第11話 天使の話
その日の夜は、カフェでゆったりとピアノを聞きながらディナーを食べた。やはり野菜ばかりの夕飯だったが、パスタも頼み、佐助はお腹いっぱい食べることができて満足していた。
それからバーのカウンターに移り、カクテルを飲んだ。その時には演奏がジャズに変わり、私はジャズの演奏も楽しみながら、佐助との会話を弾ませていた。
周りのみんなも幸せそうに、楽しそうに会話をしている。そんな幸せそうな顔を見ていると、本当にずっとここにいてもいいんじゃないかっていう気持ちにもなってくる。
佐助は、静かに微笑みながら話をして、カクテルを飲んだ。佐助の好むカクテルは、ジンをベースにしたもので、私が好むものはどうやら、オレンジやピーチなど、果物のリキュールの入ったものだった。
2人してかなりカクテルを飲んでしまい、酔っ払ってフラフラになりながら部屋に戻った。
「このまま、風呂に入ったら、風呂で寝そうだな」
佐助がそう言って、ベッドに横になった。
「でも、このままベッドに横になったら、そのまま寝そうよ」
と私が言うと、佐助はそれもそうだねと笑って言って、起き上がった。
「シャワーだけ浴びてくるよ」
佐助は先に着替えを手にして、バスルームに入って行った。
私は寝てしまいそうになるので、バルコニーに出て夜の空気を吸った。
冷たい風が頬をなでる。ほてった顔には、気持ちのいい風だった。
夜空には今日も大きな白い月と、見事なくらいの数の星がきらめいている。
「宇宙から届く光?それとも、あれは幻影?」
そんなことをなんとなく思いながら、夜空を見ていた。
しばらくすると、佐助がバスルームから出てきた。
「外、寒くない?」
「うん。大丈夫。でも、もう窓閉めるわね」
私はそう言って窓を閉めた。それから着替えを持ち、バスルームに向かった。佐助はまだ髪が濡れていて、バスタオルで髪をふいていた。
バスルームに入った。体を熱いシャワーで流し、髪を洗う。熱いシャワーがとても気持ち良かった。
夜風と熱いシャワーのおかげで酔いも覚め、私は髪を乾かしてからバスルームを出た。
すると佐助はすでにベッドに横になり、寝息を立てていた。髪がまだ濡れているようで、つややかに光っている。
「佐助、寝ちゃったの?」
なんだか、寂しくなった。慌てて、私も隣のベッドに潜り込んだ。
スウ…。スウ…。佐助の寝息。私はこんな佐助の安心しきった寝息を聞いたことはあるんだろうか。
こんなふうに佐助とまるまる一日一緒にいた日は、あったんだろうか。
佐助の寝顔は可愛かった。無防備で、安心しきって寝るその顔は、とても愛しく思えた。
「佐助、可愛い…」
思わず私はそう独り言をつぶやいた。
私も目を閉じた。そしてそこで気がついた。
「あ、ウェイターがいたのに、飴のこと聞くのをすっかり忘れていたわ」
仕方がない。明日また、聞きに行こう。そう思いながら私は眠りについた。
翌朝、佐助の「おはよう」という優しい声で目を覚ました。
目を開けると目の前に、優しい佐助の顔。ああ、ほっとする。
「私、寝坊した?」
「はは。ここには時間がないから、寝坊したのかどうかもわからないさ」
「そうね…」
私は起き上がり、着替えを持ってバスルームに行った。佐助はすでに着替えも済んでいたから、私よりもずっと早くに目が覚めたのかもしれない。
頭がまだふらつくし、時々ズキンと痛んだ。どうやら、二日酔いらしい。死んでもお酒を飲むと酔うし、二日酔いにもなるのか…と、腫れた顔を見ながら私は思っていた。
化粧をしても瞼の腫れは消えなかった。だが、そのままの顔でバスルームを出た。
「二日酔いだわ。佐助は?」
「僕は大丈夫だけど、楓、つらい?」
「ちょっと頭がズキズキする。でも、大丈夫よ」
「僕の方がきっと、お酒は強かったのかもしれないね」
「死んでも二日酔いをするなんて」
「はは。そうだね、面白いよね」
佐助は爽やかにそう笑った。二日酔いをしていない佐助が羨ましくなったし、その爽やかさがまぶしくも見えた。
「カフェ、今朝もしていないみたいだよ」
「なんで知ってるの?」
「さっき見てきたんだ」
「そんなに早くに目が覚めたの?」
「うん。でも、そんなに早くはないと思うよ。太陽はずいぶんと昇っているし」
「やっぱり、私が寝坊したのね」
私たちはホテルを出た。今日もカウンターには誰もいなかったし、カフェは閉まっていた。
「レストランで朝食を取ろう」
「私はコーヒーだけでいいわ。それもブラックで飲みたいわ」
私たちは広場を抜け、レストランに向かおうとした。だが、広場を抜ける前に大きな声で呼び止められた。
「お姉ちゃん、お兄ちゃん!」
広場には年配の人ばかりで、お姉ちゃんとお兄ちゃんと呼ばれる年代の人は、私たちくらいしかいなかった。
立ち止まり振り返ると、剛君がはあはあと、息を切らしてこっちに向かい走って来ていた。
「よかった。会えた~~」
「剛君。おはよう」
佐助がそう言うと、剛君は目を輝かせて、佐助の腕を掴み、
「は、話があるんだ。ものすごくいい情報っ」
と、息を切らしながら話してきた。
「いい情報?」
私と佐助は顔を見合わせた。もしかすると、飴のことがわかったのかもしれない!
