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追放令嬢は『呪いの蔵書』とささやき、破滅の運命(シナリオ)を修正する ~わたくしが知ってしまった責任、果たさせていただきます~

公爵令嬢リリアンナ・フォン・アルムフェルトは、完璧な淑女の見本だった。


艶やかな亜麻色の髪は手入れが行き届き、聡明さを宿す空色の瞳は常に理性的で、王立学園の成績はつねに首席。次期王妃として、婚約者である第一王子テオドール・フォン・アルストロメリアの隣に立つにふさわしいと、誰もが認める存在。 だが、そんな完璧な彼女には、決して誰にも言えぬ秘密があった。


「――まったく、近頃の若い者は。礼儀作法がなっておらん」


「本当ですわ。わたくしが王妃だったころは、もっとこう、雅やかでしたのに」


表向きは完璧な笑顔で令嬢たちのお茶会を主催している間も、彼女の耳には、常人には聞こえぬ『声』が届いていた。


声の主は、王城の最奥、一般の王族すら立ち入りを禁じられた『王家の禁書庫』に眠る、古の蔵書たち。 リリアンナには、物心ついた時から、そうした意思を持つ魔導書や年代記――『呪いの蔵書』たちのささやきが聞こえるという、特殊な能力があったのだ。


彼女の完璧な作法も、深い教養も、その大半は、このやかましい蔵書たちから叩き込まれたものだ。


『リリアンナ、そのドレスの意匠は三代前の流行だ。古臭い!』


『リリアンナ、歴史のテスト範囲はそこではない。わらわが語った裏面史・・が出ると言っておろうが!』 彼女にとって、王立学園の授業など、この禁書庫の賢者(?)たちのおしゃべりに比べれば、赤子の戯言に等しかった。


今日もリリアンナは、表向きは「学園の自主研究」という名目で、王家から特別に許可を得て、その聖域サンクチュアリへと足を踏み入れていた。 埃っぽく、インクと古い羊皮紙の匂いが満ちた薄暗い書庫。しかし、リリアンナにとっては、王城のどの部屋よりも心安らぐ場所だった。


「こんにちは、皆さん。今日も良いお天気ですわね」


彼女が柔らかな声で挨拶すると、書庫のあちこちから、待ってましたとばかりに声が上がった。


『おお、リリアンナか! よく来たな!』


分厚い革の表紙を持つ『王国建国史』が、厳格な老人の声で言った。


『遅いぞ、リリアンナ。今日はわらわの表紙を磨いてくれると約束したではないか!』


金細工で装飾された『古代呪術大系』が、甲高い貴婦人の声で不満を漏らす。


『どうせまた、つまらぬ学園の務めでしょう。それよりリリアンナ様、聞いてくださいまし。先日入った騎士団の報告書、あれ、完全に数字をごまかしておりますわよ。予算の横領ですわ!』


几帳面そうな『王家出納帳』が、密告するようにささやく。


彼ら『呪いの蔵書』は、単なる知識の集合体ではない。王家にまつわる過去の陰謀、呪い、そしてそれらが未来にもたらす「破滅の筋書き」まで、あらゆる情報を知っている。


そして、唯一自分たちの声が聞こえるリリアンナに、愚痴や噂話としてそれを一方的に提供してくるのだ。


「ふふ、順番に伺いますわ。まずは『建国史』様、埃を払いますね」


リリアンナは慣れた手つきで羽根箒を手に取り、彼らの「世話」を焼き始める。これが彼女の日常であり、秘密の務めだった。


その日の午後。 リリアンナが、数日後に迫った王立学園の卒業パーティーで着るドレスのデザイン画を(表向きの務めとして)眺めていると、それまで雑多だった蔵書たちの声が、不意に一つの話題で収束した。


