第11話 突然の釈放命令。この「幸せな監獄」に終わりの鐘が鳴る
その日の朝は、いつもとは何かが違っていた。
天井に描かれた魔法の太陽は、変わらず穏やかな陽光を降り注いでいる。
壁画の南国の海も、鮮やかなエメラルドグリーンを湛えている。
プランターのハーブたちは生き生きと葉を茂らせ、部屋には爽やかな香りが満ちている。
何も変わらない、平穏で快適な『リゾート・ヴァルハラ』の朝。
けれど、私の野生の勘とも言うべき第六感が、奇妙な違和感を訴えていた。
「……遅い」
私はベッドの上で膝を抱え、鉄格子の扉を見つめた。
いつもなら、もうとっくにギデオンが朝食を持って現れる時間だ。
彼は几帳面だ。秒単位でスケジュールを管理する彼が、理由もなく遅れるなんて考えられない。
「ぷきゅ?」
枕元で、スライムのポヨンが不思議そうに小首を傾げている。
彼(?)もまた、毎朝の日課であるギデオンとの「威嚇合戦」がないことに物足りなさを感じているのかもしれない。
「寝坊かな? それとも、また新しいメニューの開発に手間取ってるのかしら」
私は努めて明るく独りごちた。
けれど、胸の奥に広がるざわめきは消えない。
昨日、風邪を引いた私を一晩中看病してくれた彼の手の温もりが、まだ肌に残っている気がする。
あの時の彼の、今にも泣き出しそうな必死な顔。
『行かない』と言ってくれた、力強い言葉。
私たちは、確かに近づいたはずだった。
敵と味方、看守と囚人という立場を超えて、何かもっと特別な関係になれたような気がしていたのに。
カツン、カツン、カツン。
不意に、廊下の奥から足音が聞こえた。
私は弾かれたように顔を上げた。
「あ、来た!」
足音は規則正しく、重い。
いつものギデオンの足音だ。
私はベッドから飛び降り、満面の笑みで扉へと駆け寄った。
「おはよう、ギデオン! 遅かったじゃな……」
言葉は、途中で凍りついた。
鉄格子の前に立ったギデオンは、手ぶらだった。
いつも私が楽しみにしている朝食のワゴンも、新しい家具のカタログも、差し入れのスイーツも持っていない。
それどころか、彼は軍帽を目深に被り、表情を完全に消していた。
そこには、私にタルトを食べさせてくれた優しい「看守さん」はいなかった。
出会った初日のような、冷徹で、人を寄せ付けない『氷の尋問官』が立っていた。
「……おはよう、セラフィナ・フォン・ヴァルハラ」
名を呼ばれた瞬間、空気が冷えた気がした。
ここ最近、彼は私のことを「セラフィナ」とだけ呼んでいたのに。
フルネームで、しかもこんなに他人行儀な声色で呼ばれるのは久しぶりだった。
「ギデオン……? どうしたの、そんな怖い顔して」
「座れ。話がある」
彼は扉を開け、部屋に入ってきた。
いつもなら靴を脱いでムートンラグに上がる彼が、今日は土足のまま踏み込んできた。
その些細な変化が、決定的な断絶を示しているようで、私は怖くなった。
私は言われるがまま、ソファに腰を下ろした。
ポヨンがギデオンの足元に擦り寄ろうとしたが、彼はそれに目もくれなかった。
「単刀直入に言う」
ギデオンは立ったまま、私を見下ろした。
眼鏡の奥の瞳は、まるで氷河のように冷たく、何の感情も映していない。
「本日未明、我が国ガリアと、貴様の祖国帝国との間で、和平条約が締結された」
「……え?」
予想外の言葉に、私は瞬きをした。
和平? 戦争が終わったの?
