tatteiru
生まれてから一度も人の死を見たことがなかった。祖父母は健在で、両親も健在、唯一の兄弟である兄も親戚もみんな生きているか、私が生まれる前に死んでいる。高齢化なうえ人口の少ない地元の学校に通っていたので同級生は少なく、噂好きな母から定期的に同級生の誰彼がどうしているかなどの情報が入ってきていたので、誰かが亡くなっていればすぐに私に届いている。しかし、そんな噂が届いたことは一度もない。
人の死を見たことがないので、葬式にも出たことはなく、生まれた時から死んでいた親戚の三十七回忌のときどうすればいいのか分からずとても困った。そもそも葬式と年忌法要を一緒にしてもいいのかすらわかない。
そんな死に関して疎い私でも、生きていればいつかは人の死に触れるものだ。他人の死にも、自分の死にも。私は二十歳の誕生日を迎える三日前に死んでしまった。
祖父母よりも、両親よりも、兄よりも、同級生よりも誰より早く私が死んだ。自分が死ぬことなど一度も考えたことがなかった。家の近くに葬儀場があるので月に何度かは喪服を着た人を見ることはあった。そこには確かに死はあったが、身近にはなかった。
私は自分の死体を見ながら違和感を抱いていた。毎朝鏡で見ているはずなのに自分の顔に違和感がある。けれど左右反転したものを毎朝見ているのだから、左右反転していない自分の顔を見て違和感があるのは仕方ないのかもしれない。写真は左右反転はしていないが、写真なんて履歴書のために撮った証明写真以来撮っていない。一年と少し経っただけで人の顔は意外と変わるし、私も高校を卒業して就職してから身なりを変えた。何より紙に印刷されたものと立体物は全然違うものだ。
自分の顔のことを不躾にじろじろと眺めたあと考えたのは家族のことだった。私が死んだことを悲しんでくれるだろうか。兄も人が死ぬのは初めてのはずだ。いったいどういう感情になるのか想像もつかないが、悲しんでくれれば嬉しいと思う。
昔は兄と仲が良くなく、よく喧嘩をしていた。一緒の部屋にいると必ず口喧嘩からはじまり殴り合いに発展して母親に止められる。それを何度も繰り返し、喧嘩をしなくなったのは向こうが高校に入学してからだった。
兄は中学でやっていた運動部の推薦で高校に入ったため、そのまま同じ運動部に入った。兄が中学と高校で変わったのは部活終わりに友達と遅くまで過ごしていたことだ。補導されることも多々あった。きっと家に帰りたくなかったのだろう。それか、家にいるよりも外にいる方が楽しかったのだろう。私はというと、部活にも入らずただ家で本を読んでいた。
家で本を読んでいる私と、外で過ごす兄は会うことはほとんどなく、自然と喧嘩をすることは無かった。そもそも会わないのだから喧嘩も何もないのだ。休みの日でも兄は部活に行き、夜遅くに帰ってくる。私は家で過ごし、たまに会っても挨拶すらしなかった。兄とすれ違った時、稀に煙草のにおいがしたが何も言わなかった。両親もそのことには気づいていて、私の前で兄の話をすることがあったが、本人に直接何か注意をすることはなかったように思う。成績が落ちるわけでもなく、運動部に所属していて健康的な人間に何を注意することがあるのか。ただ若気の至りだと許されていたのだ。
反対に私は健全な学生だったように思う。真面目に登校して、真面目に授業を受けて帰ってきて、宿題をして本を読む。学問に励む学生そのものだった。はずだった。先生や両親は兄を褒めていたが、私は私が正しいと信じていた。
「お前、高校卒業したらどうすんの」
