第7話 シャンプーが切れたので、ちょっと城下町まで脱走(買い物)してきました
私はバスルーム(元・第壱拷問室)で、深刻な事態に直面していた。
「……ない」
猫足バスタブの縁に置いた、お気に入りのシャンプーボトルを逆さまにして振ってみる。
ポスッ、という虚しい音と共に、最後の一滴が落ちただけだった。
「嘘でしょ……『マーメイドの涙・プレミアムモイスト』が切れちゃったなんて」
これは由々しき事態だ。
このシャンプーは、私の輝く銀髪(自称)を維持するための生命線なのだ。
ギデオンに頼めばすぐに買ってきてくれるだろう。彼は私が「あれ欲しい」と言えば、店ごと買い占めかねない勢いだから。
しかし、私は思い出した。
今朝の新聞(ロイドさんが貸してくれた)の広告欄を。
『王都中央広場のコスメショップにて、本日限定タイムセール! 全品半額!』
「半額……!」
その二文字が、私の騎士としての闘争本能に火をつけた。
ギデオンに頼めば定価、いや言い値で買ってくるだろう。それは国の税金の無駄遣いだ。
半額で手に入れることこそ、賢い消費者の、そして戦士の嗜みである。
「よし、行こう」
私は決意した。
これは脱走ではない。戦略的物資調達作戦だ。
私は部屋着から、以前ギデオンが「着替えがないと不便だろう」と言って用意してくれた、一般市民風のワンピース(でも生地は最高級)に着替えた。
動きやすいし、これなら街に溶け込めるはずだ。
部屋を出る。
廊下の見張り台には、誰もいない。ロイドさんは休憩中だろうか。
私はスライムのポヨンに「お留守番頼むわね」と言い含め、音もなく石造りの階段を駆け上がった。
王城の裏口警備はザルだった。
というか、私が「お疲れ様ですー、ゴミ出しでーす」と笑顔で通ったら、兵士たちは「ご苦労さん」と通してくれた。
私の顔、覚えられてないのかな? まあ、捕虜が堂々と正面から出ていくなんて思わないか。
こうして、私はまんまと敵国ガリアの城下町へと足を踏み出したのだった。
◆
一方その頃。
『第零監獄』に、絶望の悲鳴が響き渡った。
「いないッ!!!」
ギデオンは、もぬけの殻となった牢屋の中で、膝から崩れ落ちていた。
手には、差し入れ用の高級マカロンの箱が握りしめられている。
「なぜだ……! なぜいないんだセラフィナ!
今朝はあんなに機嫌よく『おはよう、看守さん』と言ってくれたのに!
まさか、やはり祖国が恋しくなったのか!? 俺の待遇に不満があったのか!?」
ギデオンは錯乱していた。
昨日、彼女と一緒に壁画を描いたあの時間は幻だったのか。
彼女の髪を乾かしたあの温もりは、夢だったのか。
「隊長、落ち着いてください。置き手紙がありますよ」
冷静なロイドが、テーブルの上にある紙片を拾い上げた。
「なになに……『シャンプーが切れたので、半額セールに行ってきます。夕飯までには戻ります。追伸:冷蔵庫のプリンは食べないでね』……だそうです」
「……は?」
ギデオンは涙目でロイドを見上げた。
「半額セール……?」
「ええ。どうやら脱走というより、主婦の買い出しですね」
「な、なんだ……そうか、買い物か……」
ギデオンはへなへなと座り込み、深く安堵の息を吐いた。
心臓が止まるかと思った。彼女が永遠にいなくなってしまったら、自分はこの先、何を生き甲斐にすればいいのか分からなかった。
だが、次の瞬間、彼はハッと顔を上げた。
眼鏡の奥の瞳が鋭く光る。
「待てロイド。彼女は今、一人で城下町にいるということか?」
「そうなりますね」
「危険だ!!」
ギデオンは立ち上がり、マカロンの箱をロイドに押し付けた。
「城下町にはナンパ男や、たちの悪い商人がうようよしている!
あんなに世間知らずで(※偏見)、無防備で(※事実)、歩く宝石のように可愛い彼女が一人で歩いていたらどうなる!?
