第15話 「忘れ物」を取りに来たと言って、私はあなたの胸に飛び込んだ
風が唸る。
景色が後方へと飛び去っていく。
私は奪った軍馬の背に張り付くようにして、ガリアの大地を疾走していた。
背後からは、父上の怒号と、帝国騎士団の蹄の音が聞こえる気がする。
けれど、私は振り返らなかった。
心臓が早鐘を打っている。
これは、恐怖でも興奮でもない。
ただ、焦燥感だ。
(まだ間に合うかしら。ギデオンはまだ、そこにいる?)
彼は不器用な人だ。
私を追い出したら、きっと一人で隠れて泣いているに違いない。
そして、「これでよかったんだ」なんて自分に言い聞かせて、冷たい仮面を被り直そうとしているはずだ。
そんなの、許さない。
勝手に私の幸せを決めつけて、勝手にサヨナラして、勝手にカッコつけるなんて。
「待ってなさいよ、このバカ尋問官!」
私は手綱を強く握りしめた。
国境の橋を越え、街道を逆走する。
さっき通ったばかりの道を、今度は自分の意思で駆け抜ける。
しばらく走ると、前方の森の陰に、二つの人影が見えた。
黒いマントで全身を覆い、怪しげなサングラスをかけた男たち。
普通なら盗賊か何かと警戒するところだが、私には分かってしまう。
あんな風に、捨てられた子犬のように背中を丸めて立ち尽くしている男は、世界に一人しかいない。
「ギデオぉぉぉン!!」
私は腹の底から名前を叫んだ。
その声に、男がビクリと肩を震わせ、振り返る。
サングラス越しの目が、驚愕に見開かれるのが遠目でも分かった。
彼は慌てて馬に乗って逃げようとする素振りを見せたが、もう遅い。
私は馬の速度を緩めず、彼の目の前まで突っ込んだ。
ヒヒーン!
馬がいななき、急停止する。
私はその勢いのまま、鞍から飛び降りた。
地面を蹴り、彼に向かって一直線にダッシュする。
「な、貴様……なぜ戻っ……ぶぐっ!?」
ギデオンが何か言いかけた言葉は、私のタックルによって遮られた。
私は勢いよく彼の胸に飛び込んだ。
ドンッ、という鈍い音と共に、私たちはもつれ合うようにして草の上に倒れ込んだ。
土と草の匂い。
そして、懐かしいシトラスの香りと、彼の体温。
「つ、捕まえた……!」
私は彼の上に馬乗りになり、サングラスを引っぺがした。
そこには、真っ赤に腫れた目をした、いつもの美形(今はぐしゃぐしゃだけど)があった。
「セ、セラフィナ……!?」
ギデオンは呆然と私を見上げていた。
状況が理解できていないようだ。
「な、なぜだ……。なぜ戻ってきた!
貴様は解放されたんだぞ!? 自由になったんだ!
父上の元へ帰ったはずだろう!?」
彼は震える手で私を押し退けようとした。
その手には力が全く入っていないけれど、必死に拒絶の言葉を紡ごうとしている。
「帰れ! ここは敵地だ!
もう『おままごと』は終わったんだ!
二度と顔を見せるなと言ったはずだ!」
「うるさい!」
私は彼の胸を拳でドンと叩いた。
「帰れ帰れって、そんなに私を追い出したいの!?」
「当たり前だ! 貴様のためを思って……!」
「私のため? 笑わせないでよ!」
私はポケットから、あの一枚の紙切れを取り出し、彼の顔の前に突きつけた。
「これ、あなたが書いたんでしょう!?」
『請求書』と書かれた、実質的なラブレター。
ギデオンはそれを見て、言葉を詰まらせた。
「そ、それは……」
「条件、三つ目。『幸せになること』」
私はその一文を指差した。
「私、これを守るために戻ってきたの」
「……は?」
「あっちにはなかったのよ。私の幸せ」
私は彼の目を見つめた。
涙で潤んだ、私の大好きな瞳。
「豪華な屋敷も、名誉ある勲章も、美味しいご馳走も。
あなたがいないなら、全部ただのガラクタよ。
地下牢で、あなたと紅茶を飲んで、ポヨンと遊んで、くだらない話をして笑い合う。
……それが、私の『幸せ』なの」
ギデオンの唇がわなないた。
「だ、だが……それは……」
「だから、戻ってきたの。
父上には『忘れ物をした』って言ってきたわ」
ギデオンは瞬きをした。
「わ、忘れ物……?
