【短編】コレットお嬢様は恋がしたい ~浮気男はお断り!
初めての短編になります(ちょっと長めかもしれません)。
楽しんでいただけたら、幸いです。
この国でエドガール・シャルダン率いる「ホワイトローズ商会」の名を知らぬ者はいないだろう。
国内外に『ローズホテル』を始めとする幅広い事業を展開し、数年前には魔石を動力源とする鉄道事業の投資に成功した。
世界屈指の大富豪。爵位はないけど金はある。それが我がシャルダン家だ。
私は一人娘のコレット。今年から王立学園で経営学を専攻している十六歳だ。
シャルダン家の一日は、家族揃って朝食を摂ることから始まる。
多忙を極める父が、何よりこの団らんの時間を大切にしているからだ。
「はい、あ~ん」
「うふふ、あ~ん」
甘々な声を上げながらイチャイチャとオレンジムースを食べさせ合うのは、父と母である。
冷徹な経営者と恐れられる父の素顔は、妻命の愛妻家だ。なんてたって、ここまで成り上がったのは、母クリスティーヌのためなのだ。
大富豪らしからぬこぢんまりとした屋敷に住み続けるのも、ここに新婚時代の思い出が詰まっているから。
母は父のすべてだ。
そして、両親は私の理想でもある。
いつだって思う。
こんな恋がしてみたい、と。
「これ、やるよ。なんか俺、胸やけがしてきた」
「やった♪」
デレデレした父を眺めていたウスターシュが、自分の皿を私に押しつけてきた。
彼は父方の従兄で、商いを学びたいと十四歳の時に父に弟子入りして以来、我が家で暮らしている。かれこれ五年間もこの光景を目の当たりにしているのに、まだ慣れないらしい。
「これが普通だと思うなよ」とウスターシュは意地悪を言うけれど、そんなことはないはずだと信じている。
ともあれ、私は今日も二人分のデザートを手に入れてご満悦である。
「コレット、来月のパーティーはどうする?」
ウスターシュがコーヒーカップを手にしながら私に尋ねた。
母方の祖母の誕生日パーティーのことである。いつもは親族だけのささやかな会も、今年は還暦祝いのため盛大に開催されることになったのだ。
「ポールを誘ったんだけど先約があるみたいなの。悪いけど付き添いをお願いしてもいい?」
「了解」
ポールは半年前から交際している私の恋人だ。男爵家の三男で、新米騎士である。
王立学園に入学して間もない頃、道に迷って困っているところを彼に助けられた。まあ、ナンパみたいなものである。
ウスターシュは「チャラい男だ」と渋い顔だけど、心細い時に優しくされたら誰だってドキッとしちゃうものでしょ?
もしかしたら、この人が私の運命の相手かもしれない、なんてね。
だけど現実は甘くない。このところポールとはマンネリ気味だ。
一緒にカフェでお茶したり、買い物したのは一体いつのことだったかしら?
きっと私たちには刺激が足りないのだ。
そうだ! ポールと誕生日パーティーに参加しよう。優美な音楽にご馳走の数々。おめかししたら「君はキレイだ」って惚れ直してくれるかもよ?
そう期待していたのに――――
「この日に祖母の誕生日パーティーがあるんだけど一緒に行かない? ポールのこと、祖父や伯父にも紹介したいの」
「悪いけどその日は、他の予定が入ってるんだ。うちは男爵家だから、社交も仕事のうちなのさ。その点、コレットは平民だから気楽でいいよね」
「そうね」
私が平民であることを馬鹿にするような含みのある言い方に違和感を覚えつつ、ポールが貴族令息であることは事実なので肯定した。
我が家がいかにお金持ちでも、貴族としての義務も責任もないわけだしね。
王宮の夜会でダンスをすることもなければ、貴族にありがちな政略結婚とも無縁で、両親は「コレットの好きな人と結婚しなさい」と言ってくれている。
うん、間違いなく気楽だわ。
と、まあ、こんな具合にすげなく断られてしまったのは、つい先日の話である。
「あら、ポール君は来られないの? 残念ね」
私とウスターシュの会話を聞き齧った母に慰められる。
残念、か。
マンネリになると、そういう気持ちも湧かなくなるのかもしれない。
残念なのは、誘いを断られたのにショックを受けない自身の心の方だった。
◇ ◇ ◇
「庭に『微睡みの騎士』様がいらしてますよ」
学園から帰るなり家政婦のタニヤに教えられ、私は制服のまま庭にあるガゼボへ向かう。
案の定、ポールがベンチで眠っていた。
彼は私の帰宅時間を狙ってやって来ては、こうして惰眠を貪るのが日常と化している。
――――微睡みの騎士。
我が家の使用人たちに、そう呼ばれるようになったのは、いつの頃からだっけ?
