第14話 現世へ
白檀の香りがした。
どこからか、ジャズが聞こえてきた。一階のカフェからだろうか。
佐助の胸に耳を当て、私は佐助の規則正しい鼓動を聞いていた。
トクン。トクン。トクン。
ああ、佐助も生きているんだ。
「佐助」
「ん?」
「私、すごく今、幸せ」
「僕もだよ」
佐助はそう言うと、優しく私の髪にキスをした。
佐助は優しい。さっきの熱い視線が、いつの間にか優しいまなざしへと変わっていた。
それは私を包み込むように優しく、甘く、切なくなるくらいだった。
私は、ずうっと佐助のぬくもりも、優しさも、望んでいたんだって、そんなことをなぜか感じた。そう、佐助も言っていた。僕に抱かれたいと思わない?って。
あの時はわからなかった。だけど、佐助のぬくもりが欲しいと、心の底で私はずっと願っていたんだ。
しばらくして佐助は起き上がり、私に優しくキスをしてからベッドを出た。そして黙って着替えだした。
私もベッドから出て、着替えをした。ここに来た時に着ていた黒いスーツ。それから私は黒のパンプスを履いた。
パンプスはやけに窮屈に感じた。
佐助は、上着のポケットにお札があるかを確認し、それから小銭をズボンのポケットに入れた。
「楓もお金、必要かな?」
佐助が聞いてきた。
「私にはあの、果物ナイフを返してくれたら、それでいいわ」
「…殺される時に、戻ってしまうのかな」
「わからないけど、きっとそれを持っていたっていうことは、なにかしら、それで対抗しようと思っていたってことでしょ?」
「楓。僕が必ず、君を守るよ」
「…ええ。だけど、自分でもできる限りのことはする。佐助と幸せになるために」
私はそう言って、果物ナイフをスカートのポケットに入れ、佐助に抱きついた。
「同時に飴をなめよう」
「ええ…」
私と佐助は同時に、飴を口に入れた。それから佐助は私にキスをした。甘い甘い、飴の味のするキスだった。
佐助は私のことを抱きしめ、キスをして、また抱きしめる。
「楓、愛してるよ」
「ええ、私も愛してる」
「何があっても、愛してるよ」
「佐助、何もないわ」
「え?」
「私たちはずっと、幸せになるの」
「そうだね。うん、天使にそう願ったんだ。天使は叶えてくれるね」
「佐助…。必ず、私たちは出会って、また恋をするわね」
「もう出会ってるかもしれないよ?」
「恋人同士かもしれないわ」
「婚約すらしているかもしれない」
「佐助…」
私は佐助にキスをした。長く、熱く…。
佐助。きっと、いいえ、絶対、私たちは幸せを選択するのよね?
どんなことがあっても。
そう、私は最後にそれを願った。
飴の甘い香りも味も、口の中でどんどんと消えて行った。それとともに、私の記憶は薄れ、真っ白になっていった。
何も聞こえない。何も匂わない。
ハッ!
ここは?
