第6話 「水責め」という名の極上バスタイムで、身も心もとろけそうです
私は、部屋(牢屋)の中央で、奇妙なポーズをとったまま固まっていた。
「……んーっ! 汗かいたー!」
額からツーッと汗が流れ落ちる。
私は今、日課の筋力トレーニングを終えたところだ。
今日のメニューは、スライムのポヨン(重さ約10キロ)を背中に乗せての腕立て伏せ200回と、スクワット300回。
いくら監禁生活が快適でも、戦士としての筋肉を鈍らせるわけにはいかない。
しかし、問題が一つあった。
帝国の騎士団宿舎には大浴場があったが、ここにはない。
身体を拭くための蒸しタオルは毎日支給されるけれど、それだけじゃ足りないのだ。
「ベタベタする……。髪の毛も洗いたいし、湯船に肩まで浸かって『ふぁ~』って言いたい」
私は自分の匂いをクンクンと嗅いだ。
臭くはないと思うけど、乙女としては(一応これでも乙女だ)、清潔感は死守したいラインである。
「よし、頼んでみよう」
私はタオルで汗を拭いながら、鉄格子の扉に向かった。
どうせ鍵は開いているけれど、リクエストを通すには正規の手順を踏んだほうがいい。
「ギデオンー! ギデオンー! 緊急事態発生よー!」
私が廊下に向かって叫ぶと、ものの数秒でドタドタという足音が響いてきた。
「どうしたセラフィナ! 敵襲か!? それともお腹が空いたのか!?」
現れたのは、いつもの黒い軍服姿のギデオンだ。
今日も今日とて、麗しい美貌に焦りの色を浮かべている。
彼は私の顔を見るなり、目を見開いた。
「(ッ……!! 汗だく……!?
少し乱れた髪、紅潮した頬、首筋を伝う汗の雫……!
な、なんだこの艶めかしい姿は。朝から俺を殺す気か!?)」
ギデオンが口元を手で覆い、よろめいた。
大丈夫かな、この人。最近よくよろめいている気がする。貧血ならレバーを食べたほうがいい。
「敵襲じゃないわ。お風呂に入りたいの」
「……風呂?」
「そう。汗を流したいの。シャワーだけじゃなくて、こう、たっぷりのお湯に浸かりたいなって」
私が身振り手振りで伝えると、ギデオンは真剣な顔で顎に手を当てた。
「ふむ……入浴か。確かに衛生環境の維持は重要だ。だが、この地下監獄には元々、囚人を水責めにするための水槽しかない」
「水責めは嫌よ。バスタブがいいわ」
ギデオンは眼鏡をキラリと光らせた。
「分かった。任せておけ。……ロイド!」
「はいはい、ここにいますよ」
後ろから、気だるげな副官ロイドさんが顔を出した。
「隊長、まさかとは思いますが」
「そのまさかだ。隣の『第壱拷問室』を空けろ。今からあそこを『リラクゼーション・スパ・ルーム』に改装する」
「……予算の請求書、隊長の実家に送りますからね」
◆
それから三時間後。
私は、生まれ変わった『第壱拷問室』の前に立っていた。
かつては棘付きの椅子や怪しげな滑車があったであろうその部屋は、今や王侯貴族のバスルームと化していた。
床には滑り止めのタイルが敷かれ、部屋の中央には、猫足のついた真っ白な陶器のバスタブが鎮座している。
湯気からは、甘いローズの香りが漂っていた。
「す、すごい……! 本気出しすぎじゃない?」
「当然だ。貴様の肌に触れる水だぞ。王都の湧き水を魔道具で濾過し、最適な温度(41度)に保ってある」
ギデオンは胸を張り、バスタブの縁にちょこんと置かれた黄色いアヒルのおもちゃを指差した。
「あと、寂しくないように『キャプテン・ダック』も配備しておいた」
「か、可愛い……!」
私は感動で震えた。
至れり尽くせりとはこのことだ。
「ありがとうギデオン! 早速入らせてもらうわ!」
「ああ。……私は、扉の外で見張りをしている」
「えっ、見張り?」
私が振り返ると、ギデオンは扉の前で仁王立ちになり、腕を組んでいた。
その表情は、これから決死の戦場に向かう兵士のように硬い。
「万が一、排水溝からスライム型の刺客が侵入しないとも限らない。それに、湯あたりして倒れる可能性もある。何かあったらすぐに駆けつけられるよう、ここで待機する」
「そ、そう? まあ、鍵はかけておくから大丈夫だと思うけど」
「(鍵……! そうか、彼女は裸になるのだから、鍵をかけるのは当然……! だが、もし中で彼女が滑って転んだら? 俺は扉を破って突入すべきか? その場合、俺の理性が爆発するのと彼女を助けるのと、どちらが優先される!?)」
ギデオンがブツブツと何か言っているが、私は「じゃあお願いねー」と手を振り、浴室へと入った。
もちろん、ポヨンも一緒だ。
ポヨンはスポンジ代わりになるし、お風呂が好きみたいだから。
◆
バタン。ガチャリ。
内側から鍵をかける音が響く。
廊下に残されたギデオンは、その音を聞いた瞬間、背筋に電流が走るのを感じた。
――中に入った。
壁一枚隔てた向こう側に、今、セラフィナがいる。
服を脱いでいる。
「……ッ、落ち着け俺。これは任務だ。警備任務だ」
ギデオンは深呼吸をしようとしたが、廊下にまで漂ってくるローズの香りに、余計に動悸が激しくなった。
「(想像するな。絶対にするな。
彼女が服を脱ぎ、あの白磁のような肌を露わにし、足先からお湯に浸かる姿など……!