「ちょっと疲れてるんだ」
「ここへ来ると癒されるよ」
そんな言い訳をしながら、私をデートに誘わなくなったのは。
「釣った魚に餌はやらないってことじゃないのか」なんて、ウスターシュの口から辛辣な言葉が飛び出したのは。
いつのことだっけ?
ポールは肉体労働だもの。疲れているのね、と思う。
眠たくなるほど癒されるなんて、心を許してくれているんだわ、とも思う。
だけど、もう、私たちはこの庭から出られないのではないかという気もする。
スヤスヤとしたポールの寝顔は無防備で美しい。きらめく金髪、長い睫毛、スッと伸びた鼻、緩やかに弧を描く唇。
この唇は、まだ私の頬にしか触れたことはないけれど、唇に到達する前に、この関係が終わってしまいそうな予感がする。
(素敵なファーストキスをするのが夢だったのになぁ)
そう、物語のような。
恋に落ちた王子様とお姫様のような。
私はため息を吐いてから、ポールの眠りを妨げないようにそっとベンチの端っこに腰を下ろした。鞄から教本を取り出して静かにページをめくる。
お気楽な平民と言えども、シャルダン家の一人娘はけっこうタイヘンだ。将来はホワイトローズ商会を背負って立つ身、努力は欠かせないのだ。
生憎、私は頭が良くない。優秀なウスターシュと比べると悲しいくらい凡庸だ。
彼は、十歳で隣国の寄宿学校に入り、飛び級で卒業した後、父の下で働きながら王立学園に通い貴族令息たちとの人脈を築いた。まさに秀才だ。しかも美形。今は新規事業を任されている。
私と三歳しか離れていないのに、この差は一体何なんだ?!
「コレットは自分の好きなように生きなさい」と両親は言う。ウスターシュを後継にと考えているのかもしれない。
そりゃ、彼に任せる方が安泰だけど、私だってシャルダン家の一員だもの、少しは役に立ちたい。
よ~し、頑張ろう! 次のテストは学年一位…………は無理でも二十位、いや三十位以内に入ってみせるぞ、と決意を新たにした。
「うう……ん」
しばらく教本とにらめっこしていると、ポールが目を覚ました。瞼が開かれ琥珀色の瞳が現れる。
「おはよう。よく眠れた?」
もうすぐ夕方だけど、口から出たのは朝の挨拶だった。
ポールは、ウーンと大きく伸びをしてから「ごめん、眠っちゃった」と答えた。
ごめん、なんて思っていないくせに。だけど、不意に腕を引き寄せられ、頬にキスを落とされると、あらゆることが、たちどころにどうでもよくなる。
ポールからは、もはや出会った頃の情熱は感じられない。そんな不都合な現実にすっぽりと目隠しをしてしまう。
まだ、別れたくない。
もう少し。
もう少しだけ。
だって、恋人と過ごす心地良さを知ってしまったら、一人に戻るのには勇気がいるんだもの。
「ねえ、一番街の通りに新しいカフェが出来たんだって。行ってみない?」
ちょっぴり悪あがきをしてみる。
「ああ……あそこはオープンしたばかりで凄く混んでるんだ。もう少し落ち着いたらにしよう」
予想通りの返答だから、驚いたりはしない。
やんわりとした拒絶。
傷ついたりなんてしていない。
「そうね」
私は物わかりのいい恋人を演じる。
まだ、別れたくないから。
だけど、目の前の恋人は、その混み混みのカフェが我が家の系列店であることを知らない。
だって、訊かれていないから。
私と一緒なら並ばずに入店できるのよ。何なら貸し切りにだってできちゃうの。
喉から出かかる言葉をゴクンと呑み込んだ。
ポールは、残酷なまでに私を取り巻く環境に興味がない。
いつから?
