第16話 「無期懲役」という名のプロポーズを受け、私たちは石の床で愛を語る
私が「第零監獄」に帰還してから、数時間が経過した。
石造りの地下牢は、ひんやりと冷たい。
かつてここを彩っていた、ふかふかのムートンラグも、天蓋付きのキングサイズベッドも、人をダメにするソファもない。
あるのは、私が描き残した「南国のビーチ」の壁画と、天井の魔法の太陽だけ。
あとは、がらんどうの空間だ。
けれど。
「……んーっ、美味しい!」
私は石の床に直に座り、焼きたてのパンケーキを頬張っていた。
ギデオンが急いで厨房に走らせ、作らせてくれた特製のパンケーキだ。
たっぷりのメイプルシロップとバターが、疲れた体に染み渡る。
「よく食うな。あれだけの逃走劇を演じた後だ、無理もないが」
私の隣には、ギデオンが座っていた。
彼もまた、冷たい石床に直座りだ。
王城の特務部隊長である彼が、こんな薄汚い場所に、しかも地べたに座っているなんて、部下が見たら卒倒するかもしれない。
でも、彼は気にする素振りもない。
それどころか、私がパンケーキを食べる様子を、まるで世界で一番美しい絵画でも鑑賞するかのように、愛おしげに見つめている。
「……おかわりはあるか?」
「うん、まだ大丈夫。ギデオンも食べる?」
「いや、俺は胸がいっぱいで(尊すぎて)入らん」
彼は眼鏡の位置を直し、ふぅ、と息を吐いた。
その横顔は、憑き物が落ちたように穏やかだった。
「さて、セラフィナ」
私が最後の一口を飲み込むと、ギデオンが姿勢を正した。
空気が少しだけ引き締まる。
「貴様は一度解放された身でありながら、自らの意思で敵地へ戻ってきた。
しかも、軍馬を奪取し、国境を強行突破するという荒技を使ってな」
「ええ。父上、すごく怒ってたわ」
私は口元のシロップを拭いながら頷いた。
たぶん、今頃父上は激怒して、血管が何本か切れているかもしれない。親不孝な娘でごめんなさい。でも後悔はしていない。
「通常であれば、脱走兵あるいはスパイとして処刑されても文句は言えない立場だ」
「そうね。覚悟はできているわ」
私は真っ直ぐに彼を見つめた。
ギデオンは真剣な眼差しで私を受け止め、コホンと咳払いをした。
「よって、特務部隊長ギデオン・アークライトの名において、被告セラフィナ・フォン・ヴァルハラに判決を言い渡す」
彼は立ち上がり、私の前に立った。
その姿は、初めて会った時の「氷の尋問官」のように威厳に満ちていたけれど、眼鏡の奥の瞳だけは、熱く揺れていた。
「被告セラフィナを……『無期懲役』に処す」
「……無期懲役?」
私が聞き返すと、彼は耳まで赤くしながら、早口で続けた。
「そうだ。期間は……命ある限り、だ。
刑の内容は、俺の監視下において、この第零監獄で暮らすこと。
逃亡は許さない。俺の目の届かない場所へ行くことも禁ずる。
一生、俺の側で……俺に甘やかされ続ける刑だ」
それは、実質的なプロポーズだった。
「結婚してください」とか「愛しています」という言葉よりも、ずっと彼らしくて、ずっと重たくて、ずっと嬉しい言葉。
私は立ち上がり、彼に向かって敬礼をした。
「判決、しかと受け止めました。
異議はありません、看守長殿」
「……うむ」
ギデオンは満足げに頷いたが、すぐに耐えきれなくなったように顔を覆った。
「(くっ……! 言った……言ってしまった……!
一生俺の側にいろなんて、なんて独占欲の塊みたいな台詞だ!
でも彼女は『異議なし』と言った! つまり合意だ!
これはもう、事実上の婚約成立と見なしていいのか!? 教会へ行くか!?)」
彼の内心の絶叫が聞こえてきそうだった。
私はクスクスと笑い、彼の手を取った。
「よろしくね、ギデオン。
これからは『囚人』じゃなくて、『終身刑囚』として、あなたに尽くしてもらうわよ?」
「ああ。望むところだ。……国が滅びるまで尽くしてやる」
私たちは、何もない空っぽの牢屋で、固く手を握り合った。
家具も何もないけれど、心の中はこれ以上ないほど満たされていた。
◆
しかし。
感動的な誓いを立てたとしても、現実は待ってくれない。
グゥゥゥゥ……。
私の腹の虫が鳴いたのではない。
現実的な問題として、生活環境の欠如が襲いかかってきたのだ。
ガチャリ。
タイミングよく、副官のロイドさんが入ってきた。
その手には羊皮紙の束と、疲れ切った顔がある。
「隊長、感動のフィナーレ中すみませんが、現実を見てください」
「なんだロイド。俺は今、人生の絶頂期にいるんだ。水を差すな」
「絶頂期でも夜は来ますよ。……この部屋、どうするんですか?」
ロイドさんはがらんどうの部屋を指差した。
「家具一式、全部帝国へ送っちゃいましたよね?