髪をアップにしているのだろうか? それとも下ろしているのか?
うなじ……! 湯気に濡れたうなじ……!)」
ギデオンは壁に手をつき、頭を垂れた。
想像するなと言い聞かせるほど、脳内の高精細な映像が鮮明になっていく。
彼は「尋問官」としての観察眼と記憶力が良すぎるのだ。それが今、完全に仇となっていた。
チャポン……。
中から、お湯が溢れる音がした。
「はぁ~……生き返るぅ……」
くぐもった、とろけるようなセラフィナの声。
それは、ギデオンの鼓膜を震わせ、脳髄を直撃した。
「ぐふっ……!」
「隊長、大丈夫ですか。死にそうな顔してますよ」
少し離れた場所で待機していたロイドが、呆れ顔で声をかけてきた。
「ロイド……俺はもうダメかもしれん。聴覚が……聴覚が鋭敏になりすぎている」
「耳栓します?」
「馬鹿者! 彼女の助けを呼ぶ声が聞こえなくなったらどうする!」
その時だった。
中から、楽しげな鼻歌が聞こえてきた。
「ふふ~ん、ふふふ~ん♪ 敵の首~、切り落とせ~♪」
「……選曲が物騒ですね」
「帝国の軍歌だな。彼女が歌うと子守唄のように聞こえる(末期)」
チャプチャプ、と水音が続く。
ギデオンは扉に背を預け、腕組みをして目を閉じた。
この壁の向こうに、愛しい人がいる。
無防備に、リラックスして。
そう思うだけで、彼の心臓は早鐘を打ち、同時に奇妙な幸福感に満たされていた。
彼女が安心してこの場所にいてくれること。それが何よりの喜びだった。
――しかし。
その平穏は、唐突に破られた。
「きゃっ!?」
中から、セラフィナの短い悲鳴が上がった。
続いて、ドボン! バシャーン! という激しい水音。
「――ッ!!」
ギデオンの目がカッ、と見開かれた。
反射的に体が動く。
彼は扉の方へ向き直り、ドアノブに手をかけた。
「セラフィナ!? どうした!?」
転んだのか?
溺れたのか?
それとも本当に刺客か!?
「(開けるべきか!? 今開けたら、彼女は全裸だぞ!
だが、命には代えられない!
