あかねちゃん、今日はもう帰る?
再び箕輪から連絡が来るようになったのは、大学の授業が後期に入って、しばらく経ってからのことだった。
その頃には、あかねはラクロス部の部員からマネージャーになっていた。
日常に少し余裕の出たあかねを箕輪が誘ってくれて、直にあかねは彼の部のマネージャーも掛け持つようになった。
といっても、メインはラクロス部の方だったから、そんなにたくさん顔を出せたわけじゃない。
箕輪に誘われて嬉しかったけれど、どこかで予感していた通り、……やっぱり箕輪は〈遊んでいる〉という噂のある先輩だった。
それを証明するように、また箕輪から連絡が来るようにはなったものの、夏前までのように頻繁ではなかったし、ハートマークもないままだった。
そのうちに故障から復帰した箕輪からの連絡はどんどん減って、でも、その頃には、部活で定期的に顔を合わせるようになっていたから、彼はあかねにとって凄く気になる存在になっていた。
あかねは、悩み始めた。
箕輪のことを知っている人に話したくて、同じ部の同期の数人に相談してみると、その後で、とある男の子があかねを呼び止めてきた。
「……窪田さん、ちょっと話があるんだけど」
「え?」
声をかけてくれたのは――、あかねと同じ一年生の、岸本という男子だった。
地味でおとなしそうな男子で、いかにも今まで一度も彼女ができたことがありません、という感じの人。
でも、箕輪と同じポジションで彼と仲がいい方だから、相談するメンバーに入ってもらったのだ。
……一度だけ、あかねがこの部のマネージャーになったばかりの頃に、彼があかねを『可愛い』と言っていたという噂を、聞いたことがあった。
特に岸本が個人的に連絡してくるということはなかったけれど、彼とあかねが仲良くしていれば、箕輪が焼き餅を妬いてくれるかもしれないという、ちょっとした計算もあった。
――その岸本が、どこかおどおどした様子で、小さな声であかねに言った。
「……あのさ。窪田さん。えっと、言いにくいんだけど……。……箕輪さんは、やめといた方がいいと思うよ」
「は……? 何で……?」
「いや……。でも、箕輪さんってさ……」
どこか躊躇うように、岸本が口元に手を当てる。
そういえば、誰か見ていないか周囲を確認しているようでもある。
あかねは、眉をひそめた。
「……それ、悪口? 岸本君、箕輪さんと仲いいんじゃないの?」
正義感が強くて、こういうコソコソとした悪口の類が嫌いなあかねは、急に彼が性根の捻じくれた狡い男に見えた。
あからさまに不快を示したあかねに驚いて、岸本は口ごもった。
「いや、悪口っていうか……。……ごめん、変なこと言って。でも、言った方がいいと思ったから」
それだけ言うと、まだ怒っているあかねの表情を察して――、岸本は去っていった。
きっと岸本はあかねに気があるから、箕輪との仲を邪魔しようとして、あんなことを言うのだろう。卑怯な奴だ。
あかねを好きなら、男らしくはっきりアプローチしてくればいいのに……箕輪みたいに。
むっとして、この話を箕輪に伝えておいた方がいいだろうか? ……と考える。
……いや、そこまでするほどのことじゃないか。
そう納得して、でも、女子マネージャー仲間達にはこのことを共有して岸本の評判を落としてやって、あかねは留飲を下げたのだった。
♢ 〇 ♢
そのうちに、あかねは勇気を出して、自分からも箕輪に連絡してみるようになった。
すると、三回目に送ったメッセージが途切れずにどんどん繋がって、拍子抜けするくらいにあっさりデートの日取りが決まって、あかねは緊張しながらその夜を待った。
その日の箕輪は終始機嫌がよくて楽しそうで、出会ったばかりの頃に戻ったように優しくて積極的だった。
「あかねちゃんと一緒にいると、やっぱ楽しいわ。こんなんだったら、もっと早く遊べばよかったね」
嬉しそうに、箕輪は何度もそんなことを言った。
