第3話 鍵は飾り。深夜の厨房は私の城です
深夜二時。
草木も眠る丑三つ時、ガリア王城の地下深くに位置する『第零監獄』に、不穏な音が響き渡った。
――ぐぅぅぅぅぅ。
それは、地獄の番犬の唸り声でも、亡霊の怨嗟の声でもない。
私、セラフィナ・フォン・ヴァルハラの腹の虫の音である。
「……お腹、空いた」
私はキングサイズベッドの上で寝返りを打ち、天井を見上げた。
最高級の羽毛布団は温かいし、枕の高さも完璧だ。
けれど、いかに環境が快適でも、空腹という生理現象には抗えない。
夕食は豪勢だった。
特大ステーキに、パンプキンスープ、そしてデザートのフルーツ盛り合わせ。
確かに満腹になったはずなのだが、人間(というか私)の燃費とは恐ろしいもので、寝る前に少し運動(筋トレ)をしたせいか、すっかりエネルギーを消費してしまったらしい。
「寝付けない……。これじゃあ、明日の肌のツヤに関わるわ」
私はむくりと起き上がった。
サイドテーブルの魔石ランプに手をかざし、明かりを灯す。
オレンジ色の柔らかな光が、可愛らしいピンク色の壁紙を照らし出した。
(何か、食べるものはないかしら)
私は部屋(牢屋)の中を見渡した。
残念ながら、昨日のスイーツは完食してしまったし、夕食の残りもない。
あるのは、優雅な香りを漂わせる観賞用の花だけだ。さすがに花は食べられない。
「……仕方ない。調達しに行くか」
私はベッドから降り、備え付けのスリッパを履いた。
そして、重厚な鉄格子の扉の前に立つ。
ガチャリ。
取っ手を回すと、なんの手応えもなく扉が開いた。
鍵はかかっていない。
というか、初日から一度も鍵がかかっているところを見たことがない。
(不用心すぎるわ、ガリア軍)
私は呆れ半分、感心半分で溜息をついた。
これはきっと、あれだ。
『どうせ貴様には逃げる気力などないだろう』という、無言の圧力。
あるいは、『逃げたければ逃げてみろ、すぐに捕まえてやる』という、狩人のごとき自信の表れ。
「舐められたものね。でも、今の私に必要なのは自由ではなく、カロリーよ」
私は音もなく廊下に出た。
見張り台には誰もいない。おそらく、交代の時間か、あるいは私が大人しいので油断して仮眠でもとっているのだろう。
私は忍び足で石畳の廊下を進んだ。
目指すは、昼間に連行されてくる時に鼻が捉えた、微かな小麦粉とバターの香りがする方向――王城のメインキッチンだ。
◆
一方その頃。
特務部隊長の執務室では、ギデオン・アークライトが頭を抱えていた。
「……眠れん」
彼は目の下にうっすらとクマを作り、デスクに積まれた書類を睨みつけていた。
書類の内容は、すべて『第零監獄改装計画書』および『囚人セラフィナ・フォン・ヴァルハラへの差し入れリスト』である。
ギデオンは、ペンを回しながら独りごちた。
「今日の彼女は……可愛かったな」
脳裏に蘇るのは、今朝の尋問(朝食)タイムだ。
『眼鏡が似合う知的な人がタイプ』。
彼女のあの言葉が、リフレインして止まらない。
「あれは、俺のことだよな? いや、自惚れるな。世の中に眼鏡の男など五万といる。だが、あの時彼女は俺を見ていた。あの瞳は嘘をついていなかった……はずだ」
ギデオンは顔を覆った。
冷静沈着、冷酷無比と恐れられる氷の尋問官の姿は、そこには微塵もない。ただの恋する青年がいるだけだ。
「はぁ……様子を見に行くか」
居ても立っても居られず、彼は立ち上がった。
名目は夜間巡回。
実態は、寝顔を一目見て安心したいという、ギリギリ犯罪スレスレの純愛行動である。
彼は軍服の襟を正し、足音を忍ばせて地下へと向かった。
しかし。
彼が第零監獄に到着した時、そこで目にしたのは――。
もぬけの殻となった、特別独房だった。
「……は?」
ギデオンの思考が停止した。
半開きの鉄扉。
誰もいないベッド。
あるはずの主の姿がない。
「せ……セラフィナ……?」
血の気が引いていく。
脱走?
まさか。あんなに気に入っていた様子だったのに。
いや、彼女は敵国の将軍だ。これまでの態度は全て演技で、油断した隙を突いて逃げ出したのか?