ううん、きっと、最初から。
「ポール君、いらっしゃい」
タイミングよく冷たいレモンティーが載った盆を運んで来たのは、家政婦のタニヤではなく母だ。
「喉が渇いたでしょう」と、にこやかにグラスを差し出す。
「お邪魔しています、おばさん」
ポールもにこやかに挨拶し、礼を言ってレモンティーを飲んだ。
ふわりと風が吹く。
このところ夕暮れ時の空気がやけに涼しく感じられるようになった。
「そろそろアイスティーの季節も終わりね」と母がポツンと呟く。
「まだ暑いとはいえ、暦上はもう秋ですからね」
ご丁寧に返事をするポールである。
母はクスッと笑う。
「よかったら、うちで夕食をどうかしら?」
「すみません。まだ任務中なので、またの機会に。そろそろ時間なので失礼します。じゃあね、コレット」
「そう、残念ね……」
己の背中に投げかけられた母の一言に気づかないまま、ポールは誘いをやんわりと躱して帰って行った。
◇ ◇ ◇
(こうなったら、一人でカフェに行っちゃうんだからねっ)
なんて勢いづいていたところへ、タニヤが無理矢理くっついて来た。
「お嬢様、私も連れて行ってくださいよ。たまには真面目に働く家政婦を労っても罰は当たらないでしょう」
タニヤは、私が生まれる前からシャルダン家に勤めている。私にとって、第二の母であり家族だ。断る選択肢はない。
王都の一番街通りにオープンした『ローズカフェ』は、「バラに囲まれて優雅なアフタヌーンティーを楽しむ」をコンセプトに、白とピンクの内装で統一された可愛らしい店だ。
そこかしこにバラが飾られ、テーブルや食器も一級品で揃えられている。
女の子の憧れをぎゅっと詰め込んだ豪奢な店内で過ごすティータイムは、お姫様気分を味わえると庶民の間で評判だ。
カップルに人気のデートスポットとしても注目されている。
メニューも凝っている。
バラのお茶、バラのジャムはもちろんのこと、バラのパフェを期間限定で提供している。
その他にも魔獣のバラ肉の燻製を挟んだサンドウィッチ、バラの花びらをかたどったショコラ、ケーキのデコレーションもバラの意匠である。
私がこんなに詳しいのは、何を隠そうこの『ローズカフェ』の発案者だからだ。
日頃の勉強の成果を見せようと四苦八苦しながら企画書を書いたものの、利益が少ないと父に一蹴されてしまった。
ところが母の「わぁ、こんなお店があったらステキね。行ってみたいわ」の一言で、ボツから一転、採用の運びとなったのだ。
「大盛況ですねぇ」
入店待ちの行列を眺めながら、タニヤが感心している。
「お父様には薄利だって言われちゃったけどね。店に飾るバラと食材にお金がかかっちゃって」
常に大量のバラを確保し、生花を美しい状態で保つのには手間もお金もかかる。料理だって内装に見劣りしないギリギリのものをと考えても、それなりの原価だ。
しかし、庶民相手の商売では価格を低めに設定せねばならず、その分、利益が圧迫されるのだ。
「お姫様気分になれる店だなんて、夢があっていいじゃないですか。これがお嬢様の初仕事なんですから誇らしいことです」
あんなに小さかったお嬢様が……とタニヤが目を潤ませている。彼女は涙脆い。私が王立学園に入学した時もこんなふうに泣いていたっけ。
「私、立派な跡継ぎになれるかな?」
「きっとなれますよ」
「ウスターシュよりも?」
「えっと……ウスターシュ様もお嬢様のためなら力を貸してくださるでしょう」
あ、誤魔化した! やっぱり今度のテストは頑張らないといけないわね。
タニヤは嘘がつけない。きまりが悪そうに、目が泳いでいた。
私たちは裏口から入店して、予め用意されていたテーブルにちゃっかり座り、期間限定『人生バラ色パフェ』を堪能した。
このパフェは、薄くスライスされたイチゴやピーチがバラの形に飾られている。綺麗なフルーツローズが咲き誇る渾身の一品だ。
タニヤは興奮して魔道具を取り出し、その美しさを画像に残そうと撮影に励む。
かく言う私も食べるのがもったいなくて、パフェのアイスが溶けそうになるまでじっと見つめていたのだった。
「そろそろ帰りましょうか」
頃合いを見てタニヤが切り出す。
行列はまだ途切れない。あまり長居するのも気が引ける。
デートで来られなかったのは残念だけど、タニヤも喜んでくれたし、ティータイムを楽しむお客様の様子も見届けられたから良しとしよう。
「そうね」
私は満足して椅子から立ち上がろうとした。
その時だった。
「ポール…………?」
ポールが、ふわふわした赤毛の女の子と腕を絡ませながら入店してきたのだ。
(妹さん……じゃないわよね?)
顔は似ていないし、赤毛の彼女は嬉しそうにポールに寄り添っている。
互いに微笑み合うその姿は、相思相愛という言葉がぴったりだ。
え? と言うことはつまり、どうゆうこと?
考えが上手く纏まらない。
私は混乱して、思わずタニヤの袖を引っ張ってしまった。
「タ、タ、タ、タッ、ニヤ……」
「落ち着いてください、お嬢様。ひとまず奥へ」
状況を察したタニアが、私を店の奥へ連れて行った。幸いポールには気づかれていない。
てんやわんやのキッチンの隅っこから顔を覗かせ、私は客席を窺う。
二人は仲良く肩を寄せ合ってメニューを選んでいる。
ん? 横並びって親密度高くない?
