始まりは、本当にささいなきっかけで
♢ 〇 ♢
(……何で、受け入れちゃったんだろう……)
さっきから、隣でうるさくいびきが響いている。
眠っている男の馬鹿面を見ていると、あかねの瞳から涙が零れた。
(このまま殺してやろうか)
そう思うくらいに、酒臭い男の息遣いや体温が憎く、気持ち悪かった。
久しぶりに電話が来たと思ったら、酷く酔っていて……。
我が物顔であかねが綺麗に掃除した部屋へ入って、あかねの親が買ってくれた冷蔵庫を勝手に開けてあかねの水を飲んで、あかねを傍若無人に押し倒して行為をして、あかねのベッドでさっさと彼は寝入ってしまった。
キスもなかった。
避妊もしてくれない。
……二人は、今(、)は(、)付き合っているはずだった。
男の名前は箕輪雄大。
箕輪とは、入学したばかりの体育大で知り合った。
同じ講義を取っていた大学一年生のあかねに、初日を休んだ箕輪がレジュメを貸してほしいと声をかけてきたのだ。
箕輪はあかねよりずっと大柄で身体もがっちりしていて、顔立ちはくどいくらいに濃い。あかねの好みじゃなかったけれど、まあ、こういう野性的っぽいのが好きな子もいる、という感じだった。
箕輪は最初から馴れ馴れしくて、遊んでいそうな感じも漂っていて――あかねは最初、彼を〈好きなタイプじゃないな〉と思った。
だから、そう……最初は、彼の方が凄く積極的だった。
顔を合わせる度に笑って声をかけてきて、あかねがその勢いに引いていると、
『ごめんごめん。あかねちゃんってなんか放っとけないっていうか、つい構いたくなっちゃうんだよな』
……なんて、苦笑していた。
あかねはなかなか素直になれない性格なのもあって、いつも箕輪には素っ気なく、まあほどほどに社交辞令で接していた。
『箕輪先輩、講義で寝てちゃ駄目ですよ。教授に目ぇつけられちゃっても知らないですからね』
後輩なのにしっかり者の顔をして、あかねは、自分より年上の箕輪にそんな風に注意していた。
この頃はまだ二人の関係の主導権はあかねが握っていたし、あかねとしても、箕輪を真剣に考えるほどには関心を持っていなかったから。
やがて、箕輪が探し出したのか、あかねのSNSにDMが来た。
彼はマメな性格なようで、毎日メッセージをくれるようになった。
時々電話もしたりして、……気づいたら、夏休み前頃にはもう、彼はあかねの生活の一部になっていた。
(……それにしても、凄い勢いだなぁ。箕輪さん。何か、ちょっとしつこいくらいじゃない? 笑えるんですけど)
ほんのわずかに抱き始めていた胸のときめきに素直になれずに、あかねは呆れたような顔でそう思った。
あかねは昔から仲間内ではしっかり者で通っていて、時に物言いがキツいとか、気が強いと言われることもあった。
背も大柄めだし、男の子と付き合ったことはあったけれど、あまりモテる方ではなかったから、こんな風に積極的なアプローチを受けるのは初めてだった。
箕輪はよっぽどあかねのことがタイプなのだろうか――?
まあ、モテる女になった気がして、悪い気はしない。
……でも、山のように高いプライドが邪魔して、あかねはまだ彼とのことを友達に相談していなかった。
箕輪がやたらとあかねにフレンドリーなものだから、たまに大学の友達に冷やかされることはあったけれど……、気がない振りをしていた。
付き合うことになったらさすがに言うつもりだったけれど、上手くいく前からベラベラ喋って、駄目になったら格好悪いと思ったから。
♢ 〇 ♢
箕輪はとあるスポーツに昔から打ち込んでいて、大学でその部活に入っていた。
そこは全国大会を目指すような強豪部で、でも、箕輪は大きな故障があったから、長らくスタメンから離脱しているとのことだった。出られるのは練習試合ばかりで、無理はできないから、出場時間もそんなに長くない。
「――まあ、愚痴っててもしゃーないしな。頑張るしかないよな」
箕輪はそんなことを時々悔しそうに語ったけれど、腐らずにリハビリに打ち込んでいた。
一方、あかねは中学時代からずっと続けてきたラクロスで伸び悩んで、選手として頑張ることに限界を感じていた。
……いや、本当は、高校時代から無理は察していた。
怪我も多かったし、頑張っても頑張っても思うようなパフォーマンスを発揮できないことが増えていた。
大学スポーツ以上の世界を目指すのは厳しいだろう、と身に染みて感じたのは、この頃だった。
だから――、大学入学前に〈その場合はどうするか〉と両親とシミュレーションしてきた通り、教員免許を取って体育教師になるつもりだった。
子供は好きだったし、次善の夢ではあったけれど、自分では悪くないと思っていたから。
その夜、大事な――あかねにとっては本当に大事なその話を、あかねは一番近くにいて、でも一番どうでもいい人……と思っていた箕輪に、電話で打ち明けた。
「――そう……、なんです。あたし、もうラクロスとはちょっと距離を置こうかなって思ってて」
あかねがそうボールを投げてみると、少し考えてから、電話口の向こうの箕輪はこう打ち返してきた。
『……そっかぁ。俺としては残念だし、もう少し頑張ってもらいたい気持ちもあるけど。でも、あかねちゃんって真面目だし、きっとたくさん考えたんだよね。なら、応援する。教師って、いい夢だと思うよ。あかねちゃんに合ってる』
箕輪は凄く親身になって、夜更けまで何時間もあかねの話を聞いてくれた。
あかねを励まそうとする懸命な彼の声が、強がりだけれど本当は強くない素のあかねを見つめようとしてくれているように思えて……。
嬉しかった。
(箕輪さんと、ちょっと遊んでみてもいいかも)
そんな風に思った大学一年生の夏休みに、急に箕輪からの連絡が間遠になった。
それまではうざったいくらいにメッセージを送ってきて、ハートマークを山のように使っていたのに、それもない。
え、なになに?
飽きた?
もう諦めた?
焦って、あかねは何度もスマホを見た。
ちょっと塩対応が過ぎただろうか――がっかりして、脈のなさそうなあかねを早々に諦めてしまったのかもしれない。
焦って慌てて、勇気を出して、あかねは自分から初めて箕輪にメッセージを送った。
〈最近どーですかー?〉
って、軽い感じで。
返事はすぐに返ってきたけれど……、短文で絵文字もなし。
〈ごめん、最近忙しくてさ! 落ち着いたらまた連絡するな! そっちも頑張れ〉
……だって。
あの夜は、あんなに長い時間、電話に付き合ってくれたのに。
むっとして、あかねは一日近くも置いてから返事を送った。
〈オッケーです!〉
箕輪以上に短くて素っ気ない、〈あんたなんか好きじゃない〉という意思表示を込めたつもりだった。