第14話 国境で待つ父と、私の帰るべき場所
国境にかかる『嘆きの橋』。
その名の通り、古来より多くの捕虜や兵士たちが、二度と戻れぬ故郷を思って涙を流した場所だ。
荒涼とした谷底を流れる河の轟音が、吹き抜ける乾いた風に乗って響いてくる。
私は、その橋の中央に立っていた。
背後には、私をここまで運んでくれたガリア王国の豪華馬車。
前方には、祖国ヴァルハラ帝国の騎士団。
そしてその先頭に、岩のように仁王立ちする一人の男がいた。
白く長い髭。顔面に刻まれた無数の古傷。
熊を素手で絞め殺しそうな分厚い胸板を、重厚な鎧で包んだ巨躯。
帝国軍大将軍にして、私の父。ゼノ・フォン・ヴァルハラ。
「……父上」
私が小さく呟くと、父の鋭い眼光が私を射抜いた。
その迫力は、戦場で敵対した時の数倍はある。
私は無意識に背筋を伸ばし、軍人としての敬礼をした。
父が、ゆっくりと歩み寄ってくる。
ガチャリ、ガチャリと、金属音が橋の上に響く。
部下の騎士たちも、緊張した面持ちで後に続く。
距離が縮まる。
父の表情は険しいままだ。
捕虜となり、おめおめと生きて帰ってきた娘を、彼はどう断じるのか。
叱責か。それとも、武人の恥として勘当か。
私の目の前で、父が止まった。
見上げるような巨体が、私に影を落とす。
「……セラフィナ」
地響きのような低い声。
私はゴクリと唾を飲んだ。
「はっ。……ただいま、帰還いたしました」
「……うむ」
父は太い腕を伸ばし、私の両肩をガシリと掴んだ。
痛いほどの強さだ。
「よくぞ……よくぞ生きて戻った!」
父の顔が、くしゃりと歪んだ。
その目から、大粒の涙がボロボロと溢れ出したのだ。
「心配したぞ! 敵国でどんな酷い扱いを受けているかと、夜も眠れんかった!
拷問されたのだろう? 飢えに苦しんだのだろう?
見てみろ、こんなにやつれて……」
父は涙ながらに私の頬を撫でようとし、そしてピタリと動きを止めた。
「……ん?」
父の涙が引っ込んだ。
彼は私の顔をまじまじと見つめ、次に私の髪を触り、そして全身を上から下まで眺め回した。
「……やつれて、おらん?」
沈黙が流れる。
気まずい。死ぬほど気まずい。
今の私は、帝国にいた頃よりも肌ツヤが良い。
髪は『マーメイドの涙』という高級シャンプーのおかげで、天使の輪ができるほどサラサラだ。
体重だって、毎日のフルコースとスイーツのおかげで、ベストコンディション(あるいは若干プラス)を維持している。
「父上、その……」
「肌が、白い。……傷一つない」
「ええ、まあ」
「髪から、いい匂いがする」
「ローズの香りです」
父は混乱したように眉間の皺を深くした。
「これはどういうことだ? 貴様が収容されていたのは、あの悪名高き『第零監獄』ではないのか?」
「はい、間違いなく」
「あそこは、光も届かぬ湿った地下牢で、カビの生えたパンと泥水しか与えられない地獄だと聞いているが……」
父の認識は正しい。本来ならば、そうあるべき場所だ。
だが、私にとっては「リゾートホテル」だった。
「その、なんて言いますか……。敵国の尋問官が、少々変わった男でして」
「変わった男?」
「はい。独自の尋問メソッドを持っているというか……」
私がしどろもどろになっていると、背後でガリア側の御者が声を上げた。
「おい、引き渡しは終わったな! 次は荷下ろしだ!」
御者と護衛の兵士たちが、馬車の荷台から次々と木箱を降ろし始めた。
ドスン、ドスンと重そうな音が橋の上に響く。
あっという間に、私の周りには小山のような木箱の山が出来上がった。
「なんだ、これは」
父が不審げに木箱を睨んだ。
「捕虜の私物は全て没収されるはずだろう。なぜこんな大量の荷物がある?」
「廃棄物ですよ」
ガリアの兵士が無愛想に(しかし台本棒読みのように)告げた。
「我が国の『第零監獄』で使用されていた備品ですが、囚人が使用して汚れたため、廃棄処分とします。
