第10話 最強の令嬢も風邪には勝てず、冷徹な拷問官に看病されています
その日の朝、世界はグラグラと回っていた。
「……うぅ」
私は重たい瞼を持ち上げようとして、失敗した。
頭が割れるように痛い。喉が焼けるように熱い。
そして何より、身体が鉛のように重くて、指一本動かすのも億劫だった。
(な、なによこれ……敵襲? 毒ガス攻撃……?)
私は朦朧とする意識の中で、必死に状況を分析しようとした。
昨日までは元気だったはずだ。
ハーブの手入れをして、ポヨンとキャッチボールをして、ギデオンが持ってきた新作のケーキを食べて……。
……あ。
そういえば昨日、お風呂上がりに調子に乗って、薄着のままポヨンと「どちらが長く冷たい床に寝転がっていられるか選手権」を開催した気がする。
「自業自得……ってこと?」
私は情けなさで天井(リゾート風の壁画)を仰いだ。
帝国最強の女騎士ともあろう者が、ただの風邪でダウンするなんて。
これは恥だ。末代までの恥だ。
「ぷきゅ?」
枕元で、ポヨンが心配そうに私を覗き込んでいる。
いつもなら「おはよう」と抱きしめるところだが、今日は腕が上がらない。
「ごめんね、ポヨン……。お母さん、今日はちょっと……魔力切れみたい……」
「ぷるるっ!」
ポヨンが慌てて飛び跳ねる気配がする。
ごめん、目が回るから揺れないで。
その時だった。
カツン、カツン、という規則正しい足音が近づいてきた。
ギデオンだ。朝食を持ってきてくれたのだろう。
(いけない! バレたら大変!)
私は焦った。
もし私が病気だと知れたら、彼はきっと「捕虜の健康管理もできないとは!」と自分を責めるに違いない。
あるいは、弱った私を見て幻滅するかもしれない。
ここは気合で乗り切らねば。私は布団を頭まで被り、平常心を装った。
ガチャリ。
「おはよう、セラフィナ。今日の朝食は、リクエスト通り厚焼きパンケーキだ」
いつもの落ち着いたバリトンボイス。
パンケーキの甘い香りが漂ってくる。
普段なら飛び起きるところだが、今はその匂いですら少し胸焼けがした。
「……おはよう、ギデオン。そこに置いといて……あとで食べるから……」
私は布団の中から、精一杯の明るい声を出したつもりだった。
しかし、私の声は掠れていて、まるで老婆のようだった。
沈黙。
部屋の空気が、ピキリと凍りついたのが分かった。
ダッ!
足音が猛スピードでベッドに近づいてくる。
「セラフィナ!?」
布団がバッと剥ぎ取られた。
眩しい光と共に、蒼白になったギデオンの顔が現れる。
「な、なんだその顔色は! 呼吸が荒いぞ! どうした!?」
「だ、大丈夫よ……ちょっと寝起きが悪いだけで……」
「嘘をつくな! 目が虚ろだ!」
ギデオンは手袋を脱ぎ捨てると、私の額に素手を当てた。
ひんやりとした彼の手のひらが、熱を持った私の肌に触れる。
気持ちいい……。
「ッ……! 熱い! 煮えたぎるようではないか!」
ギデオンが悲鳴のような声を上げた。
彼はガタガタと震えだし、後ろに控えていたロイドに向かって絶叫した。
「ロイドおおおおっ!! 緊急事態だ!! コード・レッドを発令しろ!!」
「は? 何言ってるんですか隊長」
「セラフィナが! 彼女が死にかけている!! 高熱だ! 未知のウイルスかもしれん!
直ちに国中の医師を招集しろ! いや、教会の大司教を叩き起こして回復魔法をかけさせろ!
国境を封鎖して特効薬を探せ! 急げ!!」
ギデオンは錯乱していた。
まるで世界の終わりが来たかのような狼狽ぶりだ。
ロイドは呆れたように溜息をつき、私の顔を覗き込んだ。
「……ただの風邪ですね。昨夜、お腹出して寝てませんでした?」
「うぐっ……図星……」
「ほら、言わんこっちゃない。隊長、大袈裟です。風邪薬と氷枕があれば治りますよ」
ロイドの冷静な診断に、ギデオンはようやく少しだけ正気を取り戻した。
だが、その瞳には涙が溜まっている。
「か、風邪……? 本当に死なないのか? 彼女は帝国の宝だぞ? 俺の生きる意味だぞ?」
「死にません。静かに寝かせておくのが一番の薬です」
ギデオンは「そうか……」と呟くと、キリッとした顔つきに変わった。
彼は腕まくりをし、私に向かって宣言した。
「分かった。ロイド、お前は薬と消化の良い食事を手配しろ。
私は――彼女の看病をする」
「へ? 隊長が?」
「当然だ! 他の誰かに、弱った彼女の姿を見せるわけにはいかん!
