第20話 ここが私の生きる場所。甘やかな「終身刑」は、まだ始まったばかり
第零監獄に、穏やかな朝が訪れた。
拡張された2LDKのリビングには、今日も美味しそうな朝食の香りが漂っている。
ただし、今日の食卓はいつもより少しだけ、厳かな空気に包まれていた。
「……うむ。美味い」
テーブルの上座に陣取った私の父、ゼノ・フォン・ヴァルハラ将軍が、重々しく頷いた。
彼の手にあるのは、ギデオンが早起きして焼いたクロックムッシュと、具沢山のミネストローネだ。
「チーズの溶け具合、ハムの塩気、そしてパンの香ばしさ…。
完璧だ。帝国の宮廷料理人でも、ここまでの味は出せまい」
「過分なお褒めの言葉、恐悦至極に存じます」
ギデオンがエプロン姿のまま、騎士のように片膝をついて頭を下げた。
その顔は真剣そのものだが、内心ではガッツポーズをしているのが分かる。
『よし! 義父上の胃袋は完全に制圧した! 勝った!』という声が聞こえてきそうだ。
私は苦笑しながら、コーヒーを父上の前に置いた。
「父上、そろそろ出発の時間ですね」
「……うむ」
父上はカップを手に取り、少し寂しそうに湯気を見つめた。
そう、今日は父上が帝国へ帰還する日なのだ。
当初は「監視する」と言って居座る気満々だった父上だが、本国から「将軍が敵地で行方不明になった」と大騒ぎになっているとの連絡が入り(ロイドさんが手配した)、泣く泣く帰ることを決意したのである。
「名残惜しいのぉ……。
このふかふかのソファも、スライムのマッサージも、何よりこの食事が……」
父上はチラリとギデオンを見た。
「おい、若造」
「はっ! 何でしょうか!」
「貴様、帝国に亡命する気はないか? ワシの専属シェフとして雇ってやるぞ」
爆弾発言だ。
ギデオンは目を丸くしたが、すぐにキリッとした顔で首を横に振った。
「ありがたいお話ですが、お断りします。
私の忠誠は、ガリア王国と……そして何より、セラフィナただ一人に捧げておりますので」
真っ直ぐな言葉。
父上はそれを聞いて、フンと鼻を鳴らした。でも、その口元は少し緩んでいた。
「……そうか。ならば仕方あるまい」
父上は立ち上がり、マントを翻した。
その瞬間、彼から放たれる空気が、「美食を楽しむ老人」から「帝国最強の将軍」へと変わった。
「セラフィナ」
「はい、父上」
私も背筋を伸ばし、父上に向き合った。
「貴様の意志は、固いようだな」
「はい。私はここに残ります。
敵国の捕虜として……いいえ、一人の女性として、自分の幸せをここで見つけたいのです」
父上は私をじっと見つめた。
その瞳には、厳しさと、それ以上の深い愛情が宿っていた。
「……分かった。許そう」
父上は大きな掌を、私の頭にポンと置いた。
「ただし、勘違いするなよ。
ワシは貴様を見捨てたわけではない。
ここは『最前線』だ。
貴様は、『両国の架け橋』という極めて重要な任務を帯びて、この地に駐留するのだ。……そうだな?」
父上なりの、精一杯の譲歩と、私を守るための建前だった。
「愛の逃避行」ではなく「公的な任務」ということにすれば、私が帝国で裏切り者扱いされることはない。
不器用な父上の優しさに、私は胸が熱くなった。
「はいっ! 任務、了解いたしました!」
「うむ。……それと、ギデオン」
父上はギデオンに向き直り、その肩を骨が軋むほどの力で掴んだ。
「貴様に娘を預ける。
だが、忘れるなよ?
もし娘を泣かせたり、粗末な扱いをしたりすれば……ワシはいつでも戻ってくるぞ」
父上の目が怪しく光った。
「その時は、帝国全軍を率いて、この地下牢を更地にしてくれるわ!
分かったな!!」
「はっ!! 肝に銘じます!!
彼女が涙を流すのは、嬉し泣きか、あくびをした時だけにさせます!!」
ギデオンが大声で誓うと、父上は満足げに頷いた。
「よし。……あ、あと、ロイドと言ったか」
「はい、ここに」
荷物持ちをさせられていたロイドさんが顔を出した。
「毎月、このパンケーキの粉とメイプルシロップを帝国へ送れ。これは命令だ」
「……はいはい。送料着払いで送りますね」
こうして、嵐のような父上の滞在は幕を閉じた。
私たちは裏口まで父上を見送り、固い握手を交わして別れた。
去り際、父上は何度も振り返り、「ポヨンによろしくな!」「マドレーヌも忘れるなよ!」と叫んでいた。
……威厳があるのかないのか、よく分からない父上だった。
◆
父上が去った後、第零監獄には再び静寂が戻ってきた。
けれど、それは以前のような寂しい静けさではない。
「……行ったな」
「ええ、行ったわね」
私たちはガランとしたリビング(父上の荷物がなくなった分、少し広く感じる)のソファに、二人並んで座り込んだ。
どっと疲れが出たけれど、心地よい疲労感だ。
ギデオンが眼鏡を外し、天井を仰いだ。
「寿命が十年縮まった気分だ……。
だが、認められた。……俺たちは、認められたんだな」
彼は噛み締めるように呟いた。
その横顔を見て、私はふふっと笑った。
「そうね。これで晴れて、公認の仲よ」
「ああ。……長かった」
ギデオンは私の方を向き、そっと手を握ってきた。
「セラフィナ。改めて言わせてくれ。
……戻ってきてくれて、ありがとう」
彼の瞳が、宝石のように煌めいている。
私は彼の手を両手で包み込んだ。
「こちらこそ。私を受け入れてくれて、ありがとう。
……それに、戻ってきた理由はそれだけじゃないもの」
「ん? 他に何かあるのか?」
私はニヤリと笑った。
「だって、ギデオン。
あの『請求書』の支払い、まだ終わってないでしょう?」
私はポケットから、あの大切な羊皮紙を取り出した。
『一、風邪を引かないこと』『二、美味しいものを食べること』『三、幸せになること』。
「これ、全部満たすには、一生かかるわよ?