さらわれるぞ! 別の男に囲われるぞ!」
「いえ、彼女なら男の三人や四人、指先一つで吹き飛ばせますけど」
「物理的な話ではない! 精神的な隙を突かれたらどうする!」
ギデオンは軍服の上着を脱ぎ捨て、クローゼットを開けた。
「行くぞロイド! 追跡任務だ!」
「はぁ……。隊長、軍服だと目立ちますよ」
「分かっている。変装だ。……完璧な市民に変装して、彼女を影から護衛する!」
◆
ガリアの王都は、活気に満ちていた。
石畳の道には露店が並び、香ばしい串焼きの匂いや、甘い果物の香りが漂っている。
人々は笑顔で行き交い、敵国である私の祖国と戦争中だなんて信じられないほど平和だ。
「へぇ……いい街じゃない」
私はキョロキョロと辺りを見回しながら歩いた。
敵を知るにはまず胃袋から、という格言がある(私が作った)。
とりあえず、屋台で買った「爆弾焼き(大きなたこ焼きのようなもの)」を頬張る。
「んんっ、熱々! 美味しい!」
ハフハフしながら歩いていると、目的の店が見えてきた。
『王都コスメ・マリー』。店の前には「半額」の赤札が踊っている。
「あった! 突撃ー!」
私は人混みをかき分けて店内に入った。
店内は淑女たちでごった返している。これが女の戦場か。
私は巧みな身のこなし(回避スキルLv.MAX)で人を避け、お目当てのシャンプー棚へと到達した。
「えっと、マーメイドの涙は……あ、あった! ラスト一本!」
私は手を伸ばした。
しかし、同時に横から伸びてきた別の手が、そのボトルを掴んだ。
「あ」
私が顔を上げると、そこには派手なドレスを着た貴婦人が立っていた。
彼女は私を一瞥し、フンと鼻を鳴らした。
「おどきなさい、平民の小娘。これは私が買うのよ」
「えっ、でもタッチの差で私が……」
「お黙り! 私はこの店の常連なのよ? 譲りなさい!」
うわぁ、典型的な意地悪キャラだ。
力ずくで奪い返すのは簡単だけど、街中で騒ぎを起こすのは捕虜としてマズい。
どうしようか。諦めるか? いや、私の髪のツヤがかかっている。
その時だった。
「……彼女が先に手を触れていただろう」
低く、落ち着いた男の声が響いた。
私の背後から、一人の男性がスッと前に出てきた。
茶色のジャケットに、深めのハンチング帽。目元には黒縁の眼鏡。
一見すると地味な格好だが、その背筋の伸び方と、隠しきれない美貌オーラは、見間違えるはずがない。
「ギデオン!?」
「シッ、名前を呼ぶな。(今は一般市民のジョンだ)」
彼は私にウインク(ぎこちない)をすると、貴婦人に向き直った。
帽子を目深に被っているが、その眼鏡の奥の瞳は、絶対零度の冷気を放っている。
「……マダム。美しさとは、心の余裕から生まれるものだ。若者に道を譲る寛大さこそが、貴女をより輝かせるのではないかな?」
「ひっ……!」
貴婦人はギデオンの迫力(尋問官モードの威圧)に気圧され、顔を青くした。
「な、なによ! 譲ればいいんでしょ、譲れば!」
彼女はボトルを棚に戻すと、逃げるように去っていった。
勝利だ。言論による完全勝利だ。
「ありがとう、ギデオン……じゃなくて、ジョンさん」
「……無事でよかった」
ギデオンは深く息を吐き、私を見た。
その顔は、「心配で死にそうだった」と雄弁に語っている。
「どうしてここに?」
「(貴様が心配でストーカーしてきたとは言えない……)たまたまだ。非番で、ロイドと買い出しに来ていた」
見ると、店の外でロイドさんが焼きトウモロコシを食べながら手を振っていた。
絶対に嘘だ。でも、合わせてあげよう。
「奇遇ね! じゃあ、これ買ってくるわ!」
「待て」
私が財布(捕虜のくせに持っている)を出そうとすると、ギデオンがそれを制した。
彼は懐から革財布を取り出し、シャンプーボトルをレジに持って行った。
「これと、あとこの棚の美容液とヘアオイル、全部だ」
「えっ、全部!?」
「店員、領収書はいらん。釣りも取っておけ」
ギデオンはスマートに(そして少しドヤ顔で)支払いを済ませると、大きな紙袋を私に差し出した。
「……没収品だ。牢屋で管理する」
「え、くれるの?」
「『管理』すると言ったんだ。貴様の髪が痛むと、我が国の捕虜待遇が悪いと噂されるからな」
素直じゃないなぁ。
私はクスッと笑って、紙袋を受け取ろうとした。
だが、彼は袋を渡さず、自分の手で持った。
「荷物持ちくらい、男にさせろ」
「あら、紳士ね」
私たちは店を出て、並んで歩き出した。
