第10話 剛君
ホテルに戻った。フロントにはまだ誰もいなくって、カフェも今日は誰もいないようだ。
「なんで今日は誰もいないのかしら」
「夜になったら、集まってくるかもよ」
佐助はそう言うと、2階へと上がって行った。
私も佐助の後を追って、2階に上がった。
部屋に入るとまた、白檀の香りがした。佐助は、ドスンとベッドに横たわり、うつ伏せのまましばらく動かなかった。
「疲れたの?佐助」
「うん。なんだかね。野菜しか食ってないからかな。なんでここの人はあんなに元気そうなんだか…」
「くす。へんなの。元気も何もみんなもう、死んでいるんだよ」
「ああ、そっか」
佐助はぐるんと仰向けになり、
「じゃ、なんで僕はこんなに疲れているのかなあ」
とつぶやいた。
私もベッドに寝転がった。
「私はまだ足が痛いの」
「足?」
「足の裏。マメができちゃっているし、それに擦り傷もある」
「ああ、裸足で逃げていたんだっけ」
「正確にはストッキングでね」
「…怪我、治っていないの?変だね。もう死んでいるのにね」
「そうね。お腹もすくし、トイレも行きたくなる。疲れるし、怪我も治らない」
「生きている時と、あまり変わらない。眠くもなるし、それに…」
佐助はそのあとを続けず、黙り込んだ。
「それに?」
「なんでもない」
なんだろう。少しだけこっちを見た佐助は、私に背を向けてしまった。
「眠るの?」
背を向けたから、寝たいのかと思い聞いてみた。
「いや、ちょっと横になっているだけ」
だったら、こっちを向いてくれたらいいのに。なんだか、急に寂しくなってきた。
「佐助…」
「ん?」
佐助の声は優しかった。でも、まだ佐助は背中を向けている。
「佐助とはずっと一緒にいられるのよね?」
そう言うと、佐助はようやく顔をこちらに向けた。
「いるよ。なんで?」
「いなくなったら、ものすごく悲しいだろうなって思って…」
「いるよ。ずっといる。だから、安心して?」
佐助の目も声も優しかった。
「うん…」
なんでだかわからないけど、涙が出てきた。
佐助はしばらく優しい目で私を見ていた。私も佐助を見つめていた。
なんでこんなに佐助が愛しいんだろう。一緒にいるとなんでこんなに心が、休まるんだろう。
死ぬ前の人生はいったいどんなだったんだろう。私と佐助の関係は、どんなだったんだろう。どんな出会いをして、どんな恋をして、そして何を思い、何を話していたんだろうか。
「生き返らずとも、記憶を取り戻すだけってできないのかしら」
「生前の?」
「うん」
「さあ。どうだろうね」
佐助の返事は、あっさりとしたものだった。佐助にはもう、興味のないことなのかしら。
「佐助?」
佐助はしばらく黙って天井を見ている。
「楓。僕はきっと生前も、楓を愛していたと思うよ」
佐助はこっちを見るとそう言ってきた。
「え?」
「だからこんなに楓のことが、愛しいんだ」
ドキン。もしかして同じことを感じていた?
「一緒にいると安心する」
「わ、私も」
「楓も?」
「うん」
私は自分のベッドから立ち上がり、寝ている佐助のすぐ横に座った。
「私もさっき、それを思っていたの」
佐助は私の顔をじっと見て、それから私の手を握りしめた。
「じゃあ、楓は…」
「え?」
「僕に抱かれたいって思う?」
「え?!」
「僕は、ずっと思っていたよ。楓が愛しくて、恋しくて、楓を抱きしめたくて、ぬくもりを感じたくて…」
佐助?