だから私、一生ここから出て行かないからね」
ギデオンは目を見開き、それから顔をくしゃくしゃにして笑った。
涙ぐみながら、でも最高に幸せそうな顔で。
「望むところだ。
……貴様には、『無期懲役』を言い渡したはずだからな。
覚悟しておけ。死ぬまで……いや、死んでも離さない」
彼は私を引き寄せ、優しく抱きしめた。
シトラスの香りと、彼の体温。
ここが、私の居場所。
世界で一番安全で、甘やかで、快適な監獄。
「……ねえ、ギデオン」
「なんだ」
「キス、してもいい?」
私が上目遣いで尋ねると、ギデオンは顔を真っ赤にして、慌てて周囲を見回した。
ポヨンはベッドで昼寝中。
ロイドさんは片付けのために席を外している。
父上のいびきもない。
障害物は、何もない。
「……許可する。いや、命令だ。しろ」
彼は震える声で言い、目を閉じた。
私は背伸びをして、彼の唇にそっと自分の唇を重ねた。
触れるだけの、甘いキス。
でも、そこには言葉以上の想いが詰まっていた。
唇を離すと、ギデオンは茹でダコのように赤くなっていて、眼鏡が完全に曇っていた。
「……ッ(神よ、感謝します……!)」
「ふふ、可愛い」
私たちは笑い合った。
幸せだ。本当に、心の底から。
◆
それから数日後。
第零監獄での生活は、新たなフェーズに入ろうとしていた。
「ねえ、ギデオン」
「なんだ、セラフィナ。欲しいものがあるなら言ってみろ。月でも星でも買ってやる」
ギデオンは、リビングに新しく届いたカタログを広げながら言った。
彼は完全に「彼氏」モードに入っている。
私はソファでポヨンを膝に乗せながら、天井を指差した。
「家具も揃ったし、ご飯も美味しいし、最高の生活なんだけど……。
一つだけ、足りないものがあるの」
「足りないもの? なんだ?
まさか、やはり外の空気が吸いたいとか……」
ギデオンが不安げな顔をする。
私は首を横に振った。
「ううん。違うの。
……お風呂よ」
「風呂? 猫足バスタブがあるだろう?」
「あれも素敵だけど、もっとこう……広いお風呂に入りたいの。
足を伸ばして、肩まで浸かって……できれば、あなたと一緒に」
「ブフッ!!」
ギデオンが飲んでいた紅茶を吹き出した。
「い、い、一緒にか!? こ、混浴!?」
「ええ。だって、二人で入った方が楽しいじゃない?
それに、父上が来た時も、ポヨンに乗って『温泉に入った猿みたい』って言ってたでしょう?
だから私、思ったの。
この地下牢に、『温泉』があったら最高だなって」
ギデオンは口元を拭いながら、真剣に考え込んだ。
「温泉、か……。
確かに、この城の地下深くには水脈があると聞いたことがある。
もしそこまで掘り進めれば、あるいは……」
彼の目が、怪しく光った。
それは、尋問官の目ではなく、獲物を見つけた狩人の目、いや、愛する女性のために無茶をする男の目だ。
「よし、やろう」
「えっ、本当に?」
「貴様が望むなら、地底だろうと掘り進めてやる。
それに……混浴というのは、その……魅力的だ(鼻血)」
ギデオンは立ち上がり、壁の隅に立てかけてあったツルハシ(前回の工事で使ったもの)を手に取った。
「ロイド! ロイドはおるか!」
「はいはい、なんですか。今度は何を買うんです?」
ロイドさんが気だるげに現れる。
ギデオンは高らかに宣言した。
「買い物ではない。工事だ!
これより、『第零監獄・地下温泉掘削計画』を始動する!」
「はぁ!? ここ、王城の地下ですよ!? 地盤沈下したらどうするんですか!」
「知らん! セラフィナが広い風呂に入りたいと言ったんだ!
掘るぞ! マグマが出るまで掘ってやる!」
ギデオンの暴走は止まらない。
私はワクワクしながら、ポヨンを抱き上げた。
「ポヨンも手伝ってくれる?」
「ぷきゅー!」
どうやら、私たちの「甘やかな監禁生活」は、まだまだ落ち着きそうにない。
地上では和平条約が結ばれ、世界は動き出しているけれど。
ここ、地下の楽園では、私たちだけの時間が流れている。
私はツルハシを構えたギデオンの背中を見つめ、心の中で呟いた。
(ありがとう、神様。
私を落とし穴に落としてくれて。
おかげで、こんなに素敵な「終身刑」に出会えました)
「よし、セラフィナ! 掘るぞ!」
「ええ、ギデオン!」
私たちは笑顔でツルハシを振り下ろした。
カィィィン! という快活な音が、地下牢に響き渡る。
それは、私たちの新しい冒険(第2章)の始まりを告げる音だった。
【第1章 完】
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
★~★★★★★の段階で評価していただけると、モチベーション爆上がりです!
リアクションや感想もお待ちしております!
ぜひよろしくお願いいたします!