『ああ、とうとう始まったか』


『またこの筋書き(シナリオ)だ。何度目だね、これは』


『可哀想に、リリアンナ様……』


ひそひそとした声色に、リリアンナは羽根箒の手を止めた。


「……皆様、何が始まったのですか?」


『リリアンナ様!』 蔵書たちの声が、一斉に悲痛な響きを帯びた。


『聞いて驚くなかれ! なんと、今度の卒業パーティーで……リリアンナ様は、テオドール王子から婚約破棄を言い渡されるぞ!』


シン、と書庫の空気が凍った。 リリアンナは、空色の瞳をわずかに見開く。


「……婚約破棄、ですって?」


『左様! あの『光の乙女』アストリッドとかいう小娘のせいでな!』


『建国史』が吐き捨てるように言った。 最近、学園で噂の男爵令嬢だ。平民に近い身分ながら、その身から聖なる光があふれ、怪我を癒す奇跡を起こすという。テオドール王子が、近頃彼女に執心しているという噂も、リリアンナの耳には届いていた。


『ああ、典型的な「愚かな王子と偽聖女」の筋書きだ!』


『王子は、リリアンナ様があのアストリッドを虐げた、などという讒言ざんげんを信じ込むのだ!』


『そしてパーティーの場で、リリアンナ様を断罪し、追放すると宣言する!』 蔵書たちは口々に、未来に起こるはずの「断罪イベント」の概要を語る。 だが、リリアンナは冷静だった。彼女は、完璧な公爵令嬢の仮面を崩さず、静かに問いかける。


「……皆様。その筋書き、わたくしが追放されて『終わり』、ではありませんわね?」 蔵書たちの愚痴は、いつも最悪の結末まで続くことを彼女は知っていた。


『……うっ』


蔵書たちが息を飲んだ。やがて、一番古びた『古代呪術大系』が、ため息まじりにつぶやいた。


『……その通りよ、リリアンナ。あんたが知らなきゃいけないのは、そこじゃない』


蔵書たちが語りだした「本当の破滅の筋書き」は、リリアンナの想像を絶するものだった。


第一に、婚約者テオドール王子は、アストリッドの色香に惑わされているわけではないこと。


『王子は完全に呪われておる。幼少期にかけられた『真実を覆う呪い』によって、思考を歪められておるのだ。だから、アストリッドの光が偽物だと微塵も見抜けん』


第二に、そのアストリッドは本物の聖女ではないこと。


『あれは聖力などではないわ。彼女の家系を蝕む『血の呪い』が、一時的に奇跡のように見えているだけ。彼女自身、自分が何者かを知らない、無自覚な被害者よ』


そして第三に、誰も幸せにならない、最悪の結末。


『リリアンナ様が追放された後……王子は呪われたまま、アストリッドを正式な聖女として国政に介入させる』


『だが、制御できない呪いの力は早晩暴走する。筋書きによれば、アストリッドは王都の半分を火の海にし、魔物を呼び寄せるわ』


『結果、彼女は「稀代の悪女」として処刑される。そして王子は……呪いと絶望で正気を失い、廃人となる』


『王家は失墜し、国は傾く。……誰も、誰も幸せにならん筋書きだ!』


蔵書たちの悲痛な叫びが、埃っぽい書庫に響き渡る。


リリアンナは、静かに目を閉じた。 卒業パーティー。婚約破棄。追放。 それは確かに、公爵令嬢としての破滅だ。 だが、彼女の心にあったのは、恐怖でも、絶望でもなかった。


(……そうだったのですか)


むしろ、パズルのピースがはまったような、冷たいほどの明晰さだった。


(王子殿下は、悪人ではなかった。ただ、呪いによって真実を見えなくさせられていただけ)


(アストリッド嬢は、わたくしから王子を奪った悪女ではなかった。自らの運命も知らず、やがて処刑される……救われるべき、哀れな犠牲者)


もし、この事実をリリアンナが知らなければ。 彼女はただ王子を恨み、アストリッドを憎み、絶望の中で追放されていただろう。 だが、彼女は知ってしまった。 この『呪いの蔵書』たちのおかげで、この悲劇が、誰の悪意でもなく、ただ「呪い」によって定められた「破滅の筋書き」にすぎないことを。


「……知ってしまった以上、見過ごすわけにはいきませんわ」


リリアンナは、そっと目を開く。 その空色の瞳には、先ほどまでの穏やかな理性の代わりに、鋼のような強い意志が宿っていた。 彼女は、手にしていたドレスのデザイン画をくしゃりと握りつぶす。


