第2話 戦国時代の記憶
「いったい、ここはどこなんだろう。この高層マンションには人はいないのか…」
男の人はそう言うと、また私を抱え、ゆっくりと廊下を進んだ。
「あそこの部屋だけ、電気がついているね」
私がさっき、ドアを開けた部屋をその人は指差した。
「あの部屋、ドアに鍵もかかっていなかったの」
「え?」
「さっき、開けてみたの。玄関には靴もなくって、人の気配もしなかった」
「誰もいなかったの?」
「多分。なんだか、怖くて中には入らなかったから、わからないけど」
「そっか」
その人はゆっくりとその部屋へと進み、
「でも、開いてるのがここだけなら、とりあえずここで寒さをしのごうか」
とその部屋のドアを開けた。
ドアを開けると、やっぱり玄関には靴もなく、部屋の中は煌々と電気だけがついていた。
「本当に誰もいないみたいだね」
その人はそう言って、靴を脱いだ。それから、私が靴を脱ぐのを待って一緒に中に入った。
「こっちはリビングだ」
玄関からすぐのドアを開け、その人が中を覗いでそう言った。
「ソファもある。座らない?立っているのもやっとでしょ?」
「うん」
その人に抱えられ、私はソファまで歩いて行き、ソファに座った。真っ黒の皮のソファはすごく柔らかく、私の体はソファに思い切り沈みこんだ。
ソファの前には透明なガラスのテーブルがあり、その上には何も置いていなかった。
ゆっくりと私は部屋を見回した。大きな窓にはブラインドがかかっていた。
部屋の隅には大きな観葉植物が置いてあり、天井には綺麗なシャンデリアが下がっていて、淡い暖色の光がリビング全体を照らしている。
リビングからダイニングもキッチンもつながっていて、ダイニングテーブルも黒く、椅子も黒かった。そしてやっぱり、ダイニングテーブルの上にも何も、置かれていなかった。
黒の家具だからか、壁の白さがやけに目立った。壁には一つだけ絵が飾られていたが、その絵の中には高層マンションが描かれていた。多分、このマンションの絵だろう。
「人が住んでいる感じじゃないね。ああ、あれだ。まるでモデルルームだ」
男の人がそう言った。
私はようやく落ち着いてきて、その男の人の顔を見ることができた。黒い短い髪に、黒い瞳。顏はとても整っている。
「私たち、どこかで会ったことがあるのかな」
「え?」
「なんだか、見覚えがある気がするの」
「……」
その人も、私のことをじっと見た。
「君もそう感じてた?」
「あなたも?」
「うん。不思議と懐かしい。それに…」
「…?」
しばらくその人は、私を懐かしそうに見てから、
「僕がここにいるのは、君を守りに来たっていう気がしてならないんだ」
と話を続けた。
「守りに…?」
「なんで僕はここにいるのか。この街の中を歩きながらすごく不思議に思っていた。記憶がなくなったとしても、何か意味があってここにいるんじゃないのかって」
「…」
そんなことを考えながら歩いていたの?
「それで君を見つけて、なんとなくだけど、君を守るために僕はここに来たんじゃないかって、そんな気がしたんだ」
「…守るために?」
「そんな感じが君はしない?」
「私はよくわからない。でも、あなたのことを見て、やっぱり懐かしく感じた」
「僕と君は、知り合いだったのかな」
「…さあ」
その人は自分のズボンのポケットに手を入れて、中に入っていたものを取り出した。
「何か手がかりはないかと思って、さっきも上着やズボンのポケットの中を探したんだ。それで出てきたものは、この飴一個と、飴を包んでいた紙だけだったんだ」
その人はポケットから、飴玉と包み紙を取り出して、私に見せてくれた。
私も立ち上がり、自分のポケットの中を探った。
「あ…」
ポケットからはやっぱり、一個の飴玉と、包み紙が出てきた。
「おんなじ飴と、包み紙だ」
その人はそれを見て、そうつぶやいた。
「偶然?それとも、これにも何か意味があるの?」
「さあ、わからないけど、一つだけわかっているのは、あとは何にも手がかりがないってことだ」
「それと私が持っていたのは、果物ナイフよ」
「ああ。そうだったね。あとはポケットには何も入っていない?」
「ないわ。なんにも…」
私はまたソファに座った。
男の人は、キッチンに入って行った。そして冷蔵庫を開けたり、食器棚を開けたりしている。
「冷蔵庫、何にも入っていないよ」
「そう…」
それからその人はシンクの前に立ち、水道の蛇口をひねった。すると水がそこから、ジャー…と勢いよく流れだした。
「水は出るんだね」
そう言って、食器棚からコップを出して、その人は水を汲んでゴクゴクと飲んだ。
「うん。けっこう冷たいしうまい」
「私にもくれる?」
「ああ、持って行くよ」
新しくコップを出し、水を汲んでその人は、私の所に持ってきてくれた。
ゴクン…。本当だ。美味しい。
「はあ…」
やっと、生き返った気がする。
「玄関のドア、鍵を閉めてチェーンをかけてくるよ」
「うん」
その人がリビングから出て行ってから、私はしばらくソファの背もたれにぐったりともたれかかり、休んでいた。
ジャー…。水が勢いよく流れ落ちる音がする。ああ、もしかするとお風呂にお湯をためているのかもしれない。
その音を聞きながら、私はそのまま眠りについてしまったようだった。
ふわ…。体が一瞬宙に浮いた。なんだろう。すごく気持ちがいい。そしてフワフワした雲の上に、乗っかった。
ここはどこだろう。
誰かの声が聞こえた。
「姫!」
ひめ?ひめって、姫のこと?