「そ、そうなんだ。よかったじゃない! これでもう血を流さなくて済むわね」
「ああ。それに伴い、両国間で捕虜の即時解放が合意された」
ギデオンは懐から一枚の羊皮紙を取り出し、テーブルの上に置いた。
そこには、王家の紋章が入った印と共に、『セラフィナ・フォン・ヴァルハラの釈放を命ずる』という文字が記されていた。
「釈放……」
私はその文字をぼんやりと見つめた。
釈放。解放。自由。
それは、捕虜となった私が一番に望むべきものであり、本来なら飛び上がって喜ぶべき報せのはずだ。
だというのに。
どうしてだろう。
心臓が、冷たい手で鷲掴みにされたように痛むのは。
「……じゃあ、私は帰れるの?」
「そうだ。一時間後に迎えの馬車が出る。国境まで護送し、そこで帝国の使節団に引き渡す手筈になっている」
事務的な口調。
まるで書類を処理するかのような淡々とした態度。
私は思わず立ち上がった。
「一時間後!? 急すぎるわよ! まだ荷造りもしてないし、ポヨンだって……」
「荷物など必要ない。身一つで帰れ」
ギデオンが私の言葉を遮った。
「この部屋にあるものは全て、我が国の備品だ。持ち出しは許可しない」
「……え?」
私は部屋を見渡した。
二人で選んだソファ。
一緒にペンキまみれになって描いた壁画。
彼が夜なべして手入れしてくれたハーブたち。
ここにある全てに、彼との思い出が詰まっているのに。
「備品って……。これ、全部あなたが私のために……」
「勘違いするな」
ギデオンの声が、鋭く響いた。
彼は私から視線を逸らし、壁の絵を冷ややかに見つめた。
「これは『尋問』の一環だ。快適な環境を与え、精神を懐柔し、情報を引き出すための作戦に過ぎない。
そして、条約が結ばれた今、貴様から情報を引き出す必要はなくなった」
彼は再び私を見た。
その瞳には、侮蔑すら混じっているように見えた。
「つまり、貴様はもう用済みだということだ。
このふざけた『おままごと』も、これで終わりだ」
おままごと。
その言葉が、胸に深く突き刺さった。
楽しかったティータイムも。
夜中のクッキー作りも。
お風呂上がりの髪を乾かしてくれた時間も。
風邪の夜に手を握ってくれたことも。
全部、作戦だったの?
全部、嘘だったの?
「……嘘よ」
私は震える声で言った。
「嘘よ。だって、あなたは……あんなに優しくしてくれたじゃない。私のこと、大切だって言ってくれたじゃない!」
私は彼の腕を掴んだ。
軍服の袖越しに伝わる体温は、あんなに温かかったのに。
「触るな」
ギデオンは、私の手を振り払った。
パシッ、という乾いた音が部屋に響く。
「……ッ」
私は弾かれた手を胸に抱き、彼を見上げた。
彼は痛ましげに眉を寄せたようにも見えたが、すぐに無表情に戻った。
「私は特務部隊長だ。国益のためなら、恋人の真似事くらい容易く演じてみせる。
……貴様のような単純な女が、簡単に騙されてくれて助かったよ」
嘲るような笑み。
でも、私には分かってしまった。
彼の握りしめられた拳が、白くなるほど強く震えていることに。
彼の唇が、血が滲むほど噛み締められていることに。
(ああ……この人は)
嘘をついている。
それも、自分自身を傷つけるような、下手くそで悲しい嘘を。
彼は、私を帰そうとしているのだ。
地下牢という暗い場所から、太陽の下へ。
敵国という危険な場所から、故郷の家族の元へ。
私が「帰りたくない」なんて言い出さないように、わざと冷たく突き放して、未練を断ち切ろうとしているのだ。
「……分かったわ」
私は涙をこらえ、顔を上げた。
彼がそこまでして私を送り出そうとするなら、私はそれに応えなければならない。
それが、最強の騎士としての矜持であり、彼への最後の手向けだ。