タニヤが魔道具を発動させて彼らの様子を記録していた。
「お嬢、何やってるんですか?」
「わわっ」
急に後ろから店長のシモンに声を掛けられてびっくりした。
彼は、カフェの立ち上げからお世話になっている父の部下である。
「シーッ! 静かに。今、お嬢様の恋人の浮気現場に遭遇中なんですから」
タニヤは身も蓋もない言葉で、素早く説明を済ませた。
シモンは「なるほど」と驚きもせずに納得している。その淡々とした態度に物申したいが、今はそれどころじゃなかった。
「ちょっと待って、タニヤ。やっぱり、そうなの? 浮気確定なの? 親戚の子とかじゃなくて?」
「あれを見てそう思います?」
タニヤが指差した先に視線を移すと、メニュー表の陰に隠れて、ポールと赤毛の彼女がキスをしていた。
うん、あれは親戚の子とかじゃないわね。間違いない。
あー、なんだか、人生終わった気分。
「ああ、あの男ですか。毎回、違う女を連れてますよ。お嬢は男を見る目がないからなぁ。ま、本性がわかってよかったじゃないですか」
どんまい、とシモンはケラケラ笑いながら業務に戻っていった。
(えっ? あの子だけじゃないの?!)
シモンにとどめの一撃を刺された私は茫然自失。どうやって家に帰ったのかも憶えていなかった。
◇ ◇ ◇
翌日、私はポールと別れた。
何食わぬ顔で我が家のガゼボを訪れた彼に、自分から告げたのだ。
「別れましょう」と。
「わかった」
ポールは、すんなりと身を翻して去って行った。
たった十文字の会話だけで、私たちの繋がりは切れてしまった。
「あら? 今日はホットレモンティーを淹れたのに」
一人でガゼボに佇む私に母は言った。
温かいお茶を飲みながら気づく。
もうこのベンチで昼寝をするには、涼しすぎるのだと。
アイスティーの季節は終わってしまったのだ。
それ以来、私は、だらんとしている。
教本を広げるけれど、もう三回も同じところを読んでいる。
もう、だめだ。文字が頭に入らない。
私は机に突っ伏した。
「ほら、あーん」
反射的に顔を上げて口を開けると、ウスターシュがショコラを一粒放り込んだ。
「ん、おいひぃ」
「そうか、そうか。王家御用達『ル・ペン』のショコラだ。『モンタン』のケーキもあるぞ」
「そんなに食べたら太るわよ」
このところ、ウスターシュは私を甘やかす。
仕事で忙しいのに、合間を縫っては頻繁にお菓子を差し入れてくれる。そのついでに、こうして勉強を見てくれたりもする。
「心配するな。糖分は脳で消費される。さあ、続きをやるぞ」
前言撤回。今のウスターシュは鬼である。
無気力なまま口だけモゴモゴさせている私の髪を撫でながら、ウスターシュはため息を吐いた。
「そんなにアイツが好きだったのか? 六股もかける浮気男なのに」
後になって、ポールに六人の交際相手がいたことが判明した。
誰にでも声を掛ける男だと新米騎士の間では有名だったらしい。おそらくシモンもその噂を知っていたのだろう。
私も、その大勢の中の一人だった。
どうせなら、最後にガツンと文句を言ってやればよかった。今さら後の祭りだけれど。
「失恋のショックというよりは、クズ男にときめいた自分の見る目のなさに凹んでるのよ。しかも、別れを切り出した時、理由も聞かずにあっさり離れていったわ。それって女として魅力がないってことでしょ?」
引き止める価値すらない女。
赤毛の彼女としていたような恋人同士のキスではなく、頬っぺた止まりのキスだったのも。
ずっとガゼボで眠っていて、まともな会話がなかったのも。
デートに誘われなくなったのも。
全部、私に魅力がないせいだ。
「コレットは素敵な女性だよ。明るくて、何事にも一生懸命だ。見る目がないのはアイツの方さ」
ウスターシュが私の眦から流れた涙を指で拭いながら言う。
「慰めなんていらないもん」
「慰めなんかじゃないよ。コレットは俺の人生を変えたんだ。もっと自信を持て」
「ん? どうゆうこと?」