「姫!!」
叫び声は大きくなったり、小さくなったりしながら消えて行った。辺りには焼ける匂いや、煙が一面に広がり、息ができないくらいに苦しくなり、そして目が覚めた。
「ここは?」
フワフワしていたのはベッドだ。なんで私はベッドに寝ているのだろう。
ベッドの横のスタンドの、小さな電球だけが明かりを灯し、あとの電気は消えていた。
「そうだ。高層マンションの中だ。あの人と一緒に部屋に入って、それから?」
私は布団をめくった。上着は脱いでいたが、ブラウスとスカートはちゃんと着ていた。
「そうだ。私、ソファでうたたねをして…」
もしかすると、あの人がここに運んでくれたの?
そっと私は部屋を出て、リビングに行った。リビングの明かりも消え真っ暗だし、ソファにも誰もいなかった。
リビングを出て、今いた部屋に戻りかけ、奥にもう一つ部屋があることに気がついた。
もしかして、あの人はここにいるのかしら。
トン…。小さくノックをした。返事はない。
私はそっとドアを開けてみた。
私が寝ていたようなベッドが置いてあり、その横のテーブルには、やはりスタンドが置いてあった。その小さな電球だけを灯し、ベッドにあの人がすやすやと寝ている姿が見えた。
「寝てる…」
私はちょっと安心した。彼が寝ているからじゃない。彼がここにちゃんといてくれたからだ。
ここで、彼に置いて行かれたら、私は一人で記憶もなくし、どこへ行ったらいいかも、何をしていいかもわからない。
それに、あの男に見つかってしまったら…。
また、もといた部屋に私は戻った。クローゼットを開けると、バスローブがかかってあり、私は服を脱いで、それに着替えた。
それからバスルームに行き中を覗くと、まだバスタブにはお湯がはられたままだった。
「ガス、通ってるんだ」
私はお風呂のお湯を、また沸かしなおした。
その間体を洗い、髪を洗った。
そしてバスタブに入り、ゆったりとお湯につかった。
「ああ、生き返る」
体がやっと、あったまっていく感じがした。
「それにしても、あの夢、なんだったのかしら。姫って呼ばれてた。それになんとなく、昔の城の中みたいだった。大阪城とか、あんな感じの…」
私がもといた世界ではないのは確かだ。どっからどう見ても、あれは戦国時代の光景だった。
「さすがに記憶はなくても、そんな時代に住んでいないのはわかるわ」
独り言を言って、またゆっくりと首までお湯につかった。
ドライヤーはバスルームについていた。シャンプーからリンス、石鹸までもがここにはある。ただし、誰かが使っていた形跡はなく、すべてが新品だった。
トイレもちゃんと使えるし、冷蔵庫に何も入ってないのと、全く食べ物がないのだけが不便だったが、あとは生活するには便利なところでもあった。
ベッドにまた潜り込み、私は目を閉じた。ここがどこなんだかも、自分が誰なんだかも、誰に追われているのかもわからないというのに、そんな心配や不安よりも今は、ただただ眠りたかった。
きっと、体中が疲れ果て、考えることもしたくないくらいになっているんだ。
そんなことを思っているうちにどうやら、私は深い眠りへと落ちて行ったようだ。
「姫!楓姫!」
まただ。誰かが呼んでいる。ううん、泣き叫んでいる。
誰?あなたは誰?楓姫って、私のこと?