「帰ります。……今まで、お世話になりました」
私は深く頭を下げた。
ギデオンは一瞬だけ息を呑み、そして背を向けた。
「……さっさと支度をしろ。馬車は裏口に待たせている」
彼は逃げるように部屋を出て行った。
バタン、と鉄扉が閉まる音が、いつもより重く、冷たく響いた。
◆
部屋に残された私は、ポヨンを抱きしめて座り込んだ。
「ぷきゅ……」
ポヨンが心配そうに私の頬を舐める。
その冷たさが、熱くなった目元に心地よかった。
「ごめんね、ポヨン。あなたも置いていかなきゃいけないみたい」
「ぷるっ!」
「連れて行きたいけど……きっと、あなたはここの魔力がないと生きられないものね」
私は部屋を見渡した。
私の「家」。
私の「居場所」。
わずか十数日の生活だったけれど、ここには私の人生で一番輝いていた時間が詰まっている。
クロゼットを開けると、彼が買ってくれた服やアクセサリーが並んでいた。
その中から、私が最初に着ていたボロボロの騎士服を取り出す。
もう一度、これを着て「紅の戦乙女」に戻らなければならない。
着替えを済ませ、私は最後にテーブルの上に置かれた赤いリボンの髪留めを見つめた。
あの日、城下町で彼が買ってくれたもの。
備品だと言われたけれど、これだけは。これだけは持って行きたい。
私はこっそりとリボンをポケットに忍ばせた。
これくらい、許してくれるわよね。
だって、泥棒猫だもの。
◆
その頃。
第零監獄の管理室にて。
「うああああああああんッ!!!」
男の号泣する声が響き渡っていた。
ギデオンである。
彼は机に突っ伏し、子供のように泣きじゃくっていた。
「隊長……汚いですよ、鼻水」
副官のロイドが、呆れ果てた顔でハンカチを差し出した。
ギデオンはそれをひったくり、顔を拭う。
「言った……言ってしまった……!
『用済みだ』なんて……! 『おままごとだ』なんて……!
あんな可愛い人に、あんな酷いことを……! 俺は死ぬべきだ! 今すぐギロチンにかけてくれ!」
「はいはい、自分で決めた演技でしょう。彼女を未練なく帰すための」
「でも辛い! 心が引き裂かれそうだ!
彼女が傷ついた顔をしたんだ……! 今すぐ駆け寄って抱きしめたい!
『嘘だ、大好きだ、一生ここにいてくれ』って縋り付きたい!」
ギデオンはバンバンと机を叩いた。
書類の山が雪崩を起こす。
「でも、ダメなんだ……。
彼女は英雄だ。地下牢で一生を終えるような人じゃない。
彼女には輝かしい未来がある。家族がいて、友がいて、称賛されるべき場所があるんだ。
俺のような陰気な男のエゴで、彼女を鳥籠に閉じ込めてはいけないんだ……!」
ギデオンの愛は、どこまでも深く、そして歪んでいた。
彼は彼女の幸せを願うあまり、自分の幸せを犠牲にする道を選んだのだ。
「……で、その『鳥籠』から出す彼女への手土産がこれですか?」
ロイドが指差したのは、部屋の隅に積み上げられた木箱の山だった。
最高級の茶葉、菓子店の全商品、シルクのドレス、宝石、そしてなぜか最新式の魔導調理器具まである。
「ああ。彼女が帝国に帰っても不自由しないように、生活物資を持たせる。
あと、ロイド。お前に頼んでいた件はどうなった?」
ギデオンは涙目で眼鏡をかけ直した。
「手配済みですよ。彼女を乗せる馬車は、王族用の特別仕様車。クッション性抜群で、長旅でもお尻が痛くなりません」
「よし。あと、護衛の兵士には『彼女に話しかけるな、直視するな』と厳命しろ。ナンパされたら困る」
「はいはい」
ギデオンは立ち上がり、窓の外(地下なので壁だが)を睨みつけた。
「行こう。……最後の見送りだ。
笑顔で……いや、冷徹な仮面を被って、彼女を送り出すんだ」
その拳は、爪が食い込むほど強く握りしめられていた。