「わたくしの婚約破棄を回避するため? いいえ、そんな些細なことではありません」


彼女は書庫の蔵書たちを見渡し、凛として宣言した。


「王子殿下の呪いを解き、アストリッド嬢を呪いから解放し、国を破滅の運命から救う。それが、この筋書きを知ってしまった、わたくしの責任」


完璧な淑女の仮面の下で、公爵令嬢リリアンナは、未来の介入者として、そして彼ら全員の救済者として、静かに覚悟を決めた。


「皆様。ご協力をお願いいたしますわ。まずは、王子殿下とアストリッド嬢を蝕む『呪い』の詳細を。……解呪の方法を、わたくしに教えてください」


リリアンナの決意に、禁書庫がざわめいた。


『呪いの蔵書』たちは、ただ破滅の筋書きを嘆くだけの傍観者だった。だが、彼らの声を聞き、運命に介入しようと宣言した人間は、リリアンナが初めてだった。


『……本気か、リリアンナ』


『建国史』が、珍しく厳粛な声で問いかける。


『筋書きに逆らうなど。それは、世界のことわりに弓を引くことぞ』


「理が呪いによって歪められているのなら、それを正すまでですわ」 リリアンナは、揺るぎない瞳で蔵書たちを見つめ返した。


「わたくしは『知ってしまった』のですから。……さあ、教えてください。わたくしが最初に知るべきは、二つの呪いの詳細です」


その日を境に、リリアンナの「行動」が始まった。


彼女は卒業パーティーまでの残り一週間、表向きは完璧な公爵令嬢としてパーティーの準備や挨拶回りをこなしながら、その実、全ての時間を禁書庫での調査と「解呪」の準備に充てていた。


「まず、テオドール殿下の『真実を覆う呪い』。その起源と術者、そして症状の詳細は?」 リリアンナの問いに、王家の暗部を記した『黒の年代記』が重々しく口を開く。


『王子の呪いは、彼が五歳の折、王位継承争いの最中にかけられたもの。術者は、既に粛清された第二王子派の魔術師だ』


『症状は「認識の歪曲」。特に「光」や「聖性」といった概念に対し、正常な判断ができなくなる。……そして、その呪いを起動させる「鍵」が存在する』


「鍵、ですって?」


『うむ。術者の血筋が残した「偽りの聖性」を持つ者が現れた時、呪いは最大に増幅され、王子は偽りを真実と思い込み、真実を悪と断じるようになる』


『『古代呪術大系』が補足する。


『そして、その「鍵」こそが、あのアストリッドという娘。……彼女の「血の呪い」なのだよ』


リリアンナは息を詰めた。二つの呪いは、偶然ではなく、必然として絡み合っていたのだ。


「では、アストリッド嬢の『血の呪い』とは?」


『王家出納帳』の隣にひっそりと置かれていた『貴族除名録』が、か細い声で答えた。


『アストリッドの家系……ラングハイム男爵家は、五代前、王家から聖なる力を盗もうとした咎で追放された一族。その際、「その血に宿る力を聖性から呪いへと反転させ、代々その身を蝕み、最後には暴走して破滅する」という呪いをかけられたのです』


『つまり、彼女の放つ光は、聖力ではなく、彼女自身の生命力が呪いによって変換された、偽りの輝き……。彼女は今、自らの命を燃やして輝いているに等しい』


リリアンナは、固く拳を握りしめた。 王子は思考を奪われ、アストリッドは命を削られている。二人ともが、逃れようのない呪いの被害者だった。


「……解呪の方法は?」


『王子の呪いは根深く、完全解除には数年を要する。だが、卒業パーティーの場で「認識の歪曲」を一時的に中和する方法ならある』


『古代呪術大系』が言う。


『必要なのは二つ。王家の血にのみ反応する「月の涙」と呼ばれる魔晶石。そして、呪いによる「偽りの誓約」を断ち切る力を持つ「裏切りの羽ペン」。これらを使い、特定の術式を刻んだ「認識正常化の護符」を作るのだ』


