序 天上天下唯我独尊
その金髪が今、風を含んで揺れた。
それは黄色などとは呼べない、天の河の様に繊細に長く、なによりも煌めく黄金だった。
それは自然による発色で誰もそれを止めることは出来ない。
いや、もし皇帝が神の定めさえ変えることが出来たとしても、この髪の色は実は帝国の法に反してなどいない。
限りなく自然、だけれども、限りなく希少。
そんな金の髪だった。
板張りの広い室内。
おそらくどこかの剣道場だろう。
そこに一人の少女がそのど真ん中に立っていた。
少女が『真ん中に』『一人で』『立って』いた。
真ん中でない壁際には壮年と見える男達が、道場着姿で並んで座っていた。
道場は広い。男達は二十人はいたが、それでも真ん中にいる少女が圧迫感を受けるほどの距離にはいない。それを考えると随分と大きい道場だろう。それだけでこの剣道場の地位を顕している。
少女は『真ん中に』『一人で』『立って』いた。
男達は壁際に並んで座っていた。
では、少女は『真ん中に』『一人で』いたのかといえば、それは明らかに一目瞭然に、違う。
少女はポンポンとその手に握った木剣で肩を叩いた。
まだ幼いだろう少女に似合わぬ不遜な態度だ。
少女は蒼い瞳をしていた。
その透き通った理知と意思の蒼はまるでこの帝都さえも見下ろす大空のようだ。
いや深海のような冷たさも感じる。
それは限りなく美しい空、だけれど、限りなく厳しい海。
天の河のような黄金の髪。大空のような碧眼。
それはこの国で最も高貴な色の組み合わせでもある。
建国の始皇帝がそうであったからだ。
少女は『真ん中に』『一人で』『立って』いた。
少女は『真ん中に』『一人で』いたわけではなかった。
『立って』いない者なら、まさに夥しくいたからだ。
一様に呻き声を上げて、嗚咽を漏らして、道場の床に倒れていた。
見れば年齢は幅があるが、どれも少年の顔立ち。おそらく上は十歳前後まで。
十人以上は確実にいる。
幼い少女を中心に、少年たちが倒れているという光景。
異常な光景だ。だが、何があったか推測するには簡単な光景でもある。
この『真ん中に』『一人で』『立って』いる少女が、自分より年上だろう少年たちを全て、一人で、打ち据えたのだろうということを。
その推測さえ見れば、周りを囲む男達が、心なしか気色ばんでいるのも納得できる。
そして少女が全て、『一人で』、打ち据えたからこそ、『大人である』自分たちが少年たちの『敵討』などという不格好な振る舞いをすることはできないのだということまで、一目瞭然だった。信じられるかどうかは別にして。
「く、くそう!」
言葉を発したのは、少女の足元にいた少年だった。赤い髪の少年だ。歳は少年たちの中でも一際若く、少女と変わらないようだ。
にもかかわらず呻き声を上げている少年たちの中でいち早く回復した。
負けん気が強いのだろう。赤い髪の少年は少女を睨み見上げると、
「よくもヤったな! このデ……ぶふぅ!?」
途中で負け惜しみの言葉は醜く潰れた。
金の髪の少女が、その裸足の足で、遠慮も良心の呵責もなく、踏みつけて黙らせたからだ。
「貴様!」
それまではどうにか座って成り行きを見守っていた男達が一斉に気色ばんで立ち上がった。
どうやらこの無様に踏み潰された少年は、彼らにとってなにかしらの価値があるらしい。
そして少女のやったことを見れば、彼女にとっては何の価値も無いのは分かる。
彼女はそんな無価値な少年には全く興味も示さず、足で踏みつけたまま、木剣で肩を叩き続けたまま、ニヤリと、初めて嗤った。
それは幼い少女には似合いもしないが、この少女には恐ろしく似合っていた。
今にも躍りかかってきそうな、自分の何倍もの体格と年齢と経験を積んでいるだろう壮年の剣士たちの殺気を、少女は嬉しくてたまらないというような好戦的な笑みで迎える。
「やっぱり、剣術修行はこうでなくっちゃねぇ」
発した言葉は愉しみで溢れている。しかし声色は零峰からこの帝都へと流れ落ちる清流のように冷たく、透き通っていた。完璧な発音。完璧な透明感。