今夜、どこで寝るんですか?
まさか、その冷たい石床で、セラフィナ様を雑魚寝させる気ですか?」
「ッ……!!」
ギデオンが雷に打たれたような顔をした。
「そ、そうだった……!
あまりの嬉しさに忘れていた!
ベッドがない! ソファがない! カーペットすらない!
これでは、彼女が風邪を引いてしまう! 腰を痛めてしまう!」
ギデオンは頭を抱えて走り回った。
「ロイド! 今すぐ家具屋を呼べ! 最高級のベッドを持ってこさせろ!」
「無理ですよ。もう夕方です。王都の店は閉まってます」
「なら叩き起こせ! 金ならいくらでも積む!」
「非常識なこと言わないでください。それに、搬入の手配もしなきゃいけないし、最短でも明日の昼になりますね」
ロイドさんの冷静な宣告に、ギデオンは絶望したように膝をついた。
「そ、そんな……。
私の不手際で、初日から彼女に『本当の監獄生活』を味わわせてしまうなんて……!
俺は無能だ……看守失格だ……」
「大袈裟ねぇ」
私は落ち込むギデオンの肩を叩いた。
「大丈夫よ。私、騎士だもの。戦場での野営に比べれば、屋根と壁があるだけ天国よ」
「しかし……!」
「それに、何もない部屋も新鮮でいいじゃない。
これから二人で、好きなものを少しずつ揃えていけばいいんだもの」
私がニカっと笑うと、ギデオンは目を潤ませて私を見上げた。
「セラフィナ……。貴様は、どこまで心が広いんだ……」
「(チョロいだけだと思いますけど)」
ロイドさんのツッコミは無視して、私は提案した。
「とりあえず、今夜は倉庫にある予備の毛布とかで凌ぎましょ?
キャンプみたいで楽しそうだし!」
◆
夜が来た。
家具のない地下牢は、夜になるとさらに冷え込む。
魔法の太陽も消灯し、部屋は魔石ランプの薄明かりだけに照らされていた。
部屋の隅には、ロイドさんがかき集めてくれた予備のマットレスと毛布が敷かれている。
シングルのマットレスを二つ並べただけの、簡素な寝床だ。
「……すまない、セラフィナ」
ギデオンが申し訳なさそうに言った。
彼は軍服の上着を脱ぎ、シャツ一枚になっていた。
「俺の計画性のなさのせいで、こんな不自由を……」
「ううん、気にしないで。それに、これ見て」
私はマットレスの真ん中を指差した。
そこには、スライムのポヨンが鎮座し、二つのマットレスを繋ぐ接着剤のようにモチモチと広がっていた。
「ポヨンが湯たんぽ代わりになってくれるみたいよ」
「ぷきゅー!」
ポヨンが得意げに胸(?)を張る。
ギデオンは苦笑した。
「……そうか。頼もしいな」
私たちは並んでマットレスに横になった。
ギデオンが右、私が左。真ん中にポヨン。
狭い。
いつものキングサイズベッドとは比べ物にならないくらい狭い。
ちょっと動けば、肩が触れ合ってしまう距離だ。
ドキドキする。
今までも看病の時とかに触れ合うことはあったけれど、こうして「寝る」ために横に並ぶのは初めてだ。
意識しないようにしても、彼の体温や呼吸が伝わってくる。
「……寒くないか?」
ギデオンが小声で聞いてきた。
彼は天井を見上げたまま、動かない。まるで直立不動で寝ているみたいだ。
「大丈夫。ポヨンがあったかいし……ギデオンも、あったかいから」
「ッ……」
ギデオンが息を呑む音がした。
「(ち、近い……! 近すぎる!
彼女のシャンプーの香りがする……。
吐息が聞こえる……。
手を伸ばせば、抱きしめられる距離だ。
いや、ダメだ。理性を保て俺。これはキャンプだ。健全な野営だ!
でも、もし彼女が寒がって擦り寄ってきたら?
