第1話 記憶喪失
私は逃げていた。オフイスビルの立ち並ぶ夜の街を。
必死で逃げていた…。
殺される。
逃げないと…。
早く、ここから逃げないと…。
必死で私は走っていた。
誰か、助けて!でも、誰に助けを求めていいかもわからないまま、ただひたすら走っていた。
夜の街は静かだった。辺りには私の足音しか聞こえない。休日のオフィス街の夜。どのビルも明かりが消え、閑散としている。
はあ。はあ。
息が切れ、足はパンパンだった。
もう走れない。そんな余力もない。喉はカラカラで、心臓はバクバクだ。
はあ。はあ。
無意識に私は上着のポケットに手を入れた。そこには、なぜか飴玉が入っていた。
私は飴の包みを震える手でどうにかあけ、飴を口に放り込んだ。
それからまた、歩き出した。
一歩、また一歩。壁に手を当て、どうにか前に進んだ。
足の裏がじんじんとしびれ、もう一歩も歩けないくらいになっている。それでも私は歩いた。
はあ。苦しい。でも止まれない。きっと追って来る。私を殺すまで追って来る…。
私は気がつくと、高層マンションが立ち並ぶ街の中にいた。街燈がいくつかあるが、外には誰の姿も見当たらなかった。
腕時計を見ると、9時を過ぎていた。ここの住人達はすでに、みんな家の中に入っているのか。
カツン…。カツン…。
私の靴の音がやたらと当たりに響くので、私はそこで靴を脱いだ。パンプスを拾い上げ、上着のポケットに押し込み、また私は歩き出した。
高層マンションを見上げた。いったい、何階まであるのだろうか。どのマンションもものすごく高い。
見上げたマンションの上に夜空が広がっているが、ただただ真黒なだけで、星も月も出ていなかった。
あたりはすごく静かだった。人の声も、車の音も、なにも聞こえない。
夜は一気に冷え込むのか、吐く息が白かった。
風は全く吹いていなくて、ただその辺りを包む空気がやたらと冷たく感じだ。
カツーン…。
その時、静けさの中に靴の音が鳴り響いた。
ドキ!誰かいる。
パンプスの音ではなく、男物の靴の音だ。それも聞き覚えがある。
私はゾクッと寒気を感じた。あの男だ!
また私は走り出した。
必死で走り、すぐ近くの高層マンションの門をくぐった。
エントランスの自動ドアが開いてくれるかどうか、ものすごく不安だった。
ピカピカに磨かれた大きなガラスの自動ドア。その前に立つと、自動ドアはスウッと静かな音を立て開いてくれた。
良かった。胸をなでおろし、マンションのロビーに入った。広々としたロビーは大理石でできていた。床は私の影をしっかりと映すくらい、綺麗に磨かれている。
煌々と明かりのついたロビーには、黒い革張りのソファーが置かれていた。ああ、座りたい。でも、休んでなんていられない。
ロビーの奥へと足を進めると、管理人室があった。だがその中は真っ暗だった。
私はロビーからマンションの廊下へと、必死で向かった。
はあ、はあ…。
息が切れる。足の裏が痛い。そして大理石の床は冷たかった。
それでも必死で私は足を動かした。
その時、靴が私の上着のポケットから落っこちた。慌てて拾おうとしたが、エントランスの前を人影が動いたので、私は慌てて身を隠した。
ドキン。ドキン。
お願い。こっちにこないで!
人影はエントランスの前から消えた。
良かった!気づかれずに済んだ。
また私は歩き出した。
まっすぐに続くマンションの廊下を、ただひたすら前に進んだ。
廊下は電気がついていて明るかった。だが、どの部屋も明かりが漏れている部屋はなく、真っ暗だ。
そのうえ、あたりは静まり返っていた。聞こえてくるのは、私の「はあ、はあ」という息の漏れる音だけだ。
「あ…」
私は一つだけ、微かに窓から漏れる明かりを見つけた。あそこに誰かがいるかもしれない。
助けを求められるかもしれないと、ひたすら祈る気持ちで私はその部屋へと必死で歩いて行った。
助けを求めたら、警察に連絡してくれるかもしれない。そしてあいつを捕まえてもらって…。
でも、あいつって、誰?
それに、なんで私はここにいるの?
そして、ここはいったいどこなの?
…私は、いったい、誰なの…?。
ドアのチャイムを鳴らそうとしてから、私の指は止まった。
殺される。逃げないと殺される。だけど、いったい誰から私は逃げているの?
どうして?なんで覚えていないの?
何も、何も私は覚えていない!いったい、どうして?!
ピンポン…。震える指でチャイムを押した。だけど、返答はなかった。
「すみません。誰かいませんか?」
私はドアを静かに叩いた。あんまり大きな音を立てて、あいつに聞こえたらここにいるのがばれてしまう。
だけど、あいつって誰なの?なんで私は追われていて、どうして何も覚えていないの?
誰も出てくる気配がしなくて、私はそっとドアノブを掴んでみた。
ガチャリ。ドアノブが動いた。鍵はかかっていなかった。
そっとドアを開け、中を覗いた。
玄関の床はやはり大理石でできている。そこには一つも靴がなく、中はしんと静まり返っている。だけど、電気だけが煌々とついている。
「誰かいませんか?」
小声で聞いた。だが、やはり返答はなかった。
ゾク…。誰もいないんだ。ここ、無人なんだ。
背筋がゾッとしてきて、私はドアを閉めた。
このマンション、そういえばすごく綺麗だ。まだ建ったばかりのマンションかもしれない。だとしたら、ここには住人はいないのかもしれない。
私はまた廊下を歩いた。いったい、これからどうしたらいいのだろう。
マンションの一階の奥まで歩き、行き止まりで私は止まった。
ここから出たら、またあいつに出くわしてしまうかもしれない。
ここにいても、いつか見つかってしまうかもしれない。
だけど、闇雲に歩き回っているよりもましだ。
さっきの部屋に戻ろうか。あそこならドアが開いていた。中に入って鍵をかけ、電気を消して静かにしていたら、見つからずにすむんじゃないのか。
シュー…。
微かにエントランスの自動ドアが開いた音がした。
ドキン。まさか、あいつ?