「俺が商いの道を志したのは、コレットが『大きくなったら一緒にお父様の商会を継いでほしい』ってプロポーズしたからじゃないか。憶えてないの?」
「えええっ!」
衝撃的な内容に私の涙はピタリと止まった。
「うわー、やっぱり忘れてるんだ。そんなことだろうとは予想してたけどさ」
ウスターシュが不満げに口を尖らせる。
もともとウスターシュの両親は、彼を文官にするつもりだったらしい。
しかし、ある日、父に連れられて伯父の家に遊びに行った私は、皆の前でこう言ったのだそうだ。
「ウスターシュは文官を目指すほど頭がいいのね。スゴイわ!」と。
「そんなことないよ。別に文官になりたいってわけでもないし」と謙遜するウスターシュの手を握り、瞳をキラキラさせて「だったら商人になってよ! 大きくなったら私と一緒にお父様の商会を継いでほしいの。お願い、ウスターシュ」とプロポーズしたのは、私が六歳、ウスターシュ九歳の時だったという。
翌年、ウスターシュは、本格的に商人の道を進むべく隣国の学校へ入学した。
「あ……そういえば」
おぼろげながら記憶が蘇る。
当時の私は、急成長してゆくホワイトローズ商会の勢いに恐れおののいていた。幼心に、跡取り娘としてプレッシャーを感じていたのだ。
あの頃から三つ年上のウスターシュは、優しくて、気が合って、頼りになる存在だった。だから、お願いすれば、ずっと傍で守ってくれるような気がしたのだ。
けれど、プロポーズしている自覚なんて六歳の少女にはなかった……はず。
(えーと、あの時は確か…………)
「あらあら。だけどね、二人で商会を継ぐためには、将来、チューしないといけないのよ? 大丈夫かしら」と母が難しい顔で首を傾げるものだから、私はムキになって「だいじょうぶだもん!」とウスターシュに近づいて――――
「ああっ!」
「やっと思い出したか」
そうだ。ウスターシュに近づいて自分からキスしたのだ。唇に。
「私のファーストキスがぁ~っ!」
もう経験済みだったなんて。
あああっ、私のバカッ。
「それはこっちのセリフだぞ? ファーストキスを奪われた上、必死に勉強して飛び級までしたのに、留学先から帰ってみれば本人はケロッと忘れてるときたもんだ。挙句の果てに、あんな男に引っかかるんだもんな」
「ご、ご、ご、ごめんなさい!」
謝ることが多すぎる。
勝手にキスしたこと、それを忘れていたこと。何より、あの出来事でウスターシュの人生が変わってしまった。
「まあ、幼い頃の話だし、婚約してたわけでもないから気にするな」
「でもっ、せっかく文官を目指してたのに私のせいで人生狂っちゃった!」
ウスターシュが、再び涙目になる私のおでこをピンと指で弾く。
「だからそれは、俺の人生を狂わせるほど、コレットに魅力があるってことだよ。わかったか?」
「わ、わ、わ、わかっ……た…………」
返事をしながら、自分の顔が火照ってゆくのを感じる。
こんな会話一つで、いとも簡単にウスターシュを一人の男性として意識してしまうなんて、自分が情けない。
だけど「魅力がある」なんて言われたら、誰だって胸がキュンとしちゃうものでしょ?
つくづく私は単純な人間なのだと思う。
失恋したばかりなのに。これじゃ、まるで軽い女みたいじゃないの。
それに――――それに、それに…………ああ、私って本当にバカ。
今さらウスターシュを好きになったって、幼少期のプロポーズなんか、もう時効に決まってる。
「あれ、今度はどうした?」
ガックリと項垂れる私をウスターシュが訝しむ。
「私のこと、呆れてるよね」
「呆れてはいる」
うん、やっぱり、そうだよね。
「けど、反省もしてる」
ん? 反省しなきゃいけないのは私の方ではないかしら。
「こっちも仕事にかまけて、コレットをほったらかしにしてたからね。まだまだ子どもだと思って油断してた。いつの間にか恋する年頃になっていたんだな。こんなことなら叔父上に叱られてもデートに誘えばよかったと後悔してるよ」
これはひょっとして、まだ希望アリ?
