プロローグ&1話:おじさん、異世界に転生する
「……ん? ここは……?」
ぼんやりとした意識の中、俺はゆっくりと瞼を開いた。
視界に広がるのは、一面の草、草草草草。
若者が使う、笑っているという意味ではない。
どこまでも続く緑の絨毯が、柔らかい風に揺れている。空はどこまでも澄み渡り、雲一つない青。なかなかに綺麗だ。
……だが、その空に浮かぶものを見て、俺は眉をひそめた。
「えぇ……昼間なのに、二つの月?」
(夢、か?)
目をこすり、もう一度見上げる。どうやら、見間違いじゃないようだ。
明るい陽の下に、白銀の月と、鮮紅に光る月が2つ並んで浮かんでいる。
胸の奥で、ざわりとした感覚が広がった。
(これは……もしや……)
嫌な予感を抱きつつ、ゆっくりと身体を起こす。
頭がまだ少しぼんやりしている。だが、身体の感覚はしっかりしていた。自然界独特の草の匂い、涼やかな風の感触——すべてが、妙にリアルだ。
「……うわぁ……異世界、確定っと」
がっくりと肩を落としながら、俺は深いため息をついた。
俺——名取誠一、四十五歳。独身&童貞。 三十歳まで童貞だったら魔法使いになれるようだが、俺は気づけば四十後半となっていった。もうコレは神の領域ではないだろうか。
そんな、ふざけた考えを脳裏に浮かべる。
つい昨日までは、平凡なサラリーマンだった……いや、正確にはリストラされた元サラリーマンか。
「……くそっ、どうせ転生するなら、もっと早くしてくれよ……」
(せめて20代で異世界転生させてくれよ。中年の体力で異世界を大冒険! とか無理ゲーじゃねか!?)
思い返せば、最後の記憶は、家へ帰る途中の出来事だった。
仕事を失い、やけ酒で安い缶ビールをあおりながら夜道をふらついていた俺の前に——
猛スピードで突っ込んでくるトラック。
眩い光。意識の消失。
「……これが噂の異世界転生ってやつか? 異世界に来るにはトラックで轢かれる必要があるってのは本当みたいだな」
軽く頭を抱えながら呟く。
驚きよりも、「やっぱりな」と思ってしまう自分がいる。
最近は、ネット小説やアニメでこういう展開を嫌というほど見てきた。
「ま、どうせならのんびり暮らしたいもんだな」
しかし、そんな願いは——この後すぐにぶち壊されることになる。
◇
異世界の大地を歩くこと数時間。
道らしい道はなく、どこまでも広がる草原をひたすら歩いていた。
(何もねぇな。人もいなければモンスターもいないじゃないか。まあ、いても倒せないだろうが)
日差しは暖かいが、湿気は少なく過ごしやすい。空気は澄み、どこか清涼感すらある。
俺は、ふと足を止めた。
「……腹、減ったな」
当たり前だが、異世界だろうが、空腹はやってくる。しかし、食料の当てもない。
そう思った矢先——
「……た、助けて……たもれ……」
か細い声が、風に紛れて耳に届いた。
俺はピクリと反応し、周囲を見回す。
「……たもれ?」
首を傾げながら、声のする方へ向かう。
草をかき分けると——ぼろぼろの幼女が倒れていた。
金色の髪は泥にまみれ、ボロボロの衣服。
年の頃は五、六歳といったところか。
細い肩が小刻みに震え、弱々しく息をしている。
「おい、大丈夫か?」
俺は膝をつき、そっと声をかけた。
すると——
「……う、うむ……助けてくれるのじゃな……?」
幼女はゆっくりと瞼を開けた。
黄金色の瞳が、虚ろな光を湛えて俺を見上げる。
かすかに揺れるまつげ、乾いた唇。明らかに空腹と疲労で限界の状態だ。
しかし——
なぜか偉そうな口ぶりだった。
(いやいや、そんな余裕ないだろお前……勝手に助けて貰えると勘違いしちゃってるし)
とは思ったが、今はツッコむよりも先にやるべきことがある。
俺は幼女をそっと抱え上げた。
「とにかく、まずは飯を食おうな」
「……!おおぉ ……食べ物……あるのか……?」
幼女の瞳が、かすかに輝く。
飢えに耐えていたのだろう。その表情は切実だった。
俺は軽く頷くと、手早く焚き火の準備を始める。
「ふぅ……これでよし、と」
森で拾った木の実や野草、そして運よく見つけた干し肉を火にかける。
焚き火の炎がゆらめき、食材がじわじわと焼ける香ばしい匂いが漂い始めた。
「ほら、簡単なものだけどな」
「……うむ、ありがたくいただくのじゃ……」
幼女は恐る恐る手を伸ばし、一口食べた。
次の瞬間——その金色の瞳が、大きく見開かれる。
「う、うまい……うますぎるのじゃぁ!!」
涙をボロボロこぼしながら、むさぼるように食べ始めた。
「そんなにか?」
「むぐむぐ……おじさん、ぬしは……神の料理人なのではないか……? 美味すぎるぞ」
「いや、ただのリストラされたおっさんだけど……」
「妾、人生ならぬ魔神生の中で最もうまいものを食べたのじゃ」
「今までどんだけ質素な物食ってきたんだよ……」
(てか、ん? 魔神?)
そんなやりとりをしながら、幼女は夢中で食べ続ける。
やがて満足そうに息をついた。
「ふぅ……腹が満たされると、力が戻ってくるのじゃ……」
その言葉と共に——
突如幼女の体から、黒いオーラが立ち上り、空気がビリビリと震えた。
「ふっふっふ……聞いて驚くのじゃ。妾の名は“魔神ヴァルフェナス”! この世界を滅ぼす存在なり!」
「…………」
「どうしたのじゃ?」
「魔神、なのか?」
「そうじゃ!」
えっへん! と胸を張るロリ。
「お前……魔神のくせに、めっちゃのじゃロリじゃねぇか!!」
俺の異世界ライフ、波乱の幕開けだった——。