カツーン。カツーン。
男物の靴音が廊下に響いた。
あいつだ。こっちに来る!
ああ。あれだ。ポケットから落ちた私のパンプス。あれを見つけてしまったんだ。取りに戻ればよかった。だが、それも後の祭りだ。
私はその場から、影になっている廊下の溝へと移動した。もう隠れるところはそこしかなかった。
ドキン。ドキン。ドキン。
心臓がどんどん、早く鳴りだした。
カツーン…。
カツーン…。
どんどん、足音は大きくなっていく。
ああ…。なんで私は追われているんだろう。いったい、相手はどんなやつなんだろう。
なんで何も覚えていないんだろう。覚えているのは、ただ追われているという恐怖感だけだ。
私はもっと奥へと身を隠した。廊下は明るかったが、そのくぼみは影になっていて、じっとしていたら、見つからないかもしれなかった。
ゴツ…。
何かが後ろの壁に当たった。私のスカートのポケットの中に何かがある。私は音をたてないように、静かにポケットからそれを出した。
ナイフ?折り畳み式の果物ナイフだ。なんで、こんなものが。
用心のために持っていたのだろうか。私はナイフを開き、両手でギュッと握った。手はぶるぶると震え、唇までが震えだした。
寒かった。歯がガタガタ言うのだけは、必死で押さえた。
だが、手が震えるのは寒さだけではなかった。殺される前に、これで相手を刺そう。そう思うと、怖くて手が震えてくるのだ。
こんなナイフがいったい、何の役に立つんだろうか。わからない。でも、刺して逃げだすことはできるかもしれない。
だけど、これ以上私は走れるのだろうか。足の裏は擦り剥けているし、寒さでかじかんでもいる。
カツーン!
カツーン!
足音がどんどん近づいてくる。
はあ…。恐怖で息が漏れた。
いけない!吐いた息が私を隠していた闇の中で、白くうずまいている。
「誰?」
男の声がした。
「誰かいるの?」
カツン。カツン。
足音が早くなり、どんどんこっちに近づいてくる。
ガタガタ。ナイフを持っている手が震える。
このまま勢いよく飛び出して、心臓めがけてナイフで刺そうか。
だけど、足が動かない。しゃがみこんだまましびれてしまい、足がどうにも動かない。
「そこに誰かいるの?」
来た!もう逃げられない!
「君、この靴の持ち主?」
男の手には私のパンプスがあった。
「どうしてこんなところにいるの?隠れているの?」
え?
「誰かに追われているの?」
……。私を殺しに来たやつじゃないの?
「この靴、君のじゃないの?」
「私の…」
「立てる?」
その人は私の前にしゃがんだ。私は警戒して、後ろの壁にひっついた。
「…それ、危ないよ」
私の手に持っているナイフを見て、その人はそう言った。
ガタガタ…。私の手はまだ震えていた。
「わ、私を追って来たんじゃないの?」
「僕?いや、違うよ」
「…じゃ、じゃあ、あなた誰?」
「…君は?」
「私は…」
覚えていない。まったく、覚えていない。
この人の顔も覚えていない。でも、なんでだからわからないけど、この瞳は覚えがある。なぜだか、懐かしくて、あったかい優しい瞳だ。
「はい。靴、履いたほうがいいよ」
「…あ」
両手は固まり、ナイフをなかなか離せないでいると、その人が私の指からナイフを取ってくれた。
「危ないから閉まっておくね」
ナイフを折り畳み、その人は自分のポケットにナイフをしまった。それから、私の両腕をつかんで、立たせてくれた。
ふらふらしながら私は立ち上がり、どうにか靴を履いた。
「大丈夫?歩けそう?」
こっくりと、私はうなづいた。
「寒そうだね。これ、着たらいいよ」
その人は自分の上着を脱いで、私の肩にかけてくれた。そして私の肩を抱いて、ゆっくりと歩き出した。
「あなた、ここに住んでいる人ですか?」
「いや。違うよ」
「…じゃ、じゃあ、ここってどこか知っていますか?」
「…さあ」
え?
「それが、まったくわからないんだ」
男の人はまっすぐ前を向いて答えた。
「ここがどこか?」
「うん」
カツーン。カツーン。
その人の足音と私の足音が、廊下に鳴り響いた。他には何の音もないから、靴音だけが響き渡ってしまう。
「靴音を聞いて、あいつが来たらどうしよう」
「誰?」
「私を殺そうとした人…」
「殺しに?そんな危ない奴から逃げてたの?」
「…」
私は黙ってうなづいた。
「誰なの、そいつ」
「わからない」
「え?」
「わからないんです」
「何をして殺されそうになっているの?」
「それも、わからないの…」
その人は目を細めて私を見た。そして、下を向きため息をついた。その人からも真っ白い息が漏れた。
「君もなんだね」
「え?」
「実は僕も…。記憶が全くない」
「え?!」
「なんでここにいるのかも。自分が誰なのかも…」
どういうことなの?2人して記憶がないなんて…。