「えっと、あの……それは、プロポーズがまだ有効ってことでいいの?」
覚悟を決めて訊いてみる。
虫がいいとはわかってる。
でも、ちゃんと確認しておかないと、無駄な期待をしてズルズルと引きずりそうだもの。
「もうすぐ新規事業が一息つく。そうしたら二人で観劇へ行こう。ちょうどシェリル・ローレンの舞台チケットが手に入りそうなんだ」
ウスターシュが照れ臭そうに笑う。
私はシェリル・ローレンの大ファンだ。
彼は私の好みをよく知っている。
『ル・ペン』のショコラ。
『モンタン』のケーキ、それから――――
「ほら、あーん」
口の中にもう一粒、甘いショコラが転がった。
本当に、彼は私のことをよく知っている。
「その前にテストを頑張らないとね。一緒にホワイトローズ商会を継ぐんだろ? 赤点は許さないからな」
ウスターシュの瞳がギラリと光る。
ひえっ、これは本気だ! だけど、一緒に跡を継ぐためだ。
よし、頑張ろう。
私は促されるまま教本のページをめくった。
彼は私の扱い方もよく知っている。
◇ ◇ ◇
お嬢様がようやくまともになった、とタニヤが喜んでいる。
彼女も私のプロポーズの一部始終を見ていた一人だ。
「ウスターシュ様は、お嬢様のために一日十五時間も勉強して隣国の難関校に合格なさったんですよ」
そんな大切なことすら、教えられて初めて知る。
どうも記憶が曖昧なのだ。
「なんで忘れてたんだろう? 私って、そんなに薄情な人間だったかしら」
「お嬢様は、熱病の影響で記憶が混乱していた時期がありましたからねぇ」
心当たりを告げられてホッと胸をなでおろす。
そういうことなら納得だ。
「そっかぁ。私の頭が悪いのも、きっとその熱病のせいね」
「それは絶対にありません!」
タニヤが目を吊り上げる。
え? どうして? 辻褄が合うじゃない!
ともあれ、私は、ウスターシュの鬼指南のお陰で無事にテストを乗り越え、平凡頭脳としては上出来の学年二十位以内に入ることができたのだった。
そんなこんなで、祖母の誕生日パーティーの日がやってきた。
私はウスターシュに見立ててもらった淡いブルーのドレスを着ている。
着慣れない夜会用のドレスに緊張するが、ウスターシュにエスコートされて何とか転ばずに歩けている。
「まあまあ、相変わらず二人は仲がいいのね。ふふふ、そのドレスの色……生きているうちにひ孫の顔を拝めそうだわ」
祖母は、ウスターシュの瞳と私のドレスが同色であることを揶揄い、茶目っ気たっぷりにウィンクしてみせた。
途端に、そういう目で見られているのだと、周囲の視線が気になり恥ずかしくなる。
「ラランド侯爵夫人もお元気そうで安心しました。お誕生日おめでとうございます」
「イヤだわぁ、侯爵夫人だなんて他人行儀な。いつもみたいに『おばあちゃま』って呼んでちょうだい」
身内の会ならいざ知らず、錚々たるメンバーが集う夜会の場では無理がある。
困り顔の私たちに駄々をこねる祖母は、まだ現役の侯爵夫人なのだから。
この国では、爵位は終身のもので生前に譲ることができない。
祖父が健在なので、後継である伯父は従属爵位の一つであるマイヤー伯爵を名乗っている。
その妹の母は、結婚前までラランド侯爵家の令嬢だった。『社交界の白薔薇』と謳われた麗しの美女クリスティーヌ・ラランド。王太子の婚約者でもあった。
未来の王妃が、どうして商会長夫人になったのか?
それは王太子が平民女性と浮気し、王立学園の卒業パーティーで一方的に婚約破棄を突きつけるという暴挙に出たからである。王家の信用を失墜させたとして廃太子され、王領の片隅で幽閉生活となった顛末は有名な話だ。
とんだ醜聞に傷ついた母を慰め、猛アタックの末に夫の座を勝ち取ったのが、当時シャルダン伯爵の次男だった父である。
跡継ぎではなかった父は、いずれ商いで身を立てようと学生時代から商会を立ち上げていたという。母と結婚してからは商会名を「ホワイトローズ商会」と改め、粉骨砕身して豪商へとのし上がった。
伯爵家の分家にあたる我が家は平民にすぎない。「婚約破棄され、しがない商会に嫁いだ哀れな侯爵令嬢」などと中傷されないためには、事業の成功が不可欠だったのだろう。
そんな父の愛に包まれている母の美貌は衰えを知らず、父の瞳と同じ鮮やかなブルーのドレスを纏い、胸元には特大サファイアが輝いている。
周囲の夫人たちの羨望の眼差しが、矢のように突き刺さっていた。
「飲み物を持って来るから、ここを動いちゃダメだよ」
祖母への祝いの挨拶を済ませて会場の壁際までたどり着くと、ウスターシュがジュースを求めて飲食のコーナーへ向かって行った。
(はぁ、疲れた~)
もし母が父ではなく王太子と結婚していたら、私は王女として生まれていたのかもしれない。
きっと王宮の夜会ともなれば、もっと盛大で煌びやかなんだろうな。
隣国の王子と政略結婚なんかしたりして? わー、無理、無理!