『アストリッド嬢の方は?』


『彼女の呪いは血に刻まれているため、完全な解呪は不可能に近い。……だが、暴走を抑え、呪いを鎮静化させることはできる』


『必要なのは、強い浄化作用を持つ「銀霧ぎんぎり竜胆りんどう」という薬草。それを聖別した水で煎じ、霧状にして吸わせれば、一時的に呪いは眠りにつく』


「月の涙」「裏切りの羽ペン」「銀霧の竜胆」……。 どれもが、公爵令嬢とはいえ簡単には手に入らない、稀少な品々だった。


だが、リリアンナは動いた。


「お父様。卒業パーティーで身に着ける宝飾品ですが、わたくし、アルムフェルト家に伝わる『月の涙』のブローチをお借りしとうございます」


公爵である父は、娘の珍しいねだりに目を丸くしたが、王妃となる娘の門出だと思い、二つ返事で蔵から出してきた。


「お母様。パーティー会場で焚くお香ですが、わたくし、王家御用達の薬師に「銀霧の竜胆」を調合していただきたいのです。最近、どうも虫が多くて」


公爵夫人は、完璧主義の娘らしいと微笑み、すぐに最高級の薬草を手配させた。 公爵令嬢という彼女の立場は、この「救済」のための最大の武器だった。


最も困難だったのは「裏切りの羽ペン」だ。


それは、かつて王国が隣国との誓約を破棄した際に使われた、いわば「負の遺産」であり、禁書庫のさらに奥、『封印指定書架』に保管されていた。


『リリアンナ、あそこはわしらも近づけんぞ!』


蔵書たちが案じる中、リリアンナは王家から与えられた「禁書庫への立ち入り許可証」を手に、たった一人で封印の扉を開けた。 濃密な魔力のよどみの中、彼女は寸分違わぬ作法で封印を解き、目的の羽ペンを手に取った。



◇◇◇



そして卒業パーティーの三日前。王立学園の廊下で、リリアンナは「その二人」と鉢合わせになった。


「……テオドール殿下。アストリッド嬢。ごきげんよう」


リリアンナが完璧な淑女のカーテシーをとる。 だが、婚約者であるはずのテオドールは、氷のように冷たい視線を彼女に向けた。


「……リリアンナか。堅苦しい挨拶は不要だ」 彼の隣には、噂のアストリッドがいた。


小柄な彼女は、テオドールの腕に守られるように寄り添い、その身からは淡い、しかし人を惹きつける光が漏れ出ている。


(あれが、『血の呪い』の輝き……)


リリアンナは冷静に観察する。アストリッドの顔色は、その輝きとは裏腹に、病的に青白い。


「それよりリリアンナ。君に言っておかねばならないことがある」


テオドールの声には、あからさまな非難がこもっていた。


「近頃、君がアストリッドに陰湿な嫌がらせをしているという噂を聞いた。公爵令嬢にあるまじき嫉妬だ。恥を知るがいい」


「……殿下。それは誤解です」


「誤解だと? これほど清らかなアストリッドが嘘を言うとでも?」


テオドールは、アストリッドの肩を抱き寄せ、恍惚とした目であの偽りの光を見つめる。


(……ひどい。「認識の歪曲」がこれほどまでに)


リリアンナの目には、婚約者がまるで操り人形のように見えた。


「リリアンナ様……」


アストリッドが、おずおずと口を開く。


「わたくしは、殿下を奪うつもりなど……ただ、この力が、皆さまのお役に立てればと……」


そう言う間にも、彼女の体から漏れる光が強くなる。だが、彼女の瞳は不安げに揺れ、助けを求めているようにも見えた。


(やはり、彼女も被害者。自分の力が呪いだと知らず、ただ消費されている)


リリアンナは、二人に深く頭を下げた。


「申し訳ありません、殿下。わたくしの不徳の致すところです。……アストリッド嬢、あなた様のお力は、素晴らしいものですわ」


「なっ……」


予想外の言葉に、テオドールが息をのむ。 リリアンナは、ただ静かに微笑んだ。


「ですが、その尊いお力、くれぐれもご自愛くださいませ。……では、失礼いたします」


背後で、テオドールが「何を企んでいる、リリアンナ!」と叫ぶのが聞こえたが、彼女は振り返らなかった。


(嫉妬? 憎悪? いいえ、殿下)


リリアンナは、ドレスの袖に隠した「月の涙」のブローチを強く握りしめる。


(わたくしが感じているのは、ただ一つ。「責任」ですわ)


