第19話 停電した地下牢で、私たちは唇の距離まで近づいて...
拡張工事によって2LDKとなった「第零監獄」での共同生活は、順調に、そして賑やかに過ぎていた。
リビングには父上が陣取り、キッチンからは私の作る夕食の匂いが漂い、寝室ではギデオンがシーツの皺一つ許さない完璧なベッドメイクをしている。
傍から見れば、少し変わった家族の団欒風景そのものだ。
けれど。
この「家族ごっこ」には、一つだけ致命的な欠点があった。
「……セラフィナ、皿洗いは俺がやる。貴様は座っていろ」
「いいのよ、ギデオン。二人でやった方が早いでしょ?」
「だが、貴様の手が荒れる。俺の手などタワシ代わりでいいが、貴様の手は国宝だ」
夕食後のキッチン。
私たちは並んで洗い物をしていた。
ギデオンの横顔は穏やかだが、その眉間には僅かな皺が刻まれている。
そう、欠点とは――「二人きりの時間」が圧倒的に足りないことだ。
リビングからは、父上の豪快ないびきが聞こえてくる。
父上はポヨンを抱き枕にして、すでに夢の中だ。
このいびきが壁を震わせている限り、甘い雰囲気など生まれようがない。
「……はぁ」
ギデオンが小さく溜息をついた。
「どうしたの? 疲れた?」
「いや……。ただ、贅沢な悩みだとは思うが」
彼は水を止め、タオルで丁寧に私の手を拭いてくれた。
その指先が、私の掌を愛おしむように撫でる。
「貴様が近くにいるのに、遠く感じる時がある。
義父上の手前、あまりベタベタするわけにもいかんしな(本当は一日中抱きしめていたいが)」
彼の本音が、括弧付きで聞こえてきそうだ。
私も少し頬を赤らめる。
「そうね。……でも、私はギデオンとこうしているだけで幸せよ?」
「セラフィナ……」
ギデオンが感動に潤んだ瞳で私を見つめた、その時だった。
フッ。
唐突に、視界が奪われた。
キッチンの照明も、リビングの明かりも、廊下の魔石ランプも、一斉に消失したのだ。
「――ッ!?」
完全なる闇。
地下牢には窓がない。光源が消えれば、そこは真の闇に閉ざされる。
「停電……!? いや、魔力切れか?」
暗闇の中で、ギデオンの鋭い声が響いた。
「増築工事で魔導回路を繋ぎすぎたせいで、ブレーカーが落ちたのかもしれん。ロイドのやつ、容量計算をミスったか……!」
「ギデオン、どこ? 何も見えないわ」
私は闇の中を手探りで泳いだ。
戦場での夜目には自信があるけれど、この完全な暗闇では勝手が違う。
不安が胸をよぎった瞬間、温かい手が私の手首を掴んだ。
「ここだ。動くな」
すぐ耳元で、彼の声がした。
低い、落ち着いた声。でも、吐息がかかるほどの近さだ。
「大丈夫か? 怖くはないか?」
「う、うん。あなたが近くにいるなら、平気」
強がりではなく、本心だった。
彼の手の温もりが伝わってくるだけで、心臓の鼓動が少し落ち着く。
……いや、逆に早くなっているかもしれない。別の意味で。
「ロイドがすぐに復旧させるはずだ。それまで、じっとしていよう」
「そうね。……父上、起きないかしら」
耳を澄ますと、リビングの方から変わらず「ズゴーッ……」といういびきが聞こえてきた。
さすが将軍。肝が据わっているというか、ただ寝汚いというか。
この闇の中でも、彼の睡眠は妨げられていないようだ。
そのいびきが、妙に遠く聞こえる。
キッチンという狭い空間。
閉ざされた闇。
世界には今、私とギデオンの二人しかいないような錯覚に陥る。
「……セラフィナ」
ギデオンが私を引き寄せた。
ドン、と彼の胸に背中が当たる。
彼は私を背後から守るように抱きしめたのだ。
「ギ、ギデオン?」
「足元が危ない。……こうしていれば、転ぶこともないだろう」
苦しい言い訳だ。
でも、彼の腕の力は強くて、それでいて私が痛くないように優しく調整されていた。
背中に伝わる彼の鼓動が、トクトクと早く打っているのが分かる。
(……この人、緊張してる)
そう思ったら、なんだか愛おしさがこみ上げてきた。
普段は冷徹な「氷の尋問官」を演じているくせに、中身はこんなにも純情で、熱い。
私は彼の腕に手を重ねた。
「ねえ、ギデオン」
「なんだ」
「心臓の音、うるさいわよ」
「……ッ、貴様のせいだ」
彼が私の肩に顔を埋めた。
熱い吐息が首筋にかかり、ぞくりと背筋が震える。
「暗闇というのは……毒だな」
「毒?」
「ああ。視覚が奪われると、他の感覚が鋭敏になる。
貴様の体温、髪の香り、息遣い……。
全てがダイレクトに脳に響いて、理性が削られていく」
ギデオンの声は、切羽詰まったように掠れていた。
「俺は……聖人君子ではない。
ただの男だ。
こんな状況で、愛する女と密着していて……何も感じないわけがない」
彼の腕に力が入る。
抱きしめられる強さが増す。
それは痛いほどではなく、私がどこにも行かないように確かめるような、必死な強さだった。
「……いいよ」
私は小さく呟いた。
「え?」
「聖人君子じゃなくていいわ。
だって、私たちは『終身刑』のパートナーなんでしょ?
