、後悔して生きるんじゃないの?
いや、佐助を選ばなかったほうが後悔するだろうか。でも、やっぱり、家族を置いてはいけない!
「佐助。私、家族を置いてはいけない」
「え?」
佐助の顔はみるみるうちに曇っていく。
「私のことは忘れて。あなたもウィーンで幸せになって」
「無理だ。楓がいなかったら、幸せになんてなれない」
「…お願い」
私は涙が流れ落ちるのを必死にこらえ、唇をギュっと閉じた。
「…嫌だ。楓のことをあきらめられない。僕は必ず、楓と一緒になる」
「佐助…」
ボロ。
涙がこぼれ落ちた。私だって、佐助が誰よりも愛しい。今も抱きつきたい衝動に駆られているのだ。
「ごめんなさい」
私は席を立った。恨まれようが、憎まれようが、私は佐助から離れることしか選択できなかった。
一回だけ佐助を見た。佐助はうなだれていて、私のほうを見ようともしなかった。
佐助…。
私は幸せにと言いながら、私のことを忘れてと言いながら、佐助に忘れてほしくないと心の底では叫んでいた。
恨んでもいい。憎んでもいい。だけど、私のことは忘れないで!
フラ…。いきなり靄がかかり目の前が白くなった。
それから、目を凝らしてみていると、違う曲が流れている、古ぼけた店内が見えてきた。
私はカウンターの席にいた。隣りには佐助がいて、カウンターの中から、
「はい。コーヒーができたよ」
とマスターがコーヒーのカップを、私の前に置いた。
「い、今のは?」
佐助のほうを見て聞いた。
「タイムスリップかな」
「佐助も?」
佐助は私のほうを見た。目が真っ赤だった。それから私の肩を抱きしめ、
「今は、楓はここにいる」
とつぶやいた。
「タイムスリップではない」
マスターがそう言った。
「え?じゃあ、なんなんですか?」
私が聞くと、マスターはふうっと煙を吐いてから、
「過去の記憶という、幻想を見ていたんだよ」
と優しい目で私にそう言った。