見たい! いや見たくない! いや見たい! 違う、助けたいんだ!!)」
ギデオンの脳内で、「騎士道精神」と「男の本能」と「法的倫理観」による三国志並みの大戦争が勃発した。
彼はガタガタとドアノブを揺らしながら、突入寸前の状態で叫んだ。
「返事をしろ! 無事か!?」
数秒の沈黙の後。
中から、ケホッケホッという咳き込む声と、恥ずかしそうな声が聞こえてきた。
「だ、大丈夫……! ちょっと滑って、沈んじゃっただけ……」
「……本当に、大丈夫か?」
「うん。ポヨンがクッションになってくれたから、頭は打ってないわ」
ギデオンは全身の力が抜け、その場に崩れ落ちそうになった。
「そ、そうか……よかった……」
「ごめんね、驚かせて」
「いや……無事ならいいんだ……」
ギデオンは額の脂汗を拭った。
寿命が十年縮まった気分だ。
ロイドが遠くで「隊長、通報されないうちに離れたほうがいいですよ」と言っているのが聞こえた。
◆
それから三十分後。
私はバスローブ(なぜか用意されていた最高級シルク製)を羽織り、ポヨンを抱えて浴室から出てきた。
体はポカポカ、お肌はツルツルだ。
「ふぅ、いいお湯だったー」
扉の外には、なぜかやつれた様子のギデオンが立っていた。
彼は私を見るなり、ハッとして直立不動の姿勢をとった。
「お、終わったか」
「うん。ありがとう、最高だったわ! アヒルさんも可愛かったし」
「そ、それは何よりだ……」
ギデオンの視線が、私の濡れた髪と、バスローブの襟元(きっちり閉めているが)を彷徨い、そして空へ逃げた。
顔が赤い。のぼせたのかな? 私が入っていたのにおかしいな。
「あ、そうだ。髪を乾かさなきゃ」
私は濡れた髪から滴る雫をタオルで拭った。
ドライヤーなんて便利な魔道具、ここにあるかしら。
「……私がやろう」
「え?」
ギデオンがおずおずと申し出た。
彼の手には、いつの間にか大きくてふわふわのタオルが握られている。
「湯冷めしては大変だ。……それに、貴様の手はまだスライムで塞がっているだろう」
「あ、確かに」
私はポヨンを抱えているため、両手がふさがっていた。
ポヨンも洗われてピカピカに輝いている。
「じゃあ、お願いしてもいい?」
「……失礼する」
私は廊下に用意された椅子(いつの間に?)に座った。
ギデオンが背後に立つ。
彼の大きな手が、タオル越しに私の頭を包み込んだ。
ワシャワシャ、ではなく。
ポン、ポン、と優しく押さえるような、とても丁寧な手つきだ。
「……力加減は、どうだ」
「うん、ちょうどいいわ。ギデオン、上手ね」
「妹がいたからな……(嘘だ。今朝ロイドの髪で練習した)」
ギデオンの手が、私の髪を梳くように動く。
時折、彼の指先が私の耳やうなじに触れる。その指先が熱くて、少しドキッとする。
(……なんか、これ)
(……なんか、これ)
私とギデオンの思考が、奇しくもシンクロした。
(新婚さんみたいじゃない?)
(新婚生活そのものではないか……!?)
お風呂上がりの妻の髪を乾かす夫。
そんなシチュエーション小説を読んだことがある。
まさか、敵国の尋問官相手にそれを実践することになるとは。
ローズの香りと、ギデオンの纏うシトラスの香り。
そして、お風呂上がりの火照った空気。
なんだか、すごく落ち着く。
「……ねえ、ギデオン」
「なんだ」
「私、ここに来てから、すごく肌の調子がいいの」
「……そうか。我が国の水が合ったなら良かった」
「違うわ。あなたが、ストレスのない生活をさせてくれているからよ」
私は少し振り返り、彼を見上げた。
眼鏡の奥の瞳と目が合う。
彼は驚いたように目を見開いていた。
「ありがとう。……私のこと、大切に扱ってくれて」
私が微笑むと、ギデオンの手がピタリと止まった。
彼はしばらく無言で私を見つめていたが、やがてタオルで私の顔ごと隠すようにバサッと覆った。
「むぐっ!?」
「……礼を言うのはまだ早い。これは、貴様を美しく保つための『管理』の一環だ」
声が震えている。
タオル越しでも分かるくらい、彼が動揺しているのが伝わってくる。
「(か、顔が見れない! 直視できない!
風呂上がりのノーメイクで、あの笑顔は反則だ!
『大切にしてくれてありがとう』だと!?
ああもう、一生大切にする! 誓う! 明日教会予約する!)」
彼はタオル越しに、私の頭を少し強めにワシャワシャと撫でた。
それは乱暴ではなく、どこか照れ隠しのような、愛おしむような感触だった。
「もう乾いた。……さあ、部屋に戻って水を飲め。脱水症状になるぞ」
「はーい。あ、ギデオンも顔赤いよ? 一緒に冷たいお水飲む?」
「……そうさせてもらう」
こうして、騒がしくも甘やかなバスタイム事件は幕を閉じた。
部屋に戻った後、ギデオンと一緒に飲んだ氷水は、どんな高級ワインよりも美味しかった。
そしてその夜。
ギデオンは自室のベッドで、私の髪を拭いたタオル(新品とすり替えて持ち帰ったもの)を抱きしめ、朝まで悶え苦しんだということを、私は知る由もなかった。
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一方その頃、ロイドの独り言。
「拷問室の改装費、バスタブ代、アヒルのおもちゃ代……。
これ、『極秘任務費』で落とすと経理に怒られるんだよなぁ……。
『捕虜洗浄費』? いや、無理があるだろ」