いつだったか、部屋で本を読んでいるとふいに兄が部屋に入ってきてそんなことを聞いてきた。私は兄のいない間に、部屋にある本を無断で借りてはこっそりと返す、なんてことをしていたので嫌いながらも頻繁に兄の部屋に出入りをしていたが、今回はその逆。兄が私の部屋に入って来るなんて何年ぶりのことだろう。兄が家で過ごしていることすら珍しく思えてくる。とても驚いて私はどうするのかという質問に、
「適当に生きるよ」
と返した。
本当は高校を卒業したらやりたいことがあったが、こいつの質問に真面目に答えるのも、将来の夢も言うのは癪だと考えて適当に、“適当に生きる”と返した。嫌いな人間の部屋に入って嫌いな人間の目を真っ直ぐ見る兄の目は真剣そのものだったのに、私は適当に答えてしまったのだ。
「ふざけるな」
真面目に、お前は将来どうするんだ。
どうにもならなかった。私は死んだ。なりたかったものにもなれず、適当に生きることすら叶わなかった。私は私を信じていたかったが、それは間違いだった。ハッキリと今こそ思う。兄こそが正しかったのだ。
「ふざけるも何も、ただ生きていくだけだよ」
ひねくれたことを言って本に視線を戻すと、外にもでかけず引きこもってばかりだと親が心配すると言ってきた。友達はいないのか、授業にはついていけているのかと言ってきた。それを無視すると、お前のために言っているのだとお節介じみたことを言うので私は。
私は、とても酷いことを言った。それに対して相手も、とても酷いことを言ってきた。兄なのだから兄弟なのだから、家族なのだから何を言っても許されるなんてそんなわけはなかった。兄は私の言葉に怒って、私を怒らせる言葉を言って、私はその言葉に怒った。これが最後の兄弟喧嘩だった。
人生で初めて骨を折ったのはこの兄弟喧嘩が原因だった。口喧嘩をして、先に手を出したのは向こうからだった。本が床に落ちたのを見て、部屋が散らかるのが嫌で自分から部屋を出た。殴られて殴り返して、蹴られて蹴り返した。運動部をしている兄に力で勝てるわけがなかった。それを認めたくなくて必死に立ち上がって全力でやり返した。ふと腕に痛みとは別の違和感があると感じて腕を見た。きっとその行為を兄はただのよそ見だと思ったのだろう。兄は私を殴り、私は足を取られバランスを崩して階段から落ちた。
気づくと仰向けに倒れていて、体が一階の床に落ちていた。右足だけが階段の一番下の段に乗っていた。その奥に、階段の一番上で、兄がこちらを睨んでいた。兄は私の二つ隣の部屋にわざと音を立てながら入っていった。一つ隣の部屋だと音がうるさいだの何だの言って喧嘩するだろうと言う母の提案で、一つ部屋を挟んでお互いの部屋があった。兄が入っていった部屋は兄の自室だ。自分の部屋に帰った。それだけだった。
ほっとため息をつくと、だらだらと嫌な汗がにじみ出てきた。喧嘩をして体温が上がっていたはずなのにとても寒い。手足が震えているのは恐怖からなのか、寒さからなのか分からなかった。心臓がばくばくと脈打っているのは恐怖からだと思った。
敵わない。敵わなかった。昔は喧嘩をしては母親に止められて勝敗なんてなかった。けれど今回は完璧に負けた。体のあちこちが痛く、とりあえず起き上がろうと体に力を入れてみるが、力が入らなかった。腕が震える。兄はあんなにも普通に歩いて行ったのに、私はこのざまだ。
階段を見上げてぼんやりと兄の事を考えた。考えてもどうしようもないことばかりだった。お前の方が夜遅くまで遊んで親に心配かけてるだろ、という言葉を飲み込んだ後悔があった。友達は選ぶべきだと、親に言われたのは私の方だったからだ。その一言で親は家で静かに過ごすよりも外で元気に過ごして欲しいのだと分かっていた。だから言えなかった。兄と同じ高校に入ってから、先生は私を見ると兄の話をした。みんなが私ではなく兄のような人間を期待していた。あのときの会話の心象はずっと残っている。
