悲しい気分に浸りたかったので
『炎』
燃え盛る炎は瞬く間に全てを奪い去った。
高名な芸術家に描かせた絵画や彫刻といった美術品
職人の手により絹に金糸が織り込まれた最高級のドレス
意匠を凝らした大小さまざまな調度品や家具。
富の象徴たる豪奢な屋敷をまるごと飲み込み
炎は全てを灰と変えてしまった。
そしてそれは、屋敷にいた多くの人々も例外ではなかった。
その日、屋敷で開かれていた舞踏会。
各地方から集まる有力貴族の社交場として設けられたその舞踏会には
使用人やメイドも含めて100人以上が集まっていた。
それぞれが特別にあつらえたタキシードやドレスに身を包み
ダンスや談笑、料理やワインの品評など
優雅なひと時を夢見心地に過ごしていた。
炎は彼らをも容赦なく飲み込み
そのほとんどが逃げのびること叶わず
死者となりがれきの下に眠ることとなった。
辛うじてがれきの中から助け出されたのは
使用人と壮年の貴族と若い貴婦人の合わせて3名だけであった。
しかし使用人と貴族には回復の兆しが見られず、まもなくその命を落とした。
唯一命を取り戻すことができたのは若き貴婦人ただ1人。
しかし、炎は命の代償として若き貴婦人からその麗しき美貌を奪い去った。
全身は焼け爛れ、顔は以前の彼女と同一人物とは到底思えないほど醜く変形していた。
白磁のようだと称えられた肌も、美しきブロンドのロングヘアーも
男性を誘う唇も、意思の強さを感じさせる眉も、気品に満ちた顎の形も
全てはあの屋敷のように、燃え盛る炎に暴掠されてしまったのである。
もうそこには、気品と器量に満ち溢れた貴婦人の姿は存在しなかった。
『鏡』
鏡よ鏡、真実を映し出しておくれ
鏡よ鏡、真実を映し出しておくれ
鏡よ鏡、おまえが真実を映し出すものならば
鏡よ鏡、今おまえの中に映っているものはいったい何?
鏡よ鏡、おまえが真実を映し出すものならば
鏡よ鏡、今すぐこの私に真実を見せておくれ
鏡よ鏡、それともお前は
鏡よ鏡、これが偽りなき真実だとでも言うのだろうか
鏡よ鏡、醜く爛れたこの顔が
鏡よ鏡、私の本当の顔だとでも言うのだろうか
鏡よ鏡、戯れはもうおよしなさい
鏡よ鏡、私の本当の顔はこんなものではないのです
鏡よ鏡、真実を映しなさい
鏡よ鏡…
鏡よ鏡…
やがて、かつて若く美しい貴婦人であったその女性は
覗き込んでいた手鏡を病室の床に叩き付け、鏡は粉々に砕け散った。
大きな音に驚きやってきた病院の職員や医者に彼女は見向きすることなく、
ただ抑えることのできない涙を溢れさせていた。
かつての彼女であればその瞳から流れ落ちる涙の美しさには
真珠ですら路傍の石と変わらぬと評されたのだろう。
しかし、今彼女が流している涙を彩るのは悲嘆と絶望だけであった。
霞みゆく視界の中で彼女は先ほど砕け散った鏡の破片が
自身を包む毛布の上に落ちているのを見つけ
それを手に取り中を覗き込んだ。
砕け散った鏡の破片は、無情にも残酷なる真実を彼女に見せつけた。
『幻』
今日は絢爛なる舞踏会。
愛しのあの人は何処?