その夜、リリアンナは禁書庫に篭り、「月の涙」と「裏切りの羽ペン」を使って「認識正常化の護符」を完成させた。 そして、「銀霧の竜胆」を濃縮した小瓶を、ドレスの胸元に仕込む香水瓶へと偽装した。 さらに、『貴族除名録』の協力を得て、アストリッドの家系にかけられた呪いの詳細記したページの完璧な写し(プルーフ)も用意した。



◇◇◇



卒業パーティー、前夜。


全ての準備を終えたリリアンナは、禁書庫の窓から月を見上げていた。


『リリアンナ。……本当にやるのか』


蔵書たちが、不安げに問いかける。


「ええ。やりますとも」


明日、彼女は公衆の面前で断罪され、婚約を破棄される。 だが、それは「破滅の筋書き」の序章に過ぎない。


(わたくしの目的は、わたくしの名誉を守ることではない)


リリアンナは、完成した護符と香水瓶を手に取る。


(あの二人を、呪われた運命から救い出すこと。……破滅の筋書き(シナリオ)は、わたくしがここで修正する)



◇◇◇



王立学園の卒業記念パーティーは、王国の未来を祝うにふさわしく、眩いばかりの光と華やかな喧騒に満ちていた。


シャンデリアが星々のように煌めき、最高級のシルクやビロードが擦れ合う音が、オーケストラの優雅な調べと混じり合っている。 だが、その祝祭の空気は、水面下で張り詰めた緊張をはらんでいた。 全ての貴族たちの視線が、三人の人物に集中していたからだ。


完璧な淑女として、しかしどこか影のある微笑みを浮かべて佇む、公爵令嬢リリアンナ・フォン・アルムフェルト。


その婚約者でありながら、彼女を公然と無視し、代わりに一人の令嬢を侍らせる、第一王子テオドール。


そして、王子の庇護を受け、その身から病的なまでに青白い「聖なる光」を放ち続ける、男爵令嬢アストリッド。


(始まった……)


リリアンナは、周囲のひそやかな噂話を耳にしながら、冷静にその時を待っていた。


(アストリッド嬢の顔色が悪い。呪いの力が、噂の広まりと共に増している。……そして殿下は、完全に『認識の歪曲』に囚われている)


テオドールの瞳は、アストリッドの放つ偽りの光に焦がれるように固定され、リリアンナに向ける視線は、もはや婚約者に対するものではなく、断罪すべき敵意そのものだった。


やがて、オーケストラの演奏が止んだ。 運命の時が来た。


テオドール王子が、アストリッドの手を取り、広間の中央に進み出た。人々が静まり返り、彼らを見守る。 「皆、静粛に!」 王子の厳かな声が響く。彼はアストリッドを優しく背後にかばい、広間の対角に立つリリアンナを、憎悪に満ちた目で見据えた。


「本日、この門出の日に、私は王国を揺るがす重大な罪を告発せねばならない!」


会場がどよめいた。


「我が婚約者、リリアンナ・フォン・アルムフェルト公爵令嬢!」


王子は、リリアンナをまっすぐに指さす。


「貴様は、その嫉妬心から、この類まれなる『光の乙女』アストリッド嬢に対し、陰湿な嫌がらせと虐待を繰り返してきた! その証拠は上がっている!」


テオドールが懐から取り出したのは、数枚の羊皮紙だった。


「アストリッド嬢のドレスを切り刻ませ、教科書を隠し、あまつさえ階段から突き落とそうとしたという侍女の証言もある! 聖女に対するその行い、王妃となる者として万死に値する!」


『ああ、筋書き通りだ』


リリアンナの耳にだけ、遠い禁書庫からの蔵書たちの嘆きが聞こえる。


「よって、私はここに宣言する! リリアンナ・フォン・アルムフェルト! 貴様との婚約は、ただ今をもって破棄する!」


断罪。婚約破棄。


『破滅の筋書き』の第一幕が、完璧に演じられた。


アストリッドは王子の影でか細く震え、貴族たちはリリアンナを非難と侮蔑の目で見つめる。 だが、リリアンナは、泣きもせず、怒りもせず、ただその場で、完璧な淑女のカーテシーを深く、静かに返しただけだった。 そのあまりに冷静な反応が、かえって広間の空気を凍らせる。