なんだ、何を忘れたんだ?
限定のマカロンか? それともあのフリルのパジャマか?
言ってくれれば、俺が国境まで投げつけたのに……!」
この期に及んで、まだそんなことを言っている。
本当に、愛すべき大馬鹿者だ。
私は溜息をつき、そして少しだけ照れくささを感じながら、彼の胸に顔を埋めた。
「……あなたよ」
小さな声だったけれど、彼の心臓の真上で言ったから、聞こえたはずだ。
彼の心拍数が、ドクンッと跳ね上がるのを感じた。
「わ、私……?」
「そうよ。あなたを忘れたままじゃ、これからの人生、味気なくて生きていけないわ」
私は顔を上げ、至近距離で彼に微笑みかけた。
「責任取ってよね、看守さん。
私をこんな体に(贅沢と甘やかしに慣れきった体に)したのは、あなたなんだから」
沈黙が流れた。
森の木々がざわめき、鳥たちが歌う中、ギデオンは石のように固まっていた。
やがて。
彼の手が、恐る恐る私の背中に回された。
そして、力強く抱きしめ返された。
「……う、うわあああああんッ!!」
ギデオンが、子供のように泣き出した。
今まで堪えていたものが決壊したように、大声を上げて。
「夢じゃない……! 戻ってきた……! 俺のセラフィナが……!
バカだ! 貴様は世界一の大バカ者だ!
そして俺は、世界一の果報者だぁぁぁ!」
「よしよし、泣かないの」
私は彼の頭を撫でた。
私の胸元が彼の涙で濡れていくけれど、ちっとも嫌じゃなかった。
むしろ、彼の愛の深さを感じて、私まで泣きたくなってしまった。
しばらくして、少し離れた場所から呆れたような声が聞こえた。
「……あのー。感動の再会中、水を差すようで申し訳ないんですが」
副官のロイドが、馬の上から私たちを見下ろしていた。
彼は遠くを指差した。
「向こうから砂煙が上がってます。たぶん、お父上(将軍)が追っ手を率いて戻ってきますよ。
ここでイチャイチャしてると、包囲されます」
ギデオンはハッとして顔を上げた。
目は真っ赤で、鼻水も出ているが、その表情は憑き物が落ちたように晴れやかだった。
「……ロイド。俺はもう、迷わない」
彼は私を抱き起こし、立ち上がった。
そして、私の手を取り、力強く宣言した。
「彼女は返さない。たとえ帝国全軍を敵に回しても、俺が守り抜く」
「はいはい、そう言うと思いましたよ。
で、どうします? 城に戻りますか?」
「当然だ! 『第零監獄』へ帰還する!」
ギデオンは自分の馬に飛び乗ると、手を差し伸べてきた。
「来い、セラフィナ! 俺の背中に捕まってろ!」
「ええ、どこまでも!」
私は彼の手を取り、馬の後ろに飛び乗った。
彼がくれたあの広い背中に、今度はしっかりと腕を回し、しがみつく。
「飛ばすぞ! 舌を噛むなよ!」
ギデオンが手綱を振るう。
馬がいななき、私たちは風になった。
◆
帰り道は、あっという間だった。
背後からは帝国軍の怒号が聞こえたような気もするが、ロイドが適当に氷魔法(目くらまし)をばら撒いてくれたおかげで、私たちは無事に追っ手を振り切ることができた。
夕暮れ時。
王城の裏口に、二頭の馬が滑り込む。
警備の兵士たちが驚いて駆け寄ってきた。
「た、隊長!? それに、解放されたはずのセラフィナ様!?」
「ど、どういうことですか!? なぜ戻って……」
兵士たちの困惑をよそに、ギデオンは馬から降りると、私をエスコートして降ろした。
そして、堂々と宣言した。
「状況が変わった!