それに、彼女の命を預かるのは尋問官(俺)の責務だ!」
こうして、第零監獄は一時的に『王立特別集中治療室』へと変貌を遂げた。
◆
それから数時間。
私はギデオンによる、過剰なほどの手厚い看病(介護)を受けていた。
まず、部屋の環境整備だ。
湿度は加湿の魔道具で完璧に管理され、照明は目に優しい薄暗さに調整された。
枕元には氷嚢と、大量のタオル、そしてなぜか花束まで飾られている。
「……セラフィナ、水だ。飲めるか?」
椅子に座ったギデオンが、ストローを挿したグラスを差し出してくる。
私はわずかに頭を動かし、一口だけ水を飲んだ。
「ありがとう……」
「礼などいい。……辛いか? どこか痛むか?」
ギデオンの声は、震えるほど優しかった。
彼の手が、私の額に乗せられた氷嚢を丁寧に位置調整する。
その表情は真剣そのもので、まるで爆弾処理を行っているかのような緊張感だ。
「大丈夫……。ちょっと、ふわふわするだけ……」
「(くっ……! 熱のせいで目が潤んでいる……! 頬が桜色に染まって……儚げで……!
可愛い! いや不謹慎だ! でも可愛い!
普段はあんなに強くて凛々しい彼女が、今はこんなに無防備に俺に身を委ねている……!
守りたい。この命に変えても!)」
ギデオンの内なる叫びは聞こえないが、彼が私の手を握りしめる力が少し強くなったのは感じた。
「ロイドが薬湯と、特製のお粥を持ってきた。……少しでも腹に入れたほうがいい」
ギデオンはワゴンから湯気の立つ器を取り出した。
鶏ガラと生姜の優しい香りがする。
「自分で……食べる……」
「ダメだ。手が震えている」
ギデオンは有無を言わさず、スプーンにお粥をすくった。
そして、フーフーと息を吹きかけて冷ます。
(えっ、まさか)
私の予感は的中した。
彼はスプーンを私の口元に差し出したのだ。
「……あーん、だ」
「っ!?」
私は熱のせいだけじゃなく、カッと顔が熱くなるのを感じた。
あーん? 敵国の尋問官に?
いや、それ以前に、大の大人があーんって!
「は、恥ずかしいから……いい……」
「我儘を言うな。これは『栄養摂取の刑』だ。拒否権はない」
ギデオンは真顔で(でも耳は真っ赤で)言い放った。
彼の眼鏡が少し曇っている。
その必死な様子がおかしくて、そしてなんだか嬉しくて。
私は抵抗する気力を失った。
「……ん」
私が小さく口を開けると、ギデオンは緊張した面持ちで、慎重にスプーンを滑り込ませた。
とろとろに煮込まれたお米と、鶏肉の旨味。
温かさが、弱った身体に染み渡っていく。
「……美味しい」
「そうか……。よかった……」
ギデオンは、まるで世界を救った勇者のように、深く安堵の息を吐いた。
それから彼は、私が満腹になるまで、甲斐甲斐しくスプーンを運び続けた。
一口食べるごとに、口元の汚れをハンカチで拭ってくれるオマケ付きだ。
食後、薬を飲んで落ち着くと、強烈な眠気が襲ってきた。
でも、眠るのが少し怖かった。
熱のせいだろうか。目を閉じると、自分が一人ぼっちの暗い牢屋にいるような錯覚に陥るのだ。
ここに来る前の、戦場での孤独な夜を思い出してしまう。
「……行かないで」
無意識のうちに、私の口からそんな言葉が漏れていた。
私は、片付けをして立ち上がろうとしたギデオンの袖を、弱々しく掴んでいた。
「一人にしないで……ギデオン……」
その瞬間、ギデオンの動きが完全に停止した。
彼はスローモーションのように振り返り、私の顔を見た。
「…………ッ」
彼は何も言わず、ただ目を見開いていた。
私の手は、熱くて湿っていて、きっと気持ち悪いだろう。
そう思って離そうとした瞬間、彼の手が私の手を包み込んだ。
大きくて、少しゴツゴツしていて、でもひんやりと心地よい手。
「行かない」
ギデオンは、掠れた声で言った。