リリアンナはゆっくりと顔を上げ、呪われた婚約者と、呪われた恋敵を、まっすぐに見据えた。 「テオドール殿下」 凛とした、しかし憐れみを含む声が響く。


「その『証拠』とされる羊皮紙を、今一度よくご覧くださいませ」


「な、なにを……」


「殿下。……いいえ、その『証拠』こそが、殿下の目を曇らせる呪いの顕れですわ」


その一言に、テオドールだけでなく、周囲の貴族たちも息をのんだ。


「……呪い、だと? 往生際が悪いぞ、リリアンナ! この期に及んで、私がおかしくなったとでも言うつもりか!」


「おかしくなっている、のではありません。ただ、『真実を見えなくさせられている』だけです」


リリアンナは、ドレスの胸元から一枚の羊皮紙を取り出した。それは準備した、『貴族除名録』の写しだった。


「皆様! そして殿下! あなた様が『光の乙女』と信じるアストリッド嬢の力は、聖力ではありません!」


彼女は写しを高く掲げる。


「これは、王家の禁書庫に眠る『貴族除名録』の写し。五代前、ラングハイム家が王家から力を盗もうとした咎でかけられた、『血の呪い』の記録です!」


「な……でたらめを!」


「でたらめではございませんわ。その呪いは、『その血に宿る力を偽りの光に変え、代々その身を蝕み、最後には暴走して破滅する』というもの。アストリッド嬢は、ご自身の生命力を燃やして、今、輝いておられるのです!」


リリアンナは、青ざめて震えるアストリッドへと視線を移す。


「アストリッド嬢。わたくしがあなたを虐待したと? いいえ。あなたはただ、ご自身の呪いによって衰弱し、階段を踏み外しかけたに過ぎません。わたくしは、むしろあなたを助け起こしたはずですわ」


「そ、そんな……」


アストリッドの瞳が、恐怖と混乱に見開かれる。


「殿下。あなたが『証拠』として持つ侍女の証言は、第二王子派の残党が、この事態を予見して仕掛けた罠。そして、あなた様の『真実を覆う呪い』は、アストリッド嬢の『血の呪い』を鍵として起動し、偽りを真実と、真実を悪と誤認させているのです!」


「だまれ! だまれリリアンナ!」


テオドールが絶叫した。論理的な反証に、彼の内なる呪いが激しく抵抗しているのだ。


「アストリッドの光が偽物だと言うなら、なぜこれほどまでに清らかに輝くのだ! なぜ皆を癒すのだ!」


「それは、暴走の兆候ですわ!」


リリアンナが叫んだ、その時だった。


「あ……あ……!」


自らの力の正体を知った衝撃と、テオドールの激昂に呼応し、アストリッドの体が弓なりにしなった。 彼女から放たれる光が、淡い白から、不吉な赤黒い輝きへと変わる。


「きゃあああ!」


「熱い!」


「魔力が……!」


周囲の貴族たちが後ずさる。


シャンデリアが共鳴して軋み、窓ガラスにヒビが入る。『破滅の筋書き』の第二幕――呪いの暴走が、今、始まろうとしていた。


「させるものですか!」


リリアンナは動いた。 絶叫する貴族たちをかき分け、暴走する呪いの中心へと、彼女はためらわずに歩み寄る。


「リリアンナ! 戻れ!」


テオドールが叫ぶが、リリアンナは振り返らない。 彼女は苦しむアストリッドの前に立つと、胸元に隠していた「香水瓶」――高濃縮された「銀霧の竜胆」の小瓶を取り出した。