一瞬自分がどこにいるのかも、わからなかった。
お線香の匂いが立ち込める中、私は寒い外で震えながら弔問客に挨拶をしていた。
黒のスーツに、真珠のネックレス。そして黒のパンプス。
「楓ちゃん、そろそろ交代しましょう。ずっと立ちっぱなしで疲れたでしょ?」
「大丈夫です」
「でも、顔が青白いし、唇は紫色よ。ここは寒いし、少し向こうであったまってきたら?」
「ありがとうございます。じゃあ、お義姉さん、あとはよろしくお願いします」
「あ、楓ちゃん。彼を見かけた?」
「え?」
「あなたの婚約者よ」
「佐助さんですか?」
私の胸がチクンと痛んだ。
「いないのよ。どこにも」
「そうですか…」
私はどこかほっとしていた。
体が寒くて震える中、私は部屋に入った。そこは、親戚が集まっている部屋だった。
みんなはすでに、お線香もあげ、テーブルを囲み、お酒を飲んだり、お寿司をつまんだりしている。
「まさか、自殺してしまうとはなあ」
叔父さんがそう言った。
「どうなるのかねえ。これから。でも、遺書も見つかったし、すべては彼のしくんだことだっていうのも、わかったしね」
そう話しているのは、義理姉のお父さんだ。
「彼の息子も、先生は手元には置いておけないだろうな」
その人は話を続けた。
「そうだなあ。せっかく佐助君と楓ちゃんも、婚約したというのに、こんなことがあったんじゃ、婚約も破棄になるんじゃないのか?」
「やめなさいよ、そんな話。楓ちゃんが聞いてるわよ」
話をやめさせたのは、私の父の妹の、妙子おばさんだ。
「ああ、すまんね。楓ちゃん」
「楓ちゃん。佐助さんは見つかった?」
「いいえ、どこにもいないんです」
「ああ、早まったことをしていなかったらいいんだけどねえ」
「早まったことって?」
妙子おばさんは声を殺して、
「自殺よ。お父さんが不正を働いたなんて、佐助君、ショックに決まってるじゃないの。彼、ものすごく父親のことを尊敬していたんだから」
と囁くように言った。
そうだった。佐助さんはお父さんのことを尊敬し、お父さんと、そして私の父のためなら命をかけてもいいくらいに、忠実に2人に仕えていたんだ。
私の父は、次期総理大臣になるだろうと言われ、今期の選挙にも力を入れていた。父の第一秘書である佐助さんの父親、加賀見太一は、ものすごく父に信頼されていた人物だった。
彼も父を尊敬し、ずっと秘書として父に仕えて来ていた。そんな父親を見て育った佐助さんも、昨年から父親の仕事を手伝い、私の父からも信頼されていた。
父は将来、佐助さんに自分の仕事を継いでもらいたくて、私と佐助さんを婚約させた。
もちろん、私たちの意思など無視をして…だ。
「楓…」
和室の入り口から、正志さんが私を呼んだ。
「正志さん?どうしてここに?」
私はあたりを見回しながら、正志さんのところに急いで行った。
「楓。僕はまだ君をあきらめたわけじゃないよ。今回のことで、きっと婚約は破談になる。そうしたら今度こそ、先生に僕らのことを認めてもらおう」
「正志さん」
私はそっと式場を抜け出し、正志さんと2人きりになった。
私と正志さんはもう2年以上も付き合っていた。大学の先輩で、政治家を目指している。
「今はここにいないほうがいいわ」
「どうして?」
「父はあまりにもショックを受けていて、あなたにまたどんな傷つける言葉を言うか、わからないわ」
「…僕なら平気だ。それよりも楓は?大丈夫なのかい?」
「ええ、大丈夫よ」
本当は心細かった。だけど、私がしっかりとしていないと、となぜだかそんなことを感じていた。
兄は父同様、ショックを受けて、体調すら壊していた。もともと体も丈夫ではない。父は同じ道を歩ませたかったが、兄には無理な道だった。
すぐに挫折した兄は、突然陶芸家の弟子になり、3年後自分の教室を開いた。今では生徒も増え、それなりに安定した暮らしをしていて、陶芸教室に通っていた女性と結婚もした。
あいにく、子供には恵まれずにいるが、それなりに幸せに暮らしている。
そんな兄も、自殺をした佐助さんの父親のことは慕っていた。いっとき、政治家を目指していた頃は、彼は本当に兄のことを可愛がっていた。
だから、今回のことは、父よりももっとショックを受けているかもしれない。
だが、きっと誰よりもショックを受けているのは、佐助さんだろう。
佐助さんにも彼女がいた。彼はイギリスに留学していた頃があり、その頃からの付き合いだと聞いている。
結婚をするかもしれない、そのくらいの2人は付き合いだったらしいが、私の父が私と佐助さんとの婚約を勝手に発表して、彼もまた、彼女と別れなくてはならなくなったのだ。
佐助さんとは何度か、食事を一緒にした。何を話していいかもわからず、2人ともほとんど会話をしなかった。
彼は私のことを、きっと嫌っている。結婚してもうまくいくわけがないと、私は思っていた。
きっと彼は結婚しても、あの彼女と付き合いを続け、私にはけして心を開くことはないだろう。そんなことをいつも彼といると、感じていた。
彼は冷たかった。
いつも私を睨むように見た。その目が怖かった。
父のことがなかったら、絶対に結婚などしない。ううん、かかわりすら持たないだろう人だ。
だけど、彼の父親が今回の父の選挙運動で、不正を働いたことがわかり、突然彼の父親は自殺をしてしまい、佐助さんの運命は、180度変わってしまうことになった。
私との結婚はなくなるだろう。だが、例の彼女ともよりがもどるかどうかもわからない。彼女はかなりのお嬢様だと聞く。その人の親が、佐助さんとの結婚を承諾するとは思えなかった。
政治家になる夢も、佐助さんは断ち切られる。どんなに父が佐助さんをかばおうと、きっともう無理だろう。
だけど申し訳ないが、私はほっとしている。あの佐助さんと、もう縁が切れることに。
「楓、真相はどうなんだい?君なら知ってるだろう」
「え?」
「自分の父親がしたことだ。何か知ってるんだろう?」
私の腕を掴まえ、正志さんが聞いてきた。
「いったい、なんのこと?」
「とぼけなくていいよ。僕には隠さず話してくれないか」
「何を?」
何のことを言っているの?