「くそっ……! 俺はなんて愚かなんだ!」
ギデオンは唇を噛み締めた。
鍵をかけなかったのは、彼女を閉じ込めることに抵抗があったからだ。
彼女の自由を尊重したかった。
だが、その甘さが仇となったのか。
「行かせない……! 貴様を逃がしてなるものか!」
ギデオンは弾かれたように走り出した。
城の出口か? 裏口か?
いや、彼女は賢い。裏をかいて、まだ城内に潜伏している可能性もある。
彼は必死の形相で廊下を駆けた。
そして、ふと鼻を動かした。
「……なんだ、この匂いは?」
甘い香り。
焦がしバターと、バニラエッセンスの芳醇な香り。
それは、緊迫した脱走劇には似つかわしくない、あまりにも平和で幸せな匂いだった。
ギデオンはその香りに導かれるように、王城の大厨房へと足を向けた。
◆
厨房の扉を少し開けると、そこは天国だった。
広大なキッチンには、最新式の魔導コンロやオーブンが並び、棚には世界中から取り寄せたスパイスや調味料がずらりと揃っている。
「すごい! さすが敵国の中枢、食材の宝庫ね!」
私は腕まくりをして、勝手知ったる様子で調理台に向かった。
誰の許可も得ていないが、細かいことは気にしない。後で「食料の検分を行っていた」とでも言えばいいだろう。
ボウルに小麦粉、砂糖、たっぷりのバター。
卵を割って、手際よく混ぜ合わせる。
私は戦士だが、料理の腕もそこそこだと自負している。野営地での食事作りは、兵士の士気を保つ重要な任務だからだ。
「よし、いい感じ」
生地をスプーンですくい、天板に並べていく。
オーブンに入れ、待つこと数分。
香ばしい匂いが厨房いっぱいに広がり始めた。
「ん~、いい匂い。やっぱり夜中のクッキー作りは背徳の味がするわね」
チーン。
軽快な音が鳴り、私はミトンをはめて天板を取り出した。
そこには、こんがりと黄金色に焼き上がったドロップクッキーが並んでいる。
「完成! 名付けて『真夜中の脱獄クッキー』!」
私が焼きたての一枚を摘み上げ、口に運ぼうとした、その時だった。
バンッ!!
厨房の扉が勢いよく開け放たれた。
「動くな!!」
怒号と共に飛び込んできたのは、肩で息をするギデオンだった。
髪は少し乱れ、眼鏡がずれている。
普段の冷静な彼からは想像もつかないほど、必死な形相だ。
「あ、ギデオン。こんばんは」
私はクッキーを持ったまま、のんきに手を振った。
「貴様……! 何をしている!」
「何って、見れば分かるでしょ? お夜食作りよ」
「よ、夜食……?」
ギデオンはその場にへたり込みそうになるのを堪え、呆然と私を見た。
そして、私の姿を見て、急に顔を真っ赤にして口元を覆った。
「な……なんだその格好は……!」
あ、そういえば。
私はパジャマの上に、厨房にあった「新妻風フリルエプロン」を拝借していたんだった。
服が汚れると悪いからね。
「エプロンよ。可愛いでしょ?」
「ッ……!!(か、可愛いとかいうレベルではない! パジャマにエプロン! それは男の夢! 理想! 神話の光景!)」
ギデオンは壁に手をついて、なんとか立っているようだった。
どうしたんだろう。貧血かな?
「そ、それで……貴様、逃げようとしたわけではないのか?」
「逃げる? どうして?」
私は首を傾げた。
「ここは快適だし、ご飯は美味しいし。逃げる理由がないわ。ただ、ちょっとお腹が空いて、ルームサービスも頼めない時間だったから、セルフサービスしに来ただけよ」
「そ、そうか……(よかった……本当によかった……)」
ギデオンは深いため息をつき、眼鏡を外して目元を拭った。
その表情があまりにも安堵に満ちていて、私は少しドキッとした。
(……変な人。私が逃げたら、そんなに困るの? 責任問題になるからかしら)
まあいい。
せっかく見つかったのだから、共犯者になってもらおう。
「ねえ、ギデオン。ちょうど良かったわ。毒見役をお願いできる?」
「毒見……?」
「ええ。敵国の厨房で作ったものだから、何か罠が仕掛けられているかもしれないでしょ? だから、あなたが先に食べて安全を確認して」
もちろん嘘だ。
私が作ったのだから安全に決まっている。
ただ、一人で食べるのも味気ないし、彼にもお裾分けしてあげようという、私なりの優しさである。
私は焼きたてのクッキーを一枚手に取り、ギデオンの口元に差し出した。
「はい、あーん」
「!?」
ギデオンが彫像のように固まった。
時は止まったかのように静寂が流れる。
ただ、オーブンの余熱と、甘い香りだけが漂っている。
「……あ、あーん?」
「そうよ。手が汚れてるでしょうから」
ほら早く、とクッキーを近づける。
ギデオンの視線が、クッキーと私の顔を高速で行き来する。
彼の喉仏がごくりと動いた。
(――これは夢か?
