それでも、ほんのわずかに光る何かを探して
店内の照明がゆっくりと戻った後も――、しばらく、女達は黙りこくっていた。
しかし、やがて……、朝奈が泣きながら強い酒を飲み干して叫んだ。
「……マジあり得ん‼ 何こいつ⁉ 最悪の糞野郎じゃんっ‼」
あかねは泣いていないのに、あかねの代わりに鼻水まで垂らして泣いて、朝奈がバーカウンターを越えてあかねの元へ駆け寄ってきた。
「ごめん、引かないで。でも、我慢できなくて……!」
そう言って、朝奈がぎゅっとあかねを抱きしめてくれる。
漫画みたいにおいおい泣いている朝奈を見て、あかねは首を振った。
「ありがと、朝奈ちゃん。嬉しいけど、でも……。言ったでしょ? あたしも、最低なことしたんだよ」
慰めてもらえる権利なんか、ない。
ましてや、自分を哀れんで、泣く権利なんか――……。
そう言おうとしたあかねの頭に、隣に座った夜香の手が伸びてくる。
あかねの頭をガシガシ撫でて、夜香が目を伏せたまま言った。
「それはそうよ。忘れちゃいけないし、正当化しちゃいけないし、なかったことにもしちゃいけない。けどさぁ……」
「……それは、地上での話。ここじゃ、好きなだけ泣いていいのよ。誰も見てないもの」
昼恵におっとりとした声で言われると……、もう駄目だった。
あかねは泣き始めた。
あかねの嗚咽を聞いて、髪をかき上げながら、夜香が言った。
「……気持ち、わかるよ。だって……、あかねちゃんにはあかねちゃんの、言い分があるわけじゃない?」
「……でも、そんな独り善がりなこと、言う資格、あたしには……」
「だから、ここではいいの! ここでは独り善がり、あり! あかねちゃんの気持ち、あたし達はいくらでも聞くからさっ……」
朝奈がまだ泣きながらあかねの手を握る。
あかねは、無言でこくこくと頷いた。
自分の手で失わせてしまった命、自分が傷つけた人、失ってしまったありとあらゆる大切だったもの。
どうして――あの時、少しだけでも冷静になれなかったんだろう……?
「……皆が駄目だって止めてくれた時、あたし、意地になっちゃったんですよね。馬鹿でした。なのに、自分が馬鹿だったってこと、間違ってたってこと、どうしても認められなくて……。いつかあの男と幸せになって、まわりを見返してやりたくて。……それで、安い意地を張って、どんどん泥沼に嵌まって。でも、失ったものが大き過ぎて、男と離れたら自分に何にもなくなる気がして……」
そうして、あかねは、あの男を自分の意思で選び続けた。
けれど、あんなにも欲しくてならなかった、心から好きだと思っていた、愛していた男は――あかねにとっては柄のない刃物のようなものだった。
抱きしめれば抱きしめるほどに、しがみつく強さが増すごとに、あかねを傷つけてぼろぼろにする――……。
……あれから、あかねとあの男は、本当に結婚した。
予想してしかるべきだっただろうが、婚姻届けの提出に際しても役所にあの男がついてくることはなかったし、結婚式も指輪もなかった。
入籍後は殴られることはなかったけれど、男の浮気癖は治るどころか悪化し、そのくせ、決して浮気を認めようともしなかった。
夫婦の間にほとんど会話はなく、口を開けば罵り合い、軽蔑し合って……本当に、ただ互いを不幸にするためだけの結婚生活だった。
入籍から十年以上も経って、奴に新しい浮気相手が、それも成人したてだという若い女ができて、さらにはその女が身ごもったと聞いて――……。
またも、あかねは狂った。
男も女も訴えて、男の実家からまた慰謝料を取って、男が狙っていた離婚と再婚の計画も駄目にしてやって、滅茶苦茶に恨まれて憎まれて……。
ようやく、あかねは、復讐のための結婚なんてできないと悟った。
「憎しみっていうのは、不思議です。あたしごときにできる限り、復讐は完遂しました。あいつの人生に関わってもいいと思える時間すべてをかけて、あいつの人生を悪くしてやりました。でも……。悪いのはあいつなのには間違いないのに、その非道を正そうとしても、教えて諭して言い負かしてやろうと思っても、空まわるだけ――。それどころか、どんどんどんどん悪くなっていきました」
男への恨みに支配されて、まわりより十歳以上も早く歳を取ってしまったように、あかねの顔は憎悪で歪んでしまった。
そこまできて、やっとのことで、あかねは学んだ。
お天道様なんてものはあかね達を見てくれていないし、天罰なんかないし、悪い奴は悪いままなんだ、って。
「……でも、あたしも同じなんですよね。だって、あんなに傷つけた人達から、あたし、復讐されなかったもん」
訴えられることもなければ、お金を請求されることもなかった。
だから、あかねは大手を振るって、お天道様の下をのうのうと歩いて、心置きなく男に集中できた。
男を不幸にするために。
……いや、本当は、本心は、男を改心させて……ううん、綺麗事はやめよう。あかねの都合がいいように男を変えて、今度こそ幸せになろうと思っていた。自分勝手に。
結局、男は変わらなかった。
全部終わってから……、わかった。
あかねはただ――欲しいような気がしていたものが手に入らなかったから、我が儘な子供のように意地になって駄々をこねて暴れていただけで、男を愛してなどいなかったのだ……、と。
……だって、あかねに対してあんなことをした男のどこに、愛する余地があったというのだ?