「アストリッド嬢! これを吸い込んで!」


リリアンナが蓋を開けると、清冽な霧がアストリッドを包み込む。


「ぐ……う……あ……」


浄化の霧を吸い込んだアストリッドの体から、あの赤黒い光が急速に色を失い、鎮静化していく。暴走は、寸でのところで食い止められた。


「な……何をした……」


目の前の光景が信じられず、テオドールが慄く。


「そして、殿下。あなた様の番ですわ」


リリアンナは、自らの胸に輝くブローチ――「月の涙」を核とした「認識正常化の護符」――を、強く握りしめた。


「わたくしは、この『筋書き』を知ってしまった。ゆえに、ここで修正する!」


彼女は、混乱するテオドールの前に立つ。


「王家の血にのみ反応する『月の涙』よ、真実を映せ! 『裏切りの羽ペン』よ、偽りの誓約を断ち切れ!」


リリアンナが呪文を唱え終えると、ブローチが強烈な、しかし冷たい理性の青い光を放った。 光はテオドールの額を撃ち、彼の全身を包み込む。


「ぐ……あああああっ!」


王子が、頭を抱えて膝をついた。 彼の瞳から、アストリッドの光に焦がれていた盲目的な熱が、急速に引いていく。 数秒の静寂。 やがて、テオドールはゆっくりと顔を上げた。


彼は、自らが握りしめていた「証拠」の羊皮紙に目を落とす。そこには、今や彼の目にも、あまりに稚拙な筆跡の偽証しか見えなかった。 彼は、力なく横たわるアストリッドを見た。


彼女を包んでいたのは「聖なる光」ではなく、痛々しい呪いの残滓だった。


そして最後に、彼は目の前に立つリリアンナを見た。 憎悪も、嫉妬も、そこにはない。ただ、深い憐れみと、全てを知る者の静かな覚悟だけが、その空色の瞳に宿っていた。


「……リリアンナ……?」


テオドールの唇から、まるで夢から覚めたような、かすれた声が漏れた。


「わ、私は……いったい、何を……」


『破滅の筋書き』は、確かに今、改変された。 リリアンナは、自らの断罪の場で、断罪者と、その道具とされた被害者、その両方を救済してみせたのだった。


パーティー会場は、水を打ったように静まり返っていた。


先ほどまでの華やかな喧騒は嘘のように消え去り、貴族たちは、今しがた目の前で起きた事を前に、息をすることも忘れていた。


赤黒い呪いの光は消え、アストリッドは侍女たちに抱えられていた。その顔色は青白いままだが、苦悶の表情は消え、穏やかな寝息を立てている。呪いの暴走は、確かに止められたのだ。


第一王子テオドールは、両膝をついたまま、自らの手のひらを見つめていた。 呪いが解けた瞳に、ゆっくりと正気の光が戻ってくる。


彼は、アストリッドを見た。あれほどまでに焦がれた「聖なる光」は、彼女の命を蝕む呪いの輝きでしかなかった。


そして、彼はゆっくりと、目の前に立つ女性を見上げた。


リリアンナ・フォン・アルムフェルト。


彼が、自らの愚かさで断罪し、婚約を破棄した女性。 彼女は、憎しみも、怒りも、勝利の傲慢さも見せず、ただ、全てを知る者の静かな瞳で、彼を見つめ返していた。


彼女こそが、この破滅の筋書きの中で、唯一真実を知り、敵であるはずの自分とアストリッドの両方を救うために、たった一人で戦っていたのだ。


「……リリアンナ」


声が、震えた。


テオドールは、よろめくように立ち上がる。彼は、自らが王国に、そして何よりも彼女に何をしてしまったのかを悟り、その場に深く、深く頭を垂れた。王族としての体面も、誇りも、そこにはなかった。


「……すまない」


絞り出すような謝罪だった。


「私は……呪いとはいえ、君という王国最大の宝を、自らの手で踏みにじるところだった。君が警告してくれていたというのに、私は……」


彼は顔を上げ、リリアンナの前に進み出ると、今度は公衆の面前で、片膝をついた。それは、臣下が行う最上級の敬意。


「リリアンナ嬢。君こそが、この国の真の聖女だ。いや、聖女などという言葉では足りない。君こそが、この国の守護者だ」


彼は、リリアンナの手を取ろうとし――その手が、どれほど冷たく、この瞬間のために震えていたかに気づき、息をのんだ。


「私は、全てを間違えた。……だが、今、呪いの解けたこの目で見れば、私に必要なのが誰なのか、火を見るより明らかだ。リリアンナ、どうか、こんな愚かな私を許し、もう一度……もう一度、私の妃として、この国を導いてはくれないだろうか」