彼女は本日より、再収監となる!」
「はぁ!?」
「理由は『忘れ物を取りに来た』だ! 以上!」
ギデオンは私の肩を抱き、城内へと歩き出した。
兵士たちはポカンと口を開けていたが、すぐに「……おかえりなさい!」と小さな声で呟き、敬礼してくれた。
やっぱり、ここの人たちは優しい。
地下への階段を降りる。
湿った空気と、カビの匂い。
でも、その先には私たちが作った「楽園」がある。
廊下を歩いていると、すれ違う兵士たちが二度見し、三度見し、そしてガッツポーズをするのが見えた。
どうやら『カフェ・ゼロ』のママが戻ってきたことは、瞬く間に広まっているらしい。
そして。
ついに、あの鉄格子の前に辿り着いた。
鍵はもちろん、開いている。
扉を開けると、そこには空っぽになった部屋があった。
家具も、カーペットも、全て持ち出されてしまって、残っているのは壁画だけ。
少し寂しい、ただの石造りの部屋。
でも。
「ぷきゅーッ!!」
部屋の隅から、青い影が弾丸のように飛んできた。
ポヨンだ。
置いていかれたと思って、ふて寝していたらしい。
「ただいま、ポヨン!」
私はポヨンを受け止め、抱きしめた。
ひんやりとした感触。これこれ、これがなくちゃ。
「……何もないな」
ギデオンが部屋を見渡して呟いた。
「ベッドも、ソファも、全部貴様に持たせてしまったからな。今夜寝るところもないぞ」
「いいのよ」
私は彼に向き直り、ニカっと笑った。
「また一から作ればいいじゃない。
今度は二人で、家具を選びに行きましょう?」
ギデオンは一瞬驚いた顔をして、それから眼鏡を外し、クシャリと破顔した。
それは、今まで見た中で一番、人間らしくて、魅力的な笑顔だった。
「……ああ。そうだな。
今度はダブルベッドを買おう。……いや、なんでもない」
「ふふ、聞こえたわよ?」
私は何もない石の床の上に座り込んだ。
硬くて冷たい。でも、隣にギデオンが座ってくれたから、少しも寒くなかった。
「ねえ、ギデオン」
「なんだ」
「私、お腹空いちゃった。
あっちの馬車のお菓子、味気なくて残しちゃったから」
ギデオンは呆れたように、でも嬉しそうに立ち上がった。
「やれやれ。手のかかる囚人だ。
……待っていろ。とびきり甘いパンケーキを焼かせてくる。
メイプルシロップたっぷりのやつをな」
「うん! お願い、看守さん!」
こうして、私の史上最速の脱走劇は幕を閉じた。
帝国最強の騎士は、自らの意思で敵国の地下牢に戻り、そこに「永住」することを決めたのだ。
窓(壁画)の外には、永遠に沈まない魔法の太陽が輝いている。
私の、そして私たちの「甘やかな監禁生活」は、ここからが本番だ。
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一方その頃、国境の橋にて。
取り残された父、ゼノ将軍は、山積みの木箱の前で震えていた。
「……戻った? あのバカ娘、戻ったと言ったか?」
「はい、閣下……。猛スピードで敵陣へ……」
「おのれぇぇぇ! ガリアの拷問官め! 娘にどんな強力な洗脳魔法をかけたのだ!
許さん! ワシが直々に乗り込んで、目を覚まさせてやる!!」
激怒する将軍の後ろで、部下の騎士がボソッと呟いた。
「でも閣下、このお菓子……めちゃくちゃ美味いですよ?」
「うるさい! ……一つよこせ」