「ベンチに座って、ゆっくりと話そう」
広場のベンチに移動した。3人で座ると狭いので、私だけ隣のベンチに腰かけた。
「あのね。昨日のこと覚えてる?」
ベンチに腰掛ける前から、剛君は話し出した。
「うん、バスから剛君が降ろされちゃったことだよね?」
佐助は落ち着きながら、そう剛君に聞いた。
私は内心、穏やかではなかった。飴のことで、いい情報があるなら、いったいどんな情報なのか。早く知りたくて、うずうずしていたのだ。
だから、落ち着いて話を聞いている佐助が、すごいなあって思ったりもしていた。
「っていうかさ、あの犬の飼い主だよ。ミッシェルの飼い主」
「ああ、うん、覚えてるよ。その人がどうしたんだい?」
佐助の声が微妙に高くなり、早口になった。
なんだ。佐助も内心はうずうずしているんだ。
「あの人ね、天使だったんだ」
やっぱり。佐助は私を見た。私も佐助を見て、同時にうなづいた。
「でね、僕、飴玉のことを聞いたんだ。これ、生き返る飴でしょ?って」
「うん」
佐助の目が一気に輝きだし、頬が赤くなった。
「そうだよって天使が言ってた。それに、僕、捨てちゃったけど、水色の飴の包み紙も持ってたんだって話をしたんだ」
「うん、それで?」
佐助は興奮しているのが、見ていてもわかるくらい表情を変えた。
私の心臓もバクバクしていた。いよいよ、わかるんだ。あの飴のことを。
「水色の包み紙のほうはね、こっちの世界にくるための飴だったんだ」
「じゃあ、死んじゃう飴っていうことなの?」
私はドキドキしていた心臓が、一気に静かになっていくのを感じながらそう聞いた。
「違うんだよ。お姉ちゃん」
剛君が私を振り返ってみた。
「僕らはね、死んでないんだ」
「え?!」
私も佐助も、突拍子もないような声をあげた。
「ど、どういうこと?剛君」
佐助の声は裏返っていた。
「だから~~、死んでないのにこっちにこれる、そういう飴だったんだ」
「死後の世界に来れる飴?ああ、もしかして臨死体験でもできるとか、仮死状態になれるとか」
「そうじゃなくって。臨死とか仮死ってよくわかんないけど、生きた体のまま、こっち側にきたってことだよ」
「は?」
私の思考がフリーズした。それはどうやら、佐助も同じだったようで、目を点にして固まっている。
「お姉ちゃんもお兄ちゃんも、こっちにきてお腹空いた?」
「うん。もちろん」
「じゃあ、トイレにも入った?」
「…入ったよ?」
「じゃあさ、どっかが痛くなったり、喉が渇いたり、眠くなったり」
「するよ。まあ、死んでるのに痛いって言うのも変だよなあって思ってはいたけど」
苦笑いをしながら、佐助はそう答えた。
剛君は笑っていなかった。真剣な眼差しで私と佐助を交互に見てから、
「ここの人たちはね、そんなことまったく感じないんだ」
と話を続けた。
「え?どういうこと?」
私が聞くと、剛君は私のほうを向き、
「だから、ここの人はお腹もすかないし、トイレも行かない。どっかにぶつかっても痛くならないし、怪我もしない」
と答えた。
「…そういえば、レストランにいた人も、カフェにいた人も、テーブルの上に食べ物があるのに、あまり手を付けていなかったわ」
「あれは、ほんの少しだけ、香りや味を楽しめたらそれで満足なんだって。そう天使が教えてくれた」
「へえ~~~」
佐助が感心したように相槌を打った。
「そうね。確かにトイレに行っても、あまり人には合わなかったわ。たまに手を洗っている人がいるくらいで」
「だけど、眠くはなるんじゃないのかい?みんな夜になったら家に戻っていたし」
「ベッドで横になったり、ソファーにもたれかかたったりはするようだけど、でも、本を読んでいたり、話をずっとしたり、中にはずうっとお酒を飲んでる人もいるみたいだよ」
「…じゃあ、もちろん、二日酔いもしないのね?」
「なあに?それ」
私の質問は、剛君にはわからなかったようだ。
「そうか。剛君とぶつかった時、剛君は痛がっていたね」
「うん。僕は転んで痛くって、泣いてたこともあった。それをみんなが、不思議そうに見て、通り過ぎていくんだ。なんてみんな、冷たいんだろうってその時は思ったんだ」
「なるほどなあ」
「じゃあ、悲しくなったり、つまらないって思うことも、ここの人たちにはないのかしら」