彼は再び椅子の背もたれにコートをかけ、腰を下ろした。
「どこにも行かない。貴様が眠るまで……いや、朝が来るまで、ずっとここにいる」
「……仕事は?」
「知ったことか。ロイドに全部押し付ける(後で土下座する)」
彼の力強い言葉に、胸の奥の冷たい塊が溶けていくような気がした。
「ありがとう……看守さん……」
「……おやすみ、セラフィナ」
彼の手の感触と、規則正しい呼吸音を聞きながら、私は深い眠りの底へと落ちていった。
悪夢は見なかった。
代わりに、不器用な男の人が、一晩中私の手を握り続けてくれる夢を見た。
◆
翌朝。
目を覚ますと、身体の重さはすっかり消えていた。
熱も下がったようで、頭もすっきりしている。
「……あれ?」
私は自分が誰かの手を握っていることに気づいた。
視線を横に向けると、ベッドの縁に突っ伏して眠っているギデオンの姿があった。
眼鏡がずれて、黒髪が乱れている。
いつも完璧な彼が、こんなに無防備な姿を見せるなんて。
彼の手は、私の手をしっかりと包み込んだままだ。
(本当に……ずっといてくれたんだ)
胸がキュン、と音を立てた。
これは「吊り橋効果」とかいうやつだろうか?
それとも、風邪の熱でまだ頭がおかしいのだろうか?
私は空いている方の手で、そっと彼の髪に触れてみた。
サラサラしていて、柔らかい。
「……んっ」
ギデオンが身じろぎをし、ゆっくりと目を覚ました。
彼は私と目が合うと、バネ仕掛けのように飛び起きた。
「セ、セラフィナ! 気づいたか!?」
「おはよう、ギデオン。……すごい顔よ」
「身体はどうだ!? 熱は!? 痛みは!?」
彼は慌てて眼鏡を直し、再び私の額に手を当てた。
「……下がっている。平熱だ」
「うん。おかげさまで全快よ」
「よかった……本当によかった……」
ギデオンはその場に崩れ落ち、長い長い溜息をついた。
その目にはうっすらと涙が浮かんでいるように見えた。
大袈裟だなぁ。でも、その大袈裟さが、今はどうしようもなく愛おしい。
「ギデオン、ありがとう。看病してくれて」
「……当然のことをしたまでだ。貴様は我が国の……大切な(俺の)捕虜だからな」
「ふふ。じゃあ、お礼に何かしてあげようか?」
私はイタズラっぽく笑った。
ギデオンは首を横に振った。
「いや、何もいらな……」
「じゃあ、私が『あーん』してあげるわ」
「へ?」
私はサイドテーブルに残っていた、看病用カットフルーツ(リンゴ)を一つ手に取った。
そして、彼の口元に差し出す。
「お疲れ様。はい、あーん」
「ッ……!?」
ギデオンの顔が、一瞬にしてリンゴよりも赤くなった。
彼はパクパクと口を開閉させ、助けを求めるように周囲を見回したが、ロイドは気を利かせて席を外しているようだ。
「拒否権はないわよ? これは『看病のお返し』の刑なんだから」
「くっ……(心臓が……止まる……!)」
ギデオンは覚悟を決めたように目を閉じ、震える口を開けた。
シャクッ。
彼がリンゴを齧る。
「……どう?」
「……甘い。致死量に甘い」
「ふふ、よかった」
こうして、私の風邪騒動は幕を閉じた。
この一件で、私たちの距離はまた少し縮まった気がする。
少なくとも、彼の手の温もりを、私はもう忘れることはできないだろう。
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後日談。
執務室にて、ロイドが請求書を片手に頭を抱えていた。
「隊長……。『最高級ポーション10本』『王都名医の出張費(深夜料金)』『高級フルーツ盛り合わせ』……これ、全部一晩で使ったんですか?」
「ああ。安いもんだろう? 彼女の笑顔が守られたんだから」
「……はいはい。じゃあ、今月の隊長のランチはパンの耳決定ですね」
ギデオンの悲鳴が、平和な監獄に響き渡った。