……夫婦みたいなもの、なんでしょ?」
私は彼の腕の中で、くるりと身体を反転させた。
暗闇の中で、彼と向かい合う。
顔は見えないけれど、気配で分かる。
彼の顔が、すぐ目の前にある。
「セラフィナ……」
彼の手が、私の頬に触れた。
震える指先が、輪郭をなぞり、唇に触れる。
「……キスしても、いいか?」
問いかけは、あまりにも紳士的で、そして切実だった。
断る理由なんて、どこにもない。
「……許可なんて、いらないわよ」
「いや、いる。貴様は俺の『囚人』だが、心までは縛りたくない。
貴様が望んでくれない限り、俺は……」
面倒くさい人。
でも、そんな彼だからこそ、私は好きになったのだ。
私は背伸びをして、暗闇の中で彼の手を探り、自分の腰に回させた。
「望んでるわ。……私を、あなただけのものにして」
その言葉が合図だった。
ギデオンの呼吸が止まったのが分かった。
次の瞬間、彼の手が私の後頭部を優しく、けれど力強く引き寄せた。
顔が近づく。
鼻先が触れ合う距離。
互いの熱い吐息が混じり合う。
(ああ、ギデオン……)
私は目を閉じた。
どうせ何も見えないけれど、この瞬間の全てを肌で感じたかった。
彼の唇が、ゆっくりと近づいてくる。
あと数センチ。
あと数ミリ。
世界が静止する。
父上のいびきさえ、遠い彼方のBGMのように消えていく。
そして。
ついに、私たちの唇が重なる――その刹那。
**ムニュッ。**
冷たくて、湿った、弾力のある物体が、私たちの顔の間に割り込んだ。
「……ん?」
「……!?」
唇に触れたのは、愛する人の熱い唇ではなく、冷蔵庫で冷やしたゼリーのような感触だった。
「ぷきゅー!」
元気な鳴き声が、二人の顔の間から響いた。
そして、その直後。
パッ!
リビングとキッチンの照明が一斉に点灯した。
眩しい光が、私たちを照らし出す。
「うおっ、眩しっ!?」
「きゃっ!」
私たちは反射的に離れた。
目が慣れると、そこには衝撃的な光景が広がっていた。
私とギデオンの間、ちょうど顔の高さの位置に、スライムのポヨンが浮いていたのだ。
いや、浮いているのではない。
ギデオンの肩から私の肩へ、橋を架けるようにビヨーンと伸びていたのだ。
「ポ、ポヨン……?」
「き、貴様ぁぁぁ……!!」
ギデオンが、顔を真っ赤にして(今度は羞恥と怒りで)叫んだ。
「いいところだったのに! あと少し! あとコンマ数秒で、俺は天国へ行けたのに!!
なぜ邪魔をする! この空気の読めないスライムめ!!」
「ぷるるっ! ぷいっ!」
ポヨンは悪びれもせず、ギデオンの顔にへばりついた。
どうやら、暗闇で私たちがくっついているのを察知して、「自分も混ぜて!」と飛び込んできたらしい。
父上の抱き枕から脱出してまで。なんて嫉妬深いペットなの。
「隊長ー、直りましたよー」
廊下から、ロイドさんが工具箱を持って入ってきた。
彼はキッチンの惨状――顔を真っ赤にして息を荒らげるギデオンと、唇を押さえて呆然とする私、そして勝ち誇った顔(?)のポヨンを見て、全てを察したようだ。
「……あーあ。タイミング悪かったですね」
「ロイドォォ!! 貴様、なぜあと10秒遅く修理しなかった!!」
「理不尽なこと言わないでくださいよ。早く直さないと、冷蔵庫のプリンが腐ると思ったんで」
ロイドさんはやれやれと肩をすくめた。
ギデオンはその場に膝をつき、頭を抱えて悶絶した。
「俺の……俺のファーストキス(未遂)が……。
スライムの感触で上書きされた……」
その姿があまりにも悲痛で、でもおかしくて。
私は思わず吹き出してしまった。
「ふふっ、あははは!」
「セ、セラフィナ! 笑い事ではないぞ!」
「だって、ギデオンったら……顔、すごいことになってるわよ」
私は屈み込み、彼の顔についたポヨンの粘液(無害で美容に良い)を指で拭った。
「残念だったわね。……でも」
私は彼の耳元に口を寄せ、誰にも聞こえないように囁いた。
「続きは、また今度。
……父上が帰って、ポヨンが寝てる時にね」
ボッ!
ギデオンの顔から、音が出るほど湯気が上がった。
彼は眼鏡をずり上げ、震える声で答えた。
「……了解した。
その時は、誰にも、何にも、邪魔はさせん。
……覚悟しておけ」
その瞳の熱さに、今度は私の方が赤くなる番だった。
リビングでは、照明が戻ったことにも気づかず、父上が「ムニャ……孫の顔が見たいのぉ……」と寝言を言っている。
孫? まだ早いわよ父上。
こうして、第零監獄の夜は更けていく。
キスはお預けになったけれど、私たちの距離は、唇が触れ合うよりもずっと近く、深く結ばれた気がした。
……次は絶対に、ポヨンをケージに入れておこうと心に誓いながら。