「生前もきっとこんなふうに楓を欲しいって思ったのかな」
ドキ。いきなり心臓が高鳴った。
私の手を握りしめている佐助の手を振りほどき、ここから逃げ出したい衝動に駆られたが、どうにか私はそのまま座っていた。
ドキン。ドキン。
ものすごく心臓の音が早くなり、大きな音を立て始めた。
もしかすると生きていた時、私はまだ佐助と結ばれていなかったんじゃないか。だから、こんなにも胸が高鳴り、逃げ出したい衝動に駆られるんじゃないのか。
だけど、心の奥で、佐助を求めている私もいて、自分の中でもどうしていいかわからなくなっていた。
「私…」
どうにか私は、声に出して話し出した。
「ん?」
佐助はまだ手を握りしめ、私のことをじっと見つめている。
「…私、少しだけ怖い」
「何が?」
「佐助が…。ううん。そういう関係になるのが」
「え?」
「なんだか怖い。佐助が大好きなのに、今、逃げ出したいくらい、ドキドキしているの」
「……」
佐助は優しく私を見て、それからそっと握っていた手を離した。
「うん、わかった」
佐助の声は優しかった。
「ごめんなさい」
「謝ることはないよ」
佐助はまた優しく言った。
何で佐助はこんなに優しいんだろう。私の胸がギュって締め付けられた。
そして私はますます、生前の佐助のことも知りたくなった。
きっと佐助は今の佐助のように、私を守り、優しかったんだろうな。
私は自分のベッドに座った。佐助はまた背中を向けて、黙っていた。しばらく部屋でぼ~~っとしていたが、佐助のお腹がぐ~~っと部屋に鳴り響き、私たちは何か食べに行くことにした。
「くすくす」
「楓、もう笑わないで」
「だって、佐助って食欲旺盛だから」
「まだ若いんだから、しょうがないよ」
「佐助と私って、いくつなのかしらね」
「僕は多分、20代半ばってところかな。楓のほうが僕よりも若そうだから、23か24くらいかな?」
「もしかすると私は若作りをしているだけで、もっと年取っているかもしれないわよ?」
「あはは。若作り?それはないんじゃない?すっぴんも見たけど、肌綺麗だったよ」
「……」
佐助、そういうところもちゃんと見ているんだって思ったら、なんだか急に恥ずかしくなった。
「あ、カフェ開いてるね」
「ほんとだ」
私たちはカフェに入り、コーヒーとサンドイッチを頼んだ。
しばらく私たちがのんびりとしていると、ピアノの前に綺麗な女の人が座り、ショパンのノクターンを弾きはじめた。
それから、お客さんがどんどんカフェに入ってきた。
「この曲、好きだな」
佐助が言った。もしかすると佐助がそれを願って、あの人が現れ、この曲を弾きだしたのかもしれないな。
「佐助もピアノを弾いていたのかも」
「スパイの次はピアニスト?まあ、ありえるかな。その前の世では、バイオリンを弾いていたしね」
「そうね」
「きっとクラシックが好きだったんだろうな。それって、その前の世の影響大かもしれないな」
「私はジャズ」
「そうなの?」
「うん。ジャズの音楽を聞くと、胸が躍るの」
「へえ」
「私はジャズが、その前の世でも好きだったみたい」
「一つ前の世?昭和の時代?」
「そう。あのビードロ、ジャズが流れていたでしょ?」
「ああ、そういえば」
「あれ、好きだったなあ。なんだかとても懐かしくて、胸が締めつけられたわ」
「へえ。そうだったんだ」
女の人は次に、「星に願いを」を弾きだした。
「あ…」
同時に私と佐助は目を輝かせた。
「二人が好きだった曲だね」
そう、昭和の時代、この曲が好きで、ビードロでもマスターがよくかけてくれたっけ。
私たちはピアノの音に耳を貸して、しばらく目を閉じ、昔に戻っていた。
あの頃、私はやっぱり佐助が大好きだった。だから、佐助の夢を応援していた。
バイオリニストになって、ヨーロッパに行く。その夢を叶えてほしくて、実際にウィーンに行くことが決まった時には、嬉しくて胸がいっぱいになって喜んだ。
たとえ、別れることになったとしても、私には、佐助が夢を叶えることのほうが、喜びだったんだ。私よりも、夢を叶えることを選んだ佐助を恨んだこともないし、嫌いになったこともない。
それだけ私は、佐助を愛していた。
目を開けた。私の目から涙があふれていた。佐助は私のことを、じっと見ていた。
「なんで泣いているの?」
佐助が聞いてきた。
「…なんでかな。なんだか、今が幸せだからかしら」
あの時、私のもとを離れて行った佐助が、今、目の前にいる。
佐助はまた私の手を握りしめた。
「僕も…。幸せだよ」
佐助はそう小声でささやいた。
私たちは、カフェを出て外を歩き出した。それから広場に行き、剛君がいないか、広場をぐるっと見渡した。
もう、犬の飼い主が現れて、剛君は帰ってしまったんだろうか。
「今、何時なんだろうね?」
佐助が聞いた。
「うん。まだ日も傾いていないし、夕方ではないと思うんだけど」
私たちは広場のベンチに座った。すると、犬が突然ワンワンと吠えながら、広場を走り抜けて行った。
「あの犬、剛君と遊んでいた犬よ。まさか、剛君の身に何かあったんじゃない?」
私は立ち上がり、犬が走ってきた方向を見に行った。
「楓」
佐助が私を呼んだ。振り返ると、犬の飼い主が犬と一緒に広場を駆け抜けていった。
「何かあったのかもしれない。見に行こう」
佐助も何かを感じたようだ。私たちは慌てて、犬とその飼い主の後を追った。
「佐助、気がついてた?」
走りながら私は佐助に聞いた。
「何を?」
「あの犬の飼い主」
「うん」
「天使よ」
「え?」
「帽子をかぶっていたからわからなかったけど、今、帽子から髪が見えてた。綺麗な栗色だったわ。それに肌の色、抜けるように白い」
「…そうだったね」
「なんで犬の飼い主が、天使なのかしら」
「わからないな」
その天使と犬の行先は、街を出てすぐのバスの停留所だった。
「剛君。君は天使の里には行けないんだ」
犬の飼い主の天使がそう穏やかに言って、バスから剛君を無理やり抱きかかえ、降りてきた。
「離せよ。なんでいけないんだよ!僕は来世に行くんだ」
「駄目だ。君は行っても追い返されるだけだ」
「なんでだよ!僕はもう来世に行くって決めたんだ。決めたら、行けるんだろ?」
バスは剛君を置いて、発車してしまった。
「待てよ!置いて行くなよ!」
剛君は天使の腕の中で、じたばたともがきあばれている。
今、自分を捕まえているのが、天使だと剛君はわかっていないだろう。その隣で、クーンと鳴きながら犬が剛君を見ている。
「何で行かせてくれないんだよ!だいたい、あんた誰だよ。なんで邪魔するんだよ!」
「そうですよ。なんで剛君を行かせないんですか?」
佐助が天使に近寄りそう聞いた。
「剛君。君はまだ、ちゃんとシナリオを書けていないよ」
「そんなことないよ。僕は知ってるよ。シナリオなんてなんだっていいんだ。ただ、野球選手になる、それだけでも転生できるって、そう教えてくれた人がいるんだよ!」
ああ、彼かも。昨日飴のことを教えてくれた、一回生き返ってまたここに来たあの人。
「じゃあ、君の来世でしたいことはなんだい?」
ほとんど天使は剛君を抱きしめるようにして、そう聞いた。
「復讐するんだ」
え?