力の入らない右腕に無理やり力を入れ、なんとかうつ伏せになろうとすると、体を横に向けた時点で背中に激痛が走った。息もできないほど痛む。ゆっくりと仰向けに戻って目を閉じ、痛みがひくまで待つ。が、いっこうに痛みがひかない。増してきたような気さえする。
ゆっくりと息をして耐えているとドアが開く音がした。おそらく兄だと予想しそのまま無視をしていると、階段を駆け下りてきた。駆け寄ってくるのかと思えば私の上を飛び越えてリビングに入っていった。
開けっ放しのドアからは電話の音。そして兄の声が聞こえた。何を言っているのかはわからないが、母親に電話をしているのだと思った。私が階段から落ちて動かないと言っているのだと思った。けれど数分たって電話相手が母親じゃないと知った。
人生で初めて救急車に乗った。つまり、兄が電話をかけていたのは救急車だったのだ。痛みに耐えながら担架に乗せられて救急車に乗り、気づくと隅に兄がいて、救急隊員と話をしていた。
「部屋から出たら階段の下にいて……たぶん落ちたんだと思います」
お前な、ふざけんなよ、お前に落とされたようなものだろ、しかも落ちてすぐに部屋に戻ったくせに。
そう思ったが、声を出せなかった。背中が痛くて仕方なかった。目を閉じてひたすら耐えていた。恐らく検査をして手術をしたのはあまり覚えていない。今思い出すと痛みで気絶もしていたように思う。手術をするのは人生で二度目だった。
病室で目が覚めて、母親が心配そうにこちらを見ていた。祖母がその隣に座っていて、祖母の隣に祖父が立っていた。母親が階段から落ちたことについて気をつけなさいと注意をしてきた。兄に殴られて落ちたとは言わなかった。この場に兄がいなかったのでここに来たら言ってやろうと思っていた。
父親と兄は飲み物を買いに行っているのだと言っていた。
母親は言った。
「会ったら喧嘩をするだろうから」
祖父はため息を吐いた。
「まだ仲が悪いのか。いや、それよりも目が覚めて何よりだ。あいつに連絡してくる」
祖母も立ち上がった。病室を出る祖父に着いていくんだろう。
「なにかほしい物はある?」
母親はそっけなく「ないです」と言った。
なんとなく、母親が怒っているような気がしたので二人きりになりたくなかった。それも叶わず祖父母は父親達を呼びに行き、私は母親と二人きりになった。
「心配したんだから」
「ごめん」
「あの子がいてよかった。いなかったらもっと大変なことになってたかもしれない」
いたから階段から落ちたんだ。と言いたくて仕方なかったが、ここは我慢すべきだと思った。褒められれば褒められるほどあいつは私に対して大変なことをしたんだということを思い知るんだと思っていた
「ちゃんとお礼を言うのよ」
そして来たる本人は、父親に連れられてきた。鼻をすすり、目が赤く腫れて、泣いた後のようだった。そんな姿を私は初めてみた。
父親は母親を呼んで、私と兄を二人きりにしようとした。母親は一度断ったが、さすがに病院で喧嘩をするわけがないと父親が言い聞かせ、私と兄は二人きりになった。二人きりと言っても大部屋だったので、周りでは誰かが小声で話す声が聞こえた。
どれだけ静かだったのかわからない。何分も経ったような気がした。どこからか人がクスクスと笑う声が小さく聞こえた。私は天井を見ながら、階段の下へ落ちた時に見た景色を思い出していた。階段の上で見た目を思い出していた。あの目は睨んでいたのではなく、失望した目だった。あの時何を考えていた?