真摯な謝罪。


そして、改めての求婚。 呪いに惑わされたものではない、心の底からの言葉だった。 広間の誰もが、公爵令嬢の完全なる勝利と、王妃の座への帰還を疑わなかった。


しかし、リリアンナは、そっとテオドールの手から自らの手を引き抜いた。


そして、完璧な淑女のカーテシーを、彼に返す。


「テオドール殿下。そのお言葉、心に染み入ります。……ですが、そのお申し出は、お受けできません」


「――な」


テオドールの、そしてその場にいた全員の時間が止まった。


リリアンナは、穏やかに微笑んだ。それは、重い責務から解放されたような、心からの笑みだった。


「殿下。わたくしは、この度のことで、わたくしの本当の居場所がどこなのかを、はっきりと悟ってしまいましたの」


彼女は、まるでそこにいるかのように、愛おしげに禁書庫のある方角へ視線を向ける。


「妃の座より、禁書庫で蔵書たちのおしゃべりを聞きながら、未来の呪いをこっそり修正する方が、どうやらわたくしの性に合っておりますの」


「……リリアンナ?」


「わたくしが果たしたかったのは『知ってしまった責任』です。それは、妃の座で果たせるものではございませんわ」


前代未聞の、王太子妃の座の辞退だった。


だが、彼女の空色の瞳に宿る揺るぎない決意を見て、テオドールは、もはや何も言うことができなかった。



◇◇◇



それから、半年後。


王家の禁書庫は、以前の埃っぽい姿が嘘のように整然と、しかし活気にあふれていた。


「まったく。『古代呪術大系』様たら、先日のお話と違うではございませんの。これでは、南部の干ばつの『筋書き』が、洪水に変わってしまいますわ!」


「うるさいぞ、リリアンナ! わらわの記憶より、そなたが書き留めたメモが間違っておるのだ!」


「まあ、失礼な!」


分厚い革表紙の魔導書と、一人の女性が、本気で口論を繰り広げている。


リリアンナ・フォン・アルムフェルト。彼女は今、公爵令嬢でも、王妃候補でもない。 国王直属の特任職――『王家禁書庫・司書長』という、彼女のためだけに作られた地位についていた。


彼女はあの日、婚約破棄を正式に受け入れ、代わりにこの職を要求したのだ。 彼女の能力と功績を知った国王とテオドールは、それを二つ返事で受け入れた。


アストリッドの「血の呪い」も、リリアンナが蔵書たちと見つけ出した方法で、王家の庇護のもと、時間をかけた鎮静治療が続けられている。


「……司書長。少し、よろしいか」


禁書庫に、静かな声が響いた。 リリアンナが振り返ると、そこには、次期国王として公務に励むテオドールの姿があった。


「殿下。執務室以外でお会いするのは珍しいですわね」


「ああ。君が要求した『古代文献修復予算』だが、倍額で承認が下りた。これで、例の『呪い』の調査も進むだろう」


「まあ! 助かりますわ!」


ぱあっと顔を輝かせるリリアンナに、テオドールは苦笑する。


(……本当に、君は変わった。いや、これが本来の君だったのか)


かつて呪いによって見えなかった彼女の聡明さと輝きを、今、テオドールは眩しい思いで見つめていた。


あの日以来、二人の関係は変わった。婚約者ではなく、王国を背負う「同志」として。


テオドールは、リリアンナの類まれな能力と、それを「責任」として使いこなす高潔さを、誰よりも深く理解し、尊敬していた。


彼の彼女に対する「溺愛」は、今や、彼女がその力を最大限に発揮できるよう、国の予算と権力を惜しみなく注ぎ込むという形で表れていた。


「無理はするな、リリアンナ。君は、もう一人で背負う必要はないのだから」


「ふふ、殿下こそ。……あら?」


リリアンナの耳が、禁書庫の奥からのささやきを捉えた。


『聞いたかい? 隣国の第三王子が、妙な魔獣を拾ったらしいぞ』


『ああ、それ、放っておくと十年後に大陸を揺るがす『魔王の筋書き』の始まりだ……』


「……殿下」


リリアンナは、悪戯っぽく微笑んだ。


「申し訳ありませんが、また少し、予算が必要になりそうですわ」


知ってしまった責任は、今日も彼女の双肩にある。 だが、その横顔は、王妃のティアラよりも誇らしげに、禁書庫の陽光の中で輝いていた。

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