豪華な料理も極上のワインも、私の気を引くには遠く及ばない。
堅苦しい挨拶は抜きにしましょう。
互いに手を取り、指を絡ませ、優雅な音楽を聴きながら
2人だけの世界へ溶け込んでゆきましょう。
あなたは私の耳元で愛の言葉をささやくの。
私はつれない返事をしてあなたから遠ざかる。
そんな私をあなたは追いかけてつかまえて、再び愛をささやくの。
愛の言葉はもうたくさんだわ。
代わりに愛の証として跪き、私の手の甲に口付けを。
舞踏会はまだ終わらないわ。夜は長いのですから。
さぁ、どこまでも堕ちましょう。二人だけの世界へ
今の私の目には、もうあなたしか映らない…
―――目覚めた彼女の目に映ったのは無機質な病室の天井だった。
夢の中で彼女は未だあの時のまま
愛する人と2人で幸せな時間を過ごしていた。
しかし彼女と愛を誓ったその男はもういない。
あの姿はもう2度と、彼女の目に映ることはない。
全ては失われてしまった。それはまるで夢から醒めるように。
そして目覚めた彼女には何一つ、残されてはいなかった。
ならばせめてと、彼女は願う。
夢でも、幻であっても構わない。
もう少し、もう少しだけ、愛する人の腕に抱かれていたいと。
幻想の愛に、この身を浸していたいと。
そうして彼女は再び目を閉じた。幻と出会うために。
『白』
病室の窓から見える景色は一面、白に染まっていた。
全ては雪に覆われ、雪は覆いつくす全ての色彩を奪い去っていた。
白く染まる世界を、彼女は『美しい』と感じていた。
あらゆる汚れは白く塗りつぶされ、目に映るのはどこまでも清らかな白。
それは、まだ何物にも染まる前の無垢な少女のよう。
彼女は願う。私のこの身も心も、白く覆いつくしてくれないだろうかと。
醜くただれたこの身体、全てを失い幻にすがるこの心。
全て、全て、真っ白に。
白い世界、どうか私を受け入れておくれ。
私を白く、塗りつぶしておくれ。
『黒』
波にさらわれる砂城のように
人の記憶もやがては形を失っていく。
彼女に幻を見せていたのも、華々しく輝いていた彼女の記憶にほかならない。
削り取られていくように薄れゆく記憶は、彼女の夢の世界をも侵しはじめた。
あれほどまでに愛を誓い合った愛しき人の顔も、もうはっきりと思い出せない。
夢の中に現れる彼の顔には、黒い靄のようなものがかかり、愛をささやく彼の声も
その声色がどのようなものだったのか、彼女の耳に響くことはなくなった。
自分がどんなドレスを着ていたのか、どんなステップを踏んでいたのか
床に敷かれた絨毯の模様は、楽団の演奏していた曲はなんだったのか
父の顔、母の顔、友人の顔、幸せだったかつての日々。
彼女の夢の世界は、薄れゆく記憶と共に色を失い、やがては黒く塗りつぶされていった。
失われゆく記憶、黒く塗りつぶされていく夢。
駆り立てられる、恐怖と焦燥。
そしてある日の朝、ついに彼女は大きな悲鳴と共に夢から目覚めた。
―――彼女はもはや、自分の本当の顔すら思い出せなくなっていた。
『人形』
流す涙は枯れ果てた。
悲しむ心も枯れ果てた。
思い出すらも枯れ果てた。
彼女は自分の置かれた現実を知ることで
もう己に希望に満ちた未来は無いのだと悟った。
だからこそ、愛と幸福に溢れていた過去にすがりつくことでしか
自らをこの世界に繋ぎとめることができなかったのだ。
しかしその過去さえも、忘却という抗いようのない本能によって
そのほとんどが失われつつあった。
すでに、彼女の舌が言葉を紡ぐことはなくなり
彼女に声をかける者の言葉がその耳に届くことはなくなった。
病院の寝台に横たわっているのは、抜け殻のような彼女の身体。
彼女の心は、消えゆく記憶と共に黒い闇の中に溶け消え
もう二度と目覚めることはなかった。
それは、彼女の最後の意思。
目覚めを拒絶した彼女は、まるで物言わぬ人形のように静かだった。