「……やっとやっと、いろんな人が言う、『人は変わらない』、って言葉の意味、わかりました。あんな男のために人生も自分も滅茶苦茶にして、まわりを傷つけて……。あたし、何のために生まれてきたんだろう、って、毎日考えます。……ああ、本当に駄目な人間です。こうやって、今、やっと少しだけ冷静になれて、振り返ってるのに、考えるのは、自分の傷とか、自分が失ったもののことばっかりで」
あかねが言いたいだけの懺悔を、バーの女達はすべて吐き出させてくれた。
「……でも、わかってるんです。今更傷つけた人に謝りに行っても、迷惑なだけだって。だって、謝られたからって、何だって言うんですか? 謝るって、結局、許されたい気持ちの裏返しじゃないですか。あたし、あの男に謝られたって、何一つ許せない。だから――背負って生きてくしかないんですよね……」
砂時計をくるりとひっくり返すように、もしやり直せるなら、やり直したい。
幸せになれなくたって、いい。
ただ、せめて、いくつかの最悪の後悔だけは――やらない自分でいたかった。
……でも、そんなのは無理なのだ。
過去には、戻れない。
あかねは泣いて、何とかもう憎しみとも後悔とも距離を置こうと、グラスを置いて立ち上がった。
「……聞いてくれて、ありがとうございました。話せて、少しだけすっきりしたみたいです。あたし、もう行きますね……」
物語の結末は告げずに――あかねは去っていった。
そう、現実には、物語は終わらないのだ。
人生の幕が下りるまでは……。
++ ♢ ++
「……あかねちゃん、離婚するのかなぁ」
客のいなくなったバーカウンターで、グラスいっぱいに詰め込んだ氷をマドラーでガリガリ砕きながら、朝奈がぼやく。
夜香は肩をすくめた。
「さあね……。それは、あたし達にはわからない」
その答えに、〈いいこと思いついた!〉とばかりに、朝奈が顔を上げる。
「ねえ。あたし達が必殺仕事人みたいになってさ! 地上にお仕置きに行く?」
「無理でしょ……。ここから出られないんだからさ」
夜香が言うと、朝奈は悔しそうに顔を歪めた。
「そりゃそうだけどさぁ……。あんまりにも、酷くてさぁ……! ……何でそんなに嫌な奴になれんの? 好きになられた側ってだけでさぁ、畜生、そんなに偉いのかよ⁉」
歯を食いしばって、朝奈がぽろぽろ涙を落とす。
昼恵が、キッチンから出てきて泣いている朝奈の頭を撫でた。
「男の人も、きっと寂しい弱い人なのよ。今日の青空に感謝できる人もいれば、ただの現象にしか見えない人もいる。そういうものよ」
弱い人間が集まって、誰かを踏みつけにして、傷つけて、人生の隙間を埋めて……傷つけられた人が、また他の誰かを傷つける――。
その連鎖が、世界を形作っている。
それでも、ほんのわずかに光る何かを探して……。
思い通りにならない世界から、時折、時間も空間も超えて、エレベーターを降りてくる人がいる。
三姉妹が酔い潰れて眠った次の夜もまた、壁の古いエレベーターが軋み始めた。
話したい何かを抱えた、誰かを乗せて……。
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完結です!
ここまで読んでくださってありがとうございました!
もしよろしければ、本シリーズの他短編や、クロスオーバー本編「本命彼女はモテすぎ注意! ~高嶺に咲いてる僕のキミ~」も読んでいただけたら嬉しいです。
お知らせです!
次作の女性向けR18小説の試し読み連載を、今月中か、遅くとも来月くらいから始める予定です。
内容は、新人女教師×御曹司高校生のダブルヒーロー物です。
そちらも読んでいただけたら嬉しいです。