俺の理性は保てるのか!?)」
ギデオンは必死に天井のシミを数えて煩悩を追い払おうとしていた。
そんな彼の緊張が伝わってきて、私はふふっと笑ってしまった。
「ねえ、ギデオン」
「な、なんだ!」
「明日になったら、まずは何を買う?」
私は横向きになり、彼の横顔を見つめた。
薄暗がりの中でも、彼の鼻筋の通った横顔は綺麗だ。
「そうだな……。まずはベッドだ。最高級のダブルベッドを」
「ダブル?」
「あ、いや! その、キングサイズより大きいのがあればと思ってな!」
彼が慌てて言い訳をする。可愛い。
「あとは、ソファね。前みたいなフカフカのやつ」
「ああ。ラグも必要だ。貴様の足が冷えないように」
「カーテンも欲しいわ。窓はないけど、可愛いのがいい」
「分かった。カタログを全部取り寄せよう」
何もない部屋で、私たちは未来の話をした。
あれが欲しい、これがしたい。
まるで、新居に引っ越してきたばかりの新婚夫婦のように。
それがどうしようもなく楽しくて、幸せで。
私は自然と、布団の中で彼の手を探り当てた。
ギュッ。
私が手を握ると、ギデオンは一瞬ビクッとしたが、すぐに強く握り返してくれた。
大きくて、ゴツゴツした、安心する手。
「……俺は」
ギデオンが静かに口を開いた。
彼はゆっくりとこちらを向き、私と目を合わせた。
眼鏡の奥の瞳が、優しく光っている。
「俺は、貴様がいれば、他には何もいらないのかもしれん」
ズキュン。
私の胸の奥で、何かが撃ち抜かれた音がした。
そんな、真正面から、そんな殺し文句を。
「……ずるい」
「何がだ?」
「そういうこと、平気で言うところ」
私は布団を鼻まで引き上げ、顔を隠した。
熱い。顔が沸騰しそうだ。
これじゃあ、どっちが尋問されているのか分からない。
「ふっ……。事実を述べたまでだ」
ギデオンが低く笑った。
彼は繋いだ手を引き寄せ、私の手の甲に、そっと唇を押し当てた。
あくまで騎士の礼節のような、でも微かに熱を帯びたキス。
「おやすみ、セラフィナ。……良い夢を」
その言葉と感触に、私は完全にノックアウトされた。
もう、この人には敵わない。
私は一生、この「無期懲役」から逃げ出せそうにない。
「……おやすみ、ギデオン」
私たちは手を繋いだまま、まどろみの中へと落ちていった。
硬い床も、隙間風も、全く気にならなかった。
◆
翌朝。
幸せな目覚めは、慌ただしい足音によって破られた。
バンッ!!
鉄扉が勢いよく開け放たれる。
「た、隊長ーッ!! 大変です!!」
飛び込んできたのは、血相を変えたロイドさんだった。
彼は寝起きで呆けている(そして手を繋いでいる)私たちを見て一瞬止まったが、すぐに叫んだ。
「イチャイチャしてる場合じゃないですよ!
来ました! 来ちゃいましたよ!」
「んん……? 何がだ、ロイド。朝から騒々しい」
ギデオンが不機嫌そうに身を起こす。
私も目を擦りながら起き上がった。
「誰が来たの? 家具屋さん?」
「違います! 家具屋ならどれだけ良かったか!」
ロイドさんは窓のない壁を指差し、絶望的な声で告げた。
「将軍です!
帝国軍総司令官、ゼノ・フォン・ヴァルハラ将軍が!
『娘を返せ!』と怒り狂って、国境を突破してこちらへ向かっています!
あと一時間でここに到達します!!」
「……は?」
「……え?」
私とギデオンの声が重なった。
父上。
帝国最強の鬼将軍。
娘の私が言うのもなんだが、怒らせると災害レベルに怖いあの父上が。
敵地のど真ん中まで、殴り込みに来る!?
「ま、まずい……」
私の顔から血の気が引いた。
父上に見つかったら、ただ連れ戻されるだけじゃ済まない。
この「第零監獄」が物理的に破壊されるかもしれない。
そして何より、ギデオンが「娘をたぶらかした不届き者」として八つ裂きにされる!
「ギデオン、逃げて! 父上は本気よ!」
「に、逃げる? 俺がか? 敵前逃亡など……」
「相手はただの敵じゃないわ! 『激怒した父親』よ! 魔王より強いのよ!」
ギデオンも事の重大さを察したのか、顔色を変えた。
「よ、よし。直ちに迎撃態勢を……いや、接待の準備をしろ!
粗相があってはならん!
これは戦争ではない! 『義父上への挨拶回り』だ!」
ギデオンが立ち上がり、軍服を羽織る。
その背中は、かつてないほどの緊張に包まれていた。