「うん。泣くってことがそもそもないみたいなんだ」
「だから、ゴーストを見て泣いている人もいなかったんだわ」
「だから、皆にこにこして幸せそうなのか」
私と佐助は、謎が解けたような気がして、少しすっきりした。だが、少しだけだ。
そもそも記憶がないのはなぜなのかとか、どうして死後の世界に来る飴をなめたり、その飴をどこでもらったのかとか、そういった疑問は解けていなかったからだ。
「なんで僕らには記憶がないんだい?」
佐助はまた冷静さを取り戻し、剛君に聞いた。
「飴のせいだよ。ここには、生きてた頃の記憶があると、来られなかったんだってさ」
「なんで?」
私が聞くと、剛君は黙って首を横に振った。その理由までは聞いていないようだった。
「じゃあ、どこでこの飴を手に入れたのか、それはわかる?」
私はもう一回、剛君に聞いた。
「生きてた頃にも、天使に会ったみたいだ。それでもらったみたい」
「天使に?」
「人間に化けた天使だって言ってた」
「じゃあ、なんで死後の世界にこなくっちゃならなかったのか、それは天使から聞いたかい?」
佐助がまた興奮しだした。声は大きくなり、早口だった。
「それは僕が願ったからだ」
「死にたいって?」
「違う。死ぬ前に、なんでここに生まれたのか、僕は何者なのか、何をするために生まれたのか。そういうことを全部知りたいって、そう願ったから、だから僕に天使が飴をくれて、この世界に連れてきたって」
「だけど、記憶がないなら、どうやってシナリオを思い出せって言うの?」
私が、ちょっと呆れながらそう言うと、剛君はまた首を横に振った。
「シナリオじゃないんだ。僕が知らなくちゃならなかったのは、きっと輪廻転生のことや前世の記憶、いったい何を望み生き死にを繰り返しているかってこと」
いきなり剛君の顔が、大人びて見えた。
「それから、僕はいったい何者だったのかを知ることだ」
「何者かって、剛君以外の何者だって言うんだい?」
佐助は、首をかしげてそう聞いた。
「僕は剛だけど、それは仮の姿なんだ」
「え?」
私と佐助はまた、顔を見合わせた。
「だってそうでしょ?もし、来世、全く別の人格を持ち、名前も容姿も違うとしたら、僕は剛じゃなくなるけど、でも、この僕は僕なんだよ。ね?そうでしょ?」
「う、う~~ん。まあ、言いたいことはわかるよ。僕はずっと佐助だったけど、それは戦国時代までの記憶だ。もっと昔は全く別の人格で、全く別の名前だったかもしれないね」
「もっと昔は動物だったかもしれないし、天使だった時もあったかもしれない。この先の未来、地球に生きていない生物になるかもしれないし、守護霊とか、星を作る創造者になるかもしれないんだ。って、天使が言ってた」
「ああ、広場で会った人も、そんなことを言ってたっけね。輪廻転生だけしか選択肢があるわけじゃない。もっといろんなものになれるし、いろんなことができるんだって」
「うん。僕、天使だったとしたらさ、僕は剛じゃないでしょ?人間でもない。つまり僕って、天使の時もあれば、イルカや動物の時もあって、人間の時もあれば、宇宙人の時もあるんだよ」
「なるほど」
佐助は深くうなづいた。それから私を見て、また剛君を見ると、
「つまり、僕らは何者にもなれるし、何者でもないってことだ」
とそう言った。
剛君は大きく縦に首を振った。
「それ、どういうこと?」
私だけが把握できていないようだった。
「つまり、楓。僕は来世で、楓になることも可能だし、君が今度僕になることもできるんだ」
「え?!」
「そう、そういうことだよね。お兄ちゃん」
剛君はニコって笑って、佐助を見た。
「じゃ、じゃあ、なあに?本当の自分って、見つけられないじゃない。何者なのかって、結局わからないままでしょ?だって、何者でもないんだから」
「そう。だから、何者でもないっていうことを、知ったってことなんだ」
「ちょっと待って、今、頭が混乱している。なんで剛君はそれがわかったの?」
「ずうっと昔々の記憶が見えたんだ。僕、海の中にいた。イルカだった。自由に泳ぎ回ってた。それから、宇宙船に乗って、移動をしていた時の記憶も思い出したし、星を創っていた頃のおぼろげだけど、そんな記憶も見えたんだ」
「え~~?」
星を創ってた?!