「姫!どこにおられるのですか?」
私はここ。
「姫~~~!!!」
泣き叫ぶその人の声はどんどん、小さくなっていった。
私は自分が泣いていることに、起きてから気がついた。頬が涙で濡れている。
「なんの記憶?それともただの夢?ああ、もしかすると前に見た、ドラマか映画かもしれないな」
そんなことを思いながら、ベッドから私は出た。
寝室はカーテンがかけられていたが、そのカーテンとカーテンの隙間から、わずかな光が部屋に入り込んでいた。
「朝?」
カーテンをそっとめくり、外を見てみた。そこには大きな木が何本か植えられ、あとは小さな庭のようなスペースがあった。庭は綺麗な緑の芝生で敷き詰められている。
トントン。ドアをノックする音がした。彼も起きたのかしら。
「はい」
「起きてる?」
「今起きたの。着替えてから、リビングに行くわ」
「うん、わかった」
その人の声は穏やかで、それだけでもほっとした。なぜ安心するのかもわからない。彼がいったい誰で、なんでここにいるのかもわかっていないというのに。
だけど、彼が言うように、彼は私を守るためにここに来てくれたんじゃないかって、そう思えて仕方ないのだ。
昨日の服を着て、髪を簡単に整え、私は部屋を出た。化粧道具もないのだから、ほとんどノーメイクだ。
「おはよう」
リビングに行くと、彼はすごく優しい穏やかな表情で、そう挨拶をしてきた。
「おはよう。昨日、私のこと寝室に運んでくれた?」
「え?ああ。ここで寝るよりも、ベッドのほうが良く寝れるだろうと思って」
「ありがとう。でも、私重かったでしょ?」
「そんなことなかったよ」
その人は優しく微笑んだ。
「ねえ、あなたの名前なんだけど」
「僕の名前?昨日も言ったけど、記憶がないんだ。だから名前も思い出せない」
「ううん。それは私も同じ。ただ、ここでなんて呼んでいいか。2人だけで言い合えるあだ名でもいいの。考えない?」
「そうだね。君とかあなたじゃ、味気ないもんね」
そう言って、彼は考え出した。
「君も僕も、どっからどう見ても、日本人だね」
「日本語上手だしね?」
そう私が言うと、彼はクスって笑った。笑うと目じりが下がり、可愛い印象になるんだわ、この人って。
「そうだ。昨日、変な夢を見たんだ」
「どんな?」
「戦国時代にいた。僕はある姫を守る家来だった。その姫のことをきっと愛していて、その姫が戦に敗れ、城を焼かれてその中で死んでしまうんだ」
え?その夢って。
「僕は最後まで姫を、燃え盛る炎の中で探した。姫の名前は楓姫だった」
やっぱり、同じ夢!
「一回だけ姫の声が聞こえた。小さな声だった。僕の名を呼んだんだと思う。佐助って言ってた」
「サスケ?」
「猿飛佐助みたいだね。クス」
その人はまた笑った。笑顔がすごく人懐こくて、ひきこまれた。
「じゃあ、佐助って呼ぶわ」
「君のことは楓って呼べばいいかな」
「…私も同じ夢を見たの」
「え?」
「誰かが姫、楓姫って叫んでいた。辺りは一面、煙だった」
「…同じ夢?」
「それが私たちがいた世界ではないことは確かよね。この服装から見たって、戦国時代に生きていたとは思えないし」
「前世かな」
「え?」
「そういうの、信じる?」
「輪廻転生ってこと?」
「うん」
「……わからない。なにしろ、自分が誰かも思い出せないのに、前世のことまで考えられないもの」
「そうだよね…。でももし、前世があるとしたら、これで君と僕がつながっているのがわかったんじゃないかな」
「え?」
「僕はやっぱり、前世でもここでも、君を守る役目があるんだ」
「…」
「ただ、前世ではどうやら、守りきれなかったみたいだけどね」
その人は寂しそうに微笑んでそう言うと、ソファーに深く腰掛けた。
「なんでそう思うの?」
私も彼の隣に座った。
「炎の中を探しても、姫を見つけられなかった。燃えた城の残骸の中から、姫の簪だけを僕は見つけた。僕は、守ることができなかった自分を呪った。そしてその簪で喉を突いて、自害した」
「…それも夢で見たの?」
「ああ。泣き叫び、姫のもとへ今行きますって言って、死んでいったよ」
「……」
ゴクン。それじゃ、もし今、私が追われているやつに殺されたら、この人、私を追って死ぬの?
「きっと、そんな前世があるから、今世では守りきる」
「…私を?」
「守り切ってみせるよ」
ブワ…。リビングがいきなり、大きな和室になった。
目の前にはなぜか、着物を着ている佐助がいる。そして私も、着物を着ている。ああ、ここ、城の中の一室だ。
「姫…。私は命に代えても、あなたを守ります」
「佐助。どうか私のために、命を粗末にすることだけはしないで」
震える声で私は言った。佐助はそんな私を優しく見つめ、穏やかに微笑んだ。
次の瞬間、またそこはリビングに戻った。
「今の?」
「前世に一瞬、タイムスリップしたのかな」
佐助が私を懐かしそうに見ながら、そう言った。