「あのやぶ医者と、母ちゃんに」
「それはもう、すでにすぐ前の人生で叶えようとしたよ」
「叶ったの?ねえ。復讐ってちゃんとできた?できたんなら、なんで僕はまたこんな若さで死んでんだよ!」
剛君はそう言うと、いきなり天使に抱きつきわっと泣き出した。
「僕は、こんな子供で死にたくなんかなかった。もっと長く生きたかった。僕は絶対にいろんな夢も叶えられずに死んだんだ。きっとまた、医者や親や、みんなのせいで!」
「剛君…」
「僕は知ってるんだ。その前の前の人生でも、早くに病気で死んでるんだ。医者が治してあげるって約束したのに、結局治せなかったんだ」
そうだったの…。
「僕はいっつも、病気になるんだ。それでまだ10歳にもならないうちに死ぬんだ。もう嫌だ。こんなの嫌だ!」
しばらく剛君は泣きわめき、天使に抱きついたまま離れようとしなかった。
天使は、剛君が思い切り強く抱きついてきたので、帽子が脱げてしまっていた。そして栗色の髪と顔が、あらわになっていた。
天使の顔は優しかった。ああ、あれだ。絵に描かれている聖母マリアのようだ。
男の人にも見えるが、女の人にも見える。きっと性別がないんだろう。
頭の上にわっかがあるわけでもないし、背中から大きな白い羽が生えているわけでもないが、天使だとわかる何かをかもしだしている。いや、何もかもしだしていないから、天使なのかもしれない。そう、人間らしさがどこにもないのだ。
とにかく綺麗で、不純物が何も含まれていないような肌。ああ、まるで光でできているようだ。そして瞳は、どこまでも深く、宇宙そのものでできている、そんな瞳だ。
「剛君」
剛君が泣き止んだ頃、ようやく天使は話しかけた。
「大丈夫。君には、なりたいものになれる力も、幸せになる力もある」
「僕に?」
「そうだ。簡単だよ。そう願えばいいだけだ」
「願ったよ。僕は死ぬ前に、祈ったもの」
「本当に?生きたいって祈るよりも、母親や医者への恨みのほうを感じていなかったかい?」
「それは…」
剛君は黙り込んだ。
「本当はもっと生きたかった。母親に愛されたかった。いろんな夢を叶えたかった。違うかい?」
「違わない」
「それを願ってごらん。そうしたらすぐに叶えてあげるよ」
「誰が?」
「僕らが…」
「お兄さんが?なんで?お兄さん、誰さ。そんな力あんの?」
「あるよ。君の中にもある。なんでも創造する力がちゃんとあるんだ」
「…ほんと?」
「本当に」
「…本当のほんと?」
「剛君、立ち話もなんだから、うちにミッシェルとおいで」
「ミッシェル?」
「犬の名前。知らなかった?」
「そういえば、そんなふうにお兄さん、呼んでいたね」
剛君はすっかり泣き止み、天使とともに街の中を歩き、そして消えて行った。
「天使が一緒にいるんだもの。大丈夫よね?」
「うん」
私たちも広場に戻り、ベンチに腰かけた。ベンチからはまた見事な夕焼けが見えた。
「もう、夕方なんだ」
空を見上げて、佐助が言った。
「何でも叶う…か」
私はそう独り言を言った。
「それ、ここだけの話なのかな」
「え?」
「それとも、生きている時にも、なんでも叶えられるのかしらね」
私がそう佐助に聞くと、佐助は首をひねり、
「生きている時にも叶うなら、僕はいつだって君を守り切れていると思うよ」
と、そうつぶやくように言った。