「君の父親が実は不正を働き、第一秘書である加賀見太一に、罪をかぶせた」
「え?」
な、何を言っているの?この人。そんなことがあるわけないじゃないの。
「だが、君の父親、西条忠彦は、それだけではあきたらず、加賀見氏を死に追いやった」
「やめてよ。正志さん、何を根拠にそんなことを言っているの?」
「すべて秘書の責任にしてしまえば、自分は綺麗でいられるからな」
「そんなわけないでしょ。そんなわけ」
私の手はわなわなと震えた。どうして、この人はそんなでたらめを言うんだろう。
「知らないのか?知らないわけないだろう」
「え?」
「裏ではみんなが知っている。マスコミにはばれないよう、裏で手を回していることも」
「し、知らないわよ。そんなこと」
私は頭に来て、正志さんをその場に残し、葬儀場に戻った。
葬儀場のテントには、ビールやつまみ、お寿司が並び、果物も運ばれてきた。
「楓ちゃん、果物ナイフを持って来てくれない?この果物を切って、ここに並べるわ」
「はい。わかりました」
義理姉に言われ、私は果物ナイフを取りに戻った。
果物ナイフは、誰もいない部屋のテーブルの上に置いてあった。それを持ってポケットに入れ、私はまたパンプスを履き、テントに向かおうとした。
ガタン。後ろで物音がして、私は振り返った。
「誰?」
誰かがそこにいる。弔問客が間違えて、入り込んだのか。それとも、親戚の誰かなのか。
「誰?」
ガタガタ!暗がりから、いきなり人が倒れこんだ。
「正志さん?」
なんでここに?さっき、葬儀場の外で別れたではないか。
「危ない」
「え?」
「佐助がさっきの話を聞いてた。楓が去ってから彼に捕まり、どういうことだと脅されて、僕は全部あいつにしゃべっちまった」
「な、何を?」
正志さんの片目は腫れている。まさか、なぐられた?それにスーツは泥がつき、お腹を押さえて痛がっている。
「加賀見氏をだまして、死に追い込んだのは楓の父親だ。不正を働き、加賀見氏に罪をなすりつけた。そのことを、楓も知っていると」
「なんでそんな嘘を!」
「嘘?」
「当たり前よ。遺書も見つかったの。すべてが書いてあった。それだけじゃない。マスコミには公表していないけど、彼のいろんな不正にかかわった資料も、その時にいた人物の証言も」
「え?」
正志さんの顔色が変わった。
「なんでそんな嘘を言ったの?」
「僕は楓をあきらめられない」
「それとこれとどう関係があるの?」
「君のお父さんが、政治家でいる限り、君はまた誰かと婚約させられる!」
「それで?それでそんなでっちあげを?」
「でっちあげじゃない。そういう噂があるのは本当だ」
「噂じゃないの!真実じゃないわ!」
「とにかく、あいつは危険だ。絶対に会っちゃだめだぞ、楓」
「もう帰って」
「え?」
「ここにはいないで!」
私はそう言いはなって、テントに戻った。
正志さんを愛していた。別れるのは辛かった。今回のことで、また彼とやり直せるかもと思っていた。だが、もううんざりだ。
父のことを信頼もしていないような人に、私は愛想が尽きてしまった。
果物を切ってお皿に並べ、私は果物ナイフを綺麗に布巾で拭き、またポケットにしまった。
それから、義理姉と交代して、私はまた弔問客の受付をした。
受付をしながら、私は悔しさやいろんな思いが混ざりこみ、泣きそうになっていた。
私も加賀見氏のことは、慕っていた。息子の佐助さんはどうにも、受け入れられなかったが、彼の父親はとても誠実で優しい人だった。
なのに、なんで?