そちらで燃やすなり捨てるなり、好きにしてください」
兵士たちはそれだけ言うと、そそくさと馬車に乗り込み、さっさと引き返していってしまった。
まるで、これ以上ここにいるとボロが出ると言わんばかりの逃げ足だ。
橋の上には、私と帝国軍、そして謎の木箱の山だけが残された。
「汚れた廃棄物だと……?」
父は不愉快そうに鼻を鳴らし、一番手前の木箱を蹴飛ばすようにして蓋を開けた。
「敵国のゴミなど、橋の下へ捨てて……な、なんだこれは!?」
父が絶叫した。
箱の中に詰められていたのは、緩衝材に守られた最高級のティーセットと、宝石のように美しい焼き菓子の詰め合わせだったからだ。
「おい、セラフィナ! これはどういうことだ!?」
「あ、それは……尋問に使われた道具でして」
「菓子で尋問だと!?」
父は次の箱を開けた。
そこには、真紅のシルクドレスと、それに合わせた靴が入っていた。
「ではこれは!? まさか、このドレスを着せて市中を引き回すという恥辱の刑か!?」
「いえ、その……パジャマパーティー用というか……」
「パジャマ……パーティー……?」
父の理解力が限界を超えようとしていた。
部下の騎士たちもざわついている。
「おい見ろ、あの箱、最高級の化粧品だぞ」
「こっちの箱には、ふかふかの羽毛布団が入ってる!」
「敵国ガリアは、捕虜にこんな贅沢をさせていたのか!?」
父は震える手で、焼き菓子の箱(『アンジュ』のロゴ入り)を手に取った。
「分かったぞ……。これは罠だ」
「えっ」
「毒だ! 遅効性の猛毒が仕込まれているに違いない!
あるいは、このドレスには呪いがかけられているのだ!
なんと卑劣な……! 娘を綺麗な体のまま返しつつ、後からじわじわと苦しめる気か!」
父の妄想が暴走している。
普段なら「そんなわけないでしょう」と笑い飛ばすところだが、今の私には、否定する気力が湧かなかった。
これが毒?
いいえ、これは愛だ。
これは呪い?
ええ、そうかもしれない。一生解けない、幸せな呪い。
私は木箱の山を見つめた。
一つ一つの箱に、ギデオンの顔が浮かぶ。
『風邪を引かないように』と布団を選んでくれた彼。
『甘いものは元気が出る』とケーキを買ってきてくれた彼。
これを「ゴミ」と呼んで突き返せるわけがない。
これは、彼が私に持たせてくれた、これからの人生を生き抜くための糧なのだから。
「……父上。それは毒ではありません」
私は静かに、しかしはっきりと言った。
「これは、私が向こうで……戦い抜いた証です。
一つも捨てません。全て持ち帰ります」
「な、なんだと? しかし……」
「私の戦利品です。文句は言わせません」
私の剣幕に、父はたじろいだ。
彼は「う、うむ……まあ、お前が無事ならそれでいい」と渋々納得し、部下たちに荷物を運ぶよう命じた。
「さあ、帰るぞセラフィナ。
帝都では母上も待っておる。
まずはゆっくりと休むといい。我が家の堅牢な石造りの部屋と、栄養満点の硬い黒パンが懐かしいだろう?」
父は優しく微笑んで(見た目は怖いが)、私の背中を押した。
石造りの部屋。
硬い黒パン。
質実剛健を旨とする我が家の生活。
以前の私なら、それが当たり前だった。
それが騎士としての誇りだと思っていた。
でも。
今の私の脳裏に浮かぶのは、あのピンク色の壁紙の部屋だ。
朝の光の中で湯気を立てる焼きたてのパンケーキ。
アロマの香るバスタブ。
そして、「おはよう」と言ってくれる、不器用な笑顔の男。
(……ああ、だめだ)
足が止まった。
一歩も、前に進めない。
父の言う「我が家」が、今は酷く寒々しく、色褪せた場所に思えてしまう。
私は、知ってしまったのだ。
甘やかされる心地よさを。
誰かに大切にされる喜びを。
そして、その全てを与えてくれた人が、もう隣にいない寂しさを。