(……何だ。夏からただずっと、ほんとに忙しかっただけなんだ)
相談した女友達の誰かがフォローして慰めてくれた通り、彼の態度が変わったと思っていたのは、あかねの早合点だったみたいだ。
どぎまぎしながらも近い距離感が嬉しくて、あかねは箕輪とたくさん話した。
安い居酒屋に入って、飲めない酒も彼に合わせて飲んで……。
でも、ちょっと飲み過ぎたみたいだった。
「あかねちゃん、今日はもう帰る?」
終電間際、どこか残念そうな顔で彼に訊かれ、あかねは迷った。
相変わらず忙しそうな彼と、今夜を逃すと次はいつ会えるかわからない――と思ってしまった。
……いや、言い訳だ。
あかねが、離れたくなかった。
もっと側で、彼の体温を感じたかった。
彼をあかねに夢中にさせて、彼に抱きしめられて大事にされたかった。
それに……、箕輪の彼女にしてほしかった。
(あと、少しだけ……。少しなら、いいよね……)
眠くなったら、そう――ホテルとかあかねの部屋とかじゃなくて、カラオケかネカフェに入ればいい。
それで、何時間か、あの一度だけ電話した夜のように、お喋りをして……。
そんな風に淡い夢を抱いて、もう少し関係を進展させたくて、ノリが悪い女だと思われたくなくて……。
あかねは、ついこう答えていた。
「箕輪さんまだ飲みたいなら、もう少しだけなら付き合いますよ」
……結局夜更け過ぎまで居酒屋で飲んで、寝るだけにしようと連れられたのは、ホテルだった。
箕輪にベッドの上で『付き合おう』と言われて……、二人はセックスをした。
セックスは初めてじゃなかったけれど、箕輪は前の彼氏よりずっと丁寧だった。
その夜の箕輪はどこまでも優しくて、何度もあかねを好きだと言ってくれた。
ずっと気になっていた男とやっと恋人になれて、優しく温かく抱いてもらえて、あかねは幸せだった。
……でも、そんな風に幸せでいられたのは、一か月半ほどだった。
♢ 〇 ♢
だんだん、まるで季節が変わる足音と歩調を合わせるように、箕輪はあかねから離れていった。
毎日あった連絡が数日おきになり、一週間空くこともあって、ドタキャンも一度や二度じゃなくなって、彼からしてくる約束はいつでも突然で。
それでもあかねは彼を好きだったから、彼の忙しい日常を支える理解ある彼女の振りをして、苦しいのを我慢していつも笑顔で彼と会った。
「じゃあ、練習頑張って! あたしも勉強頑張る」
「おー。じゃあなー」
……スマホを眺めながら、あかねの方を見ようともせずに箕輪は去っていった。
いつの間にか、箕輪からは、『頑張って』の労いも、『ありがとう』という言葉も、『連絡できなくてごめん』という謝罪も、何もかもがなくなっていた。
「――あのさ。言いにくいんだけど、そんなの都合のいい女でしかなくない? その彼、ちょっとどうかと思うよ」
高校からの友達があかねにそう言ってきたのは、あかねが箕輪と付き合って二か月が過ぎた頃のことだった。
「それは……。そうかもしれないけど……」
何とか意地を張ってそう答えたけれど……、本音は凄くムッと来ていた。
何でこんなこと言うんだろう――友達なのに。
そう思った。
この日言われた〈都合のいい女〉という響きは、あかねの心を深く抉って、いつまでも痛め続けた。
筋違いにも、あかねの胸にそんな傷をつけた友達を恨む気持ちもあった。
(……どうせあんた、彼氏いないから、あたしに嫉妬してんじゃないの?)
そんな風に、彼女を見下す気持ちすら芽生えた。
やがて耐え切れなくなって、付き合って三か月の記念日を前に、あかねはまた意思表示する勇気を出した。
〈もっと連絡してほしいな。メッセージ短くてもいいんだけどさ、やっぱり連絡ないと、不安になっちゃうから。もしかして、もう好きじゃなくなっちゃったかなって〉
すぐに否定してくれると思っていた。
けど、期待とは裏腹に、既読は十時間以上待ってもつかなくて、やがて翌日、返事のメッセージが来た。
〈正直、ごめん。わからなくなってた〉