想像してゲンナリとする。
父の娘で、平民でよかった。
ぼーっとしていると「コレット!」と名前を呼ばれた。
「コレット! こんな所で何をしてるんだ?」
聞き覚えのある声がして顔を上げる。
目の前に、プラチナブロンドの令嬢をエスコートしているポールが立っていた。
ポールの家は招待していないはずなのに、なんで鉢合わせしちゃうのかな。
ん? もしや、私の誘いを断った先約って、このご令嬢? うわっ、サイテー!
「ここは君が来られるような場所じゃないだろう」
不躾な言葉を投げつけるポールをご令嬢がギョッとした様子で「ちょっと失礼よ」と小声で諫めている。
「正式に招待されておりますので、ご心配なく」
「は? そんなはずないだろう。君の家みたいなしがない商家がラランド侯爵家の夜会に招待されるはずがない。悪いことは言わないから、誰かに見つかる前に帰った方がいい」
いちおう、心配してくれているのかしら?
彼は、私がラランド侯爵の孫だとは知らない。大富豪、ホワイトローズ商会長エドガール・シャルダンの娘であることも。
あの庭の小さなガゼボを見て、私という人間の身の上を判断しているのだ。
「正式な招待もなく紛れ込んでいるのは君の方だろう」
ポールの後ろから、グラスを手にしたウスターシュの声が割って入った。
ハッとして振り返ったご令嬢が、ウスターシュの顔を見てすべてを悟ったように頭を下げた。
「申し訳ございません。彼を連れて来たのは、わたくしです」
「コルトー子爵のご令嬢か。感心しないね。彼のような男と懇意にするのは、あなたの評判にもかかわる」
ウスターシュは本家の次男なので、伯爵令息として貴族同士の交流がある。顔を見れば、すぐさま家名とその傍系までもが頭に浮かぶらしい。
以前は、私も祖母から淑女教育と称して貴族名簿を渡されたけれど、サッパリ覚えられなかった。
「ちょっと、評判にかかわるってどういう意味だっ……イテッ……!」
ポールが抗議しようとするのをコルトー子爵令嬢が足を思いっ切り踏んづけて黙らせた。ハイヒールなので痛そうだ。
だけど、ここで騒ぎを起こしたら、彼を連れて来たコルトー子爵令嬢の責任になってしまうので仕方がないのだ。
「すぐに帰ります。失礼しました!」
「ほら、行くわよっ」とコルトー子爵令嬢が、ポールの腕を引っ張った。「な、なんだよぉ」と渋る背中にウスターシュが言い放つ。
「コレットは、ラランド侯爵の孫娘だよ。せっかく『誕生日パーティー』に誘われたのに断ったのは君の方だろ? 残念だったな、逃した魚が大きくて」
ポールが振り向く。コルトー子爵令嬢に「あのホワイトローズ商会のお嬢様よ」と補足されて驚いた顔になった。
「そんなこと、一言も言わなかったじゃないか。知ってたらオレは…………」
それって絶対、コネとか、権力とか、お金目当てよね。
アブナイ、アブナイ。
教えなくてよかった。
「知っていたら何だって言うんだ。いいか、二度とコレットに近づくなよ? 近づいたら、任務をサボって昼寝三昧だったと騎士団長にバラしてやるからな」
ウスターシュに凄まれて、ポールが真っ青になる。
ポールは男爵令息だけど、父親は文官で領地がない。爵位も彼の兄が継ぐので、騎士団をクビになったら生きていく術がないのだ。
ああ、そうか。ポールは、有力な家の婿になりたかったんだ。
貴族が多く在籍する王立学園の制服を着ていた私を助けたのも、手当たり次第に女性に声を掛けるのも、少しでもいい条件の婿入り先を探すため。
自分の人生を切り開こうと、彼なりに必死だったのかもしれない。
「もういいわ、ウスターシュ」
「でも、コレット――――」
「最初から好きじゃなかったもの。恋に恋していただけ。それに、私にはあなたがいるんだから」
私は、ウスターシュからグラスを受け取って微笑む。
ポールは悔しそうに顔を歪めた。何か言いかけたけれど、鬼の形相をしたコルトー子爵令嬢に「これ以上、わたくしに恥をかかさないでっ」と怒られながら引きずられていった。
ポールを見送り、私は、ぼんやりとアップルジュースを口に運ぶ。
しばらくして、ウスターシュが恭しく手を差し出した。
「せっかくの夜会だ。踊ろう」
「うん」
私はこの日、慣れないダンスをウスターシュの絶妙なリードで何曲も踊った。
足を踏まないように。
足を踏まないように。
気をつけながら。
途中、目が合った祖母は、私たちを眺めながら満足げに顔をほころばせていた。
◇ ◇ ◇
祖母の誕生日パーティーの後、私たちは、父にしこたま怒られた。
三曲も続けて踊ったからだ。
「ウスターシュ! おまえが傍にいながらどういうことだ。コレットもこれがどういう意味か、わからないわけじゃないだろう」
同じ相手と三曲続けて踊るのは、夫婦か正式な婚約者同士だけだ。
足元に気を取られて、ついうっかりしていた。
そう言えば、そんなルールもあったっけ。
つまり、私とウスターシュは、公衆の面前で自分たちの婚約を発表したようなものである。
両家に問い合わせが殺到し、親たちはその対応に追われるはめになった。
特にラランド侯爵家――祖父と祖母からは、毎日のように「いつ結婚するんだ、早くしろ」と矢の催促を受けていた。
どうしても、ひ孫の顔が見たいのだそうだ。婚約もまだしていないのに。
「また悪い虫がつくよりはいいじゃないですか」
ウスターシュは、平然と父をいなしていた。
「さては、わざと狙ったな」と睨みつける父を、母がころころと笑って「まあまあ、いいじゃないですか。また悪い虫に釘を刺す手間が省けると思えば」と取り成して、やっと怒りがおさまったのだ。
ん? 釘を刺す? どうゆうこと?