喧騒の中、肩が触れ合う距離。
周りから見れば、完全に休日のデートを楽しむカップルだ。
「せっかくだから、少し街を見て回らない? 夕飯まで時間あるし」
「……(デートの誘い!?)……仕方ない。監視も兼ねて付き合ってやる」
ギデオンの声が上擦ったのを、私は聞き逃さなかった。
◆
それから私たちは、城下町を散策した。
クレープ屋の屋台で、イチゴとチョコのクレープを買った。
ギデオンは「甘いものは苦手だ」と言いつつ、私が「一口食べる?」と差し出すと、顔を真っ赤にして齧り付いた。間接キスだということに気づいて硬直していたけれど。
アクセサリーショップの前で足を止めた時だった。
赤いリボンのついた髪留めを見ていたら、店のおばあちゃんが声をかけてきた。
「あらあら、お似合いのお二人さんだねぇ。新婚さんかい?」
その言葉に、ギデオンが盛大に咳き込んだ。
「ごほっ! し、新婚……!? い、いや、我々はそんな関係では……!」
「あら、旦那さん照れちゃって。お嫁さん、旦那さんを大事にするんだよ。こんなに愛しそうな目でアンタを見てる人はいないよ」
おばあちゃんはニコニコと言った。
私はギデオンを見た。
彼は帽子のツバを深く下げ、顔を隠しているが、耳まで真っ赤だ。
(愛しそうな目、かぁ)
私は少しドキッとした。
確かに、ギデオンはいつも私を見ている。
監視だ、尋問だと言いながら、私が欲しいものを先回りして用意してくれる。
私が笑うと、彼も(隠そうとしているけど)嬉しそうにする。
「……ふふ。そうですね」
私はおばあちゃんに微笑み返した。
「まだ新婚じゃないですけど、とっても親切なパートナー(大家さん)なんです」
「パートナー……ッ!」
ギデオンが変な声を出した。
私は彼に腕を組んでみせた。
「ほら、行こうジョンさん。ロイドさんが待ちくたびれてるわよ」
「あ、ああ……(腕が……当たってる……柔らかい……これは夢か……?)」
ギデオンはロボットのようなぎこちない動きで歩き出した。
遠くでロイドさんが、「あーあ、完全に尻に敷かれてるなぁ」という顔で見ているのが見えた。
◆
夕暮れ時。
私たちは王城の裏口からこっそりと戻ってきた。
ギデオンの両手には、私が買い込んだ(彼が買い与えた)荷物が山ほど抱えられている。
「ただいまー、第零監獄」
地下のひんやりとした空気が、なんだか懐かしい。
私は牢屋のソファに座り込み、大きく息を吐いた。
「楽しかった! ありがとう、ギデオン」
「……ああ」
ギデオンは荷物をテーブルに置き、眼鏡を外して疲れたように目を擦った。
心労と興奮で、彼はボロボロだった。
「貴様が無事でよかった。……もう、勝手な真似はするな。心臓に悪い」
「ごめんなさい。でも、あなたと街を歩けて嬉しかったわ」
私が素直に伝えると、ギデオンは動きを止めた。
そして、背を向けたまま、ポツリと言った。
「……俺もだ」
その声はとても優しくて、私は胸の奥がキュンとなるのを感じた。
あれ?
私、敵国の尋問官相手に、何ときめいてるんだろう。
「さ、夕食の時間だ。今日は疲れただろうから、部屋でゆっくり食べるといい」
「うん。……あ、そうだギデオン」
部屋を出て行こうとする彼を呼び止める。
「買ってもらったシャンプー、すごくいい香りなの。後で、髪の匂い嗅いでみる?」
他意はない。本当にいい香りだから感想を聞きたいだけだ。
しかし、その言葉は彼にとって核弾頭級の破壊力を持っていたらしい。
「――――ッ!!!」
ギデオンは扉に頭を打ち付け、そのまま崩れ落ちそうになった。
「ば、馬鹿者!! な、なんて破廉恥な……!
(嗅ぎたい! 死ぬほど嗅ぎたい! でも理性が吹き飛ぶ! 俺は獣になりたくない!)」
「隊長、自爆してますよ。早く戻りましょう」
ロイドさんに引きずられていくギデオンの後ろ姿を見送りながら、私はクスクスと笑った。
やっぱり、ここでの生活は退屈しない。
明日もまた、楽しいことがありそうだ。
テーブルの上には、さっきのアクセサリーショップで、ギデオンがこっそり買ってくれていた赤いリボンの髪留めが置かれていた。
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一方その頃、ロイドの日記。
『本日の出費:
コスメ一式、クレープ代、アクセサリー代、変装用衣装代。
……これ、全部隊長のポケットマネーだからいいけど、もう実質、デート代ですよね? 』




