34 最小最凶
悪寒が走った。
思わず、その場から後ろに飛び退る。逆に友人Eは遮るように私の前に出た。
「?」
フィリップ様が意味がわからずにいるようだが、ステファニアも何か感じ取っているらしいがこちらは顔面蒼白になり立ちすくんでしまっている。
我関せずにいたジル君も青ざめて、机から立ち上がり後ずさっていた。
「四鼎血峡・黄泉平坂!」
叫ぶように灰魔術師たる友人Eが複雑な手印を結ぶ。
年齢に似合わぬ修練による瞬時の反射。
「クソっ!」
次の瞬間幼い灰魔術師から漏れたのは、口汚い言葉と一筋の鼻血だけだった。
その完璧であるはずの印もなんの効果ももたらさなかった。
ただただそれは、スレイマンという白髪の、別系統の魔術師の、掲げた人差し指とは反対側の、もう一方の腕を差し向けさせた。その手のひらを向けさせたのみだった。
「そんな体で、そんな術を使って……鼻血出ているよ」
「!!」
私は彼が起こした何かの灰魔術を、スレイマン師に防がれたのだとわかった。ただしそれが、効果を及ぼさなかったのか、そもそも発動させなかったのかは分からない。
友人Eは何があったのか説明する余裕も、それ以上悪態さえ口にすることができず、乱暴に鼻血を拭うしかできなかった。
私には友人ほどはっきりとスレイマン師の魔力が感じられているわけではない。彼以外に具体的な状況を把握しているとしたら、それは私の肩に乗っている幼生姿の妖精姿の使い魔マリーだ。二人とも『何か私たちには分からないモノ』がはっきり見えているらしかった。
「灰魔術師くんにはやっぱり見えるみたいだね。そんな怖がらなくても大丈夫だから。じゃあ、いくよ」
軽い調子の声と動作でスレイマン師が人差し指を振るった。いや、曲げた。
BGAAN!!
野太く大きな音がしたかと思うと、万力が跳ね上がった。
いや、固定している机自体が跳ね上がったといったほうが正解だ。
丸太で作られた脚が、地中に埋まっていた部分を覗かせて、まるで暴れ馬のように宙に上がる。
それはすぐに重力にしたがって、ドカンと地面に脚を再び着いた。
立てた音の大きさがそのまま机の重量を物語っている。
何かがブライム金属にブチ当たった音と、その後の机が地面にたたきつけられた大きな音。
「……」
そして訪れた沈黙。
スレイマン師は停止した時間の中で、一人だけ動けるように、万力に近寄る。
「ああ、大丈夫。壊れてない」
その声色は若干のやり過ぎたという自覚が感じ取れた。
「魔力を抑える魔道具を着けているせいで力の加減がどうも巧くいかないな」
ポリポリとマッシュルームカットのつむじをかきながら言い訳のような独り言を漏らしている。
それからこちらをクルリと振り返り、
「ゴメン、怖かったね」
朗らかに謝ってくれたが、私たちは凍りついたように稀代の黒魔術師を見るだけだった。
私は自分でも怖気づくということとは無縁の性格をしていると思っているが、そんな私でさえ嫌な汗が背中を流れるのを感じていた。
別に先ほどの魔術が、特別凄い威力があったわけじゃないだろう。
あれより派手な効果の魔術はあるし、殺傷能力のあるものも同様。素手でアレ以上のことをできる存在さえ知っている。
だが、それでもこの黒魔術師の見せた力の一端に、創造物であるはずのマリーまでもが恐れを感じているようだった。
我関せずでいたはずのジル君でさえ、その双眸が宿す光は決して師に向けるものじゃない。
最も魔力感知に優れていた友人も逆に素養のないはずのラウールも同様の顔つきになっていた。
後援者であるはずのフィリップ様の表情は苦々しく歪み、五大家の姫君であるはずのステファニアはまるで審判をまつ罪人のように俯いて顔をあげなかった。
それらをもたらしたのは、結果ではなくイーサン・スレイマンという『人間』の持つ魔力だ。
魔力自体が持つ『匂い』『気配』または『色』。
威力云々ではなく、彼の魔力の本質に宿る凶悪さ、いや、悪と言っては違ってしまう。
悪とか善とかを価値観に置かない、しかし意志のある、そして境界のない無情に対する恐れだ。
気まぐれに自分の命を確実に奪うだろう。しかしそこになんの意味も持たないだろう。
そういった理不尽な超絶の魔力の『匂い』。異界の『気配』。相反する人としての『色』。
それらを無理矢理混ぜ込んで練り上げた異様。
その異様こそが純粋なる魔術師。魔法文明社会では薄れてしまった敬畏。
「まいったな」
自分の創りだした空気に困っているという風でさえ、その瞳にゾッとしたものを感じる。
この不自然な自然の主に相応しいとは言える有り様だった。
ガランドウの器に入り込んだ『ナニカ』が眼孔から覗いている気さえする。
「リシュリュー公? いかがしました?」
促すように、十六歳の黒魔術師が、十年長く生きただけの生き物に言葉をかける。
「……なぜ魔術師が古に迫害されたか分かる気がするよ」
それは精一杯の虚勢だったのか。政界に顕然たる力を振るうこの国最大の権力者でさえも、この無意乾燥の力を持つ黒魔術師を前にすれば、ただ一本の葦に過ぎないのか。
スレイマン師はフムと考えこむ。
「派手で分かりやすい試験をお望みだったと思ったのですが、少しやり過ぎだったのかもしれませんね」
素直に頭を下げる。
「君がそういう存在である事実が再認識できただけでも意味はあったのかもな」
「申し訳ございません。あれ以下の術を知らないものですから」
重ねて頭を下げてから、自分の弟子である少女と私の方を見る。
「さて、二人とも今の魔術を見ていたね。さっき使ったのはなんの魔術かな?」
「え? ええっと……」
ステファニアは師匠の姿にすっかりと大人しくなっている。答えが分からないというより、膠着して頭が真っ白になっているんだろう。
見ていたねって言われても、私にはスレイマン師が指を振るった後に机ごと万力に備え付けられたブレイム金属が吹っ飛びそうになった結果だけだ。魔力が感じられるほど凄まじい、異質な魔力であったことは確かだが、視認できなかったことには違いない。
これも試験の一つとでもいうのだろうか?




