第12話 嘘つきな尋問官は、別れの時にさえ不器用な愛を隠す
私は、着慣れたはずの騎士服に袖を通した。
ボロボロで、所々が破れ、土埃の匂いが染み付いた帝国軍の制服。
捕まった時に着ていたものだ。
クリーニングされ、破れた箇所は丁寧に繕われているけれど、ここ数日身に纏っていたシルクのパジャマや柔らかなワンピースに比べると、ずっしりと重く、肌触りが硬い。
「……これが、現実の重さってやつね」
私は鏡(ギデオンが設置した全身鏡)に映る自分を見つめた。
そこにいるのは、お気楽な「地下牢の住人」ではない。
敗戦国の将軍、セラフィナ・フォン・ヴァルハラだ。
部屋を見渡す。
南国のビーチを描いた壁画。
窓辺で揺れるハーブたち。
座り心地の良かったソファ。
そのすべてが、輝きを失ったように静まり返っている。
「ぷきゅ……」
足元で、スライムのポヨンが不安げに震えていた。
彼は私のブーツにしがみつき、離れようとしない。
まるで、これが永遠の別れだと悟っているかのように。
「ごめんね、ポヨン。一緒には行けないの」
私はしゃがみこみ、そのひんやりとした体を撫でた。
「あなたはここの子だもの。外の世界は乾燥していて、あなたには生きづらいわ」
「ぷるっ、ぷるるぅ……」
「いい子にしてるのよ。ギデオンやロイドさんと仲良くね。……時々、私の代わりにギデオンを慰めてあげて」
ポヨンは悲しげに鳴くと、とろりと私の指から離れた。
私は立ち上がり、深呼吸をした。
泣いてはいけない。
ギデオンがあれだけ心を鬼にして私を突き放したのだ。
私が未練を見せたら、彼の決意が無駄になってしまう。
ガチャリ。
鉄扉が開いた。
「……支度は済んだか」
入ってきたのは、完全武装したギデオンだった。
黒い軍服にマントを羽織り、腰には剣を帯びている。
その表情は、鉄仮面のように無表情だ。
「ええ。いつでも出られるわ」
「そうか。……では、行くぞ」
彼は部屋の中を一瞥すらしなかった。
まるで、ここにはもう何の意味もないとでも言うように。
その冷徹な態度に胸が痛むけれど、私は背筋を伸ばして頷いた。
「お世話になりました」
私は部屋に一礼し、彼に続いて廊下へと歩き出した。
◆
地下廊下を歩く足音が、カツン、カツンと響く。
来る時は目隠しをされ、引きずられるように連れてこられた道だ。
今は自分の足で、出口へと向かっている。
見張り台の前を通ると、そこには見慣れた兵士たちが整列していた。
かつて私の部屋で「お茶会」をした、『カフェ・ゼロ』の常連たちだ。
「セラフィナ様……!」
「お元気で……っ!」
彼らは直立不動で敬礼していた。
だが、その目からはボロボロと涙がこぼれ落ち、鼻水をすする音が響いている。
中には「行かないでください姉御ぉぉ!」と叫びそうになって、隣の兵士に口を塞がれている者もいる。
(みんな……)
私は足を止めそうになったが、ギデオンが先を促すように歩調を速めたため、軽く会釈をするだけに留めた。
「……規律の緩んでいる部下どもだ。後で処分が必要だな」
前を歩くギデオンが、冷たく言い放つ。
でも、私には聞こえた。
彼がすれ違いざまに、小声で兵士たちに「見送り、ご苦労」と囁いたのを。
彼はやっぱり、優しい嘘つきだ。
長い階段を上り、地上への扉が開かれた。
眩しい光が差し込んでくる。
十日ぶりの太陽だ。
新鮮な空気と共に、風の匂いがした。
そこは王城の裏口にある馬車止めだった。
迎えの馬車が停まっている。
「……え?」
私は目を疑った。
そこに停まっていたのは、護送用の檻付き馬車ではなかった。