憧れのセラフィナが。
エプロン姿で。
手作りクッキーを。
あーん、してくれている!?
死ぬ。俺は今日ここで死んで、伝説になるんだ)
ギデオンの脳内では、ファンファーレが鳴り響き、天使たちがラッパを吹いていた。
彼は震える唇をゆっくりと開き、差し出されたクッキーへと近づいていく。
パクッ。
彼がクッキーを齧った。
私の指先に、彼の唇が少しだけ触れる。
「……どう? お味は?」
私が覗き込むと、ギデオンは目を閉じ、噛み締めるように、祈るように咀嚼した。
「……美味い」
「本当? よかった!」
「世界で一番……美味い……」
ギデオンの声は震えていた。
そこまで感動してもらえるとは、作った甲斐があるというものだ。
「ふふ、大袈裟ね。でも、合格点を貰えて嬉しいわ」
私は自分もクッキーを一枚口に放り込んだ。
サクサクとした食感と、バターの風味。うん、完璧な焼き加減だ。
「隊長ー、どこ行ったんですかー?」
その時、気だるげな声と共に、副官のロイドが厨房に入ってきた。
彼は眠そうに目を擦っていたが、厨房の光景を見て、ピタリと動きを止めた。
エプロン姿でクッキーを食べる私。
その前で、顔を真っ赤にして放心状態になっているギデオン。
そして、甘い匂い。
「……あの、状況を説明してもらっていいですか? 見たところ、深夜の新婚クッキングにしか見えないんですが」
「ロイド……」
ギデオンが、夢見心地のまま呟いた。
「俺は……決めたぞ」
「はい? 何をです?」
「この厨房を、彼女専用に改装する。今すぐだ」
「寝言は寝てから言ってください。あと、その口元のクッキー屑、拭いてください」
ロイドは大きなため息をつき、私に向き直った。
「セラフィナさんも。勝手に出歩かないでくださいよ。隊長が『脱走だ!』ってパニックになって、城中の警備兵叩き起こしたんですから」
「えっ、そんなに!?」
私は驚いてギデオンを見た。
彼はバツが悪そうに視線を逸らした。
「……万が一のことがあってはならんからな」
「心配性ねぇ。言ったでしょ? ここは快適だから逃げないって」
私は残りのクッキーをバスケットに詰め込み、彼に微笑みかけた。
「それに、こんなに美味しいクッキーを一緒に食べてくれる人がいるなら、もう少しここに居候してあげてもいいかなって思ったし」
ギデオンがビクッと反応し、耳まで真っ赤に染まった。
彼は眼鏡を中指で押し上げ、早口で言った。
「そ、そうか。……ならば、貴様の気が変わらないうちに、部屋へ戻れ。夜更かしは美容に悪いぞ」
「はいはい、看守さん」
私はバスケットを抱え、軽やかな足取りで厨房を後にした。
帰り際、ロイドが小声でギデオンに話しかけているのが聞こえた。
「隊長、ニヤけすぎです。気持ち悪いです」
「うるさいロイド。今日の俺は無敵だ。今ならドラゴンでも素手で倒せる気がする」
「はいはい、じゃあその元気で始末書書いてくださいね」
◆
部屋に戻った私は、ベッドサイドにクッキーのバスケットを置き、再び布団に潜り込んだ。
お腹も満たされ、心地よい眠気が襲ってくる。
ふと、ギデオンの顔を思い出した。
クッキーを食べた時の、あの幸せそうな顔。
普段はあんなに冷徹ぶっているのに、意外と可愛いところがあるじゃない。
「……ふふ。変な看守さん」
私は小さく笑い、目を閉じた。
明日はどんな「拷問」が待っているのだろう。
パンケーキかな? それとも街の散策?
敵国の地下牢なのに、明日が来るのが楽しみだなんて。
私ってば、どうかしてるのかもしれない。
そんなことを考えながら、私は深い眠りへと落ちていった。
扉の鍵は、もちろん開いたままで。