喉の奥で嗤いながら、少女は相変わらず剣を構えもせずに、しかし重心を丹田から上にあげる。つまりどのような状況に陥っても対処できるように。
場は整った。
あとは壮年の剣士たちと、少女のどちらが先に動くのか。
あとはそれだけだ。そこまで緊張は高まった。切れて弾けるのを待つだけだ。
「待て」
と。
だがしかし、沸騰した殺気に水を注ぐように、道場に響く、しかし低く抑えた声。
ザザザと、剣士たちの視線が、少女とは反対のほうへと向けられていく。
そこに座っているのは一人の老人。
座っている場所を見れば、この大柄とは言えない老人が、この道場で最も高い位置にいるのが分かる。
「……」
興に水をさされた少女がつまらなそうな視線を向ける。
老人は少女の真贋を見定めるようにジッと見つめ、問うた。
「名前は、なんと言ったかな?」
それはまるで、ようやく名を聞く価値が出たのだと、お前など今まで名前も知らなかったのだとも取れる言葉だった。
少なくとも少女はそう受け取った。
が、すぐに、
そう言えばこの道場に来たのは初めてだったし、
そう言えばまだ道場主に紹介もされていなかった。
そしてなにより、自分も道場主の名前を覚えていなかった。
説明はされたと思うが、興味がなかったので忘れた。
そう考えると、この老人の態度ばかりを責めるわけにいくまい。
礼儀として名乗ってやってもいいだろう。
そう考えて、少女本人としてはあくまで寛大な気持ちで口を開いた。
「クレオリア」
果たしてその名は、ほとんどの人間にとって初めて耳にする名前だった。
噂に敏いものならば、政治に深く係る者ならば、もしかしたら聞いたことがあったかもしれない。
ここにいる人間にはそんな者はいなかったようだが。
「ギルベナ領主オヴリガン公爵家、クレオリア・オヴリガン。六歳よ」
ならば、その名を知った僥倖を喜ぶがいい。
そんな自信にあふれた声で自分の名を告げる。
「南方の田舎猿が身の程を弁えろ!」
少女の答えに、壮年の剣士たちが声で斬りつけるかのように凄みを効かせた。
だが、六歳と自己申告した少女は、それに怯んだ様子も微塵もない。
それどころか、くすくすと笑いを漏らした。
本当に六歳だろうか?
身長は百二十センチほどと、六歳児にしては背が高く、その発音は舌っ足らずさなど微塵もないほど完璧な公用語。
そして……、
「足をどけろ、デブ!!」
と踏みつけられたままの赤毛の少年が怒ったように、実際に怒って言った。
「ケプっ!」
今度は最後まで言えたが、結局また踏みつけられて妙なうめき声を発して黙ることになった。
小さな男の子が、女の子に言う「デブ」という悪口ほど、適当で陳腐なものもないが、しかし、この場合において、この少女の場合においては、それは悪口ではなく、事実を言い表していた。
百二十センチほどの身長に、不自然なほどへばりついている贅肉の塊。
顔はパンパンに腫れ、腕はハムのように、足は丸太のように、腹は妊婦のように、膨れている。
腕や足や頭といった、人体の突起している部分が肉で潰れ、人であるはずなのにピンク色の球体に見える。
果たしてこの時代にどのような食生活を送れば、こんなに丸々と肥え太れるのか。
なのに髪だけは天の河のような長い金髪で光輝き。
なのに瞳だけは大海のように深く穢れ無き蒼。
そして、少女の立ち振舞や雰囲気は自信に溢れている。まるで自分が絶対的な美少女であるかのように。
クレオリア・オヴリガン。
南方の辺境。『流刑地』ギルベナ地方の領主の娘。
始皇帝と流刑皇子という二人の英雄の血を受け継ぐ公爵令嬢。
そして、赤髪の少年。
名をジークフリート・イツァーリ。
今、少女に踏み潰されているだけの存在。
五大家の子息であり、何よりも次世代の皇帝候補筆頭と目されている同じく六歳の少年。
これが二人の、『二度目』の出会いだった。
どちらの出会いがより最悪だったか、
どちらの出会いも同じ少女だったと、赤髪の少年が気がついているのかどうかは別として。
これがのちに帝国最高の教育機関において、
白銀世代と称えられる、その中心となった、三名のうちの二人。
『白百合』と、
『火獅子』の、
最悪にして二度目の、
出会いだったのである。