「ごめん」
兄に初めて謝られた。見ると少しうつむいて見るからに落ち込んでいるようだった。
「何に対して」
話しかけてきたことか、暴言を吐いたことか、殴ったことか、嘘をついたことか。それを言うのだと思っていた。今日のことを言うのだと思っていた。
「お前はきっと覚えてないと思うけど」
子供の頃、よもぎという名前の犬を飼っていたらしい。私は全く覚えていなかった。しかし兄は今までずっと覚えていた。きっと今も覚えている。
子供の頃の空想が混じっていたり、記憶違いもあるかもしれない。
前に住んでいた家の話だ。あの日、友達に誘われるがまま少し遠回りをして帰った。普通に歩けば十五分で帰る道をわざと普段通らない道を歩いて帰った。冒険をしているようで楽しかった。知らない家の窓から猫が覗いていて、柿がなっている木を見つけて、空き家に何が住んでいるのか語り合って、何時間も経ったような気がした。
実際、家に帰ると鍵がかかっていた。
いつもは家に帰るとお前は母さんと一緒にいて、母さんは俺が帰ってくるとお前の世話を俺に任せてどこかへ出かけていったから、今日はもう俺を待てずに出かけたんだなと思って、持っていた鍵で玄関の扉を開けるとお前が一人でいた。いつも足に引っ付いてくるお前は、珍しくソファでタオルケットを羽織って寝ていたから、お前を起こさないように、よもぎに餌をやろうと台所に行った。前の家は台所から裏庭に出られたから、裏庭で飼っているよもぎの餌は台所に置いてあったんだ。餌を皿に入れて外に出て、お前が裏庭へ出てこないようにドアを閉めた。いつもドアが開く音がすると走ってくるのに、よもぎは来なくて、名前を呼んでも来なかった。
庭によもぎはいなかった。犬小屋の前に血が落ちていて、ゾッとした。最悪なことを考えた。
呆然としながら台所へのドアを開けて家の中へ戻ると、眠そうな顔をしたお前が立っていた。お前は舌足らずな言葉で俺に『おかえり』と言って抱きついてきた。信じられるか? お前はよく俺に抱きついてきて、俺はそれが嬉しかった。抱き付かれたら頭をなでてやったし、転べばすぐに駆け寄った。兄弟ができるということは良い事なんだと思ってた。それほどあの頃は何も考えずに生きていたんだ。
『ちょっと、トイレ、行くから』
そう言ってお前を離すとお前の右手に包帯を巻いてるのに気づいた。その手はどうしたのかと聞くと、お前は裏口へのドアの前に行って、今まで開けられなかったドアを開けた。凄いな、開けられるようになったんだな。そう言って褒めてやろうとして、犬小屋の前に落ちていた血のことが頭を過ぎった。
お前は犬小屋の方を指差して『噛まれた』と舌足らずな言葉で言った。それで、よもぎはどうしたのだと聞いてもお前は首を傾げるばかりで、終いにはぐずり出したので聞くのをやめた。
その後少ししてからお母さんが帰ってきて、コンビニで買ってきたおにぎりを俺に渡して『今から出かけるから留守番していてね』といつものように言った。俺は母さんによもぎはどうしたのかと聞いた。
「お前が目を離した隙に庭に出て、犬に噛まれたから犬を捨てた。今日は指だけで済んだからよかったけど、次はもっと酷いことになるかもしれない。犬なんて飼わなきゃよかった」
兄は俯いていた。私は自分の手にある小さい傷跡を見た。薬指の付け根に縦に白くついた傷跡。いつ出来たのか記憶になく、けれど包帯を巻いてうつっている写真が数枚あった。それを不思議に思ったことはない。母親に聞いても怪我をしたんだとしか言わなかったからそう言うものなのだと思っていた。理由を聞いたことはなかった。
「母さんを嫌いにはなれなかったんだよ。お前が外に出なければ怪我をしなかったし、よもぎが捨てられることもなかったって、ずっと思ってた」
兄はまたごめんと謝ってきた。何年も前のことを今までずっと想って恨んできたのだ。私は昔は兄のことが好きだったのだろうか? 話を聞くと兄が私を嫌ったから私も兄のことが嫌いになったように思える。馬鹿だな。馬鹿だった。
「そのごめんは何に対して」
「階段から落として」
階段からは足を踏み外して落ちたから、できれば落ちたあとの態度に対して謝ってほしかった。あの目は何よりも傷ついた。でもそんなことを言うほど野暮じゃない。
「いいよ、許すよ。だから今まで兄さんにやったことも全部許して」
「いつまでも許さないわけにはいかないって思ってた。だから今日、お前の部屋に行ったんだ。それに、もともとお前に非はないんだ」
暗い部屋にいるようだった。真っ暗で、目が慣れてもはっきりとどこにいるのか分からない。自分の死体に座ってぼんやりとしか見えない天上を見た。よく見ると天井から紐がぶら下がっている。
この物語はフィクションです。