白塗りの車体に金の装飾が施され、四頭の白馬に繋がれた、王族が使うような超豪華な馬車だったのだ。
「こ、これは……?」
「……我が国の備品整理だ」
ギデオンは顔色一つ変えずに言った。
「貴様を乗せていたという事実が残ると迷惑なのでな。この馬車ごと帝国に譲渡する。廃棄処分の一環だ」
「廃棄処分って……これ、どう見ても新車じゃない」
「細かいことは気にするな。早く乗れ」
彼は御者に目配せをした。御者もまた、最高級の制服を着ている。
そして、馬車の荷台を見て、私はさらに絶句した。
そこには、山のような木箱が積まれていたのだ。
「あ、あの荷物は?」
「ゴミだ」
ギデオンは即答した。
「貴様が使っていた寝具、食器、衣類……。一度囚人が使ったものを、城内で再利用するわけにはいかん。
燃やすのも手間だ。貴様が持って帰って処分しろ」
「ゴミ……?」
私は木箱の一つに近づき、隙間から中を覗いた。
そこに見えたのは、丁寧に梱包された「アンジュ」の焼き菓子セット。
その隣の箱には、最高級の茶葉の缶がぎっしりと詰まっている。
さらに別の箱からは、私が「可愛い」と言っていたドレスの裾が覗いていた。
これがゴミ?
いいえ、これは。
彼が私にくれた、たくさんの「愛」そのものだ。
「……こんなにたくさん、処分しきれないわ」
「知らん。帝国の領土に入ってから捨てればいい」
ギデオンは腕を組み、そっぽを向いた。
その耳が、かすかに赤い。
(馬鹿な人……)
私は胸が締め付けられるような想いで、彼を見つめた。
最後まで、素直じゃない。
私がこれを持って帰れば、一生生活に困らないだけの財産になる。
彼は私をただ帰すだけでなく、これからの私の人生まで守ろうとしてくれているのだ。
「……分かったわ。責任を持って、持ち帰らせてもらう」
私が言うと、ギデオンは肩の荷が下りたように小さく息を吐いた。
「それと、これだ」
彼は懐から一枚の封筒を取り出し、私に突きつけた。
「今回の滞在にかかった費用の請求書だ」
「えっ、請求書?」
「当然だ。あれだけの厚遇を受けたのだ。タダで済むと思うな」
ギデオンの目は真剣だった。
私は緊張して封筒を受け取り、中身を確認した。
そこには、達筆な文字でこう書かれていた。
『請求書』
・宿泊費:金貨 0枚
・食費:金貨 0枚
・改築費:金貨 0枚
・警備費:金貨 0枚
『合計:金貨 0枚』
そして、備考欄には震える文字でこう書き足されていた。
『ただし、以下の条件を遵守すること。
一、今後、風邪を引かないこと。
二、毎日三食、美味いものを食べること。
三、……幸せになること。』
「…………ッ」
視界が滲んだ。
文字が涙で揺らぐ。
なによ、これ。
請求書じゃないじゃない。
ただの、彼からの最後の願い事じゃない。
「……高いわね」
私は涙声を必死に隠して、笑ってみせた。
「こんな高額な請求、払えるかしら」
「払え。必ずだ」
ギデオンは私を見ようとしなかった。
彼は帽子を目深に被り直し、背を向けた。
「……もう行け。出発の時間だ」
「ギデオン」
「振り返るな。ここは敵地だ。二度と戻ってくるな」
拒絶の言葉。
でも、その背中は震えている。
私は知っている。
彼が今、どんな顔をしているのか。
きっと、泣き出しそうな顔で、唇を噛み締めて、必死に耐えているのだ。
私がここで引き下がることが、彼の優しさに応える唯一の方法だと、分かっているけれど。
どうしても、伝えたいことがあった。
「ギデオン」
私は彼の背中に向かって、一歩踏み出した。
そして、彼の広い背中に、そっと額を押し付けた。
「ッ……!?」
ギデオンの体が、石のように硬直した。