「僕、なんにでもなれるけど、もともとはなんでもないんだ」
だ、駄目だ。まだ理解不能だ。
「佐助にはわかるの?」
佐助が横で、剛君の話を聞いてうなづいていたので、聞いてみた。
「なんとなくね。なんでもないっていうのは、なかなか理解しがたいものがあるけどね。僕らははっきり何者かとか、形ある者だったり、肩書や名前、そんなものを知りたがるからね」
「…頭がもっと痛くなってきたわ」
私の頭が、ズキンズキンと音を立て始めた。
「それで剛君。君はそれを知ったところで、これからどうするんだい?」
佐助が穏やかにそう聞いた。
「うん、この飴をなめるよ」
「生き返りの飴を?」
私は声をあげた。そして自分の大きな声で、もっと頭がズキズキしてしまい、頭を押さえた。
「うん。僕、記憶取り戻したいし、きっとすべてをわかってから生きるのって、全く違うと思うんだよね」
「何がまったく違うと思うんだい?」
「生き方とか、考え方や、感じ方。とにかく全部」
「…」
佐助は私を見た。
「もしかすると、剛君は病気かもしれないよ?」
「そうだよ。病院にいたってことは、入院していたんだろうって、天使が言ってた。でも、天使はみんな知ってるんだ。なのに教えてくれないんだ。ずるいよね」
「入院して大変な思いをしているかもしれないのに、生き返るのを選ぶのかい?」
「う~~ん。そうだね。そもそも僕、死んでないし。元の世界にまた戻るだけだよ」
「ああ、そっか」
また佐助は納得したように、うなづいた。
「もし、病気で長く生きられなくって死んじゃっても、また、ここに来るだけでしょ?そしたら僕、またビードロに行くんだ。おっちゃんはきっと、僕が行くってわかったら、あの店を開いてくれるよ」
「え?」
「だって、あの店は僕のために、開いてくれたんだもん」
「知ってたの?」
「知らない。でも、天使が教えてくれた。そうやって、僕のためだけに何かをしてくれてる魂や、光、天使や守護霊がいっぱいいるんだって」
そうなんだ。じゃあ、私にもそんな存在がいっぱいいるってこと?
「あの天使もそうだって。あの犬も。ううん。ミッシェルは僕のために、天使がこの世界に創造してくれた犬なんだって」
「え~?」
「僕がね、こっちに来て犬と遊びたいって願ったからさ」
「そうだったの。すごいのね、天使って」
「できないことは何もない。君が望めばいくらでも叶える。だから、本当に望むことを望んでいいんだよって、そう言ってた」
私はその言葉を聞き、胸を熱くした。
佐助も私を、目を真っ赤にさせて見つめた。佐助も今、きっと感動しているんだ。
「もう一つ、すごいいい情報を教えてあげる」
剛君はそう言うと、にっこりと笑った。
「なあに?」
「あっちの世界に帰っても、僕はお姉ちゃんとお兄ちゃんに必ず会う。ってそう天使にお願いしたから、2人に絶対に会うよ」
「え?」
「それもね、2人と笑顔で会う。みんな幸せになって会うって、そう天使にお願いした。それも全部叶えてくれるって言ってたよ」
「……剛君」
佐助は思い切り、剛君を抱きしめていた。
私は何を言われたのか、なかなか理解できなかった。でも、徐々にわかってきた。
そうか。私と佐助も、生き返るんだ。いや、もともと死んでいないから、元の世界に戻るだけだ。
そして、そこで私と佐助、そして剛君は幸せになって再会するんだ。
「ありがとう、剛君」
佐助はそう言うと、抱きしめていた剛君から離れた。
「僕、そろそろ行くよ。2人ともありがとう」
「こちらこそ」
私も佐助も、そして剛君もベンチから立ち上がった。
「じゃあ、向こうで会おうね」
剛君は最後にそう言うと、にっこりと笑って、広場を走り去って行った。