「どうした、セラフィナ? 足が痛むのか?」
立ち止まった私を気遣い、父が振り返る。
私はゆっくりと首を横に振った。
「……父上。私、帰れません」
「ん? 何を言っている。馬車なら用意してあるぞ」
私はポケットに手を入れた。
指先に触れる、サテンのリボンの感触。
そして、ギデオンがくれた『請求書』の紙片。
『三、……幸せになること』
その言葉が、心の中で反響する。
幸せになること。
それが彼からの最後の命令であり、願い。
だとしたら、私はこのまま帰ってはいけない。
だって、彼がいない世界に、私の幸せなんてないのだから。
私は顔を上げた。
乾いた風が吹き抜け、私の銀髪を揺らす。
「父上、申し訳ありません」
「セラフィナ?」
「私、忘れ物をしました」
父がきょとんとする。
「忘れ物? 荷物は全てここにあるではないか」
「いいえ、箱には入っていません。
私が置いてきたのは……もっと大きくて、重たくて、面倒くさくて、愛おしいものです」
私は帝国の馬車に背を向けた。
視線の先には、ガリアへと続く道。
遠くの森の陰に、きっとまだ彼がいるはずだ。
「取りに帰ります。今すぐに」
「はぁ!? 何を言っている! ここは国境だぞ!?」
「知っています。でも、行かなきゃいけないんです」
私は近くにいた部下の騎士に駆け寄り、その腰から剣を一本拝借した。
そして、手綱を引かれていた予備の軍馬に、軽やかに飛び乗った。
「おいっ! 貴様、何をする気だ!」
「セラフィナ! 降りろ!」
父と騎士たちが慌てふためく。
私は馬上で手綱を強く握りしめた。
「父上! 母上にはよろしくお伝えください!
娘は、自分の幸せを見つけるために、もう一度戦場(敵地)へ戻ります!」
「ま、待てぇぇぇ!!」
父の制止など聞こえないふりをして、私は馬の腹を蹴った。
ヒヒーン!
軍馬がいななきを上げ、大地を蹴る。
私は来た道を、全速力で逆走し始めた。
風が耳元で唸る。
視界が流れていく。
「嘆きの橋」を渡り、再びガリアの大地へ。
バカだ。本当にバカだ。
せっかく解放されたのに。
平和な生活が待っていたのに。
自ら敵国へ、しかも監獄へ戻るなんて、正気の沙汰じゃない。
でも、不思議と心は晴れやかだった。
胸のつかえが取れたように軽い。
(待ってて、ギデオン!)
私は心の中で叫んだ。
(あなたが私を「ゴミ(備品)」扱いして追い出すなら、私は何度でも戻ってやるわ!
そして、あの地下牢に居座ってやる!
あなたが「参った」と言うまで、一生!)
◆
その頃。
森の陰で、遠眼鏡を覗いていたギデオンは、我が目を疑っていた。
「……おい、ロイド」
「なんですか、隊長。もう泣き止んでくださいよ」
「俺の目が、涙でおかしくなったのかもしれん」
ギデオンは震える指で前方を指差した。
「セラフィナが……馬に乗って、こちらへ走ってくるように見えるのだが」
「はい?」
ロイドも遠眼鏡を覗き込んだ。
そこには、砂煙を上げて爆走してくる銀髪の騎士の姿があった。
背後には、慌てふためく帝国軍の大群が見える。
「……隊長、幻覚じゃありませんね。
あれは間違いなく、セラフィナ様です。
しかも、すごい笑顔でこっちに向かってきてます」
「な、なぜだ!? なぜ戻ってくる!?」
ギデオンはパニックになった。
「忘れ物か!? まさか、俺があげた説明書の誤字脱字に気づいて文句を言いに!?」
「そんなわけないでしょう。……どうやら、野生の勘ですが」
ロイドはニヤリと笑った。
「隊長の『請求書』の支払いに来たんじゃないですか?」
その言葉の意味を理解する間もなく、地響きのような馬蹄の音が近づいてくる。
ギデオンは立ち尽くしていた。
逃げるべきか、迎えるべきか。
いや、彼の足は地面に根が生えたように動かなかった。
ただ、心の奥底で、消えかけていた希望の火が、再び燃え上がるのを感じていた。




