樹木の墓碑銘――境内のホルトの木
初出:カクヨム
https://kakuyomu.jp/works/16816700426809476053/episodes/11054822664435006085
近くの神社には季節ごとにたくさんの花が咲く。
神主さんもそれが自慢らしい。矍鑠とされているが、おそらくは傘寿を超えていらっしゃるであろう。この神社に巫女さんは無く、普段は他に神職もいらっしゃらないので、お一人での境内の掃除や草取り、各種植物の手入れは随分と大変そうである。
そういうこともあってか、ここ数年、境内の大半がコンクリートで舗装されたり、造園業者が入って大規模な整備が行われたりという状況をしばしば目にするようになった。
ところで諸兄姉はホルトの木を御存じだろうか? 鹿児島などでは茂樫とも言うらしい。
秋には多くの木々が紅葉/黄葉するものだが、世の中全てが定石通りとは限らない。例えば、楓の中には年がら年中、葉を赤く染めた浮かれ者、濃紫紅葉もあれば、反対に、秋になっても緑色の葉のまま譲らない頑固者、常盤楓もある。或いは、あちこちの生垣などで目にする要黐の仲間、レッドロビンは新芽や若葉のうちは赤く、日が経つにつれて緑になるへそ曲がりである。
こういった向きと並べてみれば、ホルトの木はさしずめ気まぐれ者と言えそうである。
春夏秋冬関係なしに、深緑色の葉叢の中にぽつりぽつりと赤い葉を混じらせている。あたかも、染髪における差し色のような印象。
落葉樹における一般的な紅葉は、古くなった葉が落ちる前に緑のクロロフィルが分解され赤いアントシアニンの合成されることによるらしいが、この常緑樹においては、そのような代謝が季節によらず通年でぽつりぽつりとばらばらに行われているようである。
他の常緑樹ではこのような現象はあまり顕著には観察されないので、まあ、気まぐれな変わり者と言えよう。
ホルトの木という名前も変わっている。変わっていて随分と屈折している。
ホルトとは、そもそもポルトガルの謂とされる。
近世においてオリーヴ油は「ポルトガルの油」と称され、転訛してホルトカルの油、ホルトの油とも呼ばれていたらしい。
そうして、その油が採れる実、つまりオリーヴの実が生るのが本来あるべきホルトの木。
しかし、現実には、まったくの別種、しかもポルトガル原産でもなく日本の在来種がホルトの木と呼ばれ通用している。これは、この木の果実がオリーヴの実に似ていることから生じた混同がその由来と言われる。要するに、言葉の訛りや誤解の連鎖により歪んだ形で定着してしまった名前なのである。
冒頭に言及した神社には、このホルトの木の大木が二本あった。一本目は入口の鳥居の脇。もう一本は、境内の奥、本殿の横に並ぶ末社の傍に立っていた。立っていたという過去形の言回しから判るとおり、現下においてこれらの樹木は喪われている。
奥の木が数年前に伐り倒され、入り口の大木もその一年後ぐらいに伐られたのである。
この二本にはしばしば栗鼠が来ていた。栗原栗鼠の亜種、台湾栗鼠である。
ホルトの木は先述のとおり名前に違って在来種だが、台湾栗鼠はまさに名前のとおり台湾にルーツを持つ外来種。しかも、法律に定められ政令指定された特定外来生物、言わば、招かれざる客でもある。
戦前に伊豆大島に移入されたものの一部が戦後江ノ島で観光飼育されるようになり、その飼育施設が台風被害に遭ったことで逃げ出したり、ペットとして個人が飼っていたものが飼育下を離れたりして、野生においてどんどん繁殖し生息域を広げているらしい。
栗鼠にとってホルトの木は果実も樹皮も恰好の餌である。果実については、果肉ではなく種子を専ら食べるため、根許に落ちている実には栗鼠が齧ったであろう小さな穴がしばしば見られた。
以前、家人が高い木の枝を見上げて無邪気にも栗鼠を探していたところ、何を見ているのかと神主さんに訊かれたらしい。正直に答えたところ、
「栗鼠ですか…… 困ったものですよ」と顔を顰められたそうである。
特定外来生物という汚名はあれど、利害が絡まない僕らにとって、栗鼠は可愛らしい隣人である。この神社でも、僕らは栗鼠に出会えることを一つの楽しみにさえしていた。
しかるに、境内の植物を荒らされ続けている神主さんにとっては、被害は深刻だった筈で、かく渋面になるのも宜なるかな。
これら二本が二年ほどの間に次々に伐られてしまったのは、そういう理由があったからだろうか。
或いは、栗鼠が齧ることによって、樹皮が環状に剥がれてしまった樹木は、そこから枯死に至ることがあるという。倒木や大枝の落下という危険性があり、人身事故にもつながりかねず、そのような安全上の配慮もあって伐採に至ったのかも知れない。
これらの伐採作業は、もちろん造園業者によって行われたが、専門職と言えどもあれほどの大木をすっかり除去するのは随分と骨が折れたに違いない。
僕らにとっては、親しんだ樹木や愛玩した動物を喪失してしまうことは何とも非常に残念なことなのだが、それは何らの責任をも有さぬ気楽な立場からの太平楽に過ぎない。
ただ、こうした人間の都合によって、迷惑を蒙り剰え生命をも奪われてしまう動植物に対しては、甚だ気の毒だという思いがある。
しかしだからと言って、伊豆大島や江ノ島に栗鼠を移入した昔の人を断罪するつもりも、その資格すらも僕にはない。過失だったのか故意だったのか、栗鼠を野に放ってしまった諸人に対しても然り。或いは、ホルトの木の伐採に至った神主さんや造園業者に対しても然り。
人間は、或いは生物全般は、生きて行くために、それぞれがそれぞれの都合に従って、しかも個々においては合理的に動いてしまうものである。そうして、他と競合し、葛藤、摩擦、軋轢が生じ、果ては、他を攻撃、殲滅などというようなことにも至る。
僕は、ただただ、それらを一様に眺めながら、それぞれの立場に対して、何とも遣る瀬無いような気の毒なような思いに駆られ、そうして、かかる業を等しく背負っている自分自身を後ろめたく思うばかり。
<了>