「……ありがとう」
私は彼の背中の温もりを感じながら、囁いた。
「あなたの淹れてくれた紅茶、世界一美味しかった。
あなたの作ってくれた部屋、世界一落ち着いた。
あなたの不器用な優しさ、世界一……大好きだったわ」
「…………」
ギデオンは何も言わない。
ただ、握りしめた拳が、ギリギリと音を立てていた。
「さようなら、看守さん」
私は彼から離れ、馬車へと乗り込んだ。
扉が閉まる。
ふかふかのシートに沈み込むと同時に、御者の掛け声が響いた。
「出せ!」
馬車が動き出す。
車輪が回り、景色が後ろへと流れていく。
私は窓から顔を出して振り返ることはしなかった。
もし振り返って、彼の顔を見てしまったら。
きっと、馬車から飛び降りてしまうから。
遠ざかる王城。
遠ざかる『第零監獄』。
私の、短くも幸せだった「家」が、小さくなっていく。
私は膝の上で、あの請求書を強く握りしめた。
条件、守れるかな。
幸せになること。
……あなたがいなくて、私は幸せになれるのかな。
馬車は王都を抜け、街道をひた走る。
私の頬を、一筋の涙が伝って落ちた。
◆
一方その頃。
馬車が見えなくなるまで立ち尽くしていたギデオンは、その場に崩れ落ちていた。
「う……ううっ……!」
もはや声を殺すことすらできなかった。
彼は地面に膝をつき、両手で顔を覆って号泣していた。
「行くな……! 行かないでくれ……!」
今さら漏れる本音。
遅すぎる願い。
「俺は……俺はなんて馬鹿なんだ……!
あんなに震えていた彼女を、抱きしめることもできなかった!
『大好きだった』と言ってくれたのに……俺は『さよなら』すら言えなかった……!」
ギデオンの慟哭が、虚しい風に消えていく。
彼の背中には、さっき彼女が額を押し付けた感触が、焼き付くように残っていた。
「隊長……」
陰から見ていたロイドが、静かに歩み寄った。
彼は何も言わず、泣き崩れる上司の肩に手を置いた。
「立ってください。まだ終わりじゃありません」
「終わりだ……俺の人生は終わった……。もう光などない……地下牢に戻って、彼女の残香と共に朽ち果てるんだ……」
「やめてください、怖いんで。……それに、まだ任務が残っています」
ロイドは遠ざかる馬車の方向を見つめた。
「国境までの護衛任務は、我々の管轄です。
彼女が無事に帝国軍に引き渡されるまで、見届ける義務があります」
ギデオンはハッと顔を上げた。
涙で濡れた眼鏡の奥に、わずかな理性が戻る。
「……そうか。そうだ。
最後の最後まで、彼女を守り抜くのが……俺の愛だ」
ギデオンはよろめきながら立ち上がった。
そして、涙を拭い、眼鏡をかけ直した。
目は真っ赤に腫れているが、その表情には悲壮な決意が宿っていた。
「馬を出せ、ロイド。……影から追跡する」
「了解です。……ハンカチ、新しいの要ります?」
「要る。箱でくれ」
◆
馬車の中。
私は流れる涙を拭い、大きく深呼吸をした。
感傷に浸っている場合ではない。
私はセラフィナ・フォン・ヴァルハラ。帝国の騎士だ。
国境には、父上(将軍)が待っているはずだ。
父上は厳しい人だ。捕虜となった私をどう迎えるだろうか。
お咎めがあるかもしれない。
でも、それ以上に気がかりなのは……。
「……この大量の『ゴミ(宝物)』を、どうやって父上に説明しよう」
私は荷台を占拠する木箱の山を見つめた。
『敵国で過酷な拷問を受けていました』という報告と、この『最高級スイーツとドレスの山』との矛盾を、どうプレゼンすればいいのか。
これこそが、ギデオンが私に与えた最後の、そして最大の「拷問」なのかもしれない。