「お父様はねぇ、ポール君の勤務先まで、わざわざ挨拶に行ったのよ。『くれぐれも節度のあるお付き合いをしてください。男爵家とは釣り合わないしがない商家の娘ですが、どうかよろしくお願いします』って」
ん? 節度のある付き合い? しがない商家?
「アイツがコレットに品行方正だったのは、魅力以前の問題だったってことだね。あの顔で『娘をよろしく』なんて言われたら、誰だって手を出せないよ。叔父上は、俺にもあの調子だったんだからな」
「ああ……納得」
母の前ではデレデレな愛妻家である父の外面は、冷徹と恐れられる経営者だ。威圧を発して冷酷な笑みを浮かべた顔は、はっきり言って怖い。
私は、ほんのちょっぴりポールに同情した。
結局、両家の話し合いの末、私の卒業後に結婚するということで落ち着いた。それまでの二年間は、婚約ということになる。
バタバタしたけれど、正式に決まって嬉しい。
あれから、コルトー子爵令嬢から丁寧な詫び状が届いた。
コルトー家には跡取りとなる男子がいないため、彼女が婿を取ることになっており、ポールはその候補の一人だったそうだ。
あのパーティーの後で「六股の浮気男」の噂がコルトー子爵の耳に入り、婚約を結ぶことはなくなったと綴られていた。
そして、今日もシャルダン家の一日は、家族揃って朝食を摂ることから始まる。
「はい、あ~ん」
「うふふ、あ~ん」
両親のイチャイチャも相変わらずだ。今朝はリンゴを食べさせ合っている。
シャクッ、シャクッとリンゴを齧る音を聞きながら思う。
こんな夫婦になりたい、と。
母は私の憧れだ。
夫に愛され、白薔薇にたとえられる美しさと気品を備えている。
私は、母を少しでも見習おうと、週に三日、ラランド侯爵家に通い淑女教育をやり直すことにした。
両親は「無理しなくてもいい」と言ってくれるけれど、パーティーの時、あのぎこちないダンスが注目されていたのかと思うと口惜しいのだ。
次こそは、華麗に踊ってみせる! と意気込んでいる。
他にも礼儀作法や苦手な貴族名簿を暗記したりと、淑女になるのも楽ではない。
あとは、そう――――やっぱり正式に婚約したからには、デートしなくちゃ!
カフェも観劇もいいけれど、なんかもっと、こうドキドキするような。
そんなことを考えていると、私の口元に一欠けらのリンゴが差し出された。
「ほら、あーん」
反射的に口を開けてしまう。
この頃のウスターシュは、こうして自分のデザートを私の口へ放り込む。
「ん、おいひぃ」
いつものように私は二人分のデザートを独り占め……してる場合じゃなかった!
いざとなると、気恥ずかしい。
気恥ずかしいけれど。
でも、今日こそは。
私はおずおずと自分の皿のリンゴをフォークで刺し、ウスターシュの口元へ運んだ。
「……あーん」
ウスターシュは目を見開き、リンゴを口に入れる。
その顔は、ほんのり赤く染まっていた。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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評価を入れてくださった皆様、誤字脱字報告、ありがとうございました。
※ 文中の“どうゆうこと?”の誤用は、口語表現としてわざと使用しているので、そのままとさせてください。