そんなにも父を勝たせたかったのか。その思いが先走り、あんな不正を働いたのか。
でも、自殺をするほどのことだったんだろうか?いくらでも、人生はやり直せたのではないのか。
だが、自分の人生がどうにもならないことも、体験でわかっていた。
父のことは尊敬している。父もまた、母とは恋愛結婚ではない。親に決められた結婚相手だった。
母は父に尽くしていた。だが、そこには愛があったかどうかはわからない。
母は3年前に他界した。母の死に目を父は、見に来ることはなかった。
母の人生はなんだったんだろう。そして、好きでもない人と結婚するかもしれなかった、私の人生は。
これから先、私の未来はどうなるんだろう。
何のために生まれたんだろう。
人はどうして生まれてくるのか。何か役割があるのか。だとしたら、加賀見氏の役割ってなんだったんだろう。
私の役割は?
いったい何のために生まれ、何のために生き、死んでいくというの?
そして死んだ人は、どこに行くの?
誰か、教えて!
弔問客の列がなくなり、私は椅子に座ってため息をついた。それとともに、涙がこぼれ落ちた。
カツン。
その時、黒い綺麗な革靴が近づいてきた。
私は涙をふき、また椅子から立ち上がり、
「ありがとうございます。こちらにお名前をちょうだいできますか?」
とその人に言った。
「いいえ。私はお線香をあげにきたわけではありませんから」
「え?」
「故人のことは存じていないのです」
私は不思議に思い、その人の顔を見た。色が抜けるように白く、目の色は明るいブラウン。綺麗な日本語を話すが、日本人ではないようだった。
「では、なんで?」
その人は真っ黒なマントを着ていた。そしてぴかぴかに磨かれている靴を履いている。人間離れもしている綺麗な顔立ちは、まるで、天使か、もしくは悪魔にも見えた。
「楓さん。あなたに用があって来たのです」
「私?私の名前、どうして知ってるの?」
「なんでもあなたのことなら、存じています」
な、なんで?
私は背筋に寒気を感じた。ああ、そうだ、この人前に見た、ブラット・ピットの映画を思い出させるんだ。そう、死神だったブラピ。
「これを」
その人は飴玉を二つ差し出した。
「え?どうして飴?」
「悲しい時、苦しい時、そしてどうにもならない時は、これをなめなさい。水色の方ですよ」
「ピンクではないの?」
「それはとっておきなさい。きっと幸せになるために役に立つ時が来ます」
「ピンクは幸せになるための飴?だったら、今すぐにそっちをなめたいわ」
「水色は、悲しみも、孤独も、嫌なこともすべて、消えさせてしまう飴です。一瞬で消えますよ」
「え?」
「それらを消してから、ピンクの飴は食べたらいいでしょう」
「そ、そうね。悲しみはなくなってからのほうがより、効果的よね」
私はその飴を受け取って、上着のポケットにしまった。
「楓さん」
「え?」
「またお会いしましょう。近いうちに」
そう言うとその人は、真っ黒のマントを翻し、あっという間に闇に消えてしまった。
ゾク。何、今の人。まさか、本物の死神?
こんなお葬式をしているんだ。死神が来てもおかしくないか。
いや、待って。私の名前を呼び、私のもとに来たというなら、私の命を取るために、現れたのかもしれない。
だけど、幸せになる飴って言っていた。
ううん、ああ、ばかげいてる。何を一体私は、信じちゃっているんだろう。そんな飴、この世に存在するわけがない。
私は飴のことも忘れて、葬儀の最後まで、その受付のテントの中で、